――魔物に捕まえられたときは反応する暇もなかった。捕まえられた今は、暴れて落ちるのは嫌だったから。
 ナイズの上空を飛ぶ魔物の腕に抱えられて、知恵は上を見た。上には他にも無数の魔物が飛んでいる。それぞれが違う形を持つ魔物が、翼も持たずに飛んでいるのだ。
 その中の一匹に、知恵のほかの人間が乗っていた。黒い短髪を風に揺らす男。表情からは何も読み取ることはできなかった。
「――っ」
「……どうかしたのか」
 男は、低い、感情の篭らない声で問う。知恵は虚を突かれる思いで男を見上げた。
 長い髪を括っていたゴムは、捕まったときに切れてしまったらしい――風に鬱陶しくなびく自分の髪を押さえながら、知恵は目線を落とした。
「別に。耳鳴りがしただけ」
「そうか。すぐに風の丘につく。そのせいか」
「風の丘?」
「………」
 男が黙り込む。知恵は小さく舌打ちすると、大きく息を吐き出した。
「あんたたちが行きたいのは、ダイセンドなの?」
 男は何も答えなかった。知恵は構わずに続ける。
「何かの、力を持ってるの?」
「……『隔たり』と『心』」
 落とす声は、やはり感情などない。知恵の問いにどうして答えるのか。男は知恵を一度も見なかった。
「亮は言う。いつかお前が亮の元へくる。それが、運命なのだと……運命を知れる人間が、ダイセンドにはいないはずなのだがな。俺の『隔たり』と錬の『心』。亮の」
「亮って誰。呉南とか甲斐とかにも言ってるけど、私は全員の名前なんて知ってるはずがないんですからね。いい加減にして欲しいわ」
「そうか……」
 男は静かに声を落とすと、それきり黙りこんでしまった。
 沈黙も静寂も、知恵にとっては慣れていたものだった。ただ違和感のある沈黙を作り上げるこの男に、居心地の悪さを覚える。
 それに、と知恵は考えた。誰かが男の名を呼んでいた。――隔たりを見つけた甲斐に錬が『徹さんも来ている』と言った。
 隔たりを操る者、それが徹だというのなら。
「……徹? ……とう……さん?」
「父親だと? 俺がか」
 少し驚いた表情で男が知恵を見下ろした。知恵も眉間に皺を寄せて半信半疑だ。憶測に過ぎないのだ。
「誰のことを言っている。確かに俺の名前は徹。だが俺に、子供は、いない。いないはずだ。そう呼ぶ、人間も」
 徹が顔を歪めて高度を下げた。知恵と同じ高さまで降りると、知恵を抱えていた魔物も同時に降り出して、同じ高さのまま地上へ向かって降下する。
「いない……はずだ」
 呟くよりも小さい、囁くような力ない声で徹。知恵は同じく小さい声で「そう」と答えると、後は何も続けなかった。
 沈黙も静寂も、二人にとって慣れ親しんだものだった。
 似ているな、と知恵は思う。隔たりを操る徹と、隔たりを作り上げた自分。他人と故意に話そうとせず、ただ自分に自信がなく目をそらす。
 その全てが嫌味だとでもあるかのように。
「遅かったね、徹。錬よりも早く着いたから待ってたんだ」
 近づいた地上に、人が二人立っていた。黒いくせっ毛髪の忍と、穏やかに微笑む小さな女。
 徹は無言で二人に近づくと、無造作に地面に降りる。『風の丘』と呼ばれる場所は、茶色い石と土ばかりで、名前の通りに風が強い。ヒュンヒュンと耳を通り過ぎては音を鳴らす風に、徹は軽く鬱陶しそうに――悲しそうに耳を抑えた。
「何の用だ、忍。水把まで連れて、物見遊山か」
「酷い言いようだな。僕は知恵を返してもらいにきたんだ。わかっているはずだろう? 徹」
「こんな場面で水把を連れてくるお前の気が知れない。ただ、それだけだ」
「僕は水把を信頼してる、だから一緒に来てもらったんだ。……と、まぁ、甲斐は――」
「『拾い忘れたけど、たぶん平気』だからだろう、忍」
 軽い足取りが一瞬で近づいて、足音の主が口を挟んだ。
 ひらひらと手を振って顔に風を送り、軽々しく笑顔を浮べる。
