>> 五章 決別の鎮魂曲(レクイエム) <<




   一つ、自分で決めたことがある。
 目の前で誰かが死にそうになったら、是が非でも助けたい。苦しんでいたら、楽になるように手を差し伸べたい。今まで無視をしてきたすべてのものに謝りたいと思う。
 レイディナ・フェンガラスを救出する。
 ゼイランドの宝剣だというクルス・リュードを脇に挿して、イシュはヘイウスの後ろを歩いていた。ヘイウスは先ほどクレヴァーも案内したらしく、ひどく上機嫌だった。
 国王陛下がお待ちだ、とヘイウスはイシュしかいない場所で、今までと同じような口調で言う。イシュは乾かしてもらった靴をはきながら、大きくうなずく。――見れば、面倒くさがって伸ばしていた髪の毛が不ぞろいに切られ、綺麗な鉄色の髪は、ゴミ箱に捨てられていた。自分の剣で無理やりに切ったのである。
「……三兄弟が見たらなんていうか……」
 ヘイウスは髪を切ったイシュを見下ろしながら、口の中でぶつぶつとつぶやいた。三兄弟というのは、今のゼイランド王妃であるメディナの三つ子のことである。実のところ、クレヴァーに血のかかわりもない他人ではあるが、現在王子として育てられている人たちだ。クレヴァーと彼らとはすこぶる仲が悪い。イシュは何も知らないが、悪い予感に忠実に聞き返さなかった。
 ヘイウスがイシュをつれて入ったのは、飛行艇の操作室だった。大きな窓が壁のほとんどを支配し、側面には大きなディスプレイが張られている。着地しているために誰も動かしてはいなかったが、多くの椅子があるのをみれば、本来はたくさんの人間がここにいるであろうことが予測された。
 操作室にいたのは、ルーゼントとクレヴァーの二人だけだった。イシュは立ち止まって、知らず、二人を見つめていた。
 二人は何かの四角い台のようなものの前に立ち、クレヴァーはルーゼントに向かって、何か説教している様子である。荒げた口調を聞けば、頭に血が上っている。
 ヘイウスはイシュの肩に手を置いて、一度だけ、ぽん、と叩いた。イシュが見やればヘイウスは悪戯に笑いを浮かべる。
「国王陛下がお待ちだ。俺はここで帰るぞ」
「ヘイウスさん、ついてないんですか?」
「まぁな。勅命を受けた」
 ヘイウスは踵を返すと、精一杯の虚勢を張って口の端を上げた。
(イシュー王子……か)
 幼い顔に浮かんだ笑みには、皮肉の色しか表れなかった。――もしも彼が最初から王子としてあったら、クレヴァーは今と同じような性格になっていたのだろうか……。

 ルーゼントとクレヴァーの前に立ったイシュは、まっすぐに二人を見て、二人を黙らせるにいたった。イシュの短くなった髪の毛に、確かなる決意が見えたせいだ。
 青い目が、まっすぐに二人を見据えていた。黒い雨に打たれて、レイディナを失ったことに絶望していた人間と同じには見えなかった。
「ゼイランド国王陛下、部屋を貸して頂いて感謝します」
「礼にはおよばんことだ、私が連れてきたのだからな。ところで、イシュ」
 ルーゼントもイシュの顔をまっすぐに見た。イシュとルーゼントの目線がぶつかり、留まる。
「お前は、イシュ・フィングラスであるのか。それともイシュー・フェンガラス=ゼイランド・サーであるのか。答えは見つかったか」
「はい」
 イシュははっきりと答え、一度、口を閉じる。横目でクレヴァーを見やり、軽く口に笑いを浮かべた。
「俺は、」
 イシュは目を閉じ、今までのことを思い出してみた。レイゼランズで育ったこと、レイディナと会ったときのこと、旅に出たこと、クレヴァーと会ったときのこと。カレントの映像をみたこと――全て、一人の人間である自分が経験してきたことだ。
 生まれたとき、イシュは「イシュー」であった。イシューはカプセルで流れ着いた場所で「イシュ」と呼ばれる。今は、両方だ。だから答えは最初から出ていたに違いない。今まで何を悩んでいたのだろう。
