逃げたはずの生徒たちが戻ってくる。後ろ向きに走って。
 割れたはずの窓が元通りになり、曲がった机は元に戻る。――数分前の姿に、戻っているのだ。魔物と呉南、知恵と忍、甲斐を除いて。
 魔物の姿が見えなかった場面まで戻ると、場面は硬直したまま動かなくなった。
「まさか……」
 忍が声を上ずらせた。甲斐は知恵の背後で目を伏せ、知恵の腕を掴んだまま何も言わなくなってしまった。
 呉南は苦笑を浮かべ、知恵の顔を見る。
「知恵、まさか本当に選出者になるとは思わなかった」
 知恵はこみ上げる不安を空の手で握りつぶして、呉南を見る。
「私、選ばれてもなる気なんてないわよ」
「言えば、『運命』だ。選ばれればなることしかできない。悲運であるのか幸運であるのか、私には分からないぞ、未来は古代史には載っていないからな」
「『運命』が、何よ」
 甲斐が小さな声で「知恵」と声をかけた。知恵は甲斐の声など、聞こえなかった。魔物の横で悠然と座る呉南を見、胸中で歯を食いしばる。――悔しいなどと、口に出してやるものかと。
「運命で、その魔物っていうやつが私を襲おうとするわけ? 運命でその魔物と呉南は仲が良くて、一緒になって私を殺すの?」
 言いながら、知恵は顔を歪めた。涙が出そうだった。唯一話せた人間と、自分を襲う生物が「仲間」だったなどと。呉南が自分を嘲笑うよりも性質が悪い絶望を感じた気分だった。
 呉南は少しの間考え、首を横に振る。
「運命かもしれない。だが、知恵と私が対立しなければならないことはない。この魔物も、すぐに帰ってもらおう」
 ガラ、と呉南が席を立った。片手を差し出し、少しだけ笑いを浮かべる。
「ダイセンドへおいで、知恵」
 知恵は無言で呉南の顔を見た。
 忍は二人の顔を交互に見やり、最後に甲斐の顔を見た。甲斐は苦痛に顔を伏せ、極小さな声で言う。
「ダイセンドには……行くべきじゃない」
 知恵は振り返らなかった。だが前に歩こうともせず、ただ呉南の顔を見つめている。
 知恵には何もわからなかった。意味がわからない。だが何があったのかと、訊くべきでもなかった。『時』が戻り、今『時』は止まっているという事実だけが真実なのだ。そしてそれを行ったのが呉南であろうことは、なぜか直感よりも本能で察することができた。
「いっちゃ……いけないんだ」
 小さな声が耳に入る。すぐ後ろにある甲斐の口から出る、消え入りそうな声。
 呉南が言葉を続けた。
「たしかに、ダイセンドを選ぶなら普通の人間のままかもしれない。だが、」
「君は『時』かい?」
 呉南の言葉を遮るように忍が問うた。片手を知恵の前に出し、呉南を真直ぐに見据える。
「ダイセンドの、『時』の人間なのか?」
 繰り返し、問う。呉南は小さく頷く。
 知恵は身体に込めていた力を抜いた。三人がどういう会話をしているのかは分からないが、自分の身の振り方一つで様々なことが変わっていく気がする。
「呉南、あんたはどうするのよ、これから」
 既に『運命』というものが動き出しているのだ。おそらく知恵には変えることの出来ない場所で。
「もともと今回の選出者が決まるまでと言われていたからな、ダイセンドに戻る。まず、この世界には戻ってこないだろう」
 あぁ、と思い出したように呉南は続ける。
「知恵は、世界が多く存在するのを、知らないか」
「知るわけないじゃない。私は自分の世界だけで精一杯なんだから。自分を保つことだけでも精一杯なのよ、分かる?」
「いつものように知らない分、私が教えてやる。ダイセンドへ行こう、知恵。彼らの世界に行ってはだめだ」
 知恵は呉南を睨みつけた。
「なら、どうして。その魔物が私を襲って、甲斐が私を助けてくれるの」
「それは知恵が聖獣に選ばれたからだ」
「聖獣って何よ! いつも知った顔で! 私は何も知らないのよ? 世界って何! 私は誰! どうすればいいのよ呉南、この古代史マニア!」
「なっ、マニアとは失礼な! オタクと呼べと言っただろう!」
「どっちだって同じよ!」
 そんなことどうだっていい。わかってる。大切なのは、今の状況を理解して、自分にとって正しい道を選ぶことだ。
 呉南について行きたかった。でも正しいような気がしない。何故だろうと、知恵は思う。
 甲斐が、そっと手を離した。知恵の横に立って、呉南を見据える。
「正しいことなんてどこにもないよ。俺は人の心の声が聞こえるから、余計にそう思う」
 やっぱり聞こえるんだ、と知恵は甲斐の横顔を見た。
「呉南? 君も自分のしていることが正しいと思ってるから知恵を呼ぶんだろうけど、」
 忍が微かに甲斐を見た。魔物に対する警戒は決して解かず。
「俺も自分のしていることが正しいと思ってる。だから、渡さない、絶対」
 強く固い口調で、何かを拒絶するような声。
 忍が少し頷いて鋭く呉南を見る。
「そう、渡せないんだ。僕も永くナイズにいる『空間』の管理者だ。負けるつもりはないよ。僕は、負けちゃいけないから」
 負けちゃいけない、と知恵は忍の声を胸中で繰り返した。
(負ける? 何に?)
