>> 二章 因縁の黒金竜(くろがねりゅう) <<




   セレダランスの街中に唐突に現れたのは、黒金色の髪を短く切った青年だった。肌は浅黒く、日に焼けているというよりは黒い墨でも展ばしたような黒だ。目は赤く、煌煌と主張するように光っているように見える。耳は長く、ぎざぎざに切り刻まれている。
 青年――ユソラは両足で立ち、片手を挙げ、真っ赤な瞳を光らせて問う。目の前にはゼイランドの兵士がそろいの兜をかぶり、唯一見える口を一文字に結んでいる。
「イシュ・フィングラスはどこだ? 一人、使いに走ったのだろう」
 兵士たちは答えなかった。ただ一文字に結んだ唇を震えながら噛むのだ。自分たちが五人で相手が一人であろうとも、戦って勝てる自信はない。
 魔族は各国と不可侵条約を結んでいるが、まるで一方的な条約だった。――魔族が出した条件はのむこと、と。
 とはいえ、個人的な抗争は避けられない。兵士たちは槍を青年に向けてジリ……と地面を噛み締める。
「あいつは、条約を護っていない。レイゼランズで俺たちと結んだ条約を破っている」
『元凶はあいつだ』
 ユソラの身体のうちから復唱するように声が漏れる。ユソラは顔を歪め、自分の手の甲を爪で掴んだ。
(ついてくるなと、言ったはずだ!)
『うむ、ユソラ。私も手伝いたくてね』
 ユソラが胸中で叫ぶ言葉に、声は答える。――異様だ。兵士たちは、噛み締めた足を、数センチ退かせる。
 ユソラは斜め下を見、毒づく。――無論、胸中でだったが。
(俺一人でことはすむ!)
『そう言って、どれほど失敗したことか』
 ユソラは目を閉じ、奥歯を噛み締めて地面を強く踏んだ。ゴム底の靴が、地面の小石と擦れ合ってジャリと音を立てる。
 ユソラの着ている黒い皮のパンツとファーのついた皮ジャンが太陽の光に白く光っている。ゼイランドは寒くはなかったが、ユソラは厚着をしてまで震え始める。
 ユソラの中から聞こえる声は、小さく失笑する。
『しょうがない、私の大切な子だ。信じて引き上げることにしよう。その代わり、私の僕を送っておいたからね』
 ユソラは弾けるように顔を上げ、悲鳴のごとく叫ぶ。
「余計なことをするな! また条約を――っ!」
『物事には優先順位というものがあるのだよ、ユソラ』
 ユソラは口を塞いで辺りを見まわした。目の前にいる兵士に一瞥もくれない。
 遠くでズズーンと、何か大きなものが落ちた音が響いた。大気と地面を揺らし、体感させて音は走る。
 ユソラは顔を歪めると、地面に片手をついて兵士を睨みつける。
「どけ、邪魔だ」
「そ、そうはいかない! これ以上お前を――」
 兵士が声を裏返らせて叫びかけると、再び何か大きなものが落ちる音が響いた。
 兵士の口を止めた。舌を噛んで、小さく顔を歪める。だが舌を噛んだことが理由ではない脂汗が滲んでいる。
 ――この圧迫感は何だ?
 急激にゼイランドが悲鳴に満ちて行く。ユソラは兵士たちの背後の彼方に黒い大きな影を確認する。――くそっ!
(魔族が悪いだと?)
 ユソラは胸中で毒づき、両足と片手を使って宙に飛び出した。翼はなくとも跳躍だけで兵士たちの頭の上を悠々と飛び越える。
 女子供だけならまだしも、男の悲鳴さえも聞こえる。――人間は酷くもろい、悲鳴を上げるな、無知な人間どもめ……。
(魔族の本能を目覚めさせた人間が悪いのだ!)