「イシュ・フィングラスです。そしてイシュー・フェンガラスでもある。それを、知りました。でも、」
 言葉を区切り、大きく息を吐き出す。短い言葉の一つ一つに大きな労力を使っている自分がいる。
「俺は、俺だけなんです。名前がどうであっても、生まれがどうであっても。レディ――レイディナが大切だったと思う自分も、魔族を怨みきれない自分も、レイディナが姉であったことに少しだけ絶望と納得を感じた自分も……すべて、俺です」
 最後の言葉は、いやに力なく、重い言葉であった。イシュは肩を落とし、クルス・リュードを握った。クルス・リュードを握る手が白く変色して、握る力の大きさを示す。
「それでも、俺はレイディナを助けたい。これは、魔族の欲求に反することですから、ゼイランドにご迷惑はおかけできません。俺に関わったせいで、セレダランスの皆さんも迷惑しましたし……」
「イシュー、そう言うときは簡単に、こう言うんだ」
 クレヴァーが口を挟み、イシュの顔を見ながら、悪戯に笑ってみせた。
「『ご迷惑おかけしたと思いますから、申し訳ありませんでした。でも、俺たちは行きます』」
 イシュは頭をかきながら、はは、と乾いた笑いを立てた――と、表情を真っ白に戻すと、弾かれるようにクレヴァーに食って掛かった。
「ってクレヴァーさん、今! 『たち』って言ったでしょう!」
 クレヴァーは笑いを湛えた顔で「それがどうした?」と、しれっとして言い放つ。イシュは「どうしたって」と。
「ゼイランドに迷惑はかけられません!」
「これはゼイランドの意思ではなく、私一人の意思だ。私は国ではない、イシューと同じ個の人だ」
「んなこと分かってますよ! だから言ってるってこともあるんです!」
 二人は向かい合って相手を睨みつけ始める。イシュはイシュで一人で行くつもりであって、クレヴァーは是が非でもイシュについていくつもりなのだ。
 ルーゼントはあごに手をあて「ふむ」と、一人冷静に頷く。二人は最初から喧嘩ばかりしていたような気がしてならない。
「確かに、ゼイランドに危害が加わるようなことになっては困る」
「父上!」
 クレヴァーは即座に勢いよくルーゼントに振り向く。イシュはほれ見たことかと勝ち誇ったようにルーゼントの顔を見やった。
 ルーゼントはやはりあごに手を置いたまま、にやり、と笑って見せた。ルーゼントの笑いに何か嫌な予感がして、イシュは苦笑いを浮かべた。
 次に出てくる言葉は、たぶん、なんとなく分かるぞ、と。
「だが、クレヴァー個人としてなら、アンコータブルの首都近くへ送っていっても差し支えはないだろう。どちらにしろ、ゼイランドはすでに、レイゼランズというアンコータブルの中に入っているのだからな」
「陛下っ!」
「イシュー、お前が本当にイシューであるのなら、私を父と呼べ。それが義務だ」
 は、とイシュは口を開け、絶句した。今更ながら、自分の考えに有無を言わせない手段を持つこの傍観者が、一番の曲者であることに気がついたのである。
 クレヴァーはイシュを横目で見やり、ルーゼントに向かいなおった。顔には少しだけ嬉々としたものが浮かんでいる。
「本当ですか、父上」
「かまわん。イシューも共につれていってやろう」
「ありがとうございます、久しぶりに、私人として父であると思いました」
「それは嫌味か皮肉か。どちらにしろ、クレヴァーの口から誉めの言葉に似た言葉が出るとは思わなかった。それでよしとしてやろう」
 ルーゼントは腹から笑い、クレヴァーと同時にイシュを横目で見やった。イシュは二人の姿を茫然と見守っており、ぎこちなく口を動かした。明らかに顔は引きつっている。
「ち」
「ち?」
「と……」
「と?」
 クレヴァーは面白そうにイシュの言葉を繰り返す。イシュはどちらも最後まで言うことはできず、顔を真っ赤に染め、憮然として口を閉じてしまった。
(絶対呼ばなきゃ、俺の言うことなんて聞いてくれやしないんだ、この人たちはっ!)
