立ち上がって「どこに」と言おうとしたところで、忍が知恵の手を取って歩き始めた。至極楽しそうで――なんだか甲斐を思い出す。ずっと笑っていた、あの表情と一緒。勝手に手を取ってって。
「行こう」
「わかったから、手、離して。少しは遠慮ってものをしなさいよ、あんたたちは」
 椅子から立ち上がって水把が後ろで手を振る。部屋を出たところで忍が手を離した。
「ごめん。少し浮かれてる。年に一度あればいいぐらいだから」
「そう。変な趣味」
「そうかな」
「たぶんね」
「だとしても、一番に変じゃないからいいけどね……そうだ、エレベーターの話」
 知恵の部屋がある階には四つのドアがあった。外見はただの普通のビルなのに、内装はまるでホテルか何か。独特の雰囲気がある。綺麗に掃除されていて、汚れ一つもない柔らかい床に、天井は円を画いたドーム型の廊下。エレベーターの前にはテーブルとイスが置かれている少し広い空間がある。
 ぴっとエレベーターのボタンを押して忍が。
「知恵も、エレベーター、って言うのかい?」
「え?」
「これ。最近の言葉に合わせるようにしてるんだけど」
「違うの?」
「たぶん、エレベーターだよ。建物の上下移動を助ける機械。だね?」
「……私がこっちに合わせて呼ぶけど」
「あぁ、いいんだ。センテアに行っても不自然じゃないようにする練習でもあるから」
「そう、ならいいんだけど」
 いいとは答えても、何か違和感がある。まるで最近の時代のことは分からないとでもいうかのよう。――とはいえ、そもそも世界が違うのだという。国の間でさえ分からないことも多いのだ、世界をまたげば分からないことも増えようもの。知恵は勝手に納得したことにして、「それで」と話をすすめた。
「エレベーターの話って?」
「あぁ、うん。エレベーターがしゃべっただろう?」
「……そうね」
「センテアじゃ、機械ってしゃべらないものなんだろう?」
「そうね。録音されたもの以外はしゃべらないもの。メモリーされてたの? あの会話」
「めもりー?」
「記録。プログラムされてたの、って」
「ぷろぐらむ?」
「……AI?」
「えーあい……? ごめん、最近の言葉、分からないものも多いんだ。特に最近のセンテア、コンピュータってものが生まれてから分からない単語がどんどん増えた」
 やはり、知恵には違和感が。
「それより」
 思考を遮るように忍。鋭くエレベーターを見た。
「またサボってる。失礼」
 言うが早いか、忍は軽くエレベーターの扉を叩いた。
「真麻に怒られるけど、一回灸をすえようか?」
 言い終わるのが早いか。
 エレベーターの扉が開いた。
「よし。行こう知恵」
「……えぇ」
 明らかに機械に向けて脅しを使った。知恵は忍を見て思う。それも機械も答えたようなタイミング。忍は涼しい顔。知恵にボタンを指差して今の階数を教え、にこりと笑う。笑っている顔は普通にしか見えないのに。
「エレベーター、サボリ屋で悪戯好きなんだ。隙をみせないほうがいい」
「……そうね」
 当たり前のように忍が言うのに、とりあえず知恵は従った。この世界では当たり前、のような気がしてきた。
 再びエレベーターが開くと地上階。やはり移動は一瞬。知恵がいた階数はさほど高い回数ではなかったとはいえ、一瞬で、しかも重力を感じずに降りることなどできないはずなのに。
 悠々とエレベーターを降りる、忍は上機嫌。
「知恵には機械に見えるものにも、性格があるんだ。うまく付き合うといい」
「……なんか、面倒ね」
「そうかな。面白いよ。街にも沢山いるから観察してみるといい」
「街? 人がいるの?」
「たまにね。でも大抵機械だけだ。――あぁ」
 エレベーターホールを出たところに、人影が一つ。風を眺めている、啓だった。
「紹介するよ、啓!」
 呼ばれて、啓が振り返る。黒い髪と微かに茶色い黒い瞳、それなりに整えられた全ての容姿は、“優等生”なのだろうと想像させるに足るものだ。
「やあ、忍。新しい人の案内かい?」
「そう。正式に紹介してなかったから紹介するよ。知恵だ。『隔たり』らしい」
 紹介されて知恵に視線が集まる。さわやかに啓が笑えば、知恵はぽかんと。
「はじめ、まして……」
「初めまして。俺は啓。『元素』の管理者」
 さわやかに笑いながら啓に片手を差し出されて、知恵はおずおずと片手を差し出した。軽く握手する。忍が隣で笑っていた。
「元政治家の孫。民主政治は面白いね」
「元。この世界じゃ昔のことは言いっこなしだろ?」
「知恵が困ってたみたいだったからね。それ、癖だろう? もっと自然に挨拶できるようにならないと」
「充分自然のはずだけど」
「自然じゃなかったから知恵が驚いたんじゃないか」
「そうなのか?」