 胸中で叫び、ユソラは街路を突っ切った。姿は黒い風のごとく、道を塞ぐ人間たちを飛び越え、止まることなく真直ぐに進んで行く。
「目を覚ませヅリエンディ!」
 黒い大きな影――ヅリエンディというドラゴンは、広場で雄たけびを上げていた。大きなコウモリの翼をつけた、二本足で立つ巨大な爬虫類だ。
「目を覚ませ! 俺だ! ユソラだ! 自らの主を忘れたとは言わせないぞ!」
「……主……」
 ドラゴンは雄たけびを止め、喉から搾り出すように言葉を吐く。ユソラは微弱に笑みを浮かべ、ヅリエンディの顔へと駆け上がる。
「そうだ、お前の主だ」
「主……違う、私の主は、カンという名……お前は、誰だ?」
 ユソラは愕然とし、ヅリエンディの眼前――鼻の上で両膝をついた。
「俺を、忘れ得るとでもいうのか、ヅリエンディ……貴様……」
 ヅリエンディは眼前にいるユソラを訝って見つめる。小首をかしげている場面を見れば可愛らしいとさえ思えた。
 ユソラは傍目に気を抜くと、ヅリエンディの自分の身体ほど大きな眼から目をはなし、嘆息しながら空を見上げた。ヅリエンディの頭上から見る空は、酷く近く、嫌味なほどに明るい。
「……まあ……いい……俺はカンの息子だ。そういえば分かるか、ヅリエンディ」
「カンの息子……なるほど。ならば私の名前を知っていたとしても不思議はない。私は使命を請け負っている、邪魔をしないでいただこう」
 ユソラは座っていたヅリエンディの鼻面を蹴って、ヅリエンディの肩に腰を下ろした。異様なほど開かれた眼は、赤々と光る。
「ヅリエンディ、お前の仕事を見てから俺は動こう、おそらくやるべきことは同じだ」
「承知」
 ヅリエンディは言うと、大きく息を吸い込み再び雄たけびを上げる。ヅリエンディの雄たけびの音が、広場近くの民家の窓をガタガタと揺らす。

 イシュはクレヴァーを引き離し、街をかけていた。道はわからないが、目標物が真直線に見えるから、てんで違う方向へいく、ということはないだろう。なにせ、民家があろうと大きな館があろうと、真直ぐに突き進んでいるのだから。
「ユソラ! 今日はスマートじゃねぇな!」
 走りながらイシュは叫んだ。イシュの声がユソラの耳に入ると、ユソラは微弱に顔を歪めていたが、イシュに見えるはずがない。
 イシュは目の前に広がる広場を見、最後の障害を跳び越した。最後の障害は耳を塞いで倒れている人間だ。
 広場につくと、イシュはひとまず入り口で耳を塞いで立っていたジェンを見つけた。ジェンは片手に剣を持ち、顔を歪めたまま耳を塞ぎ、ヅリエンディを見上げている。
「ジェンさん」
 イシュは雄たけびの中、これといって耳を塞ぐでもなくジェンの名を呼ぶ。だが、ジェンは耳を塞ぎヅリエンディに意識を集中しているせいでイシュには全く気が付かない。イシュは、「あ、そうだよな」と一言呟くと、ジェンの肩を叩いて悪戯に笑って見せる。
 ジェンはようやく気が付いたらしく、横目でイシュにふりかえる。――耳を塞がずに立っているのは、何故だ。
 イシュはしれっとして身振り手振りで意思を表現する。――なんでも、『名前を言わなきゃ分からないだろうから、俺が叫ぶ』と。『叫ぶとあいつ暴れ出すだろうから逃げて』と。
 ジェンは首を横に振る。
「イシュ殿、私の王国剣士の名に泥を塗る気ではないだろう」
「そんなこといったってジェンさん……」
 ――と、ヅリエンディが雄たけびをやめた。ジェンの「イシュ」という言葉に反応したのだ。
 イシュはとっさにふりかえると、地面を蹴ってヅリエンディへと走り出した。
 ジェンは塞いでいた手を下ろし、イシュと同じく地面を蹴る。――どのようにしてこの魔族に勝つ気なのか、興味がある。まさか死ぬ気ではないだろうと。
 イシュは長剣を掲げ、「よーぅ」と悪戯に笑みを浮かべながら叫ぶ。
「出張ご苦労様! イシュはこっちだぜ、ヅリエンディ!」
 言い、けけけっと挑発するように笑った。ヅリエンディは片手を上げ、指が一本だけなくなった場所をみる。
『イシュ・フィングラスにやられたものだ、覚えている』
 ヅリエンディは紺色の瞳を一変して紅く変化させると、頭を大きく振って「ウォーン」と吼えた。形容とは違って、狼の遠吠えによく似ている。
 一瞬にしてイシュは顔から笑みをなくし、地面を蹴り、鱗を足場にして一気にヅリエンディの身体を駆け上がる。――と、ヅリエンディは片手を振り上げて、イシュの身体を、身体についた虫をたたき出すかのごとく叩き払った。