 今更、そう簡単に呼べるはずがないのだ。
今まで誰のことも「父」と呼ばなかった。呼び方も知らない。クレヴァーのように「父上」などと呼んでも、それは自分の呼び方ではないような気がする。「父さん」とは、恥かしくて口に出せなかった。
「いっ、」
 もう一度引きつった顔で言葉を発する。顔はもう耳まで真っ赤である。
 クレヴァーはけらけらと笑うと「い?」とやはり繰り返す。イシュはキッとクレヴァーを睨みつけると、叫んだ。
「いいですよっ、お願いします! 死んだって知りませんからね!」
「もちろん、私に死ぬつもりはない」
 クレヴァーは涼しい顔で答える。イシュはクレヴァーにさえも負けた気分で、クレヴァーの顔を見据えた。
「私は、どうして魔族が他国を侵略し始めたのかが知りたい。どうして条約を破ってしまったのか。それに私も、レイディナ姉さんを助けたいと思っている」
 クレヴァーは臆面もなく、姉さん、と言った。イシュは肩から力を抜いて短く嘆息する。やはり、クレヴァーには敵わないのだ。言えば、クレヴァーが「イシューには敵わない」と言うに違いなかったが、イシュにはお世辞にしか聞こえないのである。
「それに、ゼイランドのことをも考えていなければならない。私にはたくさんやるべきことがある。行かない理由は私にはないんだ」
 イシュは顔を歪めると「はは」と、口を開けて笑った。
「なんだか難しい話みたいですけど……クレヴァーさん倒れないで下さいね」
「倒れる理由がどこにある? イシュー」
 クレヴァーはにやりと不敵に笑ってイシュの顔を見た。イシュは苦笑を浮かべ「じゃあなんで倒れたんだろう」と口の中で呟く。
 ルーゼントは無言で頷くと、踵を返してディスプレイの前へと歩いた。ディスプレイの前には様々なボタンがついた壁と机があり、移動する椅子も置いてあった。ルーゼントは椅子に座ると、ボタンを一つ、押した。「ピ」と短い音が響き、ディスプレイが唐突に唸り出した。
「真実を語ろう。クルス・リュードは魔剣だ」
 ルーゼントは口頭で、しれっとして言い放った。ディスプレイの前のボタンたちを操る手は、ゆっくりと、だが止まらない。
 イシュは格別驚かなかった。表情はすっかり冷めた様子で、静かにルーゼントを見据えている。
「では……父上」
 クレヴァーが声を、絞り出した。
「ゼイランドは、魔剣を、宝剣としていたのですか」
「そうだ、クレヴァー。クルス・リュードはもともと魔族が使っていた剣であり、魔族を多く殺した剣だ」
 やはりイシュ何も言わなかった。クレヴァーは力の抜けた様子で、口を閉じた。口を挟むような、話ではないようである。訊きたいことはたくさんあっても、ルーゼントが言う言葉を忘れずに覚えておかなければいけない。おそらく、王としてある人間が、代々受け継いできた秘密なのだろう。
 ルーゼントはふりかえると、口の端を上げ、皮肉そうに笑って見せた。
「ゼイランドは、皮肉な血の上に立っているのだ。我々が生まれたことも同じことだ」
 ルーゼントがボタンを一つ、押した。カチッという音の直後、ディスプレイが大陸を映しだし、飛行艇が唸り出す。
 飛行艇が低く、空へと昇り始めた。床が揺れ、力の大きさを表していた。
「我々の血は、魔族の血より生まれているのだよ」
「それは!」
「そうだ、我々は魔族であり、神族でもあり、そして人間でもある」
「父上、意味が……」
 ルーゼントは優雅に笑うと、ディスプレイの画面を切り替える。
 ブゥン、と一瞬の黒い映像の後、画面に鉄色の髪と青紫の眼を持つ、やせこけた青年が映し出された。直感で、彼はすでに存在していないことと、彼が魔族であることを悟る。
「私に連なる……多くの子等よ」
 声は、低く、朗々と美しい。
「私は、リール・リュード……兄クルス・リュードのただ一人の弟にして、ゼイランド建国者である」
