『特留』というプレートが掲げられた教室は、特殊な人物の溜まり場だった。稀に特殊に見えない人間が混じっていても、朱に交われば赤くなるというもの、いつのまにか人数合わせの特留生徒が他の人にはなかなか考えられないことを言ってのける。そんなクラスだった。 「……やってらんない」 知恵はぼそり、と窓際の席で呟く。今は数学の授業中で、やたら難しい公式の説明を高校教師が行っている。普通の高校生ならば決して解けないような問題を、当てられた生徒が軽がると解くさまを、知恵は別段羨ましいとも、素晴らしいとも思わなかった。手に持ったシャープペンシルをくるくると回して、大きくあくび。その様に恥じらいとか遠慮とか言ったものもない。 「おおー、神崎」 数学の教師が知恵のあくびを発見した。知恵は目だけを教師に向ける。 教師は大またで歩いて知恵に近づくと、教科書をぽすんと軽く知恵の頭にぶつけた。 「余裕の現れだな。さすが特留だ、二番解いてみろ」 知恵は返事をしなかった。無言で立ち上がり、黒板に書かれた問題を見た。ノートに指定された問題を解いていないが、数学など基礎ができればなんとかなる。 黒板の前に立って、長めのチョークを手に取った。 クス……。 誰かが笑っている。自分に向けられている意識がある。 クスクス……。 知恵は無言でチョークを黒板につけた。 深い緑色の黒板に、白いチョークで数字と記号を書きなぐる。――まるで、私の髪じゃない。知恵は黒板に文字を連ねながら自分で皮肉った。後ろの盗み笑いも同じようなことを言っていた。 (……まあ、いいけど) 答えを書き入れて、ガッと音を立ててアンダーバーを書く。踵を返して教室を少しだけ見渡せば、教室には黒い髪の生徒たちが整列して座っている。その中で知恵の席だけが空白で、少しだけ曲がっていた。 知恵の髪は灰色で癖っ毛。黒板に書かれた白いチョークの文字のようにきっと浮き出て見えるだろう。 (そもそも気持ち悪いじゃない。皆一緒で) 髪の毛を染めておしゃれにいそしむ生徒だって多いのに、この特留クラスだけは皆真っ黒。皆「選出者」になりたくて教師に媚を売っている。 知恵が席に戻ると数学教師は嬉々として一番からの解説にあたった。知恵の解答に間違いはなかったが、数学教師は心持ち呆れ顔だった。――どうしてあの態度で特留クラスなのかと。 特留クラスは、高校四年生である。 知恵が通っているこの学校は小学部から大学部まである歴史ある一貫校で、本来高等部は他と同じく三年制。あんまりに成績が悪くなければ強制的に大学部に上げられるか卒業させられる。 故に、特留クラスの正式名称は「特別に高等部として留まらさせている人間がいるクラス」なのである。特留クラスの授業内容は大学のそれに類似し、大学部まである私立校の中で、高等部出身とは銘打たれない。大学部卒業の単位が一年で得ることができるのだ。 誰もが夢見る出世コースの最短ルートを、知恵は毛嫌いしている。 さらには特留クラスには「選出者制」というものがあった。 「……あぁ、私たちは今、こんなところでこんなことをしていていいものだろうか……」 休み時間になった教室で、知恵の隣の人間が夢見がちに呟いた。ド近眼で分厚い眼鏡をかけている彼は、特留クラスの中でも特別と称される「古代史マニア」だ。知恵が唯一話せる人間であるところが、さらに特別だった。名前を 知恵は机に頬杖を付き、呆れ顔で呉南を見た。 「知らないわよ、そんなの」 呉南は知恵の言葉に大げさに目を丸くした。食いつくように知恵に向かい、両手を広げた。 「そんなことでいいのか? かの有名な而聖一世はな!」 「有名じゃないわよ、そんな奴」 「何っ! 彼を知らないとなると、知恵貴様無知だな!」 「そんなの知ってる方がおかしいわよ、この古代史マニア」 「マニアとは失礼な、オタクといいたまえ」 こんなやりとりが、毎日続く。 二人の様子を見た誰かが、やはりクスクスと声を抑えて笑っている。 知恵は目を閉じた。――ばかばかしい。 「私、帰るわ」 ガラ、と目を閉じたまま席を立った。 呉南はしれっとしており、「では」と、時代めかした口調と態度で腕を組み、立ちあがった知恵を見上げた。 「明日はサボってはだめだ、選出者決定デーだ」 「うわぁ、絶対来ない」 机の横にかけていたバッグをとって、知恵は無造作に窓を開けた。もともとバッグに勉強道具を入れるつもりはないから、机の中身を気にする必要もない。 特留クラスの窓の外は、学校の裏手になる。知恵は窓から外に出ると、バッグに入れてあった外履きと履いていた内履きを取り替え、呉南に振り返った。少し楽しそうな、にやりとした不敵な笑み。知恵の笑みを見た呉南もにやりと。別れの挨拶はなかったけれど、お互いその意を伝えている。 くるりと素早く知恵が踵を返せば高く括った髪が知恵の動きに後からついてきた。知恵が窓の傍からいなくなって丁度、次の時間の教師が教室に入ってきた。 知恵の席が空白なことなど、いつものことだった。 教師も最初ちらりと知恵の席が空白なのを見つけてから、何事もないように授業を進めて行く。 「退学にしてもいいんじゃないか……理事長ときたら」 教師が胸中で呟いた頃、知恵は木々が連なる裏庭をゆっくりと歩いていた。裏庭を抜ければ裏門で、裏門は表門よりも見つかりにくく、少しだけ門が低い。学校から脱出するには最良の場所だ。 裏庭は緑の芝生に若い木が並ぶ、木陰だらけの場所だった。華やかな花などの彩るものなどもなく、ただ、緑の木々が太陽の光を遮ってあるだけだ。 (いーばしょ。ここだけは好きよ、学校でも) 知恵は目を細めて木々の間を歩く。夏真っ盛りの七月の始まりだというのに、涼しい場所だ。 「俺も好きだなぁ、静かだったし」 唐突に声が聞こえて、知恵は立ち止まった。 教師の声ではない、裏庭にくる教師などたかが知れている。知恵は全員の小言を聞いたことがあるせいで、記憶に入っている声に関しては自信があった。 知らない声だ。――誰の、声。 「あ……空耳でーす」 同じ声が言う。知恵は呆れてした。空耳が空耳と言うものかと。 だが細かいことを気にしている場合でもない。授業中に裏門から抜け出さなければいけないのだから。この空耳だってもしかしたら教師かもしれない。捕まえるつもりのないゆるい口調だったけれど、のんびりしていたら別の誰かに見つかりかねない。 「裏門なら開けてる。でもサボりは悪いことだと思うけどなぁ……」 「うるさいわね、この空耳」 背後で誰かが動いた。 知恵は振りかえらずに、猛然とダッシュする。立ち並ぶ木々を巧く避けて、軽いバッグを少しだけ恨みながら。 「あ」 『空耳』が知恵の後姿を見送って、ぽかんと声を発する。知恵は裏門を抜けて、どこかへ行ってしまった。 「……眼鏡、バックから飛んでったんだけど」 大丈夫かなぁ、と『空耳』は思った。無造作に眼鏡を拾うと、自分も同じく裏門を抜けて、何事も無かったかのように裏門を閉めた。 |