 スペン、となにか鋭く滑った音が響き、イシュは地面に背中から叩きつけられる。同時、横に黒い鱗に覆われた指が一本、地面に落ち、赤くどろどろとした血がイシュの身体の上に流れ落ちる。
 イシュは血から這い出て、けほけほと咳を漏らす。反対側でジェンが同じようにヅリエンディの身体を登って行く姿がある。
 反対側を昇ったジェンの前に現れたのは、人間の姿に良く似た青年の魔族だ。
 ジェンは青年――ユソラの目の前で立ち止まり、性癖でじと見つめるようにユソラを見据えた。
 ユソラは顔を歪めて、ジェンを睨みつける。
「逃げろといわれて逃げない愚か者め、殺すぞ」
 ジェンは至極冷静に、剣を片手に持ちながらユソラに向かっている。
「逃げろといわれて誰かを置いて逃げる人間には二度となりたくない、それで死ぬなら本望というものだ」
 ジェンの顔には『死なない』という自負がある。戦いの前線にいるような強者ではないが、ジェンは死ぬような場面になら一度会っている。そのときほど、死ぬような緊張感はない。
 ユソラは顔を歪め、唾を虚空へ吐きつけた。
「簡単に死ぬな。人間はもろい、死にたくなくてもすぐ死ぬぞ」
「死ぬなとは、ありがたい言葉だ」
 ジェンは言い、自嘲のごとく短く失笑する。――「何か足りないんだ」、か。
「だが私は、イシュ殿を見殺しにするほど要領が良いわけではない。私は『足りないもの』を戦うことでしかうめることができない、今更命もおしくはない」
 ユソラは目に見えて顔を歪め、拳を握る。ジェンの顔はやはり酷く涼しいのだ、まるで見下されているかように感じる。
「俺が殺すべき人間はイシュ・フィングラスただ一人! 今まで殺せなかった人間もイシュ一人! 貴様など蹴散らしてくれるぞ!」
 ユソラは言うとジェンに向かって掴みかかる。ジェンは即座にユソラの片腕を切り捨てたが、ユソラはひるむことなくジェンに掴みかかり、ヅリエンディの身体からジェンを巻き込んで飛び降りた。
 ユソラはジェンの身体を下敷きにして、ジェンの身体を強く地面にたたきつける。ジェンはかろうじて剣を掴んでいたが、叩きつけられた衝撃とユソラの体重の衝撃で自らの骨の折れる乾いた音を聞く。
 ユソラは、切り落とされて今はない、腕があるはずの場所を虚空に伸ばした。刹那、斬られた場所から触手のような細いものが伸びて、瞬間的に腕と手を形成する。
 ジェンは咳をし、血を吐きながら顔を歪める。ユソラは真直ぐにジェンを見下ろし、再生した手でジェンの襟首を掴み、地面へと押しつける。
「今すぐにここから立ち去れ。魔族の誇りがある」
 ジェンは何も言わない。――言えないのだ、喉が圧迫されて言葉が出てこない。
「剣士の誇りがあるというのなら、我々の誇りも知れ。無駄な殺しはしないのが我々だ、お前らとはちがうのだ、人間よ」
 ジェンは悲痛に眼を閉じた。――無駄な殺しはしない、と。声はやはり出てこないが、感情を押し殺すべく下唇をかんだ。
(ならば何故、カレント様は殺されねばならなかった?)
 ジェンの心中が分かったわけでもなく、ユソラも沈黙する。ジェンの表情が嫌に悲壮を湛えて躊躇せざるを得ないのだ。――どこか自分に似ている気がする。
 ユソラは胸中でかぶりを振ると、両手でさらに強くジェンの襟首を地面に押しつける。
「お前は魔族に逆らうな!」
 ジェンは微動しない。

 ジェンの反対側で、イシュは血から這い出ると、地面を転がってヅリエンディの音の衝撃波を避けた。音の衝撃波はヅリエンディの口の真直線上に進む。見えはなしないが、ぶつかったのであろう場所のタイルが音を立てて弾ける。音は人間の聞き取れる周波数を超えて全く聞こえない。
 イシュはすぐさま立ちあがると、ヅリエンディを見上げながら、もう一度ヅリエンディに向かって走る。ヅリエンディは口を広げて、イシュの前方に音の衝撃波を飛ばす。イシュはヅリエンディの顔の場所から即座に退き、別の道からヅリエンディに向かって行く。
逆鱗(げきりん)、がある』
 イシュの耳に、数年前のレディの声が響いた。レディはレイゼランズでオリヴァーの次に物知りだが、教え方はまったくてんで解りにくい。イシュは刹那、耳に神経を尖らせた。
『怒る』
 ――全く解らなかった。だが、前に一度ヅリエンディと戦ったときに、偶然「逆鱗」を剥いでしまったことがある。結果だけを見たならヅリエンディを追い返す理由になったのだが、あんな思いは二度としたくない。――ヅリエンディが正気を失って本能のあるがままに暴れたのだ。
『剥がれやすい。気を付けろ』
(そんなの知るかっ! だいたいどこにあるかわかるわきゃねぇだろレディ!)