 ゾク、とイシュの背中に冷たいものが走った。クルス・リュードを持った手から、冷たいものが入りこんだようだった。
 自分は、リール・リュードを知っている。
「私の兄は大罪を犯した。だが、恥だと私にはいえない。彼は彼のために、愛するもののために戦ったのであり、間違いであることを認めなかった。私も、私が国を建国したことを間違いだとは認めない」
 リール・リュードは沈黙する。他の誰も声を発しないまま、映像のリール・リュードは動き出す。
「……兄は、神族の娘を護るために戦い、多くの同朋を殺した。だが護れず、彼もまた死んだ。私は国を建てるために、それを見送ったのだ」
 大昔に撮られた映像であるはずなのにも関わらず、映像にはノイズもなければ、雑音もない。リール・リュードは斜め下を見、低い声で続けて行く。イシュは戦慄して立ち尽くし、声だけを聞いていた。
(俺は……)
「シャイサーマスターに死を、この世の平定のために。我が種族の繁栄のために」
 イシュは仕草に出してかぶりを振った。認めたくない。
(俺は、誰の意思で生きていたんだろう)
「それが、魔族だ。私に連なる多くの子等よ……お前等はそれを認めるか」
 微かに、イシュが口を開いた。震えている、声がか細い。
「俺は認めない……俺の意思だ」
「認めるか否かは、お前等の勝手であり、私が決めることではない。故に、兄と同じ名前となった魔剣を残した」
 リール・リュードは画面のまっすぐを見据え、微かに笑いを湛えた。その顔は儚く、希少であることが見て取れた。
「悪魔に見捨てられた魔族、天使に見捨てられた神族。どちらも悲しい存在だ。血ゆえに対立し、相手の存在を認められない。本当は……本当はだ」
 なんで俺は兄を見捨ててしまったんだろう。
 リール・リュードが心の中で嘆いている。
「魔族も神族も、共存できるはずだ。人間も、共に……皆、同じ人だ。愛することもあるだろう。本当は、それでよかった。だが、私は魔族だったのだ。私と共に暮らす人々が、苦しまなくてすむ国を作りたかっただけの……」
 リール・リュードが少しだけ口を閉じた。イシュは微かに顔を上げ、リールを見た。――なんて、切ない顔をする人だろうと。
「この愚かなる魔族に連なる、多くの子等よ。もしお前もが神族を愛することがあれば、私の兄クルスを思え。魔族の掟に逆らい神族を守るために戦ったクルス・リュードの姿を思い浮かべ……死ぬがいい。魔族として、神族として……ただの人として思うが侭に生きるがいい」
 映像が一気にうせた。イシュは映像を凝視し固まっている。クレヴァーはため息一つつくと、ルーゼントを見やった。
 ルーゼントはクレヴァーへ、意味深げな目線を送る。
「カレントはお前を助けるために死んだのだ。わかるか、クレヴァー」
「父上、私にどう理解し、どう納得しろと仰るのですか? ならばなぜ、姉上もイシューも、国から引き離されたのですか!」
「訊きたいか、イシュー」
 ルーゼントはイシュへと目線を送った。イシュはルーゼントを見やり、力なく笑って見せる。――肯定でも否定でもなさそうだ。
「答えなんて、分かってます」
 ルーゼントは頷き、うむ、と短く呟き、レバーをゆっくりと引く。クレヴァーはルーゼントの仕草を背中から眺め、短く嘆息する。
「私にはわかりませんが、父上」
「物事の可能性は一つではないということだ、クレヴァー」
「今回ばかりは意味がわかりません、お教え願えますか」
「イシューに訊け」
 ルーゼントはしれっとして言い放ち、レバーから手を離し、またボタンを押した。ディスプレイに大陸の地図が現れ、赤い点がゆっくりと移動する。点が飛行艇なのだろう。
 クレヴァーはイシュを見やる。イシュは小さく首を横に振っただけだ。クレヴァーは前髪に手を突っ込んで、大きく息を吐き出した。
「イシューも父上も、私に対しては多くの謎を持ちたがるようですね」
「クレヴァーさんも分からないかな」