 純粋に驚かれて視線を向けられて、知恵は居心地が悪かった。正直言えば“優等生”という類が苦手なだけで、その挨拶の仕方がどうとは思わなかった。そもそも、忍と甲斐に会ったときから、変なことは起こり続けてきたのだから。
「だったらごめん」
「謝られても困るんだけど」
「はは、そっか」
 やっぱり無駄にさわやか。やっぱり苦手かもと、知恵が思ったのと同時。彼方からぎゃーっと声が聞こえた。
 男の悲鳴だった。忍と啓が苦笑するのに、「何」と問う寸前。
 道に、体格のいい男の人が、這って、出てきた。
「あ、新しい管理者……っ!」
 とりあえず知恵は呼ばれて動きを止めた。――固まるしかなかった。ずるずると、何故道に這って出てくるのか、理解できない。ビルから続く道の両脇は深い茂みで、がさがさと音はするし、男の体に葉っぱはくっついてるし。
「『運命』を教えてやる……ぞ!」
「しつこい!」
「ぎゃっ!」
 男の背中を踏みつけて、女が登場。茶色い髪でセミロング、眼は黒い。ヒールは低いとはいえ、腕を組んで無遠慮に男を踏みつぶしている様は、やはり異様。
「そういうのは、わざわざ教えなくてもいいって何度言った分かるの? 呈汰?」
「ね、音衣……手加減、して、くれ……」
「手加減してたら出てきたんでしょうが!」
「ぎゃーーっ」
 ぐりぐりと、音衣と呼ばれた女が無遠慮に男を踏みつける。「あハハ」と冷めた笑いは忍のもので、啓は一瞬己を忘れていたものの、慌てて二人に歩み寄った。「それぐらいに」と、音衣をなだめている啓のすぐ隣の下で、涙目の呈汰。
 音衣が足をどけて立ち上がった呈汰に、音衣が一言。「言ったら、ただじゃ済まないから」と。啓の顔まで青ざめるのが見えた。
「基本的に、音衣は優しい人なんだよ?」
 忍が苦笑で告げた。「そう」と答えた知恵は少しぎこちない。
「あ、新しい管理者か!」
 踏まれていた腰を押さえつつ、呈汰。声も態度も無駄にでかい。呼ばれて知恵は、やはりぎこちないままに頷いた。
「えぇ、知恵」
「『隔たり』の管理者だよ。呈汰、大丈夫かい?」
 呈汰が少し首を横に振った。答えられないのだろう。
「音衣、あまりやりすぎないで」
「少し分からせなきゃいけなかったみたいだから。忍、私たちのことも紹介してもらっていいかしら?」
「いいよ」
 忍が苦笑。知恵も苦笑。音衣の表情は今かなり優しい。忍はまず、音衣を示した。
「知恵。彼女は音衣。『言葉』の管理者」
「よろしくね」
「彼は、」
 呈汰を示した瞬間、呈汰が胸を張る。体が大きいのに、さらに大きく見えるようにとでもあるように。
「呈汰だ。『運命』を知ることができる!」
 忍が苦笑した。呈汰の声はやはり無駄に大きかった。
「だね。呈汰は大抵この建物の中で仕事してる。水把もだけど」
「大抵私も中にいるわ。用事があってもなくても、訪ねてくれて構わないからね。待ってるから」
「……行く、勇気が持てたら」
 知恵の回答に、ぷっ、と啓が吹き出した。音衣が軽く怒るのに、ごめんなさいと軽く謝る。
「緋月もそれ言ってたの覚えてて、おっかしくて」
「え……それ、最悪じゃない?」
 不機嫌、知恵の声。視線が知恵に集まる。集まった視線にやはり、知恵は居心地が悪そう。
「緋月と同じなら、性格、変えようかな、って」
 ぷっ、とふきだしたのは、今度は忍だ。笑いながら近くの石を拾い上げて、起き上ったと思うと、傍の木に向けて鋭く投げた。バキ、うわ、とか音が聞こえたと思ったら、黒い塊が木から落ちてくる。
 黒い塊は人だった。緋月。緋月は座り込んだまま忍を見上げた。
「て、てめぇ、死ぬかと思ったじゃねーかよ!」
「当てるつもりで投げてないよ。ぎりぎりを狙ったんだ」
 しれってして忍。涼しい忍の顔を見て、緋月は言葉を呑んだ。
 比較的近くで知恵は明らかに軽蔑するような眼で緋月を見ていて。
「何、してんの、あんた」
 凍りつくような視線だった。緋月は知恵の顔を見て、ゆっくりと視線を逸らす。
「何、してたの?」
「いや……木に、登ってた、だけだ」
「本当に?」
「じゃ、じゃあ、なんだってんだよ!」
「知恵、教えておいてなんだけど、気にしない方がいい。尾行は緋月の趣味だから」
「悪趣味ね」
「そうだね」
「ちがっ、あ!」
 緋月が反論する暇は、与えられなかった。忍は緋月を抜かした三人に愛想よく挨拶をして、知恵を連れてその場を去る。啓は緋月に目配せと肩を竦めると、「俺も行くよ」と忍と知恵を追いかけて行く。呈汰と音衣は何事もなかったかのように、建物の中へと戻っていき。
 緋月は「ちっ」と舌打ちして、再び趣味に走った。この世界――ナイズでもっとも変な趣味、と呼ばれている尾行。
 センテアでは犯罪に近い。
 

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