 ここにいないレディに向かって、泣きつくように毒づく。まるでとばっちりというものだが、レディ自身には直接被害は及んでいないだけまだましというもの。
 ヅリエンディの身体が目前に迫っている。イシュはじっとヅリエンディの顔を見上げていた。ヅリエンディはイシュから注意がそれて、他方を傍観する。――ジェンとユソラだ。
 イシュは地面を蹴ってもう一度ヅリエンディの身体を登り始めようと――否。イシュは直後かぶりを振った。
「ジェンさん! ユソラ!」
 イシュは唐突に踵を返して地面を蹴った。ヅリエンディはジェンに馬乗りになったユソラに向かって空気を吸い込んでいる、音の衝撃波の前兆だ。――だがユソラがそうと信じるはずはない。仲間討ちは魔族の極刑にあたいする罪だ。
 ユソラは上目遣いで走ってくるイシュの顔を一瞥し、睨みつける。イシュの中途半端に伸びた鉄色の髪が、まるで自分と一緒で腹がたつ。――あんな馬鹿者と一緒になってたまるものか。
「イシュ・フィングラス! 貴様は俺が殺す!」
 ユソラは叫び、ジェンから片手を離しイシュを指差した。イシュは迷うことなく二人へと突進してくる。
「ユソラ! ジェンさんつれて逃げろ!」
「何?」
 ユソラは訝ってイシュを見つめる。刹那、ユソラの右腕が肩から弾け跳んだ。
 ユソラは愕然として自分のなくなった腕を見、すぐ再生させる。まだ信じきれない様子で、ヅリエンディを見上げた。――今だこちらに顔を向けているヅリエンディがいる。先ほどから聞こえていた音は、ヅリエンディの音の衝撃波特有のものだ。腕が吹き飛んだ時とタイミングが良くはしすぎないか。
「ユソラ! とりあえずジェンさん連れて逃げろ! それから俺を殺させてやるから!」
 耳の遠くでイシュが叫んでいる。
(これは、どういうことだ?)
 イシュは茫然としているユソラへと体当たりし、ユソラがいた場所から退ける。ジェンはユソラが身体の上からいなくなると、即座にうつ伏せになり、地面を瞬発的に移動する。直後、二人がいた場所のタイルが弾け飛んだ。
 イシュはユソラと共にタイルの上を転がると、すぐにユソラから離れて、ユソラに背中を向けてヅリエンディを見上げる。
(ヅリエンディ、どっかおかしくなってるぞ……どーしよう)
 元々、イシュはヅリエンディを殺そうなどとは思っていなかったのだ。いくらか負傷させればいつも帰っていく。加えてユソラがいるとなれば、ユソラの口添えでしぶしぶと必ず帰る。
 ――おかしい。
 頭が良い方だとはいえないイシュでも、直感する。何かおかしい。
 ユソラはヅリエンディを見上げて、「あぁ」と落とすように口を開いた。口から覗く牙は鋭く異様だったが、怖いとは思えない。ユソラの顔は放心して、先ほどまでの殺気は欠片もない。
忘鱗(ぼうりん)を剥がされている……覚えているはずがない……」
「ぼうりん?」
 イシュが復唱して訊いたが、ユソラは答えず、徐に腰を上げた。
 イシュは半身を翻してユソラの顔を見た。――赤い目が煌煌と光り、ヅリエンディを見上げている。
「げ」とイシュは声を発して、ユソラの顔を一瞥する。すぐ踵を返してヅリエンディに向かった。
 ユソラはヅリエンディを殺すつもりなのだ。ユソラの眼が光っているということは、怒っているということだ、おそらく理性を失うほどに。
 だが、理性を失っていようと失っていなかろうと、それは罪だ。魔族にとって禁忌だ。
 ヅリエンディは即座に息を吸い込みイシュの進行方向へと口を向ける。イシュは走るスピードを上げて、止まることなくヅリエンディに走った。ヅリエンディは外れたことを悟ると、空に向かって吼える。イシュは鱗に足をつけて勢いづけて登る。
「ヅリエンディ! 魔族の掟を言えるか!」
 鱗を蹴りながらイシュは懇願するかのごとく叫ぶ。
(どっちでもいい、ユソラの目を覚まさせる一言を言ってくれ!)
