「……遅いな」 「えぇ、遅いわ」 けらけらっと女が笑った。腰まであるかと思われるほどの真っ直ぐで長い黒髪で、眼は薄い茶色だ。足元まであるワンピースはすらりと長い足を強調するようにスリッドが入っている。高いヒールを履いて、横に立つ長身の男に並んでも見劣りしないほどに背が高かった。 彼女の横に立つ男は、髪も眼も黒い。黒いズボンに白いワイシャツを着崩しているというなんとも味っ気のない格好をしている。腕を組んで眉間に皺を寄せているところ、声の調子の通り不機嫌なのだろう。 「それで、 「もうすぐだ。思ったより早かったな」 聖、と呼ばれた男が何食わぬ顔で即答する。二人が居る場所は、扇形のホールだ。中心に向かうほど低くなる、広い幅の階段が三本、出入り口から中心に向かって伸びている。椅子が中心にむかっていくつも備えられているが、人が座っているのは椅子の数に比べればほんの一握りにも満たない数だ。 二人が沈黙して、数秒。 出入り口の一つが勢いよく開け放たれた。 「ひ……」 と、出入り口前に立った先頭の一人が大きく息切れして声を出す。 「酷いじゃないですかっ! メッセンジャー置いとくんじゃなくても直接、言ってくれれば直接来ます!」 背筋を伸ばし、叫んだのは忍だ。後ろに膝に両手をついてばてている知恵が居て、知恵の後ろには涼しい顔の甲斐が立っている。 忍は肩を上下させて呼吸を整えると、中心にいる二人を見下ろし、半ば諦めた顔で続ける。 「……僕らが苦労するの、確信していたことくらい、分かってますけど……」 「あら、ならいいじゃない忍。聖のこれはいつものことだし?」 「毎年ほぼ全力で走る僕の身にもなってください。毎年寿命縮んでますよ」 「あらー? もともとない寿命が縮んだところでなんてことないわよー?」 中心にいる女性が面白そうにころころと笑う。忍はがっくりと肩を落とし、「そういう問題じゃ……」と小さく呟く。忍の後ろでバテている知恵が「ないわよね」と、同調して呟いた。 空間の狭間からたどり着いた場所――広場から約五分。忍が言うにはそれでも早いほうらしい。普通に歩いて十数分はかかる場所らしく、忍が始めに言っていた「行かなくてはいけない場所」に辿りついたときは忍が安心したような顔を見せていた。だが、行かなくはいけない場所――森の中に不似合いに立ったビルの最上階にたどり着くと、小さな銀色の人形がいたのだ。大きな机の上にちょこんと座った、四角い頭とスピーカーのついた立体九角形の身体に、合計四枚の銀色の板の翼をつけた人形が。 四角い顔にあったラクガキのような口が、器用に動き出してこんなことを告げたのだ。 『聖サマと ――僕の足でぎりぎりじゃないですかっ、と忍。 実は忍の力をつかえば距離をゼロにすることも出来る。忍はあえてそうしないのではなく、単に忘れているだけだ。 ちなみに聖と瑠璃――聖の隣に並んでいる女は忍が忘れてることを確信している。 「ふっ、どうであれ遅刻であることには違いないぞ、忍、甲斐。それと、新しい選出者……名前は?」 「新しい選出者って……私?」 今だ整わぬ呼吸を必死で整えながら、知恵が問う。中心にいる聖と呼ばれる男が小さく、瞬きと共に頷いた。 「神崎知恵。忍と甲斐が勝手に呼んでたから皆知ってるもんだと思ってたけど」 「あぁ、私は知っている。ここまで降りてきてくれ。知らない人間もいる」 やはり当たり前のように聖が即答する。知恵は忍と甲斐を見やり心の中で問うた。「どうしても行かなきゃいけないのか」と、無意識に。 甲斐は知恵が自分を向くと「まぁね」とやはり無邪気な声で応えるのだ。 「行っておいでよ。皆、知恵と会えるの楽しみにしてるよぅ?」 「っていうか、これは命令に近いしね。一応、聖さんの命令は絶対だから、覚えておいたほうがいいよ。嫌でも覚えると思うけど」 「そう……」 知恵は背筋を伸ばし、軽く頭を抑えた。 違う世界だ、と心の中で確認する。生きていく上のシステムも、何もかもが違う世界。自分の周りに居る人間さえも、自分の役割さえも違う世界。 ――こんなふうに、目立つ行動など、取らせられることなどなかったから。 「油断大敵だぞ、聖?」 ゆっくりと一歩、前に踏み出そうとした刹那。爆音と共に足が地面から離れた。――衝撃と共に。 「新しい選出者はこの錬様がいただく!」 あーはっはっはと、大きな高笑いが聞こえると共に、知恵は一瞬だけ失った自分の視界を確認する。 ――天井が近い。 近い、と思った天井さえも一瞬で崩れた。青い空が見えると、そのまま天井の上まで登っていた。 呼ばれた聖は微動せず、唐突に現れた略奪者に向かって答えた。