「素直に受けておけ。後悔するぞ」 また、別の声。 最初に見えたのはサンダルを履いた足で、頭からどいた棒を追って主を見やれば、意地悪そうに笑う男の姿がある。手に持った棒で、ウォーレンとテイメルの頭も軽くぺちぺちと叩く。 「あんまり関わりすぎるなと言っているだろう。成長を妨害する」 テイメルは頭を押さえたが、ウォーレンは無反応。 「エルフォース様、ケイス殿が頭を抱えているかと思いますが」 「私は用事できたのだ、遊びにきたお前らとは違う」 ウォーレンは返す言葉もない様子だが、テイメルは笑顔のままだ。 「エレクトがいないの?」 「あぁ。タイラも今朝から見当たらないが、二人ともここにいるだろう。体力馬鹿のエレクトを捕まえるのを手伝え、ウォーレン」 「かしこまりました」 軽く恭しく頭を下げ、ウォーレンは周りを見た。 「空から見てまいりましょうか」 「そうしてくれ。私は宿所いるだろうタイラを迎えに行く」 「はい」 ぺったぺったと音を立てて、軽い調子でエルフォースと呼ばれた男が去っていく。知恵は蚊帳の外。知らない名前がまた増えて、胸中で嘆息。ウォーレンが知恵を見下ろした。 「では行くか。少し話をしよう、知恵」 「空って……飛べるつもり?」 「あぁ、跳ぶ」 ウォーレンがにやりと笑った。ウォーレンの顔を見て知恵は再び、今度は音に出して嘆息。さっきから気になってはいるのだ。ウォーレンもエルフォースも、何もない空間から唐突に現れているから。 なんでもあり、なんじゃないかと。 「なんでもは言いすぎだよぉ。でも色々とありかも」 語尾に記号でもついていそうなほどの上機嫌なテイメルの声。「そう」と答えた知恵の体が唐突に持ち上げられた。 「なっ……なにっ?」 ふわりとした感触が肌をなでた。目線が一気に高くなったと思えば、「つかめ」とウォーレンの声。いつの間にか大きな銀色の獅子の背中の上。 「う、ウォーレン?」 「あぁ。落ちるぞ、大人しく掴め」 大人しく知恵が獅子の首に捕まると、獅子――ウォーレンが喉を鳴らして笑った。地面を強く踏み締めて、跳躍する。跳躍すれば鋭い風を感じ、簡単に木々の上まで昇ってしまった。ひとっ跳び。 「なんでも、ありじゃない……!」 ウォーレンが喉を鳴らして笑った。木々の上空からゆっくりと、木々の上に降りる。一本の木の頂点に着地すると、鼻面を様々に向けて辺りを見渡す。 「なんでもは言い過ぎだ。“色々と”だ」 「私にしたら“なんでも”よ。何よ、ウォーレンなんでしょう?」 「あぁ。俺たちはいくつかの姿を持つからな。そもそも形というものを失っているのだ」 「……そう。もうね、色々と知識を詰め込みたくないからつっこまないけど、だったら、あれも?」 「ん?」 知恵が広場の方向を指差した。 遠くから声がする。 「だっ、だから、待てって言ってるだろ! エレクトーっ」 「………」 「啓よね、叫んでるの。今朝も会ったばっかりだから覚えてるわ」 「そう、だな。啓だ」 「私眼悪くないんだけど、啓、黒い豹みたいなのに咥えられてる気がするんだけど」 「そう、だな。あれはエレクトだ」 「探すって言ってた、あれ?」 「そうだ。エレクトは、啓を選んだ聖獣だ」 「聖獣?」 「あぁ。話す時間がなくなったが、少し跳ぶ。舌を噛むなよ」 言っている間もすごい勢いで黒豹が走ってくる。黒豹に向かって跳んで、ウォーレンが少しだけ鼻面を上げた。――瞬間、黒豹の眼の前に巨大な壁が現れた。「なっ」と誰かが叫んで、黒豹が慌てて空中で立ち止まりながら体を丸めた。「ぎゃっ」と潰れた声が聞こえて、ウォーレンが丁度たどり着いた。ウォーレンもすごい速さだった。知恵は必死でウォーレンにしがみついていて、ウォーレンに咥えられた黒豹も、黒豹に咥えられた啓もぐったりしている。 地面に着地したウォーレンに下ろされた三人はそれぞれにぐったりしていて、一名――黒豹姿のエレクトだけはぴくりともしない。 ウォーレンから降りてふらふらと地面に腰を下ろした知恵は、エレクトをみやって、「ねえ」と。 「生きてるの? すごい勢いだったけど。……啓が生きてるのもすごいとは思ったけど」 「啓ならエレクトがかばったからな。エレクトも心配はない。俺たちは簡単に死にはしない」 「そう」 なんでもありにしか思えなかった。