 ヅリエンディは吼え終わると、肩まで上ったイシュを見やり、鼻息を吹きかけて立ち止まらせる。
「主の命令に逆らうべからず」
「もう一つは!」
「一つしかない、人間に何がわかる?」
 イシュは危うく剣を取り落とすところだった。――この胸を突き上げる激しい感情は、絶望なのだ。
 だがすぐにかぶりを振る。ヅリエンディの血を浴びたが、冷たくはなかった。本気で、それしか覚えていないのだろう。
 ――時はすでに遅い。
 イシュは顔を上げると、剣を両手で持ってヅリエンディを駆け上がる。ヅリエンディはまるでイシュが眼前に来るのを待っているのかのごとく、何もしない。
 イシュの足場が唐突に崩れた。
(逆鱗!)
 ベリ、と音を立てて鱗がはがれ、イシュの体とともに宙へと放り出される。緩やかに、着実にヅリエンディの身体から離れ、ただの鱗となす。
 ヅリエンディは刹那目を閉じる。すぐ開くと全てを飲み込むように大きく目を開き、音とも取れない音で叫んだ。
 広場近くの家々の窓が、一つ残らず木っ端微塵に崩れ落ちた。しているはずの音さえ、ヅリエンディの声に掻き消されてまったく誰の耳にも入らない。
 イシュは地面に落ちると、打った腰をさすりながら、「痛っ」と小さく言葉を発して、至極涼やかに顔を上げる。
 ユソラは徐に歩き出し、イシュの眼前で立ち止まった。ユソラの顔は無表情で、怒りを湛えているのだと言うことが何よりもわかる。イシュはユソラの顔を見上げ、苦笑を湛えて両手の平をユソラへとむける。
「わりぃ、ユソラ」
 ユソラは刹那、手の平を振り上げてイシュの頬を力任せに叩きつけた。イシュは避けるでもなくユソラの平手を受け、横面を向き「へへへ」と小さく笑って見せる。
「殺しゃあいいのにさ」
 ユソラは目を細めてイシュの顔を見据える。
「殺して欲しいか」
「まぁさか、まだ死ぬ気なんてありゃしねぇぜ」
 ユソラは短く息を吐き、イシュへ背中を向け、ヅリエンディを見上げる。ヅリエンディは今だ雄たけびを上げたままだ。
 ユソラは雄たけびの内容を悟ったような気がしていた。ただのドラゴンへと変化してしまったヅリエンディは、もとは同じ人間体の魔族として生きていたのだから、解らないはずはない。
「貴様は殺そうとすると本気で戦う」
「当たり前だ! 殺されたくなんかないからさ」
 ユソラは沈黙する。
 ヅリエンディの声が木霊するでもなく、悲痛なほどにセレダランスの街を駆けぬけて行く。遥か昔にヅリエンディは人間の姿で、人間の町を、人間と共に駆けていたのだ。雄たけびには、その追憶がにじみ出ているようにさえ思える。
 イシュは何も知らず、立ち上がると長剣を持ち直し、「よし」と短く声を発する。一息つくと大きく息を吸い込み、叫んだ。
「ヅリエンディ! ざぁっかしいぜ!」
 途端、ヅリエンディは雄たけびを止め、ギロリとイシュを見下ろす。途端、息を吸い込みイシュへと頭を向けた。
 イシュは即座に地面をけり、ヅリエンディ自身へと駆けて行く。イシュの後方で音が弾けて、イシュの背中を微弱に揺らした。
 イシュは再び鱗に手をかけると一気に駆け上がる。ヅリエンディはイシュが自分の身体に登ったことを確認すると、長い尻尾をイシュのいる場所へと叩きつける。イシュは指先へと進みながらとっさに剣を振り、ヅリエンディの尻尾の先を切り落とす。ヅリエンディは苦痛の表情一つ見せず、続けざまに血の溢れる尻尾を振り、口から音の衝撃波を放とうと息を吸い込む。
 イシュは「げ」と短く音を発して、剣を振りおろしヅリエンディの身体を刻み、先へと鱗を蹴る。ヅリエンディは衝撃波を放つ前に、悲鳴に似た声を上げた。
 刹那、唐突に頭上から赤い血が落ちてきた。イシュの身体の横へ落ち、ベチョ、というつぶれたような音を立てて鱗にぶつかる。血は鱗の上を這って行く。
 次に落ちてきたのは、クレヴァーである。血のついた剣を前方へ振り下ろした状態で、大きく呼吸をし、イシュを見やる。
「イシューに死んでもらっては困る!」
 イシュは一度の戸惑いの後、顔に一変した笑いを作り上げる。
「ああ! ありがとうクレヴァーさん!」
 クレヴァーはイシュの顔をみると、少しばかり笑って額に浮んだ汗を袖でぬぐった。返り血が身体についてはいれども、クレヴァーは気がついてさえいない。
 イシュはすぐ踵を返してヅリエンディの身体をかけあがる。頬をなでる風は鋭く、真っ赤に染まった体を少しだけ涼しくしてくれる。――皆こんなんだったらいいのに、と思う。風はいつもそばにいて、共に駆けてくれる。決して引き止めない。
 ヅリエンディがなくなった尾を立てて張り裂けんばかりに叫んだ。誰かが悲鳴を上げる。悲鳴さえも掻き消していく。
 イシュにはヅリエンディの叫び声の内容はわからなかった。ただ酷く怒りと痛みを湛え、苦痛に叫んでいるであろうとしか想像できない。
 イシュは目を細めてヅリエンディを見上げる。後ろからクレヴァーが遅れながらも、耳を塞ぎながら走っている。
 イシュはヅリエンディの肩に到着すると、鱗を蹴って顔に向かった。ヅリエンディはようやく叫び声を止め、口を閉じ、イシュを睨みつける。
 刹那、ヅリエンディの目の前に灰色の影が現れた。
 イシュは開眼し、灰色の影を見る。
「ユソラ!」
 ユソラは跳躍の頂点でイシュを横目で睨みつける。赤い目はすでに正気を失っていることを表わし、赤い光を湛えている。
 ユソラは両手を掲げ、大きく息を吸い込む。途端、ユソラの両手が葉のない木へと変化していく。
(ヅリエンディを殺す気かよ!)
