>> 六章 赤瓶の欠片 <<




   レイディナには、幼い頃のゼイランドでの想い出があった。優しい母と父、気さくな女中や兵士たちが小さなレイディナを見下ろして笑顔を作る。
 レイディナはいつも誰かの側にいたことを覚えている。兵士の中で一番若い顔で、レイディナを抱き上げて国王に叱られているのを、レイディナはよく覚えていた。
『兄』と呼んだ人間のことも、おぼろげに記憶にある。レイディナより五つ年上で、当時国王の補佐、宰相をしていた人の子供であったような気がする。『兄』は片手を差し出して言うのだ。
「怪我をされると私が怒られます。レイディナ様はいつも転ぶから、掴まってください」
 幼い口調で、一生懸命に敬語を使っている。レイディナは、母――カレントに彼が自分を護る「衛兵」なのだと教えられたが、当時衛兵の意味がわからず、ただ遊んでくれるのだとだけ、覚えていた。剣術の訓練に一生懸命で、不器用に笑う顔が酷く可愛かった。
 双子の弟が生まれると、母はレイディナと下の弟と、多くの母親や子供たちを連れて旅行に出かけた。上の弟――クレヴァーはどうして連れていかないのかとレイディナが問うと「二人も持てない」とカレントは笑いながら言った。
 旅行に出かけた先で、レイディナは魔族を目の前にする。カレントは密かに持ってきていたカプセルにレイディナを押し込んで、慈母の微笑を浮かべた。
「生きてね、お願い」
 カプセルが閉まる瞬間、レイディナはカレントの背中に魔族を見つけた。小さなカプセルの中で身じろぎし、母を呼ぶも、誰も助けてくれなかった。
 もう一度カプセルが開かれたとき、レイディナはもう一度魔族を見た。
 墨を伸ばしたような黒い肌に、黒金の髪。人間のものではありえないギザギザの耳を持つ――少年のように見えた。
「……神族か」
 と少年――ユソラは問う。
 しばらく何も答えずにいると、ユソラは微かに笑いを浮かべ、カプセルの中からレイディナを引っ張り出した。
「孤児のお前を俺が拾ったことにする。誰にも殺させないから安心しろ」
 本当に優しい笑顔だったことを、レイディナは覚えている。そこがゼイランドでないことを知った後も、彼が側にいてくれれば寂しくはなかった。

「……レディ様」
 控えめな声が、レイディナを呼んだ。レディと呼ぶのは、アンコータブルの中で本名を使うことが危ういことであるからだ。
 レイディナは顔を上げて、隣に立つ青年の顔を見上げた。ユソラのものよりも黒い肌で、片目はつぶれていた。長身で、明るい銀色の髪は、一本一本が針金のように固く鋭く、青年がいくら動こうともぴくりとも動かない。
「そろそろ時間です」
「ユソラは?」
 レイディナは長髪を帽子の中に隠して、少年のような格好をしていた。神族も魔族も、普段の形容は変わらない。深深と帽子をかぶっていれば、誰もレイディナを神族だとは思わないだろう。
 青年――ヅリエンディは頭を垂れた。
「追いついてきてくださるはずです。ユソラ様は、次代の統領様でありますから、色々と面倒もおありです」
「嘘だ、ヅリエンディ」
 レイディナはヅリエンディの眼を、鋭く見つめた。ヅリエンディはレイディナの眼を見返すと「いいえ」と首を横に振る。
「ユソラ様は、約束を違えることはありません」
「待ちたい」
「いけません。ここにいてはレディ様の身が危うい。ユソラ様のために逃げてください。私も共に参ります」
 ヅリエンディの口調は固く、レイディナに拒否権など微塵もないのだということを示唆する。もとより、レイディナに拒否する気など毛頭ない。ただ理由のない胸騒ぎがレイディナの足を止めていた。
 ――壁の外が騒がしい。
 二人がいるのは、アンコータブルの螺旋階段横――壁一枚を隔てた部屋だった。ヅリエンディは手の平を壁に押し当て、軽く壁を押した。壁は抵抗もなく開く。
 魔族が、上へ下へと無節操に動いていた。レイディナはヅリエンディに促されるがまま、魔族の流れに入りこんだ。誰かにぶつかって帽子が取れないように帽子を強く頭に押し付け、階段を駆け登る。
「ユソラ……」
 ぽつり、と寂しさにかられて呟く。ヅリエンディはレイディナの後ろを歩き、目を細めた。


×     ×     ×

「イシュー……」
 魔族たちが走る流れに沿って、クレヴァーは地階へと駆け下りる。時に、掟への混乱から上階へと逃げ出す魔族とぶつかったが、クレヴァーは怯まなかった。魔族の身体とぶつかり合い、全身は酷く痛む。耳元で人の荒い息が聞こえる。
