>> 四章 黒き風と落ちる雨 <<




   ガシャン、と大きなテーブルに載った食器が小さく跳ねる。
「クレフトっ! それ俺のじゃねぇかよ!」
 イシュとクレヴァーがレイゼランズについて次の日の朝である。
「俺これ大好きでさー、悪いな、イシュ」
 言うと赤茶色の髪の青年――クレフトはフォークの先に差したウィンナーを口の中に入れ、一気に噛み砕いて飲み込んだ。イシュは奥歯を噛み締め拳を握りながら、クレフトの顔を睨みつける。クレフトは飲み込むと、片目を閉じて悪戯に笑って見せる。
「返せよ!」
「悪いな、すでに腹ん中だぜ」
「どうにかして返せよっ!」
 クレヴァーはイシュの横に座りながら苦々しい顔でイシュから目線を離す。確か昨日の夜も同じようなやりとりを二人はやっていた。
「イシュー、」
「クレヴァーさん、甘やかしちゃダメ、です」
 クレヴァーのさらに隣に座っている女性が、断固とした口調でクレヴァーの口を止める。蜜柑色とこげ茶色が混じったまだらな髪に、橙色と青が同位にあるような明るい目の色の女性、ライジー・グリーンだ。朝取ってきたばかりの卵で焼いた目玉焼きをパンに乗せようと、器用にフォークを動かしながら、楽しそうに笑みを浮かべている。
「今に決着つきますって、関わってたら馬鹿になるんだよなぁ」
 クレヴァーはライジーの顔を見ながら短く嘆息する。――たしか、昨日の夜も同じようなことを言われたような気がする。
 唐突にレディが立ちあがり、叫んだ。
「大人げがない!」
 いっきに二人が静まる。レイゼランズに住んでいる子供たちが「レディ姉さんの言う通りだ!」と、声をあげ始め、二人はおずおずと席につく。
((……レディにだきゃ絶対にかなわねぇ……))
 二人とも半眼になって相手の顔を見やり、苦笑を浮べる。
「「悪いな」」
 二人同時に言い、手の平を打ち合わせた。乾いた音が響き、まだ二人同時に「「あぁあ」」と。
「二年前とかわんねぇよ……」
「『一日が始まった』って気がするのが嫌だ」
「だな、俺も不本意」
 言うとイシュはけらけらと笑った。クレフトはイシュの肩を叩くと、食事に戻る。
 イシュも食事に戻りながら、クレヴァーを横目で見やる。クレヴァーの横でライジーがパンを片手に「こうするんだ」とか、「手つきが危うい」とかと言いながら、結局ライジー特性の目玉焼きパンをクレヴァーに作っている。
(……俺は別にいいけど)
 焼きたてのパンをかじりながら、イシュは胸中で嘆息する。
(……ヘイウスさん見たら何て言うかな……)
 きっとクレヴァーは「気にすることじゃない」と言うに違いないが、後で怒られるのはイシュだ。なんていったってヘイウスはイシュを窃盗犯にしたてあげてまで、クレヴァーから離させようとしたのだから。
「イシュー」
 と、目の前に座るレディが唐突に声をかける。イシュは弾かれるように顔を上げ、レディの顔を見やった。レディは不思議そうに首をかしげる。
「具合?」
「俺は元気だぜ?」
「食べない」
「あ……ぁ。今食うって、気にすんな」
 言い、イシュはパンをさらにかじって飲み込む。
(考えるのも面倒くさくなってきたんだよなぁ……)
 様々なことが無秩序に頭に散らかって、整理がつかない。すでにイシュの整理要領を超えている。
 最初に席を立ったのはオリヴァーだった。食器を重ね、両手に持つと、向かい側に座っていたクレヴァーに微笑みを向ける。
「クレヴァーさん、イシュを連れて地下室まで来ていただけますか?」
「地下室、ですか?」
「えぇ……レディ、あなたなら場所がわかるわね?」
 レディは唐突に言われ「分かる」と短く答える。
 続いてオリヴァーは食事中のクレフトとライジー、横に座るノティリアを順に見た。
「来たい人は来てね。大事な話をするから」
 唐突にノティリアが食器を取り落とし、机に皿をぶつけた。ガン、と。割れはしなかったが、盛大ともいえる音を立てる。
 オリヴァーはノティリアを見やると、微笑を湛えたまま食堂を後にする。
 イシュはオリヴァーの背中を眺め、もう一口パンをかじる。
(何も信じたくないよ、オリヴァーさん)
 冷めたパンの乾いた感触が喉を通り過ぎて行く。
 クレフトは横目でイシュの顔を見やる。
「お前、大丈夫か?」
 イシュはクレフトの声を耳の端に聞き取ると「何が?」と至極不思議そうにクレフトを見やる。
 クレフトは短く息を吐き出して笑うと、頭を振った。
「なんでもない、馬鹿は風邪なんか惹かないもんな」
「……お前、口悪くなったな」
「うるせぇよ、とっとと食いやがれ」
 クレフトは立ちあがり、不意にクレヴァーの背後で立ち止まった。
「クレヴァーさん、あとで話がある。オリヴァーさんの話が終わってからでも、たぶん大丈夫だから」
 クレヴァーはすぐクレフトにふりかえると、訝って片方の眉をあげる。クレフトはクレヴァーを見もせず、食堂を先に出て行く。
(たぶん?)
 ――何か、視線が痛い。クレフトのクレヴァーにむけられた目線はあきらかに、侮蔑をこめたものだ。
 だが、クレヴァーの思考は、すぐ横に座っていたイシュの非難の声によって掻き消される。――必然であったように。
「おいクレフト! 俺のに食器重ねてくなよな!」
 イシュの顔には、一片の曇りもなかった。


