79.暗い森、月を見上げ

  「あーあ……」
 空を見上げて、傍の木に寄りかかった。空には赤紫色の月。見たくなかったのになとか思いながら、目を放さないままにずるずると背中を滑らせて木の根元に座りこんだ。
「だっせ……」
 片手に握っていた空になった酒瓶を座ったまま力いっぱい森の方向に投げ捨てた。本当は出兵中の飲酒は禁止、らしい。軍規にある、らしいから。
 軍規なんてもの、エアーは覚えていない。覚える前に下級兵士になったからだ。見習い兵士の時に軍規は覚えさせられるらしい。
(今年も酔えませんでした、っと。馬っ鹿じゃねーの? 一本ぐらいじゃ酔えねーの、知ってんだろーが)
 だから酔うまでだと、いつまでも飲むつもりもなかった。そもそも酒自体はそんなに好きじゃない。みんなで笑いながら飲むのが好きなだけで、本当は飲むものは何でもよかった。
 ただ今は、どうにかあの月を忘れたくて。あの夢を見ないほど深く眠りたくて。酒瓶を持って森に逃げた。木々の間から見える空には、希望に反して月が見えるけれど。
「はああ」
 盛大なため息が漏れて、首を落とした。
 今年も見てしまうのだろうか、あの、夢。
(俺のせい……か。なんのことだよ、ったく)
 毎年同じようなことを言われる。だから覚えてしまった。彼らの声も言葉も姿も。
(俺には関係ない……関係ない。全部関係なく流れていくくせに、責任なんか押し付けてくんじゃねーよ)
「おい」
 ぱき、と小枝が折れた音。
「なにたそがれてんだ」
 聞き覚えのある声。失笑のような嘆息のような吐息。エアーは顔を上げて、音の方向を見やった。
「たそがれてなんかねーよ、馬鹿」
「馬鹿は余計だ。また落ち込んでんじゃねーよ」
「落ち込んでなんかねーよ」
「じゃーそのばかでけーため息はなんだったんだよ」
「るせー」
「うるせーじゃ……」
 嘆息。少しだけ笑った顔。――エリク・フェイ。
「ま、いいか」
 呟いて、エアーが背中にしている木を、自分も背中にして座った。
 座って空を見上げて、苦笑。
「ここ、あんまり葉っぱないのな。月が見えんだ?」
「だな」
「もう十二番目の月なんだな。魔道士たちはさ、あの月が一番好きだとかいうけど、俺は八番目の月が一番だな」
「へえー」
「エアーは? どの月が一番好きなんだ? お前たまに月見てんだろ」
「見てねーよ」
「いーや、見てるね。さっきも見てただろ」
「別に、なんか見下してやがるなと思って少し気になっただけで、」
 くだらない話、と少しエアーは思った。
「十二番目の月なんか、一番嫌いだ」
「ふうん」
 エリクは少し苦笑した。エアーは見ていなかったけれど。
「もし俺が……」
 言って、エリクは口をつぐんだ。
 唐突に訪れた沈黙に、エアーは訝ってエリクを見た。
 エリクは視線を落として、地面を見ていた。手に持ったビンを強く握って、まるで――そう、まるで怯えているみたいに震えていて。
「おいお前、風邪でも――」
「なあ」
 エアーの言葉を遮って、気を紛らわすようにエリクが声を上げる。遮られてエアーは眉を上げた、けれど口を閉じた。
「傭兵の奴ら、どうだった?」
「あ? あぁ……」
「無理だったろ? それで落ち込んでたんだろ」
「う、うるせっ。もう、んなことで落ち込まねーよ」
「嘘つけ」
「落ち込んでたまるかよ」
 エアーはエリクから目線を逸らした。――初めて高等兵士として参加する戦い。新しくなった編成、初めての顔。仕事。落ち込んでいる暇など、もう、ないのだ。
「総司令、さ」
 エリクは最近、エアーの前では敢えて、役職名で人を呼ぶ。名前で「誰が、どうしろと言った」とか伝えても、エアーの反応がいまいちなのに気がついたからだ。どうやら顔と名前が一致していないらしい。
「ん?」
 やはり役職名だとしっかりと反応があるな、とエリクは実感していた。エアーに自覚はないのだろう。
「結構、格好いいよな」
「……ちぇ」
 エアーが少しいぢけたような声を出した。エリクは声を上げて笑った。
 新しくなった編成。初めて総司令としてのカタン・ガータージを見た。