「それが……お前が魔族であるということが……」
 隣にいる魔族がぶつぶつと何かを呟く。――どうすればいいのだ、カン様に恩がある、ユソラ様にも、と。自らのすべきことが見つからない声だ。
「お前が魔族であるということが……私が……」
 クレヴァーも疲れてはいた。だが、立ち止まれない。流れに沿うことを教えたのはイシュであるし、立ち止まれば恐怖に足がすくんでしまいそうだった。
 クレヴァーにも、この道を進んでいいのかは分からなかった。自らがすべきことは国のために生きることだ。国のために生き、ゼイランドの国民を幸せにする責任がある。
 死ぬことも、すべきことを失うことも怖かった。
「私が、一人にならなければならなかったのは」
 一人になることも嫌だった。ようやく見つけた兄弟を見殺しにすることも、見捨てることも。
 自分は飛行艇の中で見た、リール・リュードに似ているのだと、クレヴァーは思う。故に、既に死んでしまったはずのリールの気持ちは手に取るように分かった。
 何も失いたくなかったのだ。それでも、何かを見捨てるしかなかった。――だがクレヴァーにはできない選択である。
「お前がっ!」
 狭い空間が一気に開けた。入った瞬間に斬り捨てられた魔族を目の前に、クレヴァーは立ち止まる。目の前にカンの姿がある。カンの奥には自らと同じ顔でありながら、くろがね鉄色の髪を持つ青年がいる。
 カンと一瞬だけ目が合った。カンはクレヴァーを一瞥すると、音もなく地面を後方に蹴る。
 クレヴァーはイシュを見据え、叫ぶ。
「お前が魔族だからなのか! 私が一人にならなければならなかった理由が!」
『魔族も神族も、共存できるはずだ』とリール・リュードは言ったのだ。
 たとえ物事の可能性が一つだけではないのだとしても、クレヴァーにとってリール・リュードの言葉の、本当の意味は一つだけだ。
「私がもし魔族だったとしても、お前は見捨てなかっただろう、イシュー!」
 自らに繋がる誰かに、種族の隔たりをなくして欲しかったのだ。過ちを繰り返して欲しくはなかったはずだ。
 イシュはクルス・リュードを握りながら、クレヴァーの顔を見た。無理やりに笑いを作る。
「見捨てなかったさ、クレヴァーさんは俺を見つけてくれたから」
 でも、とイシュは続ける。
「ユソラも俺を見捨てなかったんだ。俺が魔族だってユソラはきっと知ってた。だから殺さなかったんだ」
 徐にクルス・リュードの柄を引いて、カンに切っ先を――切っ先があるはずの場所を向けた。クルス・リュードの刀身はなく、何よりも軽かった。
 カンがイシュにふりかえる。頬についた血を手の甲でぬぐい、睨みつける。
「その剣……リュードで私を殺すか」
 イシュは口を閉じた。祈るような顔でカンの顔を見据える。
 下階に降りる魔族たちは既にまばらで、降りてきた魔族たちも下階に広がる血の海に立ちすくむ。
 同朋たちが無残な姿で横たわる中、カンは静かに立ち、イシュを睨みつける。
「クルス。といったか。魔剣クルス・リュードと」
 イシュの目に既に涙はなく、乾いた目でカンを見つめている。歯を食いしばり、クルス・リュードを両手で持った。
 剣を持つ手が震えている。カタカタと音が鳴るほどに激しく、冷や汗が流れた。
 ――何かが。
「魔族の血を吸うと伝説のある……」
 ――何かが、激しく、身体の中で暴れている。
「使う人間を選ぶと、しばらく歴史の中にも出現しなかったが」
 ――殺せと、誰かが叫んでいる。生き延びるために殺せと。レイディナが生きているのなら、カンを殺さなければ二の舞を演じることになる、と、誰かが。
「お前にも扱えない品か、イシュー・フェンガラスよ」
 イシュは唾を飲みこんだ。
「そうだよ!」
 吐き捨てるようにイシュが叫んだ。動きだそうとする身体を必死に抑えて、カンを睨みつけながら怒鳴る。
「だから……だから逃げてくれよ! 俺が、動けなくなる前にさ!」
 イシュは天井を見上げた。
「この天井も、」
 見上げた首で周りを見やる。
「この螺旋の窓も、」
 下階の床を見た。魔族たちの血で赤く染まっている。
「この、光景も」
 イシュは目を閉じ、唾を飲み込む。手の震えは止まっているが、膠着して全く動かない。
「全部、クルス・リュードが覚えてるんだ。言うんだ俺に。クルス・リュードになれって、ずっと言ってたんだ」