×      ×      ×

 地下室へと向かう道の先頭を歩くのはレディだ。白く光る銀色の髪を揺らし、鉄の階段をイシュに掴まりながら一歩一歩確実に降りて行く。
 レディは無表情だ。怒った顔というものを、イシュはほとんど見たことがない。すぐ後ろを歩くクレヴァーにとっては、少しばかり不気味なものに見える。
 カン、という音が数人の歩くリズムに合わせて閑散とした階段に響いていく。階段の道は暗く、音さえも吸い込んでいくようだ。
 ――不気味だな、とクレヴァーは虚空を見上げ思う。まるで故意に閉じられていたように、地下室へ続く階段は埃臭く、鉄の壁のいたる場所に赤錆が生じていた。
 少しして辿り着いた場所に、オリヴァーが灯かりも点けずに立っていた。イシュが持つ蝋燭の光に照らされて浮かんだオリヴァーの顔に、一片の笑みも見られない。
「オリヴァーさん、来たぜ。結局皆一緒だったけどさ」
 イシュが声をかけると、オリヴァーはゆっくりとイシュのいる方を見やり、力なく眉間にしわを寄せて笑って見せた。続けてレディを見やり、レディの小さな頭にそっと手を乗せ、綺麗な白銀の髪をなでる。レディはじっとオリヴァーを見つめている。
 オリヴァーは徐に歩き出すと、近くの壁にあった切り替え式のスイッチを押す。――パチン、と切り替えられた音が闇に吸い込まれると同時に、辿り着いた部屋が一気に明るくなった。
 ――人工の灯かりだ。
 イシュは半ば茫然として部屋の中を見渡し、天井についた四角い電燈を見上げ、ゆっくりと目線を下ろす。
 カプセルがあった。微かに匂う海の匂いに似合ったように、マリンブルーの色をした卵型の鉄の塊がある。鉄の部品を組み立てて作られたであろうカプセルの大きさは、五歳の子供が入るのがやっとであるというのほどの大きさだ。重量はかなりのものであろう。
 イシュは口を閉じてカプセルを凝視したまま、何も言わなかった。言えなかったのだ。
 今まで一度も見ることがなかった、レイゼランズでの文明を見せつけられた。部屋の中にはカプセルのほかに様々なものが散乱していた。だが、カプセルの周りだけは綺麗に掃除がしてある。
 イシュを通り越してライジーとノティリアが部屋の奥へと入る。レディはイシュの背中を押し、部屋の中へと押し入れた。クレフトは部屋の中がかろうじて見える場所から動かず、クレヴァーはカプセルへ歩み寄る。
 オリヴァーは静かにイシュの顔を見据え、口を開いた。
「イシュ、あなたの名前の綴りの、本当の読み方を言いなさい」
「イシュ・フィングラスです」
 イシュは至極小さい声で答える。オリヴァーは首を横に振る。
「あなたも分かっているはずですよ。私が嘘をついていたことを」
「オリヴァーさんは嘘なんかつかない!」
 イシュは悲鳴のごとく叫んだ。声が反響して、やはり虚しく消え去る。
 オリヴァーは目を細めイシュの顔を見据えた。
「イシュ、私が嘘をつかないという確信と証拠がありますか? 私は今まで何度でも嘘をついてきたでしょう?」
「オリヴァーさんは、嘘なんてつかない……俺はずっと信じてるんだ」
「あなたがそうして頑なになっていることが、あなた自身が認めているということです」
 オリヴァーは言いきり、イシュを一瞥すると、カプセルの前にしゃがんでいるクレヴァーへと歩み寄る。イシュは目を閉じ、俯く。横にいるレディが心配そうにイシュの顔を覗き見る。
 クレヴァーはカプセルの下部の、埃に埋もれていた場所を指で擦る。彫り込まれた文字が浮き出るように表れる。
「ゼイランド……これは、ゼイランド王城から失われたものですね」
「えぇ、おそらく。このカプセルにはゼイランドではなくては作れないような仕組みがたくさんありました。中に入っていたのは、イシュ……いえ、イシュー王子と宝剣クルス・リュード」
 断言し、オリヴァーはイシュへとふりかえる。聞いていた人間の中でライジーだけが絶句し、同じくイシュを見やる。
 イシュは視線が集まる場所で立ち尽くしていた。半ば力の入らない手で、背中に括り付けていた黒い剣の飾り――クルス・リュードを取り外し、腕を垂れる。
「……なんだよ、知らないの、俺だけだったのかよ」
 イシュは至極小さい声で言う。オリヴァーは瞬きをし、首を横に振る。
「いいえ、イシュ。レディとノティリア以外は知らないはずです」
「だったら、なんで皆笑ってくれないんだっ!」
 イシュは顔を上げ、オリヴァーの顔を睨んだ。レディはイシュの肩に手を置き、イシュの顔を真直ぐに見上げる。
「笑えない」
 イシュは口を閉じる。
 オリヴァーはクレヴァーを見やり、「少しいいでしょうか」と、クレヴァーのいた場所に立った。
 オリヴァーは何も言わず、カプセルの上部の取っ掛かりを引いて、コンピュータのボタンの集合を引き出し、数字の一、二、三を押した。
 刹那、部屋の中に大きな唸り声が聞こえ、人工の灯かりが一瞬にして消え、代わりにカプセルの上部に立体映像が現れた。
 ――鉄色の髪を持つ、女性だった。顔立ちは綺麗で、笑った顔が悲しみを帯びていて危うい。目だけは真直ぐにいる人々を見据えて強い光を放っている。彼女は口を開けると、はっきりとした口調で言い放つ。