 夕暮れの中、マウェートの総統指揮官との遠巻きでの会話があった。
 黒い竜に跨り、黒い衣装、真っ黒な長髪を風になびかせて叫ぶ。
 風に揺れるようでもなく、流されるでもない。その芯のある声、しゃんとした姿。誰もが思わず見入るほどだった。
「にしても気が合わない! 根本的なとこであの人と俺と違う生き物なんだよな!」
「どっか似てる気がするけどな、俺は」
 小さく笑って、エリク。持っていたビンをエアーに差し出した。
 差し出さたビンを見やって、エアーは反応を辞めた。透明な液体が透明なビンの中でゆらゆらと揺れている。
「飲んでくれよ。お前なら正気のまんまだろうし」
「正気?」
 エリク手からビンを奪って、エアーは軽くビンを開けた。ラベルはなかったけれど、確かに匂うつんとする独特の、アルコールの香り。
「これっ」
 ビンの蓋を閉めて、エアーはエリクを睨んだ。
「わかってんのかよ、俺も一応は高等兵士だぞ」
「わかってる、わかってるよ。お前が高等兵士だってことは、副官の俺が他の誰より理解してる」
 エリクはエアーを見ようとしなかった。必死になってエアーから目線を外していて、いつの間にか身体は再び震えている。目線は森の中の暗闇をさまよう。
「お前自身がなんと思ってようが、お前は高等兵士だ。俺たちの隊長だ」
「だったらっ!」
「……怖かったんだ」
 声すらも震えた。エアーはエリクの顔を見つめて息をのんだ。呼吸を、辞めた。
「それ、本当は消毒用に持ってきてただけでさ。でも気がついたらそれ、飲んでて。誰もいない場所だったからよかったけど。飲んで、現実から逃げようと、無意識にしてた、みたいだ」
 ――逃げようと。
「でも現実から逃げるのも怖いよな。逃げたら何も残らない。王国軍の外に家族とか親戚とか、行くあてなんてのもないし。俺が生きてるのは、この場所だけで」
 ――逃げられなくて。
「お前のこと、探してた。お前と馬鹿やってた間が一番、“幸せ”だったと思ったから」
「……なんだよ、それはよ」
 エアーはビンを握り閉めた。エリクの言葉はまるで力なく。まるで、遺言のように聞こえたから。
「死ぬ気で戦場に立つつもりかよ。逃げたかったのかよ!」
 エアーはエリクとの間にビンを勢いよく地面に立てた。チャポンと音を立てて酒が揺れる。
「だったら全部飲んじまえばよかっただろ。そしたら俺が叩きのめして帰してやる。二度と戦場に立てないようにして、王国軍からな! そしたら生きたんま逃げられんだろ!」
 ――“幸せ”。
 そんなもの、すぐに消える。
 取り戻そうとあがいて、あがいて、必死になって帰ってきた王国軍に、エアーの仲間はいなかった。取り戻したかった“幸せ”はそこになかった。
「死んでなくならない“幸せ”なんてものが、存在するとでも思ってんのかよ!」
「あるかもしんねーだろ!」
「ねーよ、そんなもん!」
 怒鳴り怒鳴られ、怒鳴り返した、エアーはエリクから目線をすぐに逸らした。
「あるかも……あるかもしれなかっただろ!」
 エアーは舌打ちした。舌打ちして、エリクを横目で見やる。
 見やってぎょっとした。エリクの目から涙がこぼれていて、エリクが必死になって拭っている。「ちくしょう」と小さく呟いた。
「少しは、期待、させろよ……っ」
「………っ」
 キタイ、なんだそれ、とエアーは思う。
『誰かに期待を持たれること』それこそが自分の高等兵士になった最大の理由だろうと言われたことがある。よく、わからなかった。
 わかりそうだったことも、高等兵士になって日が経つにつれ、徐々に消えていく。
 誰かに対する期待、希望、ネガイ。
 幻想が消えるみたいに、透明なガラスになって崩れていった。
 期待しない、希望を持たない、願わない。
「……泣くなよ、だっせ」
 一つ、息を吐いてもとの姿勢に戻った。木に背中をつけて、エリクとは別の方向を向く。
「お前だって泣いてんじゃねーかよ」
「何言ってんだ、なんで俺が」
 言ってる最中にポタリと、雫が顔から落ちた。落ちたのを見つけて、「なんだこれ」と、エアー。
「なんで、俺まで泣かなきゃ」
「知るかっ」
「お前のせいだろ」
