水の窟。
 ナイズに唯一ある巨大な滝の裏側にある洞窟のことで、啓の主な仕事場の一つだ。
 だが当然知恵は初めて来たわけで、それも誰かの『空間』の力で瞬時に移動した。唐突に薄暗い洞窟の中に着くと、必死で目を凝らした。
 片腕は亮と名乗った男に掴まれている。唐突に濃くなった靄の中で亮は知恵の耳元で「大人しく一緒に来ていただかないと、ご存知の方が悲しいめに遭ってしまいますよ」と悪戯するような口調で言った。昨日の今日だったから知恵は従う他の選択肢がなかったし、抵抗してもおそらく、無理矢理連れてこられた。
「脅して申し訳ありません、知恵さん」
 洞窟の中に反響する、亮の声。少し高めの声。
「でもどうしてもお会いしたかった。お会いして伺いたいことがあったから」
 薄暗闇。知恵はできるだけ亮から体を離しながら、亮の顔を見た。
 瞳は、青だろうか。暗くてよく見えない。
「……何?」
 警戒を解かずに問えば、亮が微笑を湛えた。
「声は、どちらにもあんまり似ていないかな……目の色も、その癖っ毛も、お父様譲りですね。それ以外はお母様に似てますよ」
 知恵は顔を歪めて訝った。まるで知恵の両親を知っているかのよう。それも、血のつながった方の。
「何それ」
 不機嫌を丸出しにした知恵の口調に、亮がくすくすと笑った。
「あなたを近くで見ての感想です。贔屓目かもしれませんが、綺麗になりましたね」
「うっわ、気持ち悪い感想。いい加減離してくれる?」
 亮がやはり笑いながらあっさりと手を離した。両手を上げて降参とばかり。馬鹿にするかのような仕草だった。
「逃げはしないでくださいね。あなたが会いたい人はもう少し奥にいますから」
「わかったけど、結局誰なの?」
「誰かも分かりもしないで来たんですか? やっぱりこの世界は毒が蔓延してる。たとえばあなたを叩いた緋月さん。僕は嫌いなんです。人の言う事を聞こうとしない」
「?」
「なんて、緋月さんとは直接お話ししたことはありませんが、『可能性』が見えないからよしておけって言われたんです。あの人の大切な家族を引きだしにしても、無理だろうって」
「何の、話?」
「あなたは元の生活に戻りたくありませんか? そういう話です」
「別に」
 即答して、知恵の頭の中にまた疑問符が湧いて出た。
 戻りたくないわけではないような、気がしていた。だからと言って正直にそう答えるのも癪だったし、戻りたいわけでもないような気もしていた。
 そもそもたった一日だけで、戻りたい、戻りたくないなどと判断はできない。あの世界――センテアにもこの世界にも未練なんてものは、たぶんないから。
「戻りたくないんですか?」
「別に」
「別に戻ってもいい、別に戻りたくない。どっちですか?」
 妙に真摯に問いかける、亮の顔を改めて見た。知恵が何か答えようとした瞬間、知恵の言葉を食って亮が続ける。
「センテアにいたころのあなたは、それなりに幸せに見えた。だからそっとしておいたのに、聖獣たちの勝手な感情のせいであなたはこの世界に来た。この世界ではあなたはずっと苦しんでいる。わけのわからない世界に突然連れてこられて、世界を管理しろと言われる。周りはそれを苦としなかったしなかった人たちだ。あなたの苦しみなんかわからない。あなたは苦しみを一人で抱えなければならない」
 真摯な言葉、口調、目線。知恵は思わず亮に見入り、聞きいった。心地よく反響する亮の声。脳裏にまで沁みるよう。
「何故、あなたまで苦しまなければならないんです。センテアにいれば、余計な苦しみなんか覚えなくてよかったのではないですか?」
 疑問符が増えて行く。
 自分が苦しい? センテアにいたころのほうが苦しくなかった? 幸せだった?
「僕はあなたを元の生活に戻して差し上げることができる。自分で選ぶことのできる世界で、自分の幸せをどうか、得てください」
 亮はあまりに真摯で、知恵は呑まれたまま。
 洞窟の中はひんやりとしていた。滝の音が外から聞こえてくる。
「私は……」
 自分も真摯に答えなければならない気がして、知恵は戸惑った。自分の将来など考えたことなどなかった。学校は大学までの一貫校だから義務教育後も学校を選ぶ必要はなかったし、大学の専門を選ぶのだって特留が決定していたから選ぶ必要性がなかった。就職活動だって特留クラス卒業というレッテルだけで結構買ってもらえる学校だったから、適当に求人を見ながら適当に呉南と話をしていた。
 今だって、やれと言われたから何の疑問も持たずにこの世界に来て、そしてなんとなくでやっていけるんじゃないかと思っていた。――今日まで。
 たった一日で、やっていけない気がした。
 自然と目線は落ちて、無意識に頬を押さえた。叩かれた場所はもう、痛くなかったけれど。
「どこに行ったって、一緒だと思う」
 いつだって何の努力もなく進んできた。勉強も運動も得意で苦労をした時がない。友達なんてものはほとんどいなかったけれど、作ろうと努力しなかった。必要だと、思わなかった。
 確かにそれなりに楽しくて、それなりに幸せだった。
 ただ、それだけだった。
「あいつらみたいに真剣じゃないから、戻っても、戻らなくても一緒」
 亮が目を細めた。少し悲しそうだった。
「それに謝らなきゃいけないから、ここにいる。ありがとう」
 少しだけ目線を上げて知恵は亮を見た。亮は知恵の顔を見て、肩を落として息を吐く。
「そうですか」
「うん。ごめん」
「いいんです、そんな気がしていたから」
 亮が少しニコリと笑った。
「ご存じの方のところへお連れします。行きましょう」
 こつん、と歩く音。
「本当にいいの?」
「えぇ、今は。でもいずれ――」
 知恵の傍に寄って促すのと一緒。本当に無造作に亮の手が知恵の頭に伸びた。額を合わせて、とても静かな声で言った。
「あなたがたの本当の幸せのために、僕はあなたがたを傷つけなければいけない。できるならその前に、選んでほしいな」
 やはりごく自然に亮が離れた。知恵はやはり呑まれたまま、亮の姿を無心で見つめていた。亮が少し前で、「こちらですよ」と優しい声音で言うのに、ようやく正気を取り戻して恐る恐る歩き出す。あまりにも自然に差し出された手に、流されるままにつかまろうとしたところで、洞窟が騒がしくなった。
 

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