 イシュは小さく舌打ちをすると、ユソラから目を離す。直後、自分の足とユソラの足がヅリエンディの顔に着地する。
 イシュは鱗を蹴ってユソラにむかって剣を振り上げた。剣はユソラの腕とぶつかり、ガギン、という鈍い音を立てる。
 ユソラはイシュを睨みつける。イシュは剣を振り上げぶつかった状態で、奥歯を噛み締め、ユソラを見ない。
「ユソラ、お前は魔族の統領になる奴だ」
 ユソラはゆっくりと口をあける。
「殺すぞ、イシュ」
「もともとそのつもりで来たんだろうがよっ! 目的忘れてんじゃねぇ!」
 ユソラは短く嘲笑し、片手を振りイシュを跳ね飛ばす。両手をもとの人間のものに戻すと、尖った爪先でイシュを指差した。
「人間ごときに、何がわかる。俺の目的を知ったような口をきくな」
「わかるか! 俺は魔族じゃねぇもんよ!」
「わからないなら口を出すな」
「嫌だ!」
 イシュは叫んで、両手で剣を持ってユソラを睨みつける。二人を眼前で見つめるヅリエンディは再び口をあけ、吼える。二人の鼓膜をびりびりと震わせ、聴力をなくしてしまいそうなほどだ。
 空気が揺れている。ユソラとイシュは二人向かい合ったまま、二人同時に口を開いた。
「ユソラ」「イシュ」
 二人とも顔を歪め、相手の顔を見やる。
「俺は何も知らねぇよ、でもさ、ユソラ」
「貴様に何か言われる筋合いはないぞ」
「正気になれ、ユソラ」
「俺は最初から正気だ、何も知らない人間ごときに何かを言われる筋合いはない」
 言うと、ユソラはゆっくりと拳を握った。
 イシュは少しも滑らない鱗の上で、足場を強く踏みしめた。
(待っている暇はないんだよな。こうしている間に皆迷惑してるし……俺のせいなんだけど)
 イシュは足場を蹴ってユソラに向かった。ユソラはイシュを睨みつけ、拳を強くにぎり、待ち構える状態だ。
 刹那に、ユソラの側面を通った影がある。影はユソラの横で方向を変えると、ヅリエンディの眼の前に立つ。影はそのまま太陽の光に銀色に光る剣を掲げ、勢い良く眼に突き刺した。
 ユソラとイシュは即座に影を眼で追った。
 ――ジェンだ。
 ジェンは眼を閉じまいと必死で眼を開け、半分だけ突き刺さった剣を、ヅリエンディの眼の奥へと突き刺そうとさらに力をこめる。
 イシュはすぐさまジェンから目線を逸らし、ユソラの腕へと剣を振り下ろした。
 ユソラはゆっくりとイシュへと眼をやり、半ば茫然とした様子で、落ちて行く自分の腕を眺める。
 ユソラはゆっくりとイシュを見る。イシュはユソラを見てはいない。ユソラの眼からはいつのまにか怒りの光りが消えている。
 ヅリエンディがさらに大きく叫んだ。ユソラは小さく「これが断末魔だ」と呟き、ゆっくりとヅリエンディの身体から、自分の身体を傾けた。怠慢なほど、ゆっくりと動く。
 イシュはジェンを見やった。ジェンの剣は根元の部分までヅリエンディの眼に突き刺さっている。
 ジェンは肩で大きく息を吸い込み、息を吐くと、同時に血を口から吐き出した。剣から手を離し、ふらふらと後方へと足を動かす。
「ジェンさん!」
 イシュが叫ぶと同時に、ジェンはヅリエンディの鱗を踏み外し、落下を始める。イシュは即座に自らもヅリエンディの身体から飛び降りる。ジェンの身体を掴んで、保護するように抱きとめた。

 肩の部分で立ち止まっていたクレヴァーは落ちて行くユソラを見ると、即座にユソラに向かって手を伸ばした。
 ユソラの身体はクレヴァーの手に当たると、まるで引き寄せられるかのようにゆっくりと留まり、片腕でクレヴァーに捕まった。
 ユソラは茫然とクレヴァーの顔を見上げる。
 ――視界がぼやけている。黒く汚れた視界の中で、まっすぐに自分を見つめている人間がいる。――イシュだ。ユソラは思い、ゆっくりと眼を閉じる。
(人間に助けられていては俺もらちがあかない)