 イシュがニコリと笑った。クレヴァーはイシュの顔を見やり、首を横に振る。
「いいさ、いつかイシューが言ってくれる日がくる。私はアンコータブルへ行く準備をさせていただくよ」
 言うと、クレヴァーは踵を返しイシュの背中の方向にある出入口へと向かった。
 クレヴァーの背中で、ピッピッとディスプレイが音を立てる。昔から伝わる飛行艇だ、レプリカは作られているが、これは王族専用機なのだ。レプリカよりも高性能だ。
 いつか昔、王族の誰かが、この飛行艇に乗って神族の誰かを助けに行ったことがあるのだろうかと、クレヴァーは思う。ゼイランドには神族が生きていた。昔も神族から姫がやってきたことも知っている。だが誰かが、神族を助けようとクルス・リュードを持ち、アンコータブルへと乗りこもうとしただろうか。
 クレヴァーはイシュを見やった。イシュはディスプレイに映った赤い点を見つめ、微動にしない。手にはクルス・リュードが握られ、髪はカレントと同じ鉄色だ。
 音を立てて入口が開く。入口の横に立っていたヘイウスへ一瞥を投げかけた。
「ヘイウス」
「はっ」
「アンコータブルへ行くぞ、準備しろ」
「クレヴァー様のためならこのヘイウス、たとえアンコータブルの城であろうと……」
 ヘイウスの顔色が少しだけ曇った。だが、一瞬だけだ。
「何がなんでも連れて行かせていただきます」
 腰を折って軽く礼をする。クレヴァーはヘイウスを見やると、短く息を吐いて笑って見せた。昔から変わらず、人を安心させるような優しい笑みだ。
 プシュン、と音が響き、ドアが閉じた。ヘイウスは「アンコータブル」と小さく呟き、クレヴァーの後ろを黙って歩いた。


×     ×     ×

 アンコータブルの空は青く澄み渡っていた。大きな敷地を持つ首都の上だけが晴れているのである。薄い城壁の内側は空気さえも澄み渡り、人間の形を持つ魔族たちが活き活きと暮らしていた。
 アンコータブルの大通りを、魔族の群れがゆっくりと進んでいた。魔族の群れは大通りの中央から、入口とは極端にある城の入口へと続いていた。アンコータブルの城は地下にある。城の入口はドラゴンの口の形容であり、門番が二人横に立っている。
 イシュとクレヴァーははぐれないように並んでいたはずである。
「クレヴァーさん!」
 イシュはどこぞとかまわず、叫んだ。魔族たちの声が自分の声を掻き消しているように聞こえる。クレヴァーはイシュとは少しだけ離れた場所に流されていた。
「なんだ!」
「あぁいたいた! はぐれそうだなって思ったんですよ!」
「そうだな、きちんとついてくるんだ、イシュー」
「でもクレヴァーさんっ、そっち反対です!」
 魔族の身体の間を縫い、イシュはクレヴァーの服を引っ張る。クレヴァーは刹那、唖然としてイシュの顔を見やった。
「人の流れの逆をいけば、目的地につくものだろう?」
「クレヴァーさん、たぶんこういう場合って流れに沿っていけば、結構当たると思うんですけど……」
 イシュは苦笑を浮かべた。クレヴァーは一体どこでその話を聞いてきたというのか。
 短く嘆息して、クレヴァーが戻ってくるのを待つ。クレヴァーは人の流れに沿い、イシュの隣に戻ってきた。
 魔族が並んで城の方向へと流れる。二人の耳に、魔族の会話が入りこんできた。
「神族も、これで一箇所に留まったということになるわけだ」
 まったくだ、と会話の相手が返す。イシュは弾けるように会話の主の顔を見やった。クレヴァーはイシュの肩を叩き、知らぬ存ぜぬを装う。
「ゼイランドは神族も魔族も受け入れるからな。カン様はそのうちゼイランドを滅ぼそうとお考えだそうだ」
「そのときは私も兵士に入れてくださるだろうかね。ゼイランドの昔ながらの文明を、最後に目に入れる魔族の一人でありたいもんだ」
 ははっ、と笑い声が響く。クレヴァーが鋭く息を吸い込んだ。