「いつ会っても変わらんな。まぁ、甲斐ならもう少しで着くだろう、それまでお前と決着をつけておかなきゃな」
「僕に勝てるつもりかい? 走り以外なら負けないよ」
「お前は、“負けちゃいけない”んだろう」
 静かな声で徹が口を挟んだ。忍が驚いた顔で徹に振り向く。徹は忍と眼が合っても微動にしなかった。
「お前の口癖だ。だがどうやって負けないつもりだ? 水把を背負いながら」
「そっか、それは覚えてるんだね……知恵も、理呼さんもかわいそうだよ。徹? 君と戦わなくてはいけなくなったことを告げたとき理呼さんの顔を見ているから、余計にね」
 徹が眼を細めた。不快だとでも哀しいとでもとれる、曖昧な表情だ。
「理呼ならわかってくれる……亮に従うこと、従わなくてはならないこと。彼女なら」
「理解しても哀しいものは哀しい。徹、君は、忘れたのかい? 僕が覚えているのに当事者の君が忘れるなんて不条理だよ」
「忘れた……?」
 知恵は魔物に抱えられえた状態のまま、四人の様子を眺めていた。声はきちんと耳にはいってくる、意味はわからなくても。
「口上はそこまでにしといてもらおう。ごちゃごちゃと余計なことまで教えられたらやっかいだ。上にいるお嬢ちゃんにも聞こえているみたいだしな」
 錬が人差し指をぴんと伸ばして知恵を指差した。知恵は錬をみやって顔を歪めてみせたが、何も言わなかった。
 知恵が顔を歪めたのを見て、錬がニコリと笑った。笑うと余計に甲斐に似ている。ただ錬のほうが胡散臭さのある笑い顔だ。
「ありがとう、知恵って言ったか。さて、っと」
 錬がくるりと身を翻した。途端甲斐が草むらから飛び出して、拳を振り上げる。錬がかるがると拳を受け止めると、甲斐はすぐに退いた。ゆっくりと歩いて忍の傍へいく肩は上下している、どうやら全力で走ってきたらしかった。
「役者もそろったことだし、そろそろ始めよう。こうも簡単に独立してくれると楽だな、なぁ徹」
「聖の沈黙が気になる、ホールに啓がいなかった」
「終わる前に終わらせる」
 言うと、錬が腕を振り上げた。同時に徹が後ろへと退く。
「わかってたけど、」
 忍が呟いた直後、空に浮かんでいた魔物たちが一斉に忍と甲斐と水把とに群がり始めた。忍は水把を背中にしたまま、無造作に手を前に突き出す。手の平の中に黒い空間が現れた。かと思うとすぐにかっ消え、忍の手の中に一メートルほどの木製の棒が現れる。棒が現れると同時に、近づいてきていた魔物を忍は容赦なく叩き伏せる。
「来ないわけにはいかなかったかな。錬、そんなにしてやったりな顔、していられるのは今のうちだよ。僕は負けちゃいけないから」
 言いながらも近づく魔物たちを叩き伏せる。その動作に躊躇も、無駄もない。戦い慣れているのだろう、知恵に最初に会った時からは想像ができないほど行動も口調も鋭い。息が切れた様子もない。
 甲斐は忍から少し離れた場所にいる。群がる魔物たちの切っ先を上手く避けて、離れた錬の元へ行こうと試みる。しかし魔物が忍に叩き伏せられるたびに顔を歪めるのだ。誰よりも酷い傷を受けたような、顔で。
『勝手に聞こえてくるんだって』
「あ……っ」
 ならば今、と知恵は抱えられた魔物の腕の中で無意識に甲斐に手を伸ばした。どうやら知恵の声に気が付いたらしい甲斐が、少しだけ知恵を見上げ、ニコリと笑った。――錬にも似ているけれど、まったく似つかない。
「やめ……っ! やめなさいよっ! 逃げたら? ばっかじゃないの! なんのために戦ってるのよ、あんたが今ここで苦しむことなんてないじゃない!」
 平気だとでもいいたいのかと、知恵は思う。平気なんかじゃないのだろう、きっと魔物たちの心の声でさえ聞こえるのに違いない。攻撃を受けたときの魔物たちの苦しみさえも。
「逃げられちゃ困る。それにお前も、どうして戦ってるのかわからないか? わかりたくない、か?」
