再びパシンと音がして、知恵は地面に放り投げられた。地面に手をついて、茂みの中から緋月を見上げた。緋月は傍目に分かるぐらい怒っていて、知恵を平手打ちにした手を片方の手でつかんでいる。
「女だってことに感謝しやがれ。女殴ると後でレナたちがうるせーんだよ」
 それでも遠慮ない平手打ちだ。知恵は軽く鼻で笑った。
「何それ。だからって平手で、何度も気安く叩かないで欲しいんだけど」
「たったの二発だろ。まだまだ足んねぇな。昨日と今日で、お前何人と関わってきたと思ってやがる」
「数えてないわよ、そんなの」
「教えてやるよ、俺がな、見てた分だけでもな!」
 緋月が怒鳴った瞬間、追い付いて来ていた甲斐が走りだした。
「待って、緋月!」
「やなこった!」
 甲斐の声に、緋月は今度は気を逸らさなかった。だが甲斐に答えた間隙をついて、知恵が手元の土をにぎって緋月の顔めがけて投げつける。思わず顔を背けた緋月に、知恵はぱっと立ちあがると、お返しとばかりに力いっぱい平手打ちした。
 ぱしん、と。なまじ知恵の力は弱くない。
「お返し。関わんな」
 一瞬だけ唖然としたのは緋月で、追い付いてきた甲斐と啓は唖然としたまま。
「てんめぇ……!」
 呻いて、一歩踏み出して知恵の服をつかんだ。逃げようと知恵はしたけれど、緋月の動きが予想以上に速い。緋月の速さと力で、片手で簡単に後ろに倒れた。
 片手で知恵を地面に押し付けて片手を振り上げたところで、その手を甲斐が取る。
「待って、緋月。怪我させたらレナと柳に怒られるじゃない。緋月苦手でしょ、二人のこと」
「知るか! 離せ! てめぇの分もあんだよ!」
「そんなことしても嬉しくないから。待ってってば、ハイ、落ち着いてー、ひーづーきー」
「黙れ、離せつってんだ!」
「離したら喧嘩続けるじゃない。ほら、啓も手伝っ――」
 ふと、甲斐の笑顔が消えて緋月の腕を掴んだ手から力抜けた。力の抜けた甲斐を払って緋月がもう一度知恵を見た瞬間、緋月も少し力を緩めた。
 啓は少し離れた場所で立ったまま、緋月と甲斐の様子を訝り、しかし他の違和感を感じていた。――昼に近づいてきているのに、朝靄が消えていなかったから。
「頭冷えたのか? 緋月」
 違和感を心の隅に押し殺して、啓が少し近づこうとしたところで、甲斐がぽつりと。
「なんでって、知恵は助けようとしてくれたじゃない」
 ――刹那。

 知恵を掴んでいた緋月の手が弾き飛ばされた。勢いに緋月は尻もちをついて知恵を見る。
 ――壁が、見えた。
 甲斐はその壁のすれすれに立っていて、少し困ったように笑うのだ。
「混乱してるでしょ。よく聞こえない」
 少し首を傾げて見下ろして。
「色んな知恵の声が混じってて聞こえないんだ。そういう時はさ、本音を押し殺して別のことを思いこもうとしてる時だと思うんだよね。ね? 本当に知恵は正直に素直じゃないなあ」
 声を出して笑う、甲斐も少し壁に触れて弾かれた。威力はあまりないらしい。数歩よろめいて、緋月と啓を見やって苦笑した。
「そういうことだから、あんまり怒らないであげてくれると嬉しいなあ」
「はあ?」
「関わるなって、本音じゃないから」
「んなことは、わかってんよ」
「へ?」
「言ったことに切れてんだ、俺は」
「は……あはは」
 甲斐が少し力なく、だけれどだんだん声を出して面白そうに笑う。
「緋月は面白いなあ」
「うっせ。病人は大人しく休んでろ」
「皆心配しすぎなんだよぅ、平気なのに」
 甲斐はニコニコと笑いながら、ひょこっと茂みの中にしゃがみこんだ。茂みの中に座り込んだ知恵と同じ目線。
「ふふっ、知恵みーっけ」
 知恵は甲斐を睨んだ。今朝甲斐を選んだと言うテイメルにも同じことを言われて、同じように笑顔を向けられた。
「テイメルとはね、よく似てるって言われるんだ。兄弟じゃないんだけどなぁ」
「思うわけないじゃない、兄弟だなんて」
「そう? 昔ね、テイメルと会った時は兄弟みたいって言われてたんだよ」
「そう。私は思わなかったけど」
「うん」
 甲斐は笑顔のまま。そっと片手を差し出した。いつの間にか壁が消えていた。
「心配してくれて、ありがとう」
 

Back.← Index. → Next.
inserted by FC2 system