 口だけが、動く。瞬きさえも出来ず、呼吸さえも苦しい。全身が何か大きなものに掴まれたような感覚がある。
 イシュが、不意に動いた。刀身のないクルス・リュードを振り上げる。振り上げた先の窓が音を立てて崩れ落ちた。
 クルス・リュードに刀身はない。
 見えずともどこまでも伸びて、全てを斬り裂く魔剣だ。
 割れた窓が下階へと落ちてくる。透明であるのにもかかわらず、一番上にあるシャンデリアの光に美しく乱反射する。イシュは落ちるガラスを見つめ、目を細めた。
「俺には、完全に欠けてる部分があったんだ。それを、クルス・リュードは補っていたんだ。だから――」
 振り上げたクルス・リュードを鋭く振り下ろす。カンはクルス・リュードの切っ先から逃れ、静かに床に着地する。
 再び振り上げられた見えない剣が、アンコータブルの竜の骨を切り裂いた。音を立てて窓が割れ、地鳴りが響く。
 ガラスがイシュに降り注いでいた。天井にあるシャンデリアが落ちて、土煙を巻き起こす。
「俺は、」
 ポタリ、とイシュの頬から赤い涙が落ちた。イシュの身体には多数の傷が刻まれている。クルス・リュードを振り下ろした状態で虚空を見上げ、土埃の混じる空気を吸い込んだ。
「人間でも、魔族でもない。『化け物』なんだ。だから、逃げてくれよクレヴァーさん、カン。魔族の罪は全部、俺が持っていくから」
 口の中に土の味がある。血の味も、また。
「ユソラが言う、『化け物』だから……魔族の罪がなくなればきっと、レイディナは助かるから」
「それでも私は、レイディナ・フェンガラスを殺す」
 カンはイシュの正面に立ち、辛辣に言い放つ。イシュは虚空を見上げたまま動かない。
「罪は積み重なるばかりだ」
 密封されゆくアンコータブルの下階に、微かに風が吹いた。イシュが少しだけ目線を移動させ、カンを見た。カンは真直ぐにイシュを見射る。
 ――殺してくれ、と言っているのかもしれない。
 イシュは顔を歪めた。クルス・リュードは脈を打つ。自らを持つイシュの鼓動と連動して、カンを殺せと叫んでいる。
(でも、殺して、本当にいいのか?)
 殺して、何が残るのだろう。
 カンが死んだなら、他の魔族はどうするというのだろう。魔族だと認めた自分も、どこへ行けばいいというのか。
 地上の重みに耐え切れなくなった竜の骨が、ドスン、と大きな音を立てて一塊、床に落ちた。血の海に横たわる息絶えた魔族の上に落ちて、土の下へと埋めて行く。
「イシュー」
 静かに、クレヴァーが声をかけた。クレヴァーは入り口の前にいて、血が敷かれた床を見ていない。おそらく一度見てしまったのだろう、顔色が悪い。
 クレヴァーはゆっくりと足を振り出して、血で埋め尽くされた床の上を歩いた。
「私は、その剣――クルス・リュードがゼイランドに宝剣として奉られていた意味がわかった気がする」
「クレヴァーさん……」
「ゼイランド国民を代表して、宝剣クルス・リュードを持つ者に願う」
 クレヴァーがイシュの目の前に立ち止まった。カンとイシュの間でカンに背中を向け、手の平に拳を当てる、ゼイランド特有の礼法を示す。
 クレヴァーはニコリと笑いを浮かべ、イシュの顔を見た。――無理に作っていることなど、一目瞭然だった。
「無理をせずに闘ってくれ。誰もお前を見捨てはしないから」
 クレヴァーの後ろで、カンが腕を組んだ。
「ゼイランド国王の子息、私に背中を向けるか」
「私はクレヴァー・フェンガラスです。ゼイランド・サーだけではありません」
 言い、クレヴァーはカンに振りかえる。
「あなたが殺したカレント・フェンガラスの息子でもあります。イシューの双子の兄弟であり、レイディナ・フェンガラスの弟でもある」
 カンを鋭く睨みつけて、クレヴァーは言い放つ。肩まで伸ばされた白銀の髪は細く、少しの動きで簡単に動いた。
 カンは口を閉じ、目を細める。クレヴァーはカンに一歩、さらに歩み寄った。
「私は人間です。中間の人種です。魔族も神族も共にあるべきです」
「それに、私は邪魔だというか、クレヴァー・フェンガラスよ」
「そうかもしれません」
 クレヴァーは大きく息を吐き出し、自分の剣に手をかけた。息を吸い込めば血の匂いが鼻にさわり、下を向けば赤々とした床が広がっている。
 クレヴァーは天井を見上げ、嘆息する。
「あなたは、多くを失わせ過ぎました」
「それと同じく、失ったんだ、カンは」
