遅刻寸前、チャイムが鳴る寸前に、知恵は特留プレートの教室に入った。甲斐とは学校裏で別れて、知恵は自分の足で走って玄関から学校に入った。制服と私服が混じる特留クラスの生徒たちが、ちらほらと驚いた様子で知恵にふりかえる。
「おお、本当に来るとは思わなんだぞ、知恵」
 古代史マニア――自称古代史オタクだが――の呉南は窓際の知恵の席の隣で、分厚い歴史書を読んでいた。本から顔を上げると、ただ一人、知恵に向かって挨拶する。
「おはよう。珍しいな、走ってくるとは」
「おはよう、少し罪悪感があるから走ってきただけよ」
 知恵は不機嫌そうに答えた。軽いバッグを机の横にかけ、椅子に座ると脚を組む。窓の外を横目で見やり、裏庭を眺めた。
 呉南はチャイムと共に歴史書をバッグに入れ、歴史めかした口調で話しかける。
「知恵にも罪悪感というものが存在したのだな」
「あるわよ、一応」
「それとも選出者に選ばれたいがために走ってきたのか?」
「聞きなさいよ。罪悪感、一応あるのよ私は。じゃなきゃ走ってこないわ」
 それに、と続けながら知恵は呉南の顔を見、少しの間絶句する。――呉南が笑っているのだ。おかしそうな顔で、眉間に皺を寄せて。
「……何よ、あんたも私を笑うの?」
「いや、おかしいのもおかしい話だが、こんな日に知恵がくるのが妙におかしい。変だな」
 知恵は口を閉じた。――一瞬だけ、呉南まで自分を笑う側になったのかと、疑ってしまった自分が悔しい。そして疑った瞬間に絶望した自分も。
 知恵は短く息を吐き出し、「そうね」と答えた。
「おかしいわ。今日は本当、朝からおかしいことばっかり」
 どうして甲斐は、自分をあそこまでして学校に連れてきたのだろう、と知恵は思った。忍という男も「運命だ」とまで言っていた。本当に自分が選出者であるのなら、特留の存在事態、おかしいのではないかと思える。知恵は誰にも見向きされないような行動ばかりとってきたはずだ。
 思えば、呉南以外の人間とあれだけ話したのは久しぶりかもしれない。知恵は再び裏庭を眺める。
 ガラガラガラ。
 全員が席を立つ音が聞こえた。教室の前で、担任の教師が出席簿を教卓に置いたパシン、という音が聞こえて、知恵も席を立つ。呉南は既に立っていた。
 全員が立ちあがって、日直が号令をかける。全員が再び座ると、教師が連絡を告げ始めるのだ。
 知恵は連絡など、ほとんど聞いていなかった。頭の中で今日起こったことを振り返る。――朝から色んなことがあったような、気がする。他の人間にしてみればそれほどでもないことなのかもしれないが、妙に、色んなことであったような気が知恵にはしていた。
「いきなりだが」
 教師が告げる。
「選出者を発表する」
 教室の中でいっせいに誰だ誰だと友人同士が囁きあい、全てが重なって騒がしくなっていく。
 知恵は微かに目線を上げ、教卓――近辺を見る。教師の顔をまともに見る気さえ、知恵には備わっていないのである。
「え……?」
 教卓の横――教室のドアに、人の顔が見えた。朝会ったばかりの忍と甲斐のもので、覗いていた甲斐を、忍が素早く引き戻すという、一瞬の出来事だった。
「実を言うと私は知らないんだな」
 知恵は訝って担任を見た。
 担任はがっかりする生徒たちを前に、笑いながら続ける。
「職員会議で校長先生に教えていただくはずだったんだが、あとで人が来るとしか――」
緋月(ひづき)叩き起こしてください!」
 ガラガラガラッ! バタン!
 教室の引き戸が勢いよく開かれた。飛び出してきたのは黒い癖っ毛の忍で、後ろから忍を追い越して甲斐が飛び入ってきた。
 二人の登場に唖然とする一同の中、知恵は不意に窓の外を見やった。
 窓の外に、黒い、大きな生物がいた。熊でもない、人でもない、二足歩行の毛むくじゃらの生物。その生物が片手を窓に叩きつけた瞬間、ガラスが割れ、知恵にガラスの欠片がいくつもいくつも襲ってくる。知恵は片腕を上げて目の前を護った。――刹那。脳が素早く横にふられて、一瞬のうちに椅子から立ちあがっていた。
 腕を掴む人の手の感触を追って見れば、甲斐が知恵の腕を強く引っ張っていた。忍が、やけくそのごとく叫ぶ。
「見られすぎました! 緋月は遅い!」
 『ひづき』。知恵は直感的に人の名前だと思った。だが考える暇など知恵にはないのだ、知識もない。窓を割った大きな生物が、その巨体からは考えられないほどの素早さで窓から教室に入りこんだ。教室の中が悲鳴に満ちて、腰を抜かした生徒と、今だ悠々と席に座る呉南以外、誰もいなくなってしまった。
 どうせなら、と忍は思う。
 どうせなら、誰もいなくなってくれればよかった。どうして中途半端に人が残るんだろうと。
 整然と並べられた机の間に立ち、茫然とする知恵を忍は一瞥した。甲斐が知恵の肩を叩いて正気に戻すと、知恵は普通では考えられないほど落ち着いている。
「……わけわかんない」
 ボソリ、と甲斐の手から逃れ、呟く。知恵の机の上に立つ生物は知恵を確認すると、机を蹴って跳躍する。ゆっくりとした跳躍に、また甲斐が腕を掴んで生物の攻撃から知恵を逃がした。
 生物は呉南の席の隣に立つ。呉南は「ふむ」と笑いを浮かべた。
「『魔物』」
「え……?」
 忍が訝って呉南を見た。呉南は忍を見、小さく首を傾げる。視線はすぐに知恵に行く。
「と、言うんだ知恵。私を迎えに来てくれたのかな?」
 知恵は息を呑んで呉南の顔を見た。忍が半ば唖然として問う。
「そう……魔物、だけど。どうして……」
「実は私も『時』に困っていましてね」
 チクタクと教室の時計が『時』を刻む。魔物が沈黙して、しばらく経っているようである。
 知恵はふと、自分の心臓の音が時計の音よりも早くなっていることに気がついた。完全に耳に聞こえてくる。不安が身体全体を蝕んで、呉南から目線が離せなかった。
 呉南は忍の顔を見たまま、片手を上げた。途端、時計が時を刻むことを止めた。不意に時計を見た知恵を、時計が嘲笑うかのように逆方向へと回り始めた。
 

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