 げっとイシュは顔を歪めて、とっさにクレヴァーの口を塞いだ。クレヴァーはイシュが口を塞いだ直後に何か叫ぼうとしていたらしく、くぐもった、言葉にならない声で何か口の中で叫んでいた。
 手を離して、イシュはクレヴァーの顔を睨みつける。
「こんなところでそんなこと怒鳴らないでくださいってば!」
「何かをいったこともわからないくせに、そんなことが言えるのかイシュー!」
「どうせゼイランドがどうのこうのって怒鳴るつもりだったんじゃないんですか!」
「それで、何が悪いというんだ!」
「悪いですよ!」
 小声で叫び合いながら、ちゃくちゃくと歩みを進めて行く。魔族が叫ぶ二人をちらりと見て、すぐに無視する。まさか、アンコータブルに人間がきているなどと、思いもしないのだ。
 丁度、城門前にやってくると、イシュが表情を一変させた。イシュはアンコータブル城の姿を聞いたことがあった。ユソラが一度だけこぼすように呟いていたのだ。
『あの牙城……あじっけのない城の、何が偉いのか、俺にはわからないがな』
 牙城、あじっけのない城。まさにその通りだ。灰色の門、続く暗い道。土の床、門番……。
 ドラゴンの眼が一度動いたように思える。
 門番が護る城の門を一歩踏み越えれば、空気は一気に冷える。
 知らず、イシュもクレヴァーも無口になり、魔族の列に加わっていた。

 長い、長い階段が続いていた。
 広い階段の幅は、リズムを取って下りるのには少しだけ窮屈だ。階段の横は、ガラスが張られ、下の階と隔離されている。ドラゴンの骨で作られたような窓枠は、無骨で不気味だ。
 そもそも魔族というのは、ドラゴンの本性を持つと言われている。さらにドラゴンの他に、各々のもう一つの姿を持つ。ユソラは大樹の魔族で、大樹の姿とドラゴンの姿を隠し持っているということになる。だが、全てを見せることは、魔族にとって一番の恥辱になることだった。
 イシュはドラゴンの骨をそっとなでた。この骨も元は魔族であったに違いなく、同族の躯の中で暮らすということは、魔族にとって酷く矛盾しているように思えた。
『魔族の掟ってなんだと思う?』
 本当に幼い頃、イシュはレイディナに訊いたことがある。レイディナは迷わず、二つの掟を教えてくれた。
『仲間を手にかけるべからず、主の命令に逆らうべからず。それがどうかしたのか、イシュー』
 小首を傾げ、レイディナは問う。イシュは首を横に振った。
 ――あの頃、自分は何を考えてそんなことを思ったのだろう。
 イシュは目を閉じて大きく嘆息する。
 唐突に魔族たちが騒ぎ始めた。イシュは即座に目を開け、辺りを見回す。魔族たちはこぞって下階が見下ろせる窓にへばりついて、歓声を上げている。
 クレヴァーがイシュの隣にきて下階をみやった。
「……何が、あるんだ? イシュー」
 イシュは黙って首を横に振った。クレヴァーと並んで下階を見下ろし、口を硬く閉じる。――何が、あるんだ。
「こんなこと、俺は信じない。きっと、夢を……」
 イシュは窓ガラスに手を押し付け、歯を食いしばった。魔族たちに連れられ、レイディナが歩いてくる。何を恐れるわけでもない、平然としてぼんやりと、集まってきている魔族たちを眺める。
「夢を……」
 イシュは口を開き、呆然と言葉を発する。
「夢ではない、夢ではないから、私たちは助けにきたんだろう?」
 イシュはクレヴァーを見やり、唾を飲み込んでうなずいた。
 ――そうだ、現実なのだ。
 今、自分がここにいるということも、レディ――レイディナが姉であるということも、自分が姉であるレイディナを好いているということも。
 イシュはガラスを叩き、とっさに駆け出した。完全に止まった魔族たちの間を、無理やりにかきわけて進む。魔族たちは迷惑そうにイシュを見やり、徐々に騒ぎが起こって行く。
 クレヴァーはイシュの後ろを必死になって追い駆けた。
「イシュー! 待ってくれ!」
 イシュはふりかえらなければ、返事もしない。