 クレヴァーはユソラが目を閉じると、力をこめて、引き寄せた。ユソラの体は人間のそれよりも軽く、すぐ持ちあがる。
 視界の先で、イシュとジェンが地面へと激突している。だが、叫ぶほどの余裕がない。
 ヅリエンディの身体がゆっくりと倒れ始め、クレヴァーはユソラを背負うと、全力でヅリエンディから駆け下りた。
 ヅリエンディは空を望むかのごとく、天空を見上げながら倒れた。

 イシュはジェンの下敷きになって地面に落ちると、『あの高さ』でありながら擦り傷程度で、平生としてジェンの下から這い出る。
 ジェンは目を閉じたまま、微動しない。
 イシュはジェンの両肩を掴み、身体を揺らした。
「ジェンさん! 生きてるんでしょ! ジェンさん返事してくださいよ!」
 ジェンの返事は全くない。イシュが肩を揺らすたびに、顔が上下に力なく揺れている。
 イシュの脳裏にいやな予感がよぎった。――死。それは嫌だ。
 イシュはもう一度肩を揺らし、懇願するかのごとく叫んだ。
「ジェンさん!」
 ――土ぼこりが舞っている。辺りは深い霧に包まれたようだ。
(これが死んだ後の世界だったら嫌だ。殺風景じゃないか、死んでも得なんてない)
「ジェンさん!」
 もう一度叫んだ。ジェンの様子には少しも変化がない。
「そんなの嫌ですよ! 絶対に嫌です!」
「諦めが悪いぞ、イシュ」
 ヒト、ヒトと、地面を歩く音と、ユソラの声が同時に聞こえた。イシュは横目でユソラの声がした方向を見やる。
 ユソラの両側にある手と、灰色の肌を見、イシュは自分も死んでいるんじゃないかと少しばかり訝った。だが、死んでいるはずはない。痛みもあるし、心底から突き上げてくる言い表しようのない悲しみもある。
 ユソラの横にはクレヴァーが歩いている。クレヴァーは肩で息をしながら、静まりゆく土ぼこりの中でせき込んでいる。イシュを見て安著の息を落とす。
 イシュは睨みつけるかのごとく、ユソラを見据える。
「ジェンさんは、生きてるんだ」
「その確信がどこにある」
 ユソラの声は、硬質で容赦がない。イシュは奥歯をかむ。言い聞かせるかのごとく、イシュは小さな声で繰り返す。
「生きてるんだ……俺を、剣士だっていってくれた」
 腹の底から何かが突き上げてきて、喉へと直撃する。こらえるために目を閉じれば、少しだけ浮んだジェンの笑顔がまぶたの裏に張り付いて離れない。
「お前が剣士?」
 ユソラははっきりと嘲るように吐いた。イシュはユソラを見上げ、睨みつける。眼からゆっくりと透明な水が流れている。
「ジェンさんと同じ、剣士さ」
「お前はただの化け物だ」
「剣士だっ! 俺は剣士なんだ! だから、ジェンさんだって死なないはずだ!」
 言い、地面を睨みつけて拳を叩きつけた。
 クレヴァーはイシュの横に膝をつくと、ジェンの左手を取る。
「イシュー、ジェン・クレーズは本当に生きている」
 言うと、クレヴァーはすぐさまジェンの鼻に手を置いた。――呼吸は浅い。
 土ぼこりをきって、兵士たちが集まってくる。兵士たちはユソラを見ると、それぞれに緊張した面構えで、同時に矛先をユソラに向ける。
 クレヴァーは兵士たちをみやり、怒鳴りつけた。
「何をしている! 下敷きになった人々を助けにいけ!」
 兵士たちが、一斉に肩を振るわせる。クレヴァーを見やると、「はい」と叫び、一斉にヅリエンディへと走って行く。
 一人が立ち止まって、クレヴァーの横に膝をついた。兜を深くかぶっていて顔はみえない。
「クレヴァー王子、お怪我はございませんか」
「ない。ヘイウス、ジェンを至急城へつれて行き、治療させるんだ。おそらくほとんど死んでいるはずだ」
「王子のご命令とあらば、このヘイウス――」
「筋書きはいい、すぐに行くんだ」