「私はカレント・フェンガラス。ゼイランド王妃です」
 全員が黙り込んだ。クレヴァーは目を開き、立体映像を見上げていた。――実の母の顔は初めて見る。一歳にも満たなかったクレヴァーを城に置き、イシューと共に旅行に出かけ、旅行先で魔族に襲われ、命を落とした母親。
「母上……?」「母さんだって?」
「イシュー、あなたの母親です。そしているはずでしょう、クレヴァー。あなたの母親でもあります」
 立体映像には二人の顔は見えていないようである。――カレントはすでに死んでいる、ゼイランドの文明がどこまで進もうとも死者の魂を閉じ込めるなどということはできるはずがない。
 カレントは続けた。
「イシュー、育ての母親を恨むのはよしなさい。嘘をつかせたのは私です、時が来るまでは、ゼイランドの王族であるということは隠しておかねばなりませんでいた。クレヴァー、あなたは私を恨んでいるでしょうね」
 言い、カレントはうっすらと目を細める。偶然にも、目線の先には立ち尽くすクレヴァーの姿あった。
「あなたはゼイランド国王にならねばならない人間です、危険だと分かっている場所に、あなたを連れては行けなかった」
(どうして、)
 クレヴァーは答えるはずもない立体映像へ向かって怒鳴りつける。
(こんな義務で! こんな理由で! こんな言葉で!)
「私を独り残さなくてもよかったはずだ!」
「髪の色が違う二人の男の子が産まれて、私とルーゼントはあることを決めました」
 立体映像であるカレントは続ける。クレヴァーは奥歯を噛み締め、カレントを睨み付けているかのごとく見上げている。
「兄である男の子にゼイランドの未来を、弟である男の子に、ある少女の運命を託そう、と」
「少女?」
「少女の名前は、レイディナ・フェンガラス。あなたたちの姉です」
 カレントはそこで言葉を区切った。
 全員が誰に言われたわけでもなく、自然とレディの顔を見やる。レディはカレントの顔を見上げ、無表情のまま誰の顔も見ない。
 カレントは少ししてから、再び口を開いた。
「誰かは分かっているかもしれません。共にいるのなら、私はレディ・マーニャと名乗らせるようにと頼みましたから。彼女は私と同じくシャイサーマスターです。自然を統べる。悪魔との混血が魔族なら、シャイサーマスターである私は神族です。天使との混血児、唯一の生き残り」
 イシュは茫然として、地面に両膝をつく。これが嘘だといえるほど、自分は何かを知っているわけではない。それどころか酷く現実じみて聞こえる。
(いったい……俺は、何をしてたっていうんだ……?)
 ――馬鹿みたいじゃないか、レディを護ってやりたいと思ったことが、まるで運命に引きずられて、おのずとなったことのように。戦うことが、運命であるかのようで。――何かが足りないんだ。きっと自分で選んだものが少な過ぎるから。
 カレントはイシュを無視して続ける。
「神族は魔族にとっては脅威です。神族が栄えたのなら、魔族は急激に衰退します。故に、魔族は私とレイディナを排除すべく翻弄しています。あなたたちがこれを見ている時点で、私は死んでいるでしょう。レイディナを頼みます、イシュー。そのための宝剣なのですから」
「そんなの勝手だ! 俺は何も出来ない!」
「宝剣クルス・リュードは長年誰の手にも渡らなかったものです。皆使えずに、宝庫の奥に保管されていた。あなたなら、あるいは使えるかもしれません」
 カレントの姿にノイズが走る。
 イシュはクルス・リュードを背中に戻すと、立ちあがり、叫んだ。
「俺は使えない! 何もできないんだ!」
 カレントはノイズの入った姿で笑みを湛えた。姿はまるで天使のように綺麗だ。イシュには、まるで悪魔の笑みのようにさえ見える。
「クレヴァー、ゼイランドを頼みます。ルーゼントはあれで意外と淋しがりやですから、仲良くしてやってくださいね。レイディナに会ったら、姉であることを認めてあげてください、レイディナはあなたのことが大好きですから」
 言うと、カレントの姿に大きなノイズが走り、ただの光に変わって消えた。クレヴァーは「はい」と誰もいない場所へむかって返事する。――気休めだった。
 イシュはカレントが消えた場所を一瞥すると、素早く踵を返した。部屋から飛び出し、盛大な音を立てて鉄の階段を登って行く。
 クレフトは壁によりかかり、イシュの背中を眺めてから、クレヴァーを見やる。クレヴァーはイシュを追って走りださんとしているところで、自然とクレフトと目が合う。
 クレフトは少しばかり顔を歪め、言い放つ。
「知らないほうが良かったって思わないか?」
 クレヴァーはなにも答えられなかった。頭をふると、イシュの背中を追って地下室を飛び出して行った。
 クレヴァー自身、逃げ出したかったのだ。何も知らない、何も知らずに生きてきた自分が、恥かしい。姉がいたこと、母親が自分にゼイランドを託し、イシューに姉を託して死んだことを。母親は、死ぬと分かっていてイシューを連れていったこと。
 何かの願いが託されていたとしても、独りになりたくはなかった。同じくイシューを独りにしてはいけないと、思う。
 クレヴァーは階段を駆け上がった先にある荒野の姿と、ぼんやりと光る太陽の光を浴び目を細めた。