 イシュが口を挟んだ。身体に込めていた力を抜き、息を吐き出す。手の平からクルス・リュードが落ちて、床に横になった。
「誰よりも、クルスに似てるのは、俺じゃなくてカンだ」
 床に横になったクルス・リュードが点滅する。血の色か、カンの髪の色かに似た赤い光を湛え、自らを使えと主張する。
 イシュは斜め下の虚空を見つめ、言葉をつむぐ。
「だから……クルス・リュードは言うんだ。『止めてくれ』って。ユソラだって……」
 イシュは顔を上げ、カンの顔を見た。カンは驚愕に口を閉じる。
 向かい立つイシュの後ろに、ユソラの幻が見えた気がしたのだ。イシュのものと良く似た黒金色の髪に、薄暗い空間に解けた顔。
「ユソラが出来なかったことを俺がする。お前を止めて、レイディナも、クレヴァーさんも護る」
 くすり、とカンが小さな声で笑った。――己が愚鈍さに、嘲りの笑みだ。
「黒金なる風の魔族よ、お前にとって優先すべきは何か?」
 自嘲と笑いが含んだ声で、カンが問う。
 イシュは唾を吐き出して即答する。
「生かすことだよ」
「ならば、私を止めてみせよ。さもなくば私は神族も、クレヴァー・フェンガラスさえも殺す」
「あぁ、止めるよ」
 イシュの横でクレヴァーが微かに笑いを浮かべた。イシュはクレヴァーの顔を見やると、悪戯に笑って見せ、セレダランスの闘技大会で使っていた、何の変哲もない鉄の剣を抜いた。
「見ていてくれよクルス。最後の、」
 床に横になったクルス・リュードを一瞥し、短く一笑する。クレヴァーが怪訝な顔でイシュを見ていたが、クレヴァーもすぐに剣を抜いた。
 イシュはカンの顔を見据え、床を軽く蹴った。
 アンコータブルの城に、地響きが鳴り響いていた。クルス・リュードに斬り裂かれた竜の骨の骨組みが大きな音を立てて崩れようとしている。
 土埃が酷かった。吸い込む空気さえも土臭く、埃臭く、肺の中に風塵が積もっていくような気がした。
 声を上げてイシュは剣を振り上げる。イシュの後ろからクレヴァーが走り、クレヴァーのすぐ後ろに城の欠片が落下する。
「最後の、闘いにするからっ!」
 クルス・リュードの光が、青く染まって行く。まるで意思を持っているかのように、憂いを湛えた青だった。だが、誰も見てはいなかった。クルス・リュードの上に竜の骨が落下して、クルス・リュードの姿は誰にも見られることのない場所へと消えてしまっていた。
 カンはイシュを見据え、鼻から短く息を吐き出した。片手を鋭くイシュにむかって振ったかと思うと、イシュの剣が何かにはじかれる。
 イシュは剣を手放しはしなかった。剣が大きな力にはじかれても、両手を離さずそのまま立ち止まった。
 ザザザッと靴底が床に積もった固い砂と血の上を滑った。カンはイシュを見据えたまま、無造作にクレヴァーに向かって片手を差し出した。刹那、カンの手が伸びて、クレヴァーの剣をわしづかみにする。
 クレヴァーの剣を掴む手から、真っ赤な血が落ちる。クレヴァーは歯を食いしばって剣を持つも、全く動かなかった。カンの手は、斬れもしない。
 カンはクレヴァーを見もせず、固い口調で告げる。
「人間よ、生き延びなければいけないのだろう。少なくとも、お前だけは」
 剣を掴む手が離された。唐突に開放された剣が、重力に従って落下する。クレヴァーは慌てて剣を持ちなおし、訝ってカンを見た。
 カンはやはり、クレヴァーなど見もせず、微かに短く、息を吐き出した。
「ユソラの亡骸を持ち、地上へと逃れるがいい。イシュの後ろに抜け穴がある」
 ズズン……とまた大きな欠片が地階へと落下する。衝撃に揺れた床に手をつき、クレヴァーは顔を歪めた。
「私は、イシューを置いていくつもりはない。共に地上へ出るつもりです」
「イシュを見捨てることになってもか、クレヴァー・フェンガラス……いや、クレヴァー・リーヴァよ」
 クレヴァーは口を閉じた。――カンは暗喩しているのだ。クレヴァーがいることが、イシュにとって足かせになるということを。
 クレヴァーはカンから目を離し、イシュを見やった。イシュもやはりクレヴァーを見ず、「ごめん」と。
「後から追いかけるから、逃げてくださいクレヴァーさん」
「イシューっ!」
 イシュはクレヴァーを見やり、笑いを浮かべて見せた。
「ユソラ、お願いします。ほっといたらレイディナが悲しむからさ」
(本当にお前は、生きて追いかけてくる気があるのか?)
