ウィアズ王国歴七七年、初夏。 王城の二階にあるウィクの執務室の前に若い剣士と弓士が並んでいた。 「……ここ、なんだよな?」 実を言うと初対面。お互い顔と名前は知っていても、面と向かって話すのは初めてなのだ。 「えぇ、たまに隊長を呼びにくるときにきたことがあるので……」 気弱そうに答えたのは、弓士クアル・リヴィー。 「俺も同じぐらいの経験しかない」 少しだけきつめに答えたのは剣士ツィック・イクシス。 お互い自分の上司によく連れまわされる延長での“おつかい”。お互い、お互いを連れてウィクの執務室まで、と直接自分の上司に言われてここまでやってきた。 だが、部屋の中が妙に静かだ。 「こ、こえー……」 正直に心境を発言したのはツィックで、クアルは泣きそうだ。二人ともウィクと同年程度。ツィックで二〇、クアルで一九になる。 「で、でも入らないとっ」 「俺もあとのほうが怖いっ」 二人同時に扉を開けようとした瞬間、扉が内側から開いた。扉の向こう側に立っていたのはカランとエアーだ。 「お前ら、何やってんだ」 溜息と笑い交じりのエアー。横のカランは無造作にクアルに近づくとクアルの背後からぽん、と優しく頭を叩いた。 「遅い」 「は、はいっ」 押される勢いでクアルが歩き出す。ツィックもエアーに合図されて、慌てて前に歩きだした。 カランとエアーが道を開けると、クアルとツィックの眼にも、否応なく執務室の中が見えた。見えた瞬間、二人とも心がひんやりと冷えた気分になる。 入口から。 ユーガ・ライトル。 ヴィア・ハワー。 アタラ・メイクル。 少し開いて、ティーン・ターカー。 両脇に道を作るように並んでいるのだ。最奥には椅子に座ったウィクがいる。 ウィクは二人を、至極にこやかに迎えた。 「ようこそ」 促されるままに、クアルとツィックはウィクの前で立ち止まった。 「驚かせて悪いね。ツィックなら知ってると思うけど、遊びたがりの人がいるから」 「はい……」 「でも悪くは思わないでくれないか。萎縮しないぐらいの度胸は付けてもらわないと、私も君たちがかわいそうで仕方がなくなるからね」 言って、悪戯にくすくすと笑った。 二人の背後で扉が閉まる音が聞こえた、瞬間。 「ツィック・イクシス!」 背後から大声量で、エアー。 「はい!」 びくつきながらもツィックは反射的に答えた。 「クアル・リヴィー」 やはり背後から、静かにカラン。 「は、はいっ」 クアルは目に見えて肩を上下させた。 二人の返事を見守って、ウィクはにこりと笑った。 「今年の式典の日から、二人は私の親衛隊になってもらうよ。よろしくね」 ぽかん、としたのは二人とも一瞬。 「「はい」」 確かに答えて、頭を下げた。 ウィクは二人を見守ってから、二人の奥にいるカランとエアーを見た。カランもエアーも、微かに笑っている。 「カラン、エアー。今までありがとう。二人の改めての活躍、楽しみにしている」 「恐縮です」 答えたのはカラン・ヴァンダだ。二人の会話に、ツィックが振り返る。 「隊長、まさか……」 「あぁ」 至極神妙そうにエアー。ツィックが息をのんだ。 実を言えば、この師あって、この弟子というか。この師についたから、この弟子になってしまったというか。 ツィックは、過去エアーが言われように“馬鹿”の部類に入れられていた。 「お前らには、悪いが……」 軽く顔を伏せるエアーの表情に、ツィックが唐突にエアーに掴みかかった。 「そんな! 俺にはまだまだ教えていただきた事がたくさんあります! 残ってください!」 「け、けどよ」 答えたエアーがツィックから顔を逸らした。微かに肩が揺れている。ちなみにクアルはぽかんとして自分の隊長、ウィク、さらにエアーとツィックの様子に、うろちょろと視線を動かしていた。 ツィックの真摯な表情。 ツィックを一番気の毒に思ったのは、カランだった。これも過去の経験による。 カランは大きく息を吐き出して、頭をかいた。 「それぐらいにしておけよ、エアー」 「ぷっ、そ、そうだなっ」 答えて、エアーが遠慮なく大笑いし始める。ちなみにこれもエアーの師から受け継いだ洗礼、と言えなくもない。 「あー、やべぇ。腹いてぇ」 「た、隊長?」 「あー、お前、俺がこの年で退役するかって」 ツィックの頭を軽く叩いて、「ねぇ?」とウィクに肩をすくめて見せる。 「追い出されるならともかく。俺はまだ三〇にもなっちゃいねぇよ」 「と、年の問題じゃなくっ」 「あ? じゃあなんで俺が退役しなきゃなんねぇんだって。俺ら、兼務辞めるだけだ」 やはりぽかんとするクアルとツィック。カランとエアーを見つめる二人の背後から、笑いを噛み殺したウィクの声がする。 「二人とも王国軍の仕事だけに戻るらしいから。親衛隊の後任に二人を指名したんだ」 「って、それって、ちょ、ちょっと待ってください! 俺が隊長の後任なんて務まるはずないっ」 「そーうですよ! 僕に隊長ぐらいの度胸はありません!」 「「今さら反論するな」」 やはり背後から、息の合った声が聞こえて、クアルもツィックも沈黙する。ウィクはにこにこと二人の様子を眺めたまま。 「二人とも、是非とも君たちがいいと言っているんだ。受けてくれないかな」 威圧感など全くない、ウィクの微笑。 「クアルはなんでも、カランの隊にある弓馬隊を任せられるほどの実力だそうじゃないか。実際に任せてないのは、君の弱気なところが不安材料だから、らしいね。だからこそ私の親衛隊が丁度いいんだそうだよ」 「え?」 「ツィックは」 目を見張るクアルを尻目に、ウィクは微笑みのままツィックを見た。 「上級剣士になれる実力はあるし、本人が望むならいつだって班の一つを任せてやりたい、そうだよ。けれど、」 言いかけたウィクがくすくすと笑った。聞き及んだ内容をウィクはただ伝えているだけだ。 「その前に一人で立った状態の君も見てみたいんだって、エアーがね」 言葉を失った二人を見守って、ウィクは二人の後ろに立つ、カランとエアーを見た。 「二人とも親ばかだなぁ」 言われて、二人とも二様に決まりが悪そうな様子を見せた。 「実力は証明する、らしいが?」 ごほんと一つ咳ばらいをして、ティーン。親衛隊筆頭である。 言われて反応したのは、エアーである。にやりと笑って「おうよ」と。 「ここはひとつ実演で。ウィク様、よろしいですか?」 「かまわないよ。散らかさない程度にここでやってもらって構わないけれど……ツィックの相手はエアーがするのかい?」 「いや、俺にツィックが敵うはずないでしょう。ここは、あいつ」 親指で入口に近いユーガ・ライトルを指名する。ユーガは顔を歪めた。 「ちょっと、エアーさん! 俺だって中等兵士に負けるほど、地上で戦えないわけじゃありません!」 「そういうでかい口は勝ってから言えって。怖気づいたか?」 「いーえ、全然っ」 鼻息荒く、ユーガは広い場所へと移動する。面倒くさそうにアタラや他の面々が端へと移動する中、取り残されたのは、同じく指名されたツィック。 端の方からエアーが無責任に声を上げる。 「よし、やれ、ツィック!」 はあああ、と大きく嘆息して、ツィック。 「……隊長、俺、真剣しか持ってきてませんけど」 「じゃあ当てる