 レディ――レイディナ・フェンガラスは、カレントのいた場所を眺め、短く嘆息する。
「オリヴァーさん、レイディナに戻る?」
 オリヴァーは微弱に笑いを湛えると、レイディナを見やる。
「あなたの好きにしていいんですよ。私との約束の期限は切れてしまったもの」
「はい……でも、」
 レイディナは口を汚し、部屋の中にいる全員をみやる。ライジーもノティリアも薄く笑みを浮かべてレイディナを見ていた。クレフトは目を伏せ、そっぽを向いている。
 レイディナ目を伏せ、虚空を見下ろした。
「ごめんなさい」
 レイディナの声が酷く小さく力ない。ノティリアはレイディナに近づくと、そっとレイディナの頭をなで、抱いた。
「もう、謝らなくて良いから。隠し事もなしでいいの、レイディナ」
 ノティリアの目から、黒い色のついた涙が流れる。――彼女も言いたくても言えないことを抱えて、何年も涙を堪えてきたのかもしれない。
 レイディナはノティリアの腕を掴むと頷いた。
「ユソラに会いたい」
 言うと、レイディナはノティリアの腕の中で嗚咽を漏らした。――ずっと、レイディナに戻りたいと願ってきた。戻って、大好きな人に自分の本当の名前を呼んでほしい。そのときはきっと、自分が死んでしまうときであるのだけれど。
「ユソラ……」
 呼ばずにはいられなかった。父親からの使命と魔族の掟の中で揺れている、優しく、弱い彼の名前を。レイディナの実の弟と対立し、ぶつかり合う運命にある、魔族の総領の息子。

 ――青い、空は青かったはず。
 イシュは走りついたゴミ捨て場の一角で、自然に立った鉄の棒を背中にして、ただ一心に海を眺めていた。海の色は薄黒く、見える空も薄黒く赤い。
 今は使われていないゴミ捨て場にあるのは、全て鉄の粗大ゴミだ。昔使われたという古めかしい戦車の上に鉄筋が突き刺さり、どこからか運ばれてきた箱型の車が、逆さになって無造作に置かれている。
 高く積み上げられたゴミ捨て場の風景とその場所は、イシュにとっては親友とも呼べる場所だ。吹き上げる風はこの場所だけは何故か清々しく、広大な海を見渡せる。陽光が妙に暖かく感じられ、どうしてか砂塵はやってこない。
 イシュはこの場所をレイゼランズの人々全員に教えている。だが、いつもいるのはレディ――レイディナかオリヴァーか、極たまにクレフトが座っていた。
 レイディナは、思いをはせていたのかもしれない。自らの故郷のゼイランドが海の向こう側にあると。オリヴァーはカレントと約束したことの重圧に耐えかねてきていたのかもしれない。クレフトは、どうしてだか予想はつかない。もしくは彼も、何かを知っていたのかもしれない。
 イシュがゴミ捨て場の一角にあるこの場所にやってくるときは、理由がなかった。ただ風に当たりたいと思うか、暇であるかだ。独りになりたくてくるのは初めてだった。
 片方の足を立て、膝に腕を乗せてさらに顔を上にかさねる。処理要領を超えた物事が目を刺激して涙を流させている。その受け皿にする。
 カン、と音がして誰かが近づいてくる気配がある。イシュはふりむかない。ふりむいて笑う自信がない。
「イシュー」
 イシュは声をかみ殺した。同じ顔をしている青年の声を聞いた途端に、胸から何かがあふれ出てきそうだった。
 クレヴァーはゆっくりと歩き、イシュの近くに腰を下ろす。イシュの顔を見ないように背中を向けて、荒野の方向を見る。荒野は荒々しく、寂しい。
 イシュは何も言えなかった。言葉を出せば泣き言になるか恨み声になるような気がしていた。何も考えられない。
 クレヴァーは目を細め、虚空を眺めた。眼前にまだ、カレントの顔があるような気がする。――思えば、偽名を『カレント・フェンガラス』と言ったときも、父親に対する嫌味と、実の母親への慕情であった。
「私は何も知らない、姉がいることさえ、知らなかった」
「それでもっ!」
 イシュは虚勢を張って叫ぶ。
「俺よりは知ってた! 知らないなんて言わないでくれよ!」
「私が知っているなんて、お前が分かることなのか?」
 クレヴァーは攻めるような口調だ。イシュは奥歯を噛み締め、涙を強く拭く。
「知るわけなんかねぇよ! 俺はどうせ何もわかりゃしねぇよ!」
「だったら! どうして泣くんだ!」
 クレヴァーは言うと、ふりかえってイシュの襟首をつかみ引き寄せる。イシュは眼前にあるクレヴァーの睨みつけた目を、負けじと睨み返す。
「私が今までどんな思いをして王子であれとしてきたか、分かりもしないくせに!」
「知るわけなんかないだろ! 俺はずっと、自分がただの捨て子で、元々生きる資格もなかったんだって思うしかなかったんだから!」
「それは勝手な思い込みだイシュー!」
「お前だって一緒だろ! 誰が王子らしくなれっつったんだよっ! だいたい王子ってなんだよ、いい王子だっていわれてれば王子かよ! そんなこと微塵も思ってねぇくせに!」
 言い、イシュはクレヴァーの襟首を掴んで睨みつける。クレヴァーは奥歯を噛み、唸るように顔を歪める。
「思ってなんかない」
 クレヴァーは酷く低い声で答える。頭に血が上っているにもかかわらず、冷静にさえ聞える口調だ。
「思えるはずがない。私はいい王子ではなかった、いつも迷惑ばかりかける王子だった。それなのに、人は口々に王子だとはやし立てる。王子たれとしていなければいけないのだと暗喩していると思えただけなんだ、イシュー」
 クレヴァーはゆっくりと手を開くと、目線を落とした。イシュはクレヴァーに飲み込まれるように、口を閉じ、クレヴァーを見はる。――自分では抱えきれないような悩みを、この青年はずっと抱えてきたのかもしれない。
「嘘をついてきた。ずっと望まれるような王子であると……だから、私は本当に良い王子でなければ償いができないと思った。母上が……母さんが、私にゼイランドを託すと言ったから、やはり嘘をつき続けなければいけない」
 イシュは口を閉ざした。――クレヴァーはずっと悲鳴を上げ続けてきたのだろう。二つの罪悪感に挟まれて、身動きができなくなってしまったに違いない。
 イシュはしばらく沈黙したのち、ゆっくりと口を開く。すでに先ほどのことなど、忘れてしまった。
「俺さ、」
 イシュが口を閉じ、二人は弾かれるように同時に辺りをを見渡した。鉄のゴミの山を上って、誰かが走ってくる音が響いたからだ。
「イシュっ!」
 まだら髪のライジーだ。大きな服を揺らし、必死の形相でイシュを見る。
「レディが――レイディナがっ!」
 イシュはとっさに立ちあがると、ライジーの横を駆け抜けて走った。クレヴァーはイシュの背中を眺め、短く息を吐き出して笑って見せる。ライジーはクレヴァーの顔を申し訳なさそうに見ると、苦笑を浮べた。
「レイゼランズで一番強いのあいつなんだ。ごめん」
 クレヴァーはうっすらと笑みを浮かべると、立ちあがってライジーに一礼をする。先ほどまで頭に血が上っていたことを少しも知らせない顔だ。
「……魔族が?」
 ライジーは大きく頷く。
 クレヴァーはイシュの背中を眺めた。――魔族に、自分が出来ることはない。セレダランスにきた魔族で、充分痛感した。
 イシュは、あの力に立ち向かわなくてはいけないのだ。それに比べたら、自分のやるべきことは、塵ほどに小さいのではないかと思える。
 だが、どうだろう。
 二人が出会ったという運命は、一つのことを、独りだけで背負うのではないと語っているのではないだろうか。
 クレヴァーは不安定に積み重なったゴミの山を蹴った。風はだんだんと砂塵が交じり、吸う空気が淀んできているような気がした。