 クレヴァーはイシュの顔を見据え、感情を抑えるために唇をかんだ。噛みすぎた唇から血があふれて、口の中に広がって行く。
「……本当に、追いかけてきてくれ。外で待っているから」
 小さな、低い声だった。クレヴァーはイシュからも目線を離し、剣を鞘に収めた。イシュは頷き、もう一度「ごめん」と謝り、すぐにカンを見た。
 クレヴァーは断頭台の前に走り寄り、不意に人影を見つける。ユソラの頭を抱え、身体も持ち、まるでクレヴァーを待っていたかのように立っていた。
 ヘイウス・ジィである。童顔に土埃がこびりつき、全身を何かに刻まれた形跡がある。
 ヘイウスは小さく頭を下げ、頭でこちらです、と。
「逃げましょう、アンコータブルが崩れます」
 クレヴァーはヘイウスの顔を見、目を細めた。――ヘイウスがアンコータブルに来るなどとは、思いもよらなかった。ヘイウスにとってアンコータブルは鬼門であるはずだった。
「ヘイウス」
 ヘイウスはクレヴァーから視線を外し、「あちらです」と。
「クレヴァー王子。逃げてください、お願いします」
「どうしてお前がここに……」
「ユソラ様に、恩返しをするためにでございます。もう亡くなられましたが……まだ恩返しをするべき方がいらっしゃいますから」
 土埃のこびりついた顔で、ヘイウスは笑って見せる。クレヴァーも破顔して、「よし」と。
「行くぞ、ヘイウス」
「はっ」
 クレヴァーが駆け出して、ヘイウスも後ろに連なった。イシュの後方にあった横穴の扉をこじ開けて、クレヴァーは振りかえらずに先へ進んだ。ヘイウスは横穴に背中を向け、瓦礫の向こう側に立つ、二人の魔族を覗き見た。丁度、イシュが駆けだし、斬りかかった剣が、炎に変化したカンを通りぬける瞬間だった。
 ヘイウスはユソラの身体を持ちなおすと、小さく頭を下げ、失笑する。
「イシュー王子、あなたもどうか無事にお帰りくださいますよう」
 踵を返し、王子か、とヘイウスは改めて思う。
 魔族と人間の間に生まれた自分を助けたのは、魔族の王子――統領の息子たるユソラだった。迫害のないゼイランドに連れて行かれ、ゼイランドで行く場所のない自分を拾ったのは、ゼイランドの王子であったルーゼントであり、クレヴァーのことは幼いころから知っている。クレヴァーの存在は、自分の存在も許されるのではないかと思わせてくれる存在だった。もしかしたら最後に会った王子は、種族の隔たりをなくし、生きる場所を広げてくれるのかもしれないと、希望に思えた。

 イシュの剣がカンの身体を通りぬける。赤々とした炎へと変化したカンの身体は、何者にも貫かれず、斬り裂かれず、形状なく再び元に戻る。カンはわざわざイシュの剣を受けた上で、その事実をイシュに見せ付けたのだ。
 イシュはカンの背中に通りぬけた剣をそれでもなお、持ちつづけた。通り抜け、カンに背中を向けた瞬間に、カンは人間の姿に戻り、営利な刃物に変化させた腕を速くイシュの背中へと叩きつける。
 だが、カンの攻撃も、相手に届かなかった。
 イシュは叩きつけられる瞬間に風となり、実体の無いものへと変化したのだ。魔族であると自覚して、すぐに変化の能力を使いこなすのは稀である。イシュが出来たのは、神族の――自然を操る力を持つシャイサーマスターの血が混じる故なのかもしれない。
 カンは無表情のまま、辺りを素早く見渡した。イシュの姿が見えないのである。風となり空気の中を動いているのは分かるとしても、どの風がイシュのものなのかは分からない。きりがないのだと、カンは思う。
 イシュの姿が再び現れた。首を傾げて苦笑を浮かべている。
 アンコータブルの城も、もう長く持ちはしないだろう。イシュもカンも解ってはいた。だが、決着が見えるのには長い時間が必要だった。相手が疲労し、変化できない状況にならなければ、相手を死に至らしめることなど不可能だった。
「なぁカン」
 イシュが再び口を開いた。眼には憎しみの欠片もなく、どこか笑っている。カンは「何か」と淡々と問い返した。
「クレヴァーさんさ、本当は良い人なんだ。勘違いしないでくれよ」
「他人の他人に対する評価を心配していられる状況か」
「いや、全然」
 イシュはけらっと笑って見せる。剣を両手で持って「どうするかな」と胸中で苦笑を浮かべながら悩む。生きて帰ると言った以上、生きて帰らなければ。
 カンが微かに笑いを浮かべた。鼻から短く鋭い息を吐き出し、腕を組む。
「どうすべきか、悩んでいるだろう」
 イシュは答えなかった。――図星であると言うのはなんとなく癪だ。