 分からないことだらけだ。
『空間の管理者』とは、『時』とは――ダイセンドとは、何か。
 知恵は頭を振った。
「私、どこにも行かないわよ」
「それはだめだ」
 呉南が即答する。
「私と一緒にダイセンドに来るんだ、亮も徹殿も待ってる」
「亮? 徹?」
 知恵は呉南を見、首を傾げる。呉南は薄らと笑顔を浮かべた。
「徹はお前の父親の名前だろう、理呼殿は何も言わなかったか?」
「……私の、父親ですって?」
 知恵は愕然として立ち竦んだ。――父親。写真さえもなく、顔も、名前も知らなかった、父。
 知恵は思いきり顔を歪めて、呉南を睨みつける。
「今更会いたくもないわよ、そんな奴」
 今どこで何をしているのか、知恵は知りたくもなかった。ただ気丈な母が時折寂しそうに窓の外を見るだけで、父親という存在を恨むのに充分過ぎるほどの理由がある。
「絶対に、会わない。会ったらぶん殴ってやるわ」
「どうして」
「伝えてやってよ、呉南。私に本当に会いたいなら、最初に母さんに会いに行けって」
 呉南の顔色が見る見る変わっていく。喜色さえ浮かんでいた顔に、影が差し込んで行く。
「ダイセンドには、来ないのか?」
 知恵は答えなかった。呉南を射るように見据え、口を閉ざしている。
「ナイズに行くのか? 私と対立することになるぞ」
 やはり知恵は何も答えず、代わりだといわんばかりに呉南の顔を睨みつけている。呉南は数歩、後ずさった。壁につまずいて立ち止まり、「そうか」と酷く小さな声で言うのだ。
 呉南はポケットからカンバッチを数個取り出した。全て歴史上の人物の顔で、カンバッチをしばらく眺めた後、呉南はゆっくりと知恵を見た。
「亮のためだ、許せ、知恵」
「いちいち誰だとか訊くのも疲れたわ。許さないから」
 知恵はスッと左手を差し出して、呉南に向かい合う。甲斐が目を丸くしながら「え」と、短く声を発する。
「……声が、する、の?」
 小さな声で、甲斐が言う。忍が訝って甲斐を見た。甲斐は忍を見やると、ニコリと笑って見せた。
「動いちゃだめだよ、忍」
 と、甲斐が言った瞬間、呉南がカンバッチを軽く知恵に向かって投げた。直後、時を素早く回転させられたカンバッチが弾丸のごとく知恵を襲う。
 知恵は瞬き一つせず、前を睨みつけた。
 バチン! カンバッチが高く音を発した。知恵の目の前で、カンバッチが何かに当たって地面に落下する。
 呉南が知恵を見た。知恵は変形したカンバッチを見下ろし、短く息を吐き出した。
「……なんだか、全部、分かる気がするわ」
 ――声が、したのだ。低く透明な声で頭に直接語りかけられたように『隔たりを見よ』と。
 不思議なほど簡単に、隔たりが見えた。呉南との間に半透明の厚い壁が見えた。――まるで、心まで離れてしまったような気がした。
 知恵は乾いた目で、呉南を見据える。呉南は顔を歪め、何度も小さく頷いて見せた。
「本当にナイズで生きるんだな、私と対立するんだな?」
「『運命』でしょ。どうなってるのか私には分んないけど」
「知恵は『隔たり』か」
「知らないわよ、そんなの。私には見えるだけよ、あんたと私の間にある壁が」
「誰かに教えてもらえ、私には教えることが叶わないところだ」
 タッと呉南がまた知恵から離れた。おとなしくしていた魔物が呉南を抱え、頭上を見た。
 刹那、魔物と呉南の姿が一気に失せた。
 知恵は目を閉じて、何も言わず下を向いた。
 

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