×     ×     ×

 その頃はまだ、空は青く、ゴミ捨て場にやってくる人間もいた。
 十二年前のことだ。
「いいですか? あなたの名前はレディ・マーニャ。今日からここで暮らすんですよ」
 オリヴァー・イジッカ、年はまだ三十二歳であった。レイゼランズに住み、そのときすでに、行く場所のない子供たちを女手一つで育てていた。
 レディ・マーニャは、一〇歳。物事の良し悪しを区別できる年頃である。
「どうしてですか?」
 レディは純粋な青い目でオリヴァーを見上げていた。
「あなたのためですよ」
 レディは黙って頷く。
 ガタン、と物音が聞こえ、二人は物陰に眼をやった。
 左右の眼の色が違う少女が、物陰に隠れて二人を凝視していた。
 ノティリア・グルティア、十一歳。年齢よりも優れた頭脳と身体能力を持つ少女だ。
 オリヴァーは目を細め、ノティリアに近づくと頭を撫でる。
「……このことは決して他人に言ってはいけませんよ」
 ノティリアは力強く頷く。
 オリヴァーは微笑んだ。
 外で二人の少年と少女が笑いながら鬼ごっこをしていた。
 少年の一人はイシュ・フィングラス、五歳。
 もう一人の少年はクレフト・ユレリラ、同じく五歳。
 少女はライジー・グリーン、六歳。
 誰も、親のいない子供たちだった。
「ねぇ、オリヴァーさん。ユソラにまた会える?」
 純粋に問うレイディナに、オリヴァーは目を細めて微笑むことしかできなかった。