「簡単なこと、私と共に土に埋められよ。それしか道はあるまい」
「だから! それが困るから悩んでるんだって!」
「ならば、私を滅するか」
 カンとイシュの目線がぶつかった。イシュはゆっくりと頷き、「うん」と。
「それしか、ないから」
 本当に、『それしかない』のかはわからなかった。だが誰よりも死にたがっているのはカンなのだ。
 カンは自らが死にたいと思っていることを自覚している。故に、イシュに「共に死ぬ」か「乗り越える」かを問うているのだ。
 イシュが再び剣を両手で握り、カンに向けた。カチャリ、と。騒々しい空間に妙に響く。
 カンとイシュの間に、天井の欠片が落ちた。天井は少しほどの崩壊でも、空を見せず土色のままだ。
 ――乗り越えるんだ。
 乗り越えなければ、アンコータブルに来た意味も、クルス・リュードを持っていた理由もない。イシュがここで死ねば、クルス・リュードは再び封印され、時代が繰り返されるに違いない。
「レイディナを……」
 ぽつり、とイシュは呟く。呟きと同時に床を蹴り、疾風のごとくカンとの間合いを詰める。カンは腕を剣に変化させ、イシュの剣にぶつける。
 キィン! 甲高い金属音が響く。イシュははじかれるように後方へ飛び、今度は跳躍してカンに攻め入る。
 天井に向けて高く剣を掲げる。自らで短く刻んだ髪が、ふわりと浮いた。
「クレヴァーさんを……」
 また、ぽつり、と。
 カンに向かって剣を力強く振り下ろした。体重全てをかけて、自分の頭上を防ぐカンの腕の剣へと剣をぶつける。
 ギィン! 鈍い音が響く。
 直後、イシュの背中に大きな土の塊が落ちた。
 見上げていたカンは眼を丸くし、咄嗟に後方へと床を蹴る。イシュは悲鳴を上げる暇さえもなく、土の下敷きになってしまった。風になり逃げる暇もない。柔らかい土の下では逃げることさえ不可能だ。
 カンはイシュを下敷きにした土を見下ろし、独り静かに鼻白む。
「……魔族は神族を殺すためにあるか。統領である私を、誰も殺すことなど不可能であるか……」

 ――土の下は、真っ暗闇だった。光さえも土は吸収する。土の下にあるのは、ただ深い闇だ。
 イシュは人間の姿のまま、土の下敷きになっていた。自分の剣で自分を突き刺すなどのバカはしていないが、土の重さに身動きができない。衝撃で剣も手放してしまった。
 顔の横に、誰かの血があった。カンに斬り捨てられた魔族のものだ。
 どうして自分はまだ生きているのだろう、とイシュは訝った。土の下は空気などなく、呼吸ができない。にもかかわらず、まだ生きているのだ。骨が折れた様子もない。
『化け物』
 不意に誰かの声が聞こえた。
『たとえ魔族であろうとも、死ぬときは死ぬぞ』
 聞き覚えのある声だなと、イシュは思う。暗闇の土の中で眼を開き、誰かいないかと探して見ても、目の前は土だ。誰かが見つかるはずはなかった。
『イシュ』
 自分をイシュだと呼んだ。――聞き覚えがある、ありすぎるほどだ。
『レイディナはまだ生きている。護ると言ったのはお前だ』
 ユソラ、とイシュは出ない声で声の主を呼んだ。もう既に死んだはずである。
『それに、クルス・リュードはお前にまだ希望を託している。俺には聞こえる、いつもお前に生きろと言っていた声だ。聞けぬふりをしていたばか者め』
 ――生きろ、と。イシュの耳に聞きなれぬ――あるいは聞き慣れた声が聞こえた。
(聞こえる……)
 クルス・リュードの声は、多くの人間の声が混じる声だ。だた一つの意思だけではない、クルス・リュードに関わる者全てが、封印された剣なのだ。
(力を、貸してくれよユソラ)
 精一杯の力を使って、腕を動かした。どれほどの土が身体の上に乗っているのかは分からない。手を伸ばせば土を抜けられることができるかなど、分からなかった。
 それでも精一杯の希望を持って、手を伸ばした。手が出てくれたなら、出て行ける。イシュは風なのだ。暖かさも冷たさも包み、人々の間を自由に駆け抜ける形なき風。
(レイディナを……)
 指先で土を動かし、少しずつ上へと手を伸ばす。
(クレヴァーさんを……)
 暗闇の中、目を閉じて様々な人の顔を思い浮かべた。レイゼランズの仲間や、義母であったオリヴァー、セレダランスで出会ったジェンやルーゼント、ヘイウスや他の兵士たち。
 レイディナの顔が浮かんだ。無表情に微かに笑みを浮かべて、「イシュー」と自分を呼ぶ。彼女を護ると、イシュはユソラに約束したのだ。
 胸が呼吸を欲した。苦しい。苦しくても手はまだ土を突き破ってはいなかった。
(カンも助けるから! 力を貸してくれよユソラッ!)