 下階ではレイディナが顔を上げて、騒ぎを見上げていた。相変わらずのぼんやりとした顔で、薄らと笑いを浮かべて。
「どけよ! 用事があるんだ!」
 イシュの叫び声が下階にまで響いてくる。だがイシュのいる場所はまだ遥かに上階だった。
 魔族総領であるカンは、レイディナが前に立つ断頭台の前に立っていた。赤い髪と赤い目を持ち、角のある顔をしている。
「何事だ」
 カンは重々しい声で言う。
 側に控えていた魔族は「はっ」と声を硬くする。
「イシューと呼ばれる男が、列を乱しておりまして……」
「イシュー?」
 カンは眉を顰め、問い直す。
「イシュー、だと呼ばれているのか」
「はい。用事があるのだと喚き……今、数名の兵士が騒ぎの鎮圧に向かっております」
「そうか」
 カンは答え、騒ぎの中心である上階を見上げた。
「ユソラはどこにいる?」
「ユソラさまは、まったくお見受けしておりませんが……」
「ユソラにイシューを捕まえろと伝えろ。お前の不始末だと」
「はっ……」
 控えていた魔族は頭を垂れ、さっと場から走り去った。カンは上階を見上げたまま、嘲るように口の端を上げた。短く息を吐き出して失笑する。
「イシュー・フェンガラスよ。お前の一族は、神族を助けられぬ運命にあるのだよ。たとえお前が魔族であろうとも、物事には優先順位というものが存在する。私は掟よりも、魔族の、未来での存在を守らなければならなくてね」
 つまりは、とカンは鼻で笑った。
「神族とつながり得るもの全てが、敵となるのだよイシュー……我が同胞よ」

「そんなことっ! とっくの昔にわかってたことだろ!」
 イシュは胸の内から聞こえるカンの声に、怒鳴り声で応えた。カンに聞こえているのかは定かではない。
「俺は、それでも俺は!」
 魔族の一人を突き飛ばし、イシュは必死になって叫ぶ。誰よりも大きく、カンにも、レイディナにも聞こえるようにと。
「イシュ・フィングラスなんだ! イシュー・フェンガラスなんだ! リール・リュードに連なり、クルス・リュードと共にある!」
 イシュの体の周りの空気が騒いだ。騒ぎの鎮圧にきた魔族の兵士たちが突風にあおられて立ち止まる。目の前に手をかざし、目を細めてイシュを覗く。
 クレヴァーは目を大きく広げ口は閉じて、唖然として立ち止まった。――目の前で、真実の一つが舌を出して嘲笑う。まるで大事にしていた宝石が一つ、零れ落ちて転がっていくように。
 イシュの体が不意に崩れて、服の端から空気に溶けいく。ふわりと浮き上がると、完全に空気に溶け込んでしまった。
 刹那、ガラスが下階のある内側へと砕け散る。ガラスの破片の中に、再び鉄色の髪が現れ始め、風になびいて、ガラスの破片と共に明かりに反射する。
 イシュの人としての姿が、再び顕わになる。ガラスの雨粒を纏う、幻想的な姿だった。
 イシュはクレヴァーを一瞥した。微かに口に笑いを浮かべ、ゆっくりと息を吸い込む。
 今より前に確認しなければならなかったのだと、イシュは今更になって思う。自らの血の中に魔族の血があるということを確認しなくとも、自分の血から逃れることなどできなかったに違いない。
 イシュの身体がゆっくりと下へと落ちて行く。下から湧き上がるような重力に逆らって、イシュの身体は徐々にスピードを上げる。
 常人なら死んでしまって当然の高さだ。だが、イシュは落ち着いていた。
「俺は!」
 イシュは身体を丸めて地面を睨み付ける。イシュの落下点付近にいた魔族たちは、蜘蛛の子を散らすように走って行く。
 カンが怒鳴り声を上げた。イシュを睨み付け、手を振りかざす。
「レイディナ・フェンガラスを今すぐ処刑しろ!」
 刹那、カンの手の平から巨大な火の玉が溢れ出してはじけた。イシュの身体を包み込み、上階のガラスを炎の色で包み込む。
 イシュは身体を丸めて、空中で留まった。服がちりちりと焼け焦げ、身体を動かすまでに時間がかかってしまった。