×     ×     ×

 レディ・マーニャはいつのまにかいた、とイシュは覚えている。いつからいたかなどイシュは覚えるつもりはなかった。必要もない。一緒に遊んで、一緒に育って、大切な人だと思った。それだけで充分だった。特別な関係である必要もない。ただ、一緒にいて、護っていられるのなら満足だった。姉である必要はなかった。
 イシュは一心に走りながら、背中に括りつけたままのクルス・リュードを触った。クルス・リュードはいつも傍にある。初めて出会ったバンクで触ったときの、生暖かい感触が今もある。
 生きているようだ。だが、クルス・リュードはいつも動かない。
「くそっ!」
 走りながら毒づいた。荒野の風は酷く荒れて、頬にあたる砂が鋼鉄のごとく突き刺さる。
 イシュは上空を見上た。空は魔族が集まって見えない。――黒い、集団だった。これほどまでに魔族が群れをなしてきたのは初めてだ。中に、一人だけ女性の顔が見えた。
「レディ!」
 イシュはとっさに口を開き、叫んだ。姉であるとか、レイディナという名前であるとか、まったく頭の中にはない。ただ、大切だから奪われたくないという気持ちだけが心を焦燥感に包ませていた。
 レイディナは翼のある魔族数人に抱えられて、空に宙吊りにされている。荒荒しい風に白銀色の細い髪がなびき、黒い空に短く清い川を作っている。
 レイディナは無表情に、うっすらと笑みを浮かべた。
「大丈夫だ」
「何が大丈夫なんだよレディっ! お前、どうなるかっ!」
「レイディナだイシュー」
 イシュは口を閉じ、レイディナを見上げる。片手にクルス・リュードを握って、立ち尽くす。――はるか昔も、こんな風に誰かが消える場面を見ていた気がする。何もできず、立ち尽くし、消え行く大切なものを見送っていた。
(嫌だ……なんで、魔族なんかにっ!)
 イシュは唇を噛み、レイディナを睨みつける。レイディナをつかむ魔族たちはどうしてか動けず、顔を引きつらせて羽ばたいている。レイディナがまったく動かないのである。
 スト、と音がしてイシュの目の前に一人の青年が降り立った。――ユソラである。灰色の顔をゆがめ、イシュの顔を睨みつける。かと思うと、拳を思いきりイシュの頬にたたきつけた。
「これはどういうことだ、イシュ。……いや、イシュー王子」
 イシュは勢いで吹き飛ばされ、叩かれた頬を手の甲で抑えた。普通の身体なら、立てなくても不思議はない。だがイシュの身体は異常なほどに丈夫だった。ユソラがイシュを化け物という所以である。
 イシュは立ち直すと、ユソラを睨みかえす。
「俺は、王子なんかじゃない! 俺はイシュ・フィングラスだ!」
「……そうか」
 ユソラは冷静に呟き、短く嘆息する。
(この男は性根まで馬鹿者か……)
 ユソラは再び拳を握り、ゆっくりと腰を落とした。
「レイディナを助けたかったら俺を殺せ、イシュ」
 イシュは弾けるようにユソラの顔を見やった。ユソラの赤い目は、永遠にその場所を見つめていくのではないかと思えるほど、真直ぐにイシュの顔を見据えていた。
 イシュは口を閉じ、奥歯を噛む。――できるわけがない、ユソラは心臓が貫かれ、動かなくならない限り無限に回復する。だからと言ってレイディナを直接助けられるほどイシュは背が高いわけではない。脚力もない、空が飛べるわけでもなかった。
 ――何もできない。無力なんだ。
「貴様に、それができるか?」
 イシュは歯を食いしばった。剣に手をかけて、少しだけ足を後方にすらせる。短刀を心臓の前に突き立てられているような気がする。
 ユソラはイシュを見、刹那、目を閉じた。
(……すべて終わる。レディ・マーニャがレイディナに戻った瞬間に、俺の運命は決まっていた)
 イシュはゆっくりと、口を開いた。
「俺は、」
「お前はいつもそれだ、明確な答えをひとつたりとも持っていない」
 イシュは大きく首を横に振る。
「俺はっ! レディを助けたいんだ!」
 ユソラは口を弧の字に上げて、「そうか」と短く言葉を発する。
「なら、俺を殺してみろイシュ・フィングラス。これが、レイディナを助ける最後の機会だ」
 イシュは剣を握り、勢い良く抜いた。胸中で激しくかぶりをふる。――何かが強く、相手を殺せと叫んでいる気がする。殺して、助けろと。
(殺したくない……俺は、どうすりゃいいんだよ……)
「ダメだ! イシュー!」
 上空から、唐突に女の声が叫んだ。イシュは剣を持ったまま、呆然と声を聞いた。――レイディナの声だ。
 イシュが顔を上げたと同時、レイディナを抱えていた魔族たちが唐突に動き始めた。黒い流星のごとく、空をすばやく進んでいく。
 ユソラがふりかえり、短く舌打ちをする音が小さく風に流される。
「カンめ……とんだ邪魔を」
 毒づき、ユソラは横目でイシュをにらみつけた。軽蔑するような顔である。
「イシュ、貴様には誰も助けられない」
 イシュは愕然として剣を落とし、意味もなく肩を握った。飛び去っていく、レイディナを連れる魔族たちの背中を見守ったまま、足が全く動かないのである。
「ユソラ……もし、お前だったら……」
「お前と一緒にするな、俺は殺す。たとえそれがお前であっても、どこかの大切な人間であってもだ。……お前は必ず俺が殺すはずだった」
 ユソラは言うと、地面を強く蹴って魔族の群れへと入っていく。
 イシュは崩れ落ちると、上空を見上げ、悲鳴じみた叫び声をあげた。――そうでもしないと、このまま自分が崩壊してしまいそうな気がする。二度と自分では動けないほどに。
「俺は何もできない! 誰も助けられないんだ!」
 悲痛な叫び声は、レイゼランズの隅々まで響いていく。弓矢を持って上空へむけて矢を放っていたクレフトや、レイディナを守ろうとして傷を負ったノティリア、何もできず見守っていたオリヴァーたちはイシュを見やった。後から走ってきたクレヴァーたちは、半ば唖然として何もない上空を見上げる。――イシュが一心に空を見上げているのである。
「俺は! 強くなんかないんだ! だから、誰も俺に、何も期待しないでくれよ!」
 レイゼランズの空から、茶色い雨が降り始めた。雨はやがて土砂降りとなり、レイゼランズを騒音と泥水に覆わせる。
 イシュはずっと雨の中に座り込んでいた。
 誰も、声をかけられなかった。