啓が必死になって声をかけていたエレクトは、少ししてぴくりと動いた。本当に生きているらしい。 「エレクト!」 響く重低音のウォーレンの声。びくりと黒豹が反応して体をもたげた。 「この世界のことに干渉しすぎるなと言われたのを忘れたのか?」 黒豹が首を獅子に向ける。 「し、しかしウォーレンっ」 「エレクトは心配しすぎだよぉ」 正しい道を通ってテイメルが現れた。テイメルが現れたのをきっかけに、ウォーレンも人の姿に戻る。 黒豹は身をひるがえしてテイメルを見た。 「しかしテイメル! あの時はお前ですら死にかけた!」 「それは……」 「今回は魔物たちは死んでいない、心配するな」 「『心配するな』だと?」 黒豹が一瞬にして消えた。目を見張る知恵の目の前に細見で色黒の男が現れて、噛みつかんばかりの顔でウォーレンを見上げた。 「それはお前が言えた言葉ではない!」 エレクトと呼ばれた青年の視線を受けて、ウォーレンが悲しそうに目を細める。テイメルが少しだけ首を落とした。 エレクトの声を聞きながら、知恵はどうしてか自分が責められている気分になった。言われているのはウォーレンのはずなのに、言葉の意味の矛先は自分に向かっているような気がするのだ。 「……ったく」 遠くから呟く声が割って入った。ちなみに五人がいた場所はビルに続く道。誰かが通りかかるのは、必然だった。 「朝からタイラがごちゃごちゃうるさいと思えば、ここにも聖獣かよ。なんなんだよ、今日は」 言って大きく欠伸。緋月だった。緋月を見た啓が唖然とした。 「緋月、よくこんな時間に起きてるな」 「起こされたんだよ! 朝っぱらからうるせー、タイラも、お前らも!」 「タイラ朝早いからね!」 「早すぎだ! タイラに起こされたかと思ったらお前らうるせーしよー、眠れねーっつーの」 「私ら?」 知恵が啓を見た。目があった時点で二人で納得。 「廊下で話してた時のことか」 「だよ。朝がだだっ早い忍と甲斐だけじゃねぇんだぞ、あの階の住人は。俺もいるんだ!」 「ってことは、半分覚醒してたところに俺たちの会話が聞こえてきて、気になって眠れなかったわけだろ」 「私たちのせいじゃないじゃない」 「うるせーっ!」 噛みつかんばかりの勢い。寝起きでさらに不機嫌なのだろう。緋月は啓と知恵の二人を睨んだ。 「だいたい啓、お前な! こいつ甘やかしすぎだろ!」 「私を?」 「あぁ、お前をな、どいつもこいつも甘やかしすぎだ!」 「それは違う!」 知恵に詰め寄ろうとした緋月と知恵の間に入って、啓。 「お前は現場にいなかった。甲斐の頼みも聞いてないじゃないか」 「あぁ、そのおかげでまともに判断できんだよ。言わない方がいいだ? 教えてやれよ、じゃなきゃ何度も同じ失敗するぜ」 「それは、なんとか……」 「できんのかよ。無理だ、不可能だ。『時』すらも直せないもんがある」 「確かに『時』だけじゃ直せないものはあるけど、ここにあるのは『時』だけじゃない」 「だとしたってどうせ甲斐に頼るしかねぇんだろ? 本人に頼るつもりかよ」 啓が言葉を詰めた。言葉を詰めた啓をどけて、緋月は知恵を睨んだまま、一歩知恵に近づいて。同じ分だけ知恵も緋月から遠ざかった。意地で緋月を睨んでいたけれど、無償にある嫌な予感が、胸を潰しそうだった。 理由は分からなくても、甲斐が“『心』の病気のようなもの”になった原因は自分だということぐらい理解できていたから。 「……何よ」 「分かってんだろ、お前」 緋月からさらに離れて、知恵は両手を握った、力の限り。 「何を、分かってるって?」 「てめぇ……」 「緋月っ」 また、新しい声が。 甲斐の、声が。姿が。緋月の背中から近づいてくる。あまり速くなかったけれど、走ってくる。 緋月が振り返った、瞬間に知恵は無意識に踵を返した。一目散に逃げ出す。 知恵が離れた感覚に、緋月はすぐに知恵を見た。顔付きが険しくなる。 「待って、緋月!」 追いかけようとした緋月の肩に甲斐の手が伸びた。伸びた手を緋月は軽く払う。 「てめぇも、啓も! あいつもだ!」 緋月は甲斐に振り返って力の限りに怒鳴る。緋月の迫力に甲斐がはらわれた手を宙に置いたまま。 「逃げてんじゃねぇ、ってんだよ!」 怒鳴って、すぐに緋月は知恵を追った。 |