「うるさいわね、さっきからごちゃごちゃごちゃごちゃ! わかってるわよ、わかってるから言ってんじゃない! 逃げなさいよ! 今日会ったばっかの私にそんなに必死になることなんてないでしょ!」
「知恵は俺たちと一緒にくるって決めたじゃない」
 魔物たちの攻撃をかわしながら、流暢に甲斐が応えた。知恵は自分を抱える魔物の腕を力の限り握った。何かで堪えていなければ泣き出してしまいそうだった。急に置かれた場所は妙に慌ただしくて暖かくて。言葉にはできない、表現できない感情を与えてくる。
 泣けるものか、こんなところで。一番安全な場所にいる人質が、泣けるものか。
「お前が俺様たちと一緒にくるなら、やめてやってもいいぞ。魔物の数はどうやら減ってないしな?」
 錬が気に食わない笑みで告げる。知恵は錬を一瞥して短く嘲笑を洩らした。
 逃げられるものか、どんなに辛くても、きっと誰よりも辛くない自分が逃げ出せるものか。逃げ出してしまえば甲斐とも忍とも再びは会えないだろう、合わせる顔がなくなる。別に嫌いではない人間だったのに。自分が逃げれば裏切ることになる。それだけは嫌だった。
 胸に浮かんだ感情を表現できるまで、理解できるまで生きたい。自分の心のままで。
「お願い……っ」
 もう一度だけと思う。もう一度だけでもいい、隔てる力がほしい。誰に願うのだろう、自分にか、誰とも知らない声の主にかわからない。
 それでももう一度だけ隔てる力が欲しかった。助けられる力が。
『……自分を信じろ、知恵』
 脳裏に再び声が響く。酷く懐かしく、だが聞き覚えのない声。
 知恵は少しだけ頷いて片手を前に差し出した。地面で徹が知恵に振り返る。
「退け……いや、弾かれるか?」
 群がっていた魔物たちが一瞬のうちに消え失せる。直後、知恵の意識は暗黒へと落ちた。

 そして――
「いっ――」
 魔物たちがいなくなった地上で、甲斐が耳を塞いだ。鋭く吸い込んだ息で声にならなかった声が、吐き出されるとともに悲鳴となる。
「うわあああああ!」
「甲斐!」
 遠くから新たな男が叫んだ。黒髪黒眼、それなりに整えられたすべては、至極普通な、それなりに目をかけられている学生のような印象を受ける。――名を、(けい)、という。
 啓は空中の魔物から落下してくる知恵を一瞥して、間髪入れずに叫ぶ。
「アーディ! リキウ!」
 啓が叫んだと同時、ふわりと知恵の体が落下速度を緩めた。地面に着地したと思えば、土は柔らかく知恵を受けとめる。
 その間、啓は甲斐に走り寄っていた。傍にはすでに忍と水把の姿がある。徹と錬はいつの間にか消えていた。
「どうした、甲斐」
「う……ううん。なんでも……っ」
 言いながら時々痙攣のように体をひくつかせる。
「ただちょっと……魔物たちの感情が入りすぎて……い……」
 痛い、と実際に甲斐は口には出せなかった。痛いのは自分ではない。けれど魔物たちの感情が一度に大量に入り込んだせいで自分の感情と混ざってしまった。まるで自分の体が痛んでいるような錯覚を受けて、うまく立ち上がれない。
「ち……」
 拒絶するのか、と魔物たちが叫んでいた。確かにあの隔たりの使い方は『拒絶』だ。
 悲しい、苦しい、痛い、どうして。
「知恵には……」
 至極小さな声。依然として甲斐の体は時折痙攣のようにひくつく。
「知恵には、言わないで……」
「彼女か? 彼女なら、気絶してるみたいだから、安心しろ。聞いてないよ」
「うん、でも……気がついても、言わないで……だって、知恵は……俺達のことを護ろうして……俺の心の痛みを防ごうとしてて……」
「……わかったよ」
 嘆息して、啓。
「だから、安心しろって」
「うん。やっぱり、啓、だなぁ……」
 言ってニコリと微笑んだ。
 そしてすぐに甲斐の意識もまた、失われたのである。
 

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