朝焼けの森。
 綺麗だなとか思うのが普通なのに、知恵はどうしてか無感動だった。森の奥へと消えていく啓を見送ってから、本当にゆっくりと歩きだすことにする。
 森の中、歩道が続いている。歩きやすいようにタイルが敷かれた道もおそらく、『形』の管理者か、機械たちが作ったのだろう。夜になればほの明るく光る。
 深い緑の色。緑の香り。耳に入り込む音は木々や草がそよぐ音だけ。
 寂しいと、思う人はいるのだろう。
 知恵と同じように突然この世界に連れてこられた人間ばかりだという。ならばきっとこの誰もいない世界に、寂しさを感じた人間もいることだろう。
 けれど知恵は思わなかった。寂しいと、思う理由がなかった。
(学校の裏庭みたい)
 ただ木々が並ぶだけの場所。煩わしい声なんてものも遠くて、人の気配も少なくて。
 不意に知恵は立ち止まって木々を見上げた。
 全てに、存在する『隔たり』という境界線を。
「知恵、みーっけっ!」
「きゃあっ」
 ボフッと音がして、知恵の後頭部に柔らかい何かが直撃した。唐突に重くなった頭に耐え切れずに前のめりになると、頭上からまるで翼で飛んだかのように軽やかに少女が降りてきた。同時に頭も軽くなる。
 倒れるのを踏みとどまって、少女を見下ろした。茶色の髪茶色の瞳。満面に笑顔で愛らしい。
「わーいっ、知恵っ!」
 再びボフッと、今度は正面から少女が抱きついた。あんまり嬉しそうにしがみつくので知恵は狼狽した。そもそも子供が苦手なのだ、扱い方が分からない。
「な、何っ?」
「懐かしい匂いーっ」
「なんなの?」
「ボクね、テイメルだよっ」
「テイメル?」
「うん。さっき知恵の頭に乗っかったのもボク。えへへ、驚いた?」
「驚いたに決まってるでしょ。何なの?」
「会いにきたのっ」
「会いに? 私に?」
「うん、知恵に。まだ誰にも会ってないんでしょ? 一番のりだっ」
 上機嫌に知恵に抱きつきながらテイメルは頬を知恵にこすりつけた。
「嬉しいなあ、会いたいと思ってたから」
 知恵はとりあえず、困っている自分をどうにかしたかった。どうしたらいいのか。
「もうちょっとこのままでいさせてくれると嬉しいなっ」
「え、それはっ」
「だって今日やることないんでしょ? だったらいいよねーっ」
「だからって」
 テイメルが抱きついたままだから、知恵は動けない。少し諦めて、ため息をついた。
「ねぇ、あなたは何の管理者なの?」
「ん? あはは」
 知恵を見上げてテイメルが口を開けて笑った。
「ボクね、『心』。知恵が思ってる管理者じゃないけどねっ」
「『心』? 甲斐と一緒なのね。他にもいるの?」
「ナイズの『心』の管理者は甲斐だけだよ?」
「じゃあテイメルは何なの?」
「ボク、甲斐を選んだんだっ。ナイズの管理者じゃないよっ」
「選んだ?」
「うん。知恵を選んだのはウォーレンで、忍はエルフォース様で水把がフィエ。あ、啓はエレクトだよ」
 どう偉いでしょうと言わんばかりの笑顔でテイメルが見上げてくる。また知らない名前が羅列されたと知恵は思う。胸中で嘆息した。
「あとはね……タイラは緋月でテリアが瑠璃、ホードがレナだ! えぇと……」
「ちょ、ちょっと待ってね。いきなり色々詰め込まれても混乱するものは混乱するのよ」
「えへへ、あんまり嬉しいんだもの。早くみんなこと教えてあげたくて」
 やっぱり至極嬉しそうにテイメルが笑う。その笑いに、なんとなく甲斐の表情が重なった。いつか同じようなことを言われそうだなと思った。
「うん。言うと思うよ、甲斐だもん。きっと今朝だって元気だったら知恵に会いに行ってたと思うよ?」
「そう」
 答えて、ふとひっかかった。
「“元気になったら”?」
「うん。今ちょっと病気みたいなものなんだ」
 ちょっとだけしょんぼりしてテイメル。肩を落としたテイメルを見て、不意に怖くなった。
「……病気? 『心』の?」
 テイメルが眼を丸くして知恵を見上げた。
「啓が、今朝“気に病むな”って」
「そっか。うん。『心』の病気。知恵は頭が良いんだねっ」
 笑顔になったテイメルを見下ろしてすぐ、知恵はテイメルから目線を逸らした。
「私の、せいなの? 何かしたの?」
「うん……あのねっ」
「テイメル」
 唐突に別の声が割って入った。知恵に抱きついていたテイメルを拾い上げたのは長身の男。銀髪、優しそうな瞳の。聞き覚えのある声の主。
「怒っているのか?」
 テイメルが男の腕の中で首を横に振った。知恵から離されておかれた場所で男を見上げた。
「でも、知っておいた方がいいよ?」
「怒っているだろう」
 くすりと男が笑った。
 ――見覚えがあるかも、と知恵は思った。けれどあやふや過ぎた。声だけ、声だけ覚えている。
『隔たり』の力を使う直前に聞こえた声。低く、透き通った、あの。
「あ、知恵。ウォーレンだよ」
 明るい声でテイメルが知恵に向いた。唐突に話を戻されてびくりと肩を上下させたけれど、知恵は心だけは冷静に、ウォーレンと紹介された男を見た。
 やはり、見覚えがあるような、気がしていた。忘れるはずのない容姿なのに。
「潜在的に覚えてるのかも! ね、ウォーレンっ、知恵が見覚えあるかもって」
「覚えがあるはずがないだろう。気のせいだ」
 ぽん、と無遠慮に知恵の頭に手を置いてウォーレン。知恵はすぐに抵抗してウォーレンの手から逃れた。
「それで、何なのよ。私が何をし――」
 ぺち、と知恵の言葉を遮って頭に細長い棒が軽く当たった。
 

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