「離れろ! 知恵に近づくな、亮!」
 軽い走る音と共に、怒声が洞窟の中に響いた。知恵は思わず手を引いて、声の方向を見やる。亮は両手を上げて、乾いた失笑。
「遅かったんですね、忍君。『空間』を繋げてくるものだとばっかり思ってたから、渚に厳重に閉じさせていたんです」
 どうやら全力で走ってきたらしい、忍は肩を上下させていて、傍目にも焦りが見えた。
「水把はっ」
「渚が勝手をしていなければ無事なはずですよ。渚があなたの血相を変えた姿が見たいというだけでしたから、僕が手を下す理由はありません」
「また、渚……っ」
 亮から目を離して忍がため息をついた。
「これから知恵さんをお連れするところだったんです。一緒に帰っていただこうと思って」
 忍に少し遅れて、啓が忍の背後に。忍に比べて至極冷静な顔だ。忍は亮の言葉に息をのんだ。
「帰る……どこに?」
 亮がくすりと笑った。
「どこだと思いますか?」
 タッ、と確かに音がしたと思った。
「知るか!」
 怒鳴り声と共に跳び出してきたのは緋月だった。拳を振り上げて渾身の力で亮に叩きこむ。亮がふらふらとよろめいて殴られた個所を押さえた。「痛っ」と少し呟いたけれど、それほど堪えてはいなさそうだ。
「陰険な方法使いやがって! ムカつくんだよ、てめぇ!」
「あははは、本当に、見てた通りの人だなっ」
 ひょいっと前に跳んで刹那、緋月が反応する暇もなくひじ打ち。あたった場所が悪かったのか、緋月はよろめいたかと思うと、喉に手を当てて数秒、動きを止めた。数秒後激しく息を吸い込む。
「僕が陰険なのは日陰育ちのせいです。日当は危険すぎて」
 亮は涼しい顔で笑う。少し距離を取り、肩を竦めた。
「あと、僕もあなたにムカつきますよ。緋月さん、あなたは『時』に囚われ過ぎてる」
「なん……だと?」
「明日【時の門】でしょう? くれぐれも知恵さんのことを危険にさらすような扱いはやめてください。『隔たり』は自滅を招きかねない力だ」
「てめぇらが出てこなきゃ、危険はねぇよ!」
「手厳しい」
 また少し距離を取って亮。
「水の窟を騒がせて申し訳ありませんでした、啓さん。『元素』には手を出してはいませんから安心してください」
 啓は無言で亮を見つめていた。啓の視線を受けて亮は少し楽しそうに笑った。
「忍君。水把さんはこの先です。詳しい道案内は啓さんに頼めばいい。僕は退散しますよ」
 亮がまるでピエロのように恭しく礼をすると、亮の姿は刹那に消えた。

 亮が消えたのを確認して、忍が目に見えて気を抜いた。大きく息を吐いて三人を見やる。緋月は悔しそうな顔、亮がいなくなった場所を睨んですぐ視線を別に移す。隣には啓がいて、だからお前を連れてきたくなかったんだ、と言いながらも一応心配はしているらしい。すぐに大丈夫かと問いかけて緋月の顔色を覗いた。
「お――」
 い、と続くのだが、緋月の声は遮られた。
 道の奥から軽い足音が近づいてくる。走って現れた水把に、忍の表情が目に見えて明るくなったけれど。
「知恵っ」
 立ちつくしたままの知恵に抱きついて、水把。知恵を呼ぼうとした緋月も、水把を呼ぼうとした忍も言葉を呑みこんで、啓だけがけらけらと笑っている。
「あっ、み、水、把?」
「ごめんね、怖かったでしょ?」
「それ、私の台詞っ」
「私は平気。慣れてるから。知恵は昨日来たばっかりなのに、色んなことに巻き込まれてばっかりだから、辛いんじゃないかって」
 ぎゅっと知恵を抱きしめて、水把が。知恵は目に見えて困惑している。何故か顔を真っ赤にして、やりどころのない手が彷徨っていて。
「べ、別に、辛くなんか」
「嘘。先輩が分かんないと思ってる? 私もこっちに来たばっかりのころは、帰りたくて辛くって大変だったもん」
「………」
 知恵の表情がしょんぼりとして、控えめにため息をついた。
「……ごめん、なさい」
 とても小さな声だったけれど。
「ううん」
 水把は知恵を抱きしめていた手を解放すると、満面の笑顔で知恵の顔を覗いた。両手を取って、本当に嬉しそうに。
「ね、知恵。これからも仲良くしてね?」
「……え?」
「仲良くしようね。私が管理者辞めないで続けていけるの、皆のおかげなの。だから知恵の皆に、私もなれたらいいなって思って。ね?」
 少しだけ力がこもった水把の手を、知恵はそっと握り返した。
 なんで、どうして。疑問符ばかりが浮かんで、消えないで。
「なんで……どうして皆して、そうやって……」
 水把が首を傾げた。知恵の声は絞り出すようで、反響する洞窟の中でも聞き取りづらい。
「そうやって、受け入れるのよ。それから逃げようとしてる私が、馬鹿みたいじゃない」
 くすりと水把が笑った。手を取った両手を少し上げて、知恵の顔を覗いて。
「一緒に頑張ろっ」
 水把の笑顔に、知恵は困ったように目を逸らした。