天井と出入り口を破壊し、魔物を使い新しい選出者である知恵を上空へと浚った人間を。 「よくも毎回、飽きずにくるな」 無感情とも呼べる、至極冷静な声だ。 先ほどまで知恵が居た場所に立つ、忍と甲斐の後ろに、もう一人、浅黒い肌の男が立っている。甲斐と同じようなオレンジ色の明るい色の髪に緑茶色の瞳。男はニタリと意地の悪い笑顔を浮かべてみせた。 「昨今はなかなか成功しないようだがな。浚うなら、力が安定しない間が一番楽だろう」 「浚う、とはな」 短く、息を吐き出して聖が笑う。 「奪う、の間違いではないのか?」 「相変わらずだ。久しぶりなのに感動の言葉もなしか?」 「私は時間の感覚さえ忘れているからな。お前とも時の長さの感覚がだいぶ違う」 「なら、たまにはこんな騒乱もいいだろう? なぁ、甲斐」 錬が小さく笑って、聖から顔をそらした。すぐ横の甲斐の顔を見やり、満面に笑顔を浮かべる。 「筒抜けだぞ、お前の力と俺の力は同じだということを忘れたのか?」 「忘れるはずないだろっ!」 弾かれるように甲斐が顔を上げ、怒鳴った。知恵が会ってからほとんど変わることがなかった笑顔が消えて、錬を必死に睨み付けている。 「俺が! お前に会って後悔したことの一つなんだから!」 「『お前』とは悲しいな、父さんと呼んでいいんだぞ?」 「誰が呼ぶもんか! お前なんかっ」 甲斐は錬を真っ直ぐに睨みつけ、ゆっくりと手を前に差し出す。甲斐と錬との間の場所で、甲斐の手が止まった。透明で平らかな壁が手を拒んで、甲斐が少しだけ目線を落とす。 「あぁ、今日は徹も来てるんだ。嬉しいだろう? 子供が喜ぶことを教えてやるのも父親の役目だからな?」 「誰が……っ」 両手を垂らして、甲斐が下を向いた。拳をきつく握ると、首を横に振る。 「誰が……っ、喜ぶもんか……っ!」 ――本当は『徹』という人物に会いたかった。本当の笑顔で、屈託のない、裏も表もない会話を自然に作り上げるあの人に。 だが甲斐が知る限り、『徹』は半年前にいなくなっている。徐々に壊れ、消えていく様を、甲斐は間近で見ていたのだ。 「……取り込み中のところ悪いけど、錬。新しい選出者連れてかれると困るな、僕らの楽しみ奪うつもりかな?」 別所で、違う男が錬に声をかけた。甲斐はゆっくりと顔を上げ、天井があったはずの空を見上げる。――二度と、繰り返したくはないと、誓っていたのにと。 錬は自分に声をかけた男を見やり、けらけらと笑ってみせる。 声をかけた男の横にいた女が、これ見よがしに腕を組む。 「そうそう、今なら手加減してやってもいいしね」 「お前らと面と向かって戦う気はないぞ。時期でもないし、あいつの命令もないしな」 それに、と呟くように続けると、くるりと踵を返す。すぐ後ろに控えていた魔物の背中に乗ると、ひらひらと片手を振った。 「お前らに、手加減の文字はないだろうが。――まぁ、長居をするのも面倒だ。じゃあな、甲斐。【風の丘】で待ってるぞ」 「【風の丘】……? ――待て、錬!」 甲斐は無意識に結界のあった場所へと駆け入った。刹那の後に思い出して、少しだけ身体を縮める。だが隔たりはなく、甲斐は自然と空へと視線を飛ばした。 天井のなくなったホールの上で、感情のない徹の瞳が甲斐を見下ろしていた。すぐ横には魔物に抱えられた知恵が諦めた表情で浮かんでいる。 知恵の声がぼそりと落ちる。心を聞くことのできる甲斐でなければ、おそらく聞こえなかった。 「……隔たりなんか、見えない。この場所に、壁以外の隔たりなんて、どこにあるっていうのよ」 撥の悪そうな顔でそっぽを向き。 「……遅刻、するんじゃないの? 甲斐?」 甲斐は短く息を吐き出してニコリと笑いを浮かべると、地面を強く蹴った。 地上を走るは風の如く――父から受け継いだらしいこの俊足だけは、恨めしいと一度も思わなかった。 「【風の丘】……か」 聖が短く、息を吐き出して笑った。上空にいた徹たちも、どうやら風の丘へと向かったらしい。訝しげに見る瑠璃の視線を受け、聖は瑠璃を一瞥して見せた。 「油断大敵だぞ、錬?」 忍が振り返り苦笑を浮かべる。軽く片手を挙げると、「いってきます」と空間に穴を開けた。 「あぁ、忍。くれぐれもやり過ぎさせるな」 「えぇ……聖さんが余裕綽綽なのが、ここに啓がいないからだって信じてますよ」 「聖のこれはいつものことよ、忍。何年の付き合いになるつもり?」 瑠璃が冗談めかして笑い、忍が苦々しい顔で頬をかいた。 会話の間に駆け寄ってきた女の手をとり、忍は空間の穴に向かう。 顔だけで聖と瑠璃に振り返り。 「もう五〇年に近いですね。だから僕は皆を信じれるんですけど。だからこそやっぱり、心配ですから」 答えて二人一緒に空間の穴へと消えた。 |