 カンはレイディナに歩み寄ると、髪の毛を鷲掴みにして断頭台に押し付けた。レイディナは少しばかり顔をゆがめたが、悲鳴一つあげない。
 カンは片手を振り上げ、控えていた兵士の斧を奪い取る。
 イシュは鋭く息を吸い込んだ。上階から駆け下りてくるクレヴァーは知らないだろう、上階のガラスは黒く焼け、魔族でさえほとんど今の状況を知らない。
 全力で落下しながら、イシュは叫んだ。――悲鳴のごとき、怒鳴り声で。
「俺は魔族なんだ! だから死なないでくれよレディっ――レイディナ姉さんっ!」
 レイディナが微かに顔を上げて、微笑んだかのように見えた。カンは容赦なく断頭台の刃を支える紐を斬る。片手は今だレイディナの髪をつかんだままで、レイディナが身動きできないことは、頭の悪いイシュでも考えないで判る。
 ――それでも、逃げて欲しい。
 後でどんな悪夢を見ようが、奇跡が起きて欲しい。レイディナがカンの手を逃れ、断頭台から逃げ出してくれるなら、自分が代わりに死んだって構うものか。
 ゴン。
 太く鈍い音が響く。
 自分の悲鳴で聞こえるはずがないのに、妙に耳の奥に響く。
 ゴロ、ゴロ、ゴロ……。
 レイディナの顔だけが、くぼみに転がって、天井を見上げた。頭があるはずだった場所から血があふれて、髪をつかんでいたカンの顔を汚している。
 イシュは片手を差し出して、ゆっくりと地面に着地する。
 この世の絶望全てが肩にのしかかってきているような感覚さえ、覚えた。不思議と涙は流れなかった。おそらく涙も絶望してしまったのだ。
「レイディナ……姉さん……」
 イシュはうつむいて、目を閉じる。
「魔族の禁忌を覚えているか、イシュ」
 イシュは弾けるように顔を上げた。――ユソラの声だ。姿が見えなくとも、はっきりと覚えている。
「知ってる、レイディナに、教えてもらったから」
「『レイディナ』か……」
 ユソラの声が嫌に掠れて聞こえる。
 イシュは不意に思いついたようにレイディナの頭を見やった。白銀だった長髪はすでに形なく、ユソラの黒金色の短い髪へと変わってる。――完全に、ユソラの顔だった。
 ユソラはうつろな瞳で上階を見上げ、最後の力を振り絞って叫んだ。再生可能なユソラでさえ、頭を切り離されれば、長く持ちはしないのだ。
 どんなに強い魔族であろうとも、絶望も死も、平等にやってくる。自らの願いも平等に持つ。
「私は神族ではない! ユソラだ! 私を殺し、禁忌を犯した我が父、カンを殺せ!」
 叫び、ユソラは短く鼻で笑った。笑った顔のまま、微動もしなくなる。
 死んだのだ。
 イシュはユソラの顔を見つめ、唇を噛んだ。口の中に血の味が広がって、もしかしたらこれがユソラの血の味ではないのかと錯覚する。――魔族も人間も神族も、全て同じ人なのだから、同じ色の血が流れているのだから。
「……ユソラ」
 目を閉じ、イシュは呟く。
「お前さ、」
 顔を上げた。一番の下階に魔族が流れこんでくる。イシュは目に見えて混乱している魔族たちを一瞥し、動かないユソラを見下ろした。
「レイディナが、好きだったんだろ?」
 イシュはそっとクルス・リュードの柄をつかんだ。心臓があるかのごとくクルス・リュードは生暖かく、握ると自らの心臓と同調した振動が伝わってくる。
「レイディナは俺が護ってやるから……なぁ、ユソラ……」
 イシュに誰かの攻撃が掠って行く。服が裂け、血が流れてもイシュは立ち尽くしたまま、混乱の中、襲いくる魔族に応戦するカンを見つめていた。――顔色一つ変えず、手向かう魔族を赤い軌跡となって切り捨てる魔族の総領たる人間を。
「死なないでくれよ……もう、誰も殺さないでくれよ……なぁ、統領!」
 不意に、クルス・リュードが動いた。鞘から柄が少しだけ離れる。
 透明な雫がイシュの頬を伝って、アンコータブルの床に落ちた。

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