 一方ビルの最上階で、「あらぁ」と紅茶をすすったのは瑠璃だ。聖の机に腰掛けて横から聖が持つ白い紙を覗く。白い紙の片隅には知恵たちの様子が映っていた。
「忍が蚊帳の外で可愛そう。せっかく駆け付けたのにぃ」
「気にするな」
 聖が答えた矢先に、水把が忍の元へと移動した。知恵は啓と緋月と何か話していて、案の定緋月とは口論になっている様子が声が聞こえなくてもよくわかる。
「今回は何事もしなかったな。瑠璃、五時に知恵を呼べ。私も手が空くはずだ」
「はいはいー、了解」
「それと」
 ニヤリ、と意地悪そうな笑みを聖が浮かべた。
「甲斐と緋月もだ。理解できていなかったらしいな」
「わっ」
 一人、部屋にいた。甲斐は聖の傍に立ったままで、助けを求めて瑠璃を見た。瑠璃は楽しそうにけらけらと笑っていて「りょーかい」と。
「も、もう分かってますから」
「本当に分かっているのか復習だ。五時に緋月と知恵を連れてもう一度だ」
「ひーじーりーさーん」
 甲斐が肩を落として甘えたような声を出せば、聖は「うるさい」と一言。すっかり冷めた紅茶を飲む。空になった聖の紅茶のカップを取り上げて、瑠璃は甲斐にウィンクして見せた。
「諦めなさいな、聖のこれは楽しんでるだけだから」
 誰より楽しそうな瑠璃の発言。心が聞こえるといっても聖の心は聞こえない。常に様々なを見て処理しながら指示を下しているので、聖が考えていることが確かに聞こえないのである。
 甲斐は苦笑のまま肩を落とすと、「それじゃあ、今は失礼します」と執務室から出た。
 甲斐を見送って、瑠璃がけらけらと笑う。暖かい紅茶を聖に差し出しながら。
「ねぇそれで? 亮はなんて?」
「自分の意思で帰れと」
 瑠璃が入れた紅茶をゆっくりと口に運びながら、聖。少し皮肉そうに口を歪めた。白い紙に映る光景を見ている他の人間には聞こえないが、『監視者』たる聖ならば見ている場所の声も聞こえるのだ。
「反省したのだろう?」
「それだけかしらねー」
 瑠璃の定位置、聖の机にひょいと腰掛けて、瑠璃はすぐ近くから聖の持つ白い紙を覗く。
「亮がいつも以上に紳士じゃなあい? 聖、あなた何か知ってるでしょう」
「さてな」
 瑠璃に目線を送って聖。顔には少し笑み――意地悪そうな笑み。
「知っているのは面白いことになりそうだということだけだ。詳しいことが知りたいなら、雷羅にでも聞いた方が早いだろう? 瑠璃」
「あら」
 くすりと瑠璃が笑った。
「『知識』じゃ分からないところだったらどうするの? あれ、渚が見てたらただじゃすまわないわよ。危険じゃなあい?」
「『隔たり』が危険なものか」
 聖が白い紙に視線を戻した。紙の上で動く様々な管理者たち。人、世界。
「面白いことになる、ただそれだけだろう?」
 極めて淡々と聖が言うのに、瑠璃は呆れた顔で聖の横顔を見た。
「あなた見てると、私たちにとって亮とどっちが厄介なのか考えたくなるわ」
 聖が少しおかしそうに笑った。――おかしそう、だと思ったのはおそらく瑠璃だけだろうけれど。
「それを見ているお前も、随分楽しそうだが?」
「そりゃねー」
 瑠璃はけらけらと本当に楽しそうに笑う。
 ナイズはもうすぐ真昼。朝靄は消えていた。大きな窓から入り込む日の光はとても明るい。
「ずいぶん平和になって、まーそれぐらいの騒動ぐらいなら問題ないかなー?」
 聖は瑠璃を見やってすぐ、目線を逸らした。白い紙に映る様々な光景。一片に空が映った。
 今日も平和ですよ、何もありませんよと言うような、無表情な青い空。ナイズではいつもの空。
 まるで貼りつけられた絵のようだなと、聖は自分も省みずにふと思うのだった。
 

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