31.振り返ればその場所に

  『さりとて貴方は罪深き人。
 我々にすら許せないようなことを貴方はしたというのに……。
 本当に生




 ガツン、と頭に衝撃が走ってエアーは目を開けた。目を開けると目の前は白い。少しだけ白い物が遠ざかると、向こう側にやはり無表情の女がいた。手に持っていたのはマグカップだ。
「別に無理やり眠れとは言っていないね」
「……」
 女の姿を見上げて、エアーは肩で呼吸をしている自分を自覚する。
「あ、ありがとう」
「別に。あんまりうるさいんで起こしただけさ」
「あは……はは……。ごめんなさい」
「だから、別に」
 答える女の声は同じ調子で無表情。エアーがゆっくりと上半身を起こすと、持っていたマグカップをエアーに差し出した。
「はい。飲みな」
「あ、うん。ありがとう」
「腹はまだ痛むか?」
「……ううん。平気っぽい」
「なら、いい」
 エアーはマグカップを受けとって女の姿をまじまじと見た。
 白衣にまるですっぽり収まった小さな女性。セミロングの黒髪に黒い瞳。少しだけ肌は日焼けていた。
「何?」
「へ?」
「何をまじまじと見てる。気味が悪い」
 本当に嫌悪を表に出して、女が。エアーは苦笑を浮かべるしかない。ごまかし気味にマグカップの中身に口をつけた。ほんのり蜂蜜の匂いがするホットミルク――のようなもの。飲んだらミルクと蜂蜜以外の色々な味がした。
 なんだか薬をごまかされて飲まされているような、気がした。美味しかったけれど。
「おい、しい」
「うん」
 調子は変わらず無表情だったけれど、少し満足そうに女が踵を返した。カーテンで仕切られた空間の向こう側にある丸いテーブルの椅子に座って、自分の分のマグカップを手に取り、雑誌を持ち上げた。
「まだそんなに日は明けてない。眠れとも言いたいけど、無理だろう。のんびり起きているといいさ」
「うん」
 エアーにとって一人で起きているのは、苦ではなかったから、女の言い分はとてもありがたかった。何より、もう一度悪夢を見そうな気がしていたから。
「そう、」
 そういえば、の口調で女が声を上げた。
 訝ってエアーが女を見やれば、女の目線は雑誌に落ちたまま。
「最近マウェートでウィアズとの戦闘があったらしいね。どっち付かずで、ウィアズは帰ったらしいが」
 ぺら、と雑誌を女がめくる。エアーはぽかんと女を見た。
「また、バチカで戦闘が行われそうだ。そんなにあそこが欲しいかね。ウィアズは負けることを分かっているだろうに」
「そんなの、わからないだろ!」
 食ってかかるエアーに、女は一瞥をしただけ。
「わかるさ。魔道士勢も天騎士勢も、どうせ明らかにマウェートが優勢。地上に降りることがなければ、ウィアズに勝ちはないね」
「それでも、結果はわからないだろ」
「最終的には一緒になるってわかっててそれをいうのか」
 エアーは言葉をつめた。
 ――港町バチカ。どこよりも多くの戦闘がおこなわれてきた場所。ほとんどが海戦だ。
 多くの回数、ウィアズが負けて帰ってくる。
 ほんの少しの回数、ウィアズが勝利してバチカを奪うものの、必ず奪い返されている。
 ウィアズにとって死の海。それがバチカ。
「お前は今回、運よく生き残ったけれど、」
 溜息交じりの女の声。エアーは言葉をつめたまま女を見た。
「誰もが運よくどこでも生き残るわけじゃないね。白魔道士が傍にいたって死ぬのさ。軍に所属してるんなら、それくらい覚悟していることだね」
「……うん」
 かろうじて、本当にかろうじてエアーが返事する。女はそれきり雑誌に目を落として沈黙した。
 みんな、生きているだろうかとエアーはふと思った。生きていたらきっと元気だろう。
 きっと隊長はいつも通り忙しそうで、たまに隊に出てきて誰かで遊ぶのだ。今は誰で遊んでいるのだろう。最近はずっと自分で遊んでいた記憶しかない。遊ばれていた記憶しか。
 テルグットやイオナは。
 他にもいろんな知り合いが隊にはいた。
 本当に死に近い場所だけれど、確かにみんな笑っていて、自分もその中にいた。
 生きているといいなと、思った。
 二年後、帰った時にまた一緒に笑いあえたら。
 思わず大きなため息が出て、目線が足の上のマグカップに落ちていることに気がついた。二年は、長いなと、思ったから。
「さて」
 パタン、と音を立てて女が立ち上がった。
「朝飯でも作るか。何がいい」
「え?」
 聞かれるとは思わずに思わず訊き返すと、女は不機嫌そうな表情でエアーを見た。エアーはぽかんとしたまま。
「なんでも……いい」
「ふうん? 野菜だらけでも文句はないね、くそガキ」
「っ、野菜で誰が文句いうかよ」
「ふん、あの国は裕福だからね、好き嫌いが多いと困るのさ。残させる気はないけどね」
「……野菜がいい。肉とか、食えそうな気しない」
 聞いた女の表情が微かに、笑った。
「そうか。なら遠慮せずに作る。昨日お前が寝てるうちにそこで寝てるバカが野菜を取ってきてくれたからね」
「ばか?」