×     ×     ×

 魔族の国、アンコータブルの首都は、国名と同じくアンコータブルである。人間に場所は知られていない。首都は広大で人口が異様なほどに多いが、周りが荒野で囲かこまれており、人間は途中で果てるはめになるのだ。魔族がやって来たり、猛獣が襲い掛かってきたり、水のない大地の上で飢え死にしたりする。
 故に、誰も追いかけられなかった。自分の肉親が魔族に連れられていけば、二度と会えない。人間の足でアンコータブルには行けない。  魔族に連れられたレイディナがやってきたのもやはりアンコータブルだ。アンコータブルの手前で地面に下ろされ、檻の中に押し込められる。四角い、人間たちが見世物のために猛獣をいれるような檻だ。魔族がするレイディナの扱いは、猛獣を扱っている人間に類似している。
 レイディナは檻の中で鉄格子をつかみ、横を歩くユソラの顔を見る。顔に笑みが浮かんでいるのは、決して怖さをかくしているわけではなく、純粋に嬉しいのである。
 反対にユソラはひどく浮かない顔をしていた。レイディナの顔は見ず、檻を運ぶ荷車の横を黙々と歩く。大通りの中で魔族たちが「お帰りなさいませユソラさま!」と。魔族たちの歓喜の声を聞いても何ら反応を示さなかった。レイディナに向かって子供たちが石を投げつける場面もあったが、ユソラは目を閉じた。
「……どうして逃げなかったんだ、レイディナ……」
 ユソラは独白じみた声で問う。レイディナは嬉々として笑い、首を横に振った。
「ユソラに会いたかった」
「俺は二度とお前に――レイディナには会いたくはなかった」
 言い、ユソラは目を細め、進む方向を眺める。――まさか、アンコータブルにレイディナとともにくることがあるとは思いもよらなかった。必ずイシュ・フィングラスという男が邪魔をしてくれるとばかり思っていたのである。特に、ゼイランドの宝剣クルス・リュードを背中に括り付けている姿を見て、少なからず確信できる希望があったはずなのだ。
 レイディナは少しだけ顔をうつむかせ、微かに笑った。
「ユソラは優しい」
 ユソラはゆっくりと顔を動かし、レイディナを見やる。レイディナの顔はまるで子どものようだったが、なぜか自分が保護者であるようには思わなかった。逆に、相手が保護者であるかのように思える。
 レイディナは繰り返した。
「ユソラは昔から優しい、変わらない」
「俺は変わった、レイディナ」
「変わらない」
 ユソラはゆっくりと歩く速さを緩める。――変わらないはずがない、変わっていなければいけない。断固として父親の要求を拒否できた昔が、作り物のように思えてくる。大人になったからだと割り切れていたものが、すべて虚に瓦解してしまいそうだ。
「……変わったんだ、レイディナ。もう、あの時ではないんだ」
「でも、ユソラはユソラだった。変わらない」
 レイディナは即答すると、顔に満面の笑みを湛える。身体に石があたって、頭からは血がでているし、砂塵に揉まれた顔は土に汚れている。レイディナの行きつく先は、死だ。それでもレイディナは笑っている。
 ユソラは知らず立ち止まり、呆然と前方を眺めた。後ろを歩いていた魔族が「ユソラさま?」と、至極不思議そうに首をかしげる。
「ユソラさま、いかがなさいましたか?」
「俺は、変わっただろう」
 後ろを歩いていた魔族は首を傾げ、「は?」と、声を発する。
 ユソラは首を振ると、再びゆっくりと歩き出した。足音は砂を踏む音でありながら、乾いた草を踏み砕くような音だ。――かさ、かさ、と。脳裏に響くように、絶えることなく耳に入りこんでくる。
「ばんざぁい! シャイサーマスターに死を!」
「我らの未来の統領、ユソラさまばんざぁい!」
 喧騒がますますひどくなっていく。ユソラは眼を閉じ、まっすぐに進んだ。――叫ぶな、俺の名前を呼ぶな。
 その声は虚言の塊だ。
「我々を迫害しつづけた神族と人間に死を!」
 ――迫害してきたのは、魔族ではなかったか。