 指先が微かに軽くなった。ユソラの声が短く笑った。
『俺を殺し、禁忌を破った俺の父を殺せ、イシュ』
 イシュの指が土をつきぬけ、イシュは一気に空気に溶けた。
 必死だった。
 生きて帰ることを約束した。
 レイディナを護ると、約束した。
 こんな、死ぬ前から土の下に消えるなど、決してしてはいけないのだ。
 土の中で風になったイシュの身体が渦を巻いて、イシュの身体の上にあった土をことごとく吹き飛ばす。サァァア、と土が土埃のごとく吹き飛ばされて行く。
 イシュは土の上に立って、大きく呼吸をする。誰かの血に土が重なり、綺麗な鉄色の髪も、綺麗な造詣の顔も、元から煤けていた服も全て黒ずんで汚れていた。
 肩が上下し、土から脱出することで体力のほとんどを使ってしまったことが、傍目にもよく分かる状態だった。
 眼だけは、崩れ行く天井を見上げていたカンを、強く睨みつける。
 手にはいつのまにか刀身のない魔剣クルス・リュードが握られていた。
「……お前を殺すよ、カン」
 荒い呼吸のまま、イシュは告げる。
 カンは目を細め、短く息を吐き出した。
「それができるか、イシュー・フェンガラスよ」
「できるさ」
 息を吐き出し、一度だけ瞬きする。
 強い光を湛えた青い瞳で、カンを改めて睨みつける。
「しなきゃいけないんだ。レイディナやユソラや、クルス・リュードのために」
 なにより、カンのためにカンを乗り越えなければいけないのだ。誰よりも魔族のことを思い、魔族のために生きた人間のために。
 魔族を恐れる心の支配がなくなれば、神族も人間も、魔族さえも心置きなく生きられる時代がくる。魔族が神族を愛し、神族が魔族を愛する。それさえも許される時代が。
 イシュが一歩、カンに近づいた。
「ユソラとレイディナが本当に一緒にいられる時代のため……」
 カンが、本当に幸せだと思える時代のためにと、やはりイシュは続けなかった。続けられない。
「私が死ねば、そんな時代がくるというのか」
 イシュは立ち止まる。片手に持ったクルス・リュードを躊躇いもなく頭上に向けて振り上げ、落ちてきた破片を瞬時に切り裂く。
「知らねぇ」
「無責任な……お前は性根までバカ者か」
「どうせ俺はバカだよ」
 でも、とクルス・リュードをカンに向けて振り下ろした。カンは身じろぎもせず、イシュを静かに見つめている。
「お前は統治者には向いていないな、イシュー・フェンガラス……ゼイランドの二人目の王子よ」
「んなこと分かってる」
 これで最後だ、とイシュは大きな呼吸で心を静めた。クルス・リュードを振るたびに、体力が減っていくのが分かる。もともと残っていなかった体力だ、限界が見える。
「でも、お前を乗り越えなきゃいけないんだ。神族も魔族も、人間も平等に生きられる場所のために……」
 所詮、自分の考えは偏っているのだと、イシュは思う。自分のために、自分の生まれた故郷のためにカンを殺すのだ。罪人呼ばわれしてもしかたがない。それでも、クレヴァーは見捨てないでいてくれると言ってくれた。
 闘えと、己のために戦えと、言ってくれたのだ。
「自分の、ために……」
 イシュの言葉に、唐突にカンが口をあけて大声で笑い始めた。腹の底から響くような声で、崩れ、騒々しいアンコータブルの城の中によく響く。
 イシュは唖然としてカンの顔を見た。殺気などない、カンが大声を上げて笑う姿など、見たことも聞いたこともなかった。
 カンは口を閉じると、今だ笑いが浮かんだ顔で、片手を天井に向けた。イシュは咄嗟にクルス・リュードを構えなおす。
「己がために私を殺すか。実に正直だ……ユソラも、そのように生かせたかったものだな」
 不意にカンが真っ赤に染まった。赤い光を帯び、ふっと皮肉そうな顔で笑う。
 直後、アンコータブルの城の中は、大きな爆発音と共に、真っ赤な光に覆い尽くされていた。


×      ×      ×

 ドォオン……。
 地下から何かの音が響いた。巨大で、太く、大きな音だ。
 アンコータブルの敷地の外へと出たクレヴァーとヘイウスは、同じく外に出ていたレイディナとヅリエンディと出会い、お互いの無事と状況を確認しあっていたところだった。城の裏口の脇で、辺りは荒野が広がっていた。
 大地が揺れた。
 立つことさえ困難なほど激しく、下から突き上げる揺れだ。
「あっ!」
 とレイディナがクレヴァーの後ろを指差した。レイディナが指差した先を、全員が見やった。
 アンコータブル城の地階がある場所から、火柱が天空へ向けて飛び出してきたのだ。オレンジ色や赤、褐色全てが混じっているのではないかと思えるほどの多彩さで、巨大な熱と光を辺りに振りまく。
 クレヴァーは口を閉じ、地面に膝をついた。――イシュが、あの場所にいたはずなのだ。逃げ出したのではないかと希望を持ちたかった。だが追いついてこなかったのだ。クレヴァーとヘイウスが逃げ出した裏口など、すでにつぶれてしまっているに違いない。
「イシュー……」
 自分は、リール・リュードと同じく、兄弟を見捨ててしまったのかと、クレヴァーは思った。イシュに見捨てないと、言ったのにも関わらず。