 そこ、と女が視線で示した。首を動かして示された場所を見やれば、椅子を連ねて作ったような簡易なベッドの上にクレハが横になっている。
「あ、クレハっ」
 寝ているのも忘れて思わず名前を呼ぶと、びくりと、寝ているはずのクレハの肩が動いた。その様を満足げに女が見下ろし、目をそらした。
「タヌキ寝入りのクレハさんは、いつになったら起きるんだろうね」
「……」
「ガキじゃあるまいし、起きてるなら一人でとっとと起きな。面倒で、邪魔だ」
「……あぁ……」
 嘆息の音、だった。
 クレハはむくりと起きあがると、もう一度大きく息を吐く。
「おっはよーございまーす」
 全く元気のない挨拶。聞いた女は鼻で笑っただけ。エアーはクレハの様子に目を瞬かせると「おはよう」と小さな声で答えた。
「何してんの、クレハ」
「ん、いや」
 軽く体を伸ばしてクレハがようやく笑った。
「気にすんな」
「何を?」
「そ、それこそ気にすんな」
「なんだよそれ。変なの」
「喧しいや」
 答えて盛大にクレハがため息をついた。ついて、『しまった』という顔になる。エアーはクレハの動作に訝りはしたけれど、とりあえず追及しないことにした。堂々巡りも面倒くさいなと思ったから。
「そっ、それよりだっ」
 いそいそと簡易ベッドから這い出ながらクレハ。
「お前なんで落ちたんだよ。何やらかしたんだ?」
「やらかしたって」
 エアーの顔がむくれた。ちろりとクレハを睨むように見て「別に何も」と答えたけれど、明らかに不機嫌だ。クレハはエアーの不機嫌には全く慣れてしまっていたから、気にせずに笑顔になる。
「何もなくて落ちるわけあるかー?」
「落ちるんだよ! っていうか、あの山なんなんだよっ。地面は揺れたし、地面は崩れるしさっ」
 かみつきそうな勢いのエアーに、クレハは失笑する。
「地面揺れたの、地震つーのな」
「じ、しん……」
「おう。地面が崩れたってことは、お前それに巻き込まれて落ちたのか? 本当運いいよな」
「よくないっ! すっげー痛かった!」
「それで生きてるのが強運だってんだ」
 会話しながら、クレハは自分が眠っていた簡易ベッドを完璧に崩した。椅子を元の位置に戻して、満面に笑顔を湛えたまま敷布を畳んで椅子にかけた。
 クレハの様子を眺めて、エアーはふうとため息をつく。
「なぁ、クレハ」
 先ほどのまでの勢いをかき消すかのような、静かなエアーの呼びかけに、クレハはエアーを見た。エアーは先ほどまでと同じようにベッドに足を伸ばした状態で座っていて、マグカップは腿の上。
「バチカ……誰か行くんだ」
 エアーの言葉を聞いて、クレハはにこりと笑う。――いつものように明るくは、なかったけれど。
「そうだな。たぶん……行くのは大隊は第二だ」
 クレハはできる限り明るい声を心がけた。
 バチカは――。
「なんてたってノヴァ・イティンクスがいるからな、第二大隊は。あの人の海戦の様は結構神業だ」
「それでも、」
 女の声が割り行った。
「人は死ぬのさ。わかっていてそれでも戦う気なんだろう。お前らは何のために戦うつもりだ」
 こぽ、と水が沸騰した音が聞こえた。
「俺は別にそこまで戦いたい人間じゃないぜ。生きるために戦ってるだけだ。生きたいように生きるために、な」
 こぽこぽ、とさらに水が沸騰する。女が息を吐き出して失笑した音が聞こえた。
「矛盾した生き方だこと。好きなようにすればいいさ。お前の怪我なんて治療してやらない」
「キィリさんに治療されるような怪我は二度と負いたくないでーす」
 片手をあげてクレハ。エアーは二人の様子を眺めながら、「なんのために」と小さく胸中で繰り返した。
 強くなるということは戦うことだ。
 王国軍に帰りたいということは、戦いの場に戻るということだ。
 戦いの場に戻るということは、必ず戦いが待っている。
 その戦いはなんのために? そんな問いに意味なんてあるのか?
「ガキ」
 呼ばれて、エアーはびくりと肩を揺らした。けれど必死に平生を装う。
「ガキじゃない、エアーだ」
「名前がなんだとしたって、ガキには違いないだろうが」
 部屋の中に空腹を誘うようないい匂いが立ち込める。女――キィリは鍋を火からどかして用意してあった皿に、それぞれに盛り付けた。
 一つを小さなトレーに乗せてエアーに持ってくると、キィリは目を細めた。
「これからでもいい、よく考えな、クソガキ。それで、いつ死んでもいいように覚悟を決めるんだね、エアー」
 差し出されたトレーを受けとって、マグカップと皿を並べた状態で腿の上に置いた。皿の中からは温かそうな湯気が上っている。
 不意に、キィリによく似た誰かの声が聞こえた気がして、エアーは目を細めて――それでも微笑んだ。小さく肯いて、目線は落ちたまま。
「……ありがとう」
 キィリが微かに、笑った。
『お前は誰だ?』
 誰だろう。
 それもこれから考えよう。
 自分には時間がある。
 まだ一年以上の時間が。
  
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