×      ×      ×

 ピチャ、と水の上を歩く音を聞き取って、イシュはようやく顔をあげた。黒い雨に打たれて、暗闇に見える風景と溶け込んでいくような姿だ。
 雨音が続いていた。耳元で雨が騒ぎ、身体を酷く冷やす。気がつけば、身体は小刻みに震えている。
「惨めな姿を見せるものだな、イシュ」
 太い、聞き覚えのある声だった。暗闇の中、何か大きな光源の前に立って、逆光で顔が見えない。
「真実って、何ですか? 俺がイシューであったなら教えてくれるっていっていたものは、何ですか?」
 イシュは地面に膝をつけたまま、逆光の影を見上げた。少しだけ太った輪郭が分かる。三角形の傘の下にいるのが、分かる。耳に染み付いて離れない声だ。
「風邪をひくぞ」
 影はそっと手を差し伸べる。イシュは見つめたまま、微動にもしない。もしかしたら黒い雨にまざって、自分の目からも何かが流れているのかもしれないが、雨に打たれて頬は麻痺している。雨の鉄の匂いに嗅覚も麻痺しはじめた。
「俺はいったい、何のために……」
 イシュは大きく息を吐き出し、首を垂れた。首筋に雨がぶつかって、身体の芯までを冷やしていく。
 ピチャ、と再び音が響いた。影が唐突に手を出して、イシュの髪の毛をわしづかみにする。
 影――ルーゼント・デリクル=ゼイランドは、イシュの髪をつかみ、大きく揺らした。
「意味が欲しいか! それほどまでに意味が欲しいのなら、自分で意味を見つけてみろ! 見つけもせずに自分の意味を喪失したと嘆くだけか!」
 イシュは奥歯をかみ締め、手のひらを強く握った。ルーゼントは髪の毛を持ち上げて、イシュの顔を空に向けた。イシュはルーゼントの顔を眼前で見、歯を噛み締める。
「言ってみろ、イシュー・フェンガラス。何かを言ってみろ! これですべてを失ったというのなら、真実を語るに値しないぞ!」
 イシュは手の平を上げ小さく口を開けた。雨に打たれた身体は震えており、少しだけ開けた口には、鉄の味がする雨が入りこむ。
 歯がカチカチと鳴った。声を出そうと開いた口に、雨水が入りこむ。入った雨水を吐き出すように咳き込みながら、イシュは小さく声を発した。
「助け……たい……レイディナ・フェンガラス……を、たい……」
 言葉を発するたびに、声とともに何かが胸の奥からあふれ出てくる。雨の中で作られた氷が、音を立てて崩れていく。
 いつのまにこんなに愛しく思っていたんだろう。自分と血を分けた姉弟であるなどということは、関係ない。無表情に浮かんだ笑顔を、もう一度見たい。淡々とした口調で叫んでほしい。――生きていて欲しい。自分よりっもずっと永く、たくさんの幸福を受けていて欲しい。
「大切に……思っている……から」
 ルーゼントが髪の毛を引っ張って踵を返した。イシュは身体を回転させ、地面を四つん這いになるようにして、ルーゼントに引きずられていく。
「レディ……レディが……っ!」
 ルーゼントは何も言わない。イシュは必死になって、レイディナ――レディの名前を呼んだ。
 近くに応える人はない。

「剣が……?」
 家の中で、二人の様子を見ていたクレヴァーはぽつり、と声を漏らした。
「はい?」と、近くに座っていたライジーが首をかしげる。
 クレヴァーはライジーが眼に入っていないのか、窓の前から走り出すと、一目散に外に飛び出した。昼の食事の準備をしていたオリヴァーがクレヴァーにとっさにふりかえって、皿を机にたたきつけた。
 ガシャン、と音が響く。クレヴァーはふりかえらず、夜に似た雨雲の下を走る。黒い雨が世界を黒く塗りつぶしていく光景が、世界の終わりのように見える。
 レイゼランズ――《終わりと始まりの場所》とは、よく言ったものだ……。

 ルーゼントは飛行艇に上る階段を、イシュを引きずりながら上りきる。雨の届かない中に入ると、イシュを床に放り投げた。飛行艇の床は味気なく、白い何かの鉱物でしかない。
 イシュは床にたたきつけられると、両手を使って少しだけ身体を起きあがらせた。冷えた身体では、それが限界だった。
 ルーゼントは入り口の傍に控えていたヘイウスを見やる。
「暖めてやれ」
「はっ!」
 ヘイウスは敬礼すると、イシュの身体を軽々と持ち上げて立たせた。イシュはヘイウスの顔を見やり、「ヘイウスさん……」と弱弱しく名前を呼ぶ。
「歩けますか?」
 ヘイウスが妙にうやうやしい態度で言う。
「歩けます」
 イシュは唇を噛んだ。少しだけうつむいたせいでヘイウスには丸見えである。ヘイウスはルーゼントには見えないイシュの影で、不敵に笑って見せた。
「では、こちらです」
 手のひらを進行方向に向け、身を翻した。イシュはヘイウスの不敵に笑った顔を見て、少しだけ笑いを浮かべる。泣き笑いのような顔だ。
 自分に、王子である資格はない、とイシュは胸中で思う。クレヴァーと同じことを思っている。否定しておきながら、自分で肯定するはめになるとは思わなかったけれど。
 イシュが去った直後、飛行艇の中に飛びこんできたのは、ずぶぬれになったクレヴァーだった。クレヴァーは肩で大きく呼吸をして、今だ入り口に立っていたルーゼントを見る。
「父上」
 と、クレヴァーは睨み付けるようにルーゼントを見ながら言う。ルーゼントは眉をあげ「よくきたな、クレヴァー」としれっとして言い放った。
「クルス・リュードとは……の、前に、言っておきたいことがあります」
 クレヴァーは飛行艇の入り口から顔を出す状態から姿勢をただし、まっすぐに立ってルーゼントを上から睨み付けた。ルーゼントはクレヴァーの顔を、薄笑いを浮かべながら見上げる。
「国政はどうしたのですか!」
 やはりな、とルーゼントはにやりと口の端を上げる。
「とある人物に任せてきた。クレヴァー、」
「物事の可能性は一つだけではないぞ、ですね。耳にたこができます」
「そうだ、私にも休養が必要でな」
 クレヴァーはわざと聞こえるように舌打ちする。ルーゼントはしれっとしてクレヴァーの目の前で踵を返し、奥へと消えようとする。
「休養のおつもりではないのでしょう」
 ルーゼントは横目でふりかえり、悪戯に笑って見せた。「お前も着替えて来い」と言うと、とっとと歩いていく。
 クレヴァーはルーゼントの背中を見送って大きく嘆息した。
「あのクソ親父……まだ何か隠してやがる……」
 顔をゆがめて言い放った言葉は、もちろん誰も聞いていなかった。誰かが聞いていたら、もしかしたら腰を抜かしていたかも知れない。
 クレヴァーは、それもよかったかもしれないと、とんでもないことを考えた。

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