 クレヴァーはヘイウスの兜と槍を取り上げ、半眼でヘイウスを見据える。ヘイウスは満面で笑うと「はい」とはっきり言い、ジェンを担ぎ上げて城へ向かって全速力で走り出した。ヘイウスの背中はどんどん小さくなって、すぐ見えなくなる。
 イシュは涙をふくと、「ははは」と乾いた声を立てる。
「クレヴァーさん、物知りだね」
 クレヴァーはイシュに背中を向けて、首を横に振る。
「私は何も知らないことばかりだ。世間のことに関しては、イシューの方が随分と知っていそうだ」
「俺は何も知らないよ。てっきりジェンさん死んじゃったのかな、なんて思ったくらいだからさ」
 クレヴァーは背中で失笑し、鼻をかく。
 土ぼこりはおさまり、清々しい風が広場をかけぬけていく。空は相変わらず青く晴れ渡り、黒い千切れ雲が数個漂う。
 ユソラは大きく嘆息すると、頭を大きくふる。
「ヅリエンディは、俺が連れて行く」
 イシュとクレヴァーは同時にユソラを見やった。ユソラは二人を見ずに、ゆっくりとヅリエンディに近寄って行く。
(……もうすぐ、ヅリエンディはもとの姿に戻るだろう)
 もとの姿に戻れば、人間のような顔で恥をさらすことになる。本来の姿の死に顔を人間に見られるなど、魔族の誇りが許すはずがない。  ユソラは顔を半分だけふりかえらせ、クレヴァーとイシュを見やる。
「クレヴァー王子。イシュと間違えてしまったことを非礼申し上げる。並べてみるまではわからなかったが、よく似ている」
 クレヴァーとイシュは同時に相手を見やり、嘆息する。――また、その話に戻るはめになりそうだ。
「だが、イシュー王子ではないだろう」
 言いきり、ユソラは短く失笑する。
「その男は、いずれ俺が殺さなくてはいけない男だ」
 イシュは片方の眉を上げ、ユソラを見やった。ユソラはまた短く失笑すると、進行方向を向いてヅリエンディの身体の影へと消えて行く。
 イシュはぽりぽりと鼻を掻いて、クレヴァーを横目で見やる。
「クレヴァーさん、似てるっていわれて、腹が立ちませんか?」
 クレヴァーはイシュの背中で、「どうかな」と。
「全然、といったら、笑うかな?」
「いや、笑いませんけど……」
 イシュは嘆息して辺りを見まわした。
 二人の遠方で、ユソラがヅリエンディの身体を持ち上げ、強く跳躍してセレダランスの街を飛び越えて行く。超人さえもかけ離れている、魔族の力を見せつけるように。
 徐々にセレダランスの街に喧騒が戻って行く。――窓の欠片が身体に刺さって泣いている子どもがいる。荒れ果てた広場を見、騒ぎ立てる人間がいる。
 イシュは辺りをゆっくりと見まわしてから、クレヴァーに横目を向け苦笑を浮べる。先ほどのことが、まるで夢の中の出来事のような気がする。
 クレヴァーは自分の手の平を見つめ、微動していなかった。目を大きく開き、自らの目を疑うように。
 イシュは訝ってクレヴァーの顔をしげしげと見つめる。
「……どうしたんですか?」
 クレヴァーはピクリと反応を示した。だが、ふりむかない。
「クレヴァーさん?」
 イシュが再び問う。だがクレヴァーは応えない。小さく震えて手を凝視している。
(血……)
 クレヴァーはイシュを横目でみた。顔には脂汗が滲んで、今立つことさえ困難であるかのように見える。
「イシュー……」
 クレヴァーはゆっくりと口を開いた。
「私は、本当に何も知らない」
「え?」
 直後、クレヴァーが前のめりに倒れ込んだ。イシュはとっさにクレヴァーを支えながら「は」だの「あの」だのといった極短い言葉を発する。頭の中が混乱して、言葉が出てこないのだ。
(何があったんですかっクレヴァーさん!)
 半ば泣きたい気分でイシュはクレヴァーを肩に背負うと、どうしようもなく城の方向へ向かって駆け出していた。

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