 ヘイウスがクレヴァーの横に膝をついた。ユソラの身体を地面に置き、クレヴァーの横に控える。
「イシューも、あそこにいるのか、クレヴァー」
 レイディナが相変わらずのたどたどしい、淡々とした口調で問う。クレヴァーはレイディナを見やり、頷きもしなければ首を横にも振らなかった。ただ力なく笑って見せる。
「大丈夫です、レイディナ姫」
 ヘイウスが平生と告げる。火柱があった場所を見つめ、言い聞かせるような口調だ。
「あの男が、簡単に死にますか」
「……化け物だといわれるほどの、生命力でしたからね」
 ヅリエンディがヘイウスに答えた。ヅリエンディはレイディナの横で苦笑を浮かべ――唐突に笑いをかき消し表情を凍らせた。
 カンが、四人の前に立っていたのである。いつの間に近づいていたのか、手を伸ばせばヘイウスとクレヴァーに手が届く。ヘイウスとクレヴァーの後ろに、レイディナとヅリエンディはいるのだ。
 ヘイウスはクレヴァーの横に膝をついたまま、カンを見上げる。クレヴァーはカンを見つけると、鋭く息を吸い込んだ。
 ――イシューは。
 問う、声が出てこなかった。カンはクレヴァーを一瞥し、ヅリエンディを見やる。ヅリエンディの顔を見、小さく鼻白んだ。
「……死んだとばかり思っていたが、魔族竜家のヅリエンディ」
 ヅリエンディはカンから目をそらし、レイディナを護るように前に出た。
「ユソラ様が、自らの命鱗を与えてくださいました……ですから、私はユソラ様のために、レイディナ様を護ります。たとえ、カン様に逆らうことになろうとも」
「神族を殺すほどの体力が残っているものか」
 カンは自嘲気味に答え、地面に横たわるユソラを見下ろした。ユソラの身体の下には、丁寧にもヘイウスの上着が敷かれていた。
 カンは目を細め、ユソラに近づく。
 歩くたびに身体に鱗が生じ、鋭い爪と、長く赤い尾が現れる。――すでに人間の姿でいることすら、難しい。天井を突き破ることに体力を使いすぎた。
 カンの姿を、全員が息を呑んで見つめていた。カンはユソラの頭と首をつけると、いとおしそうに頭を撫でた。
「そうか……ユソラは、統領としてあることを、拒んだのだな……」
 魔族に『命鱗』は二枚ある。二枚とも剥がれた瞬間、魔族は命を失ってしまう。魔族の統領の子は、主に命鱗を与えられた何かの生物だった。カンは自らの命鱗を大樹に与え、大樹は意思を持ち、カンの息子となった。
 統領に結婚は厳禁であり、国民全てを配偶者とする。カンもその掟に従い生きてきたのだ。
「ユソラに伝えよヅリエンディ」
 ヅリエンディは身体を硬直させた。カンは徐に顔のエラの下の鱗に手をかける。
「己がために自由に生きるがいい、魔族と神族との新しい時代を私も見たかったものだと」
 ベリ、とカンは自らの鱗を躊躇いもなく剥がした。途端、カンの身体が力なく崩れて行く。ヅリエンディは慌てて走り寄り、カンの身体を支えた。だが既にカンの心臓は止まっていた。
 カンの手から鱗が落ちる。
 まるで赤い瓶の欠片のように透明で赤い小さな鱗は、ひらひらと落ちて、ユソラの身体の上に着地する。
 ヅリエンディはカンの身体を抱きしめ、「はい」と既に聞こえるはずのない返事をする。
「ユソラ様にお伝え致します……どうか、私をお許しください、カン様……」
 ヅリエンディの頬を、涙が伝っていた。カンに対して毒づいてばかりいた。ユソラをないがしろにしていると――誰よりもユソラを大切に思っていた人間に対して。毒づく自分を、生かしていてくれた人間であるのにも関わらず。
「……カン、死んだのか?」
 レイディナがヅリエンディの顔を覗き、問う。ヅリエンディが頷くと、レイディナは「そうか」と力なく肩を落とす。
「私を助けてユソラも死んだ……」
「ユソラ様は生きています、レイディナ様」
 レイディナが顔を上げて、ヅリエンディの顔を見やった。途端顔を膨らませ、「嘘はダメだ」と。
「神族をバカにするな、ヅリエンディ」
「本当です、レイディナ様こそ魔族を侮らないでください」
 カンを横にし、ヅリエンディはレイディナに食って掛かった。――と、唐突にヘイウスが「あぁっ!」と声を上げた。かと思うと、素早く立ちあがって、アンコータブルの中にできた穴に駆け寄った。
 穴の縁に、人の手が掴まっているのだ。クレヴァーが半信半疑で近づくと、掴まっているのはイシュだった。片手で縁に掴まって、「こんなところで限界くんなぁっ!」と投げやりに叫んでいる。
 先にたどり着いたヘイウスが問答無用でイシュを引き上げると、イシュはそのまま地面に倒れこんでしまった。
 巨大な火柱が立っていたのにも関わらず、イシュの身体には焦げ目一つついていなかった。ただ土に汚れて、誰よりも疲れている様子であることだけは一目瞭然であったのだが。
 イシュはクレヴァーの顔を見ると、満面に笑顔を浮かべた。
「ただいま、クレヴァーさん」
「おかえり、イシュー」
 クレヴァーも笑いを浮かべて、イシュに手を差し出した。
 音を立て、イシュがクレヴァーの手を掴んだ。
 けらけらと声を上げて、二人とも笑っていた。

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