次の日。つまり選出者が選ばれる日。
 知恵はいつも通りの朝を迎えた。知恵の家族は母親一人で、父親の姿はない。近所の人々が噂するせいで、知恵は自分が母親と血の繋がっていないことをよく知っていた。母が妊娠した様子はなかったそうだし、ある日突然知恵が現れたのだと、噂されている。
「起きなさいっ!」
 母、理呼の怒鳴り声が知恵の部屋に響いた。知恵の部屋にはクローゼットと勉強机モドキとベッドがあるくらいのもので、嗜好品はない。ほぼ閑散としていた。
 落ち着いた色の青いカーテンがシャッと勢いよく引かれる音が聞こえ、朝日が窓から知恵の顔へと突き刺さる。
「今日は何の日だったか、忘れたわけじゃないでしょ!」
「選出者が選ばれる日ですねー、私には関係のない日ですよ、休ませてください」
 布団の中で丸まりながら、知恵は早口に答える。すでに目は覚めているのだが、だるい。起きたくない。
「いい? あと一〇分で降りてきなさいよ。さもなきゃ窓から叩き落すからね」
 理呼が低い声で言う。この母あって知恵の性格なのだが、お互い全く本気では自覚する気がない。
 知恵は布団を頭までかぶって「うー」と首を横に振った。理呼は荒々しい足取りで一階に下りる。ドン、ドン、ドン、ドン、と怪獣でも歩いているのかと、知恵は思った。
 布団の中で、ぼそぼそと口を動かす。
「……選出者なんかになりたくないわよ。こんな中途半端な時に卒業したって得なんてないじゃない」
 学校に、未練はないのだけれど。


 理呼が降りた一階に、男の客がいた。母子での二人暮しだから、男がいること自体、稀だった。
「ごめんなさい、寝起きが悪くて」
 理呼は丁寧に男に詫びた。リビングの椅子に座っている男は、苦笑を浮かべ首を横にふる。
「慣れてますから」
「本当にお恥ずかしい場面をお聞かせいたしまして……」
「本当に慣れてますから。それより、僕がきたこと、どういう意味だかおわかりですか?」
「いえ」
 理呼ははっきりと答える。
「分からない、ということにしていただけますか」
「そう……そうですね。そういうことにしておきます。でも後で、二つほど報告しなければなりませんから」
 理呼は、男の言葉に少しだけ沈黙する。
 しばらくして、二階から知恵が降りてきた。知恵はリビングで母親の向かい側に座る男を見やり、軽く頭を下げた。
 ――誰だろう。
 知恵には見覚えがない男だ。だが理呼は彼のことを前から知っているようだ。
「おはようございます……」
 あくび交じりに知恵が挨拶する。男は黒いくせっ毛の頭で、痩せているといった感じはあるものの、『空耳』ほど優男だとは思えなかった。男はにっこりと笑い、「おはよう」と返す。人懐っこい顔で。
「知恵さんですか?」
 男が問う。知恵は目を細めて男を見る。やはり、この男もさほど年上には見えない。理呼が妙に恭しく見えるのが、知恵は気に食わなかった。
「私ですか?」
「うん、知恵さん?」
「知恵ですよ、どういう理屈で知恵か知りませんけど。何か用なんですか」
 口調はあきらかに憮然としている。男はけらけらと笑い、「君に、ね」と知恵の態度などどこ吹く風。
「僕は(にん)。実は君が選出者に選ばれたって言ったら?」
「うわぁ最悪。人見る眼腐ってんじゃないの?」
 忍の表情が凍った。――まさか初対面で毒を吐かれるとは思ってもみなかった。
「とりあえず」と、忍は取り繕う苦笑を浮かべて続けた。
「学校に行ってみればわかるよ」
「私そんなので行く気ないわよ」
「それでも、君は学校に行くんだ。運命だよ、これは」
「運命ですって?」
 知恵は鼻で軽く笑って忍を見た。忍は「そう」と、答えてゆっくり立ちあがる。
「そう、『運命』じゃないかな。僕が知ることができるわけでもないけど」
 ガラガラ、自分で元に戻した椅子を確認してから、忍は知恵の眼を見据える。知恵は思わず口を閉じて、同じく忍の眼を見返した。
「君はきっと学校に来る」
 妙に言い切る男だ、と知恵は思った。行かないでやろうと心のどこかで思ったが、強く、行ってやろうじゃないとも、と思う。
(まぁ、いいわ。どうせ途中からサボるし)
 忍は玄関前で理呼に何か話していたようであった。理呼の「そうですか」という、妙にしおらしい声が微かに聞こえ、知恵は舌打ちする。
 朝食のコーヒーを一気に飲み干し、胸中で毒づいた。
(何が運命よ。馬っ鹿じゃないの?)
 そんな運命なんか作ってやる。
 絶対に、学校になんか行かない。
 

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