「人のせいにしてんじゃねーよ」
「いーや、お前のせいだ」
 言ってる間も次から次から湧いてくる。
 何故か胸が痛くて、懐かしい顔が浮かんで消えて。
 あの頃は“幸せ”だったなあと思いだして悲しくて。
 最近はずっと隣のこいつが怒鳴ってきて笑って、みんなで騒いでからかわれて虐め返して、それで笑って。
 たしかに“幸せ”なんだろうなあと、思えて。
 でもどうしてか、その“幸せ”が窓越しに眺めているみたいに思えた。
 隣で怒鳴る隣のこいつの声だけはいつも傍で聞こえるのに。心から、笑えた自分がいるのに。
「……お前の、せいだ」
 手の平で強くこすって涙を拭く。エアーはエリクから目線を逸らしたまま。エリクはエアーの様子を見ながら、鼻を少しすすった。
「そうかよ。そりゃ悪かったよ」
「………」
 風が少しだけ森の中を駆けた。さわさわと木々がざわめく。歌うようで囁くような、ほんの少しの喧騒。
「なあ」
「……なんだよ」
「名前、呼んでくれよな」
「は?」
「俺の、名前、さ」
「何いきなり言ってんだ? お前――」
「だから、お前、じゃなくてさ。名前で呼んでくれよ。それじゃわかりにくいだろーが」
「いきなり何言ってんだ」
「さあ? 何言ってんだろな」
 もう一度鼻をすすって、エリクは眼をこすった。まだ少し泣きそうに悲しそうだったけれど、「よし」と声をかけて勢いづけて立ち上がり、ぽんぽんと埃を叩き落とした。
「明日の戦い終わるまでは呼べよ。俺からの課題な」
「おい、なんだよ、だからさ」
 エアーが顔をしかめた。顔をしかめたエアーを見下ろして、エリクは失笑。
「なんでもねーよ。ただそっちのほうが楽だからさ」
「ちぇ、いいけど」
 エアーは嘆息一つ、呼ぼうとして息を吸って、ふとして呼吸を止めた。
(――あれ?)
 名前、ってなんだっけ、と。
(って、待てよ。俺そういや、最近誰の名前も呼んでねぇ)
 役職名で呼んだりとか、お前だとか、適当に、なんとか伝わってきたことばかりで。
 呼んでいなかったせいか、名前が全く浮かんでこない。
 名前らしい名前。そもそもナマエって。
「おいっ」
「あ?」
 吸っていた息を、ようやく吐きだしてエアー。思わず変な声が出た。出た声にエリクが失笑する。
「呼吸ぐらいしろ、ばーか」
「う、うっせー。してる、してんだろーが」
(やばい、なんだ、これ)
 さわさわと胸が、背中が、身体全体を巻き込んで気持ち悪くざわめく。
(名前――なんだ、名前って)
「俺はそろそろ寝るけどさ、お前無理しない程度に寝ろよ」
「あぁ。そうする」
 即答したけれど、エアーはまるでうわの空だ。エリクは肩を竦めて踵を返す。
 踵を返したエリクの背中に、声をかけようとして、エアーは一瞬、躊躇った。
(名前っ)
「おい!」
 名前が出て来なくて、無償に逃げ出したくなるほどの、嫌なざわめき。
 名前を呼ばれずとも振り返ったエリクの顔。苦笑。
「なんだよ」
「あ……いや、その、さ」
 エリクから目線を逸らして、うろうろとエアーの目線が泳いだ。ふと自分が地面に置いた酒瓶に目が止まる。
「その、帰ったら、」
 酒瓶を手にとって、必死になって笑ってエリクを見た。とても不細工な笑顔だったけれど。
「飲もうな、みんなで」
 エリクが失笑した。少し、笑顔になる。
「おう、飲みすぎるんじゃねーぞ」
「あぁ、お前もな」
「俺には酔い潰れたお前を送るって役目があるからなあ」
 けらけらと笑って、エリクは再びエアーに背を向けた。片手を上げて別れを示す。
「じゃあな。おやすみ」
「おう、寝坊すんなよ」
 わかったとばかりにエリクが手をひらひらと振って暗闇に溶けていく。
 暗闇に溶けるエリクを見送って、エアーは祈りたい気分になった。
 天魔の獣たちに祈る人々に、祈ってどうするのかといつも思っていたけれど、こんな時、祈りたくなるのか。
 自分の祈りに応える神などない。ないのに。
 祈るのだ。

 どうか本当に、みんなで笑いあえる未来をと。
  
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