いつもの動きやすいラフな私服、トントンとつま先を叩いて踵まで足を靴に入れた。知恵は勉強道具が一つも入っていないバッグを肩に担ぐ。
「いってきます」
 といえど、返ってくるのは心配だと顔に書いている母親の「気をつけなさいね」という言葉だけだった。母は学校にはきちんと行くだろうと思っているらしい。
(悪いけど、本当に行く気ないからね、母さん)
 心の中で密かに謝罪する。母には悪いと、思っていることは思っているのだ。だが従兄弟で幼馴染の呉南のおかげで、どんなにサボっても勉強にはついていけるし、勉強も運動も昔から得意だった。授業にさえついていければ、あの学校は退学になることはない。
 玄関を出、数歩歩いた場所で立ち止まり、知恵は短く息を吐き出して虚空を見上げた。
(また……)
「おはよーう! サボる気?」
 昨日の『空耳』がサングラスをかけて笑っている。楽しそうに知恵を迎え、手を振った。
 相変わらずの橙色の髪と、白々しさを含んだ笑い顔。
「だめだよぅ。学校には行かなきゃ」
「あんたなんでいるのよ、ふざけないで」
「俺は甲斐っていうんだ。大事な用事があって」
「へぇ、甲斐さん。何かご用ですか?」
「うん」
 甲斐はにっこりと笑って見せる。
「走るよ、学校まで」
「はぁ?」
 知恵は思いきり顔を歪めた。――刹那、甲斐の顔が眼前に移動して、直後、強く腕を引っ張られた。
 ガクン、と頭が上下して視界が移動する。思わず見た足元に、雲のものでも自分のものでも、甲斐のものでもない影が映った。
(……上に何か、ある?)
「気にしちゃいけない。絶対に上を見ないで、少しだけ走るんだ」
 知恵は甲斐の顔を見た。半ば引きずられるように足が動いて、甲斐が知恵を伴って瞬発する。ふわり、と知恵の身体が浮いて、背後に何かが着地した音が聞こえた。
 知恵が振りかえろうとした瞬間、「振り返ってもだめ」と、甲斐にくぎをさされた。
 タッ……音が後からついてくるような、軽い走りだ、甲斐の走りは。知恵の足では決して追いつけない。腕を引っ張られて、半ば運ばれているせいで、知恵は甲斐についていけた。
 一軒家が連なる道を、甲斐は知恵の腕を引きながら走る。知恵は甲斐の顔を、斜め後ろから見た。――サングラスの中で、真剣に前を見つめている。話しかけても、決して答えてはくれなそうなほど、真剣な顔で。
 おそらく、考えていることを全て、聞いているのであろうと知恵には思えた。
「ね……っ、ねぇっ!」
 無理な速さで走る足が悲鳴を上げた。声を上げれば舌を噛みそうで、リズムが崩れた呼吸が激しく呼吸を求める。
「ねぇっ!」
 二度目で甲斐が振りかえる。知恵の顔をきょとんとして見て「あ」と、抜けた声を発するのだ。
 ゆっくりと立ち止まりながら「あはは」と。
「ごめんごめん、本気で走ってた」
 知恵はコンクリートの地面に膝をついて、激しく上下する胸を抑えた。身体全体が大きく上下して、死にそうなほど低い声を出す。――少なくとも、年頃の女の子が出す声ではない。
「殺す気?」
「まさかー……って、本当大丈夫?」
 うぅ、と知恵は唸った。首を横にも縦にもふらず、両手を地面につける。甲斐はうつむいた知恵の顔を覗きこみ、目を丸くしている。
「大丈夫……」
(なわけがないじゃない!)
 声が続かず、心の中で怒鳴りつける。途端甲斐が耳を塞ぎ、「ごめんー!」と必死で謝った。
 瞬間知恵は疲れを忘れて甲斐の顔を見上げた。唖然とした顔で。
「……ねぇ、あんたやっぱり」
(思ってること聞こえてる?)
 知恵に見つめられた甲斐が表情を強張らせた。耳を塞いでいた手を居心地が悪そうに下ろし、必死で笑いを浮かべる。――かなり引きつった顔だ。
「……か、確信したりして?」
「確信も何も、そうじゃなきゃあんた何に謝ってるのよ」
「あは……は……そうだよねぇ」
 甲斐に手を借りて立ち上がり、知恵は甲斐の顔をしげしげと見た。普通の人間では考えられないほどの速さで走ったのにも関わらず、汗一つかいていない。呼吸が乱れた様子もなければ、かけているサングラスも、場所がずれることさえない。
 通勤、通学時間であるのに、誰も通らない住宅街の細い道で、甲斐は腕を組んで「うーん」と、全く悩んでいなさそうな唸り声を発する。
「まぁ……いっか?」
「何が?」
 憮然と、知恵は腰に手を当てて甲斐の顔を見上げる。甲斐は知恵の顔を見やり、人差し指を立てて悪戯に笑って見せた。
「色々。それより学校行かなきゃ。なんだったら運ぶよぅ? 遅刻しそうな時の非常乗り物その二なんだ、これでも」
 その二ってなんだ、と知恵は思った。だが口に出さない。どうせ口に出さなくても甲斐は何を思っているのか分かるわけだし、口に出す必要がないだけ、知恵にとっては楽だった。
 甲斐はけらけらと笑い、「ほら」と。
「細かいこと気にしないで。楽って思われるの初めてかも」
「だって口に出すの面倒じゃない」
「他の人には口に出さなきゃわからないよ? ちゃんと口に出さなきゃ。たとえば」
 ふっ、と知恵の足にかかっていた重力が消えた。――と、思えば、目の前に甲斐の顔があって、やはり悪戯に笑っているのだ。
「『そういえば遅刻しそう』とか」
「ちょっ……降ろしてよっ! バカじゃないのあんたっ!」
 両手で甲斐に抱えられながら、知恵は顔を真っ赤にして叫ぶ。甲斐はまったくそしらぬふりで、軽く、地面を蹴った。途端、知恵には見ることが到底できないであろう、風景が速く流れていくさまが目に入った。
 ぎょ、として知恵は甲斐を見上げる。甲斐はどういう方法かは分からないが、人のいない路地を見極めて、学校への最短ルートを走っている。
「降ろしてってばっ!」
「暴れると落ちるよー。本当言うと、俺もこっちのほう楽だから気にしないで」
「あんた本当バカね! 私が嫌なのよ!」
「嫌でも連れてく、それが俺の仕事だから」
 甲斐が一瞬だけ知恵を見下ろした。知恵は訝って声を出さず、少しの躊躇の後何も言わなくなった。楽なことは、楽なのである。
 ただ一言、ボソリと。
「……口になんか出さないわよ」
 と。
 甲斐は声を出して楽しそうに笑っていた。
 

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