ダッシュしたまま駅前通りに入りこんだ知恵は、立ち止まりながら大きく息を吐く。
(最悪! ただでさえ明日選出者選出される日だってのに!)
 サボるのを、誰かに見られた。見られなくともサボっていることはばれているのだが、次から裏庭に誰かが立つようになったら、鬱陶しいことこの上ない。
 ため息をついて道路際のフェンスに腰掛けた。サボるのを見つける教師たちはよく言った。お母さんに心配をかけてはいけませんとか、せっかく選出者になれるクラスにいるのだからとか。前者はともかく、後者はどうでもよかった。
 選出者――そんなもの。知恵は思う。
 毎年特留クラスから一人だけ選ばれる、数ヶ月での卒業生。選ばれればそれだけで企業から推薦がくる、エリート中のエリートの称号である。
 胸のうちから涌き出る怒りを、知恵は必死で抑えた。――まったくもって理不尽な怒りではあるのだ、自分でもわかっている。
「そうそう、明日選出者選ばれるのに」
『空耳』の声がして、知恵は愕然とした。「嘘でしょ」と頭を抱えた。足の速さには自信があったし、見つかりにくいようにわざわざ人ごみに入ってきたのに。
「サボっちゃいけないよー」
 知恵の目の前で立ち止まった男――『空耳』は色を思い切り抜いたような明るい橙色の髪をしていた。黒い瞳の、ひょろりと長いといった感じの優男。
 知恵は上目遣いでギロリと『空耳』を睨んだ。
「うるさいわね、あんたこそあそこで何してたのよ。あんただって同じでしょ」
「俺は休んでただけだから。サボりではないよ、たぶんね」
『空耳』は邪気のない顔で笑って見せる。知恵は毒気が抜かれた気分で大きく息を吐く。平日の昼間だというのに、道路に車は多く行き交い、人は止めどなく流れている。
 知恵も目の前の『空耳』も私服だった。特留プレートのクラスは私服登校が可能だ。知恵はクラスの全ての人間の顔を覚えているつもりはなかったから、もしかしたらこんな頭の奴もいたかもしれない、と思えた。『空耳』は少なくとも教師でもないだろう、随分と若い。教師が私服で歩いているとも思えない。
「あんたこそ、明日選出者選ばれるわよ。株あげてきたら?」
 知恵の嫌味にも『空耳』はけらけらと笑って「そっか」と。
「同じ歳に見えるんだっけね……ってほとんど同じか」
「あんた何なの? 本当に」
「実はこれ仕事中」
「はぁ?」
「俺は――って。あ。すいませんー」
『空耳』はぽっかりと口を開けると、虚空に向かって話しかける。
 知恵は思った。目の前にいる男は、本当は自分をバカにしているのではないかとか、頭がおかしいのではないか、とかと。
『空耳』が知恵に目線を戻した。
「酷いなぁ、本当に仕事中なんだよ?」
「そんなこと知らないわよ。私なんかと話してると、お仕事のお邪魔じゃありません?」
 ――だんだん、自分が考えているのか口に出してるのか、分からなくなってきた。
(この男、思っていることまでに返事してくる?)
 まさかとは思うけど。
「うわぁ……そんなことないって。君、ちゃんと口に出してるから」
「出して――出してないわよ! 会ったしょっぱなから私の思ってることに返事したじゃない! そう考えてる私がバカみたいだわ!」
「支離滅裂って奴になってない?」
「うるっさいわね。何も用がないんだったら、私行きますけど」
 不機嫌そうな顔、知恵。『空耳』は吹き出して、ポケットに手を突っ込む。
「落としてたから」
 拾った眼鏡をケースごと取り出し、知恵に差し出して見せる。――相変わらずの邪気のない笑い顔で。
 知恵は仏頂面のまま眼鏡を受け取ると上目遣いで、『空耳』を見る。
「……本当のこと言っていい?」
「あ……うんうん、どうぞどうぞ」
 知恵は微かにニコリと笑うと、眼鏡を軽く掲げて見せた。
「これ、ダテ。度入ってないの。ちょっと焦ってきたでしょ」
「う……うんうん、そうそ。なんだダテかぁ」
『空耳』の態度が急に妙に白々しい。一生懸命に笑い、歩き出す知恵にひらひらと手を振る。
 知恵は眼鏡をバッグに放り入れると、すぐにいつもの不機嫌な顔に戻る。首だけを『空耳』に振りかえらせた。
「ありがと。ばれなくてすんだわ」
『空耳』は「うん」と軽く答え、短く息を吐き出して笑った。知恵の姿がだいぶ離れたのを見送ってから踵を返す。
 空を見上げ、笑いを浮かべた。
「あぁいう人が選出者だったら面白いと思いません? ――って、ぇえっ!」
 道行く人が『空耳』の独り言を怪訝として見送って行く。
『空耳』は苦笑を浮かべ人差し指で額をかいた。
「あはは……はい、がんばります」
『空耳』は誰もいない空間に向かって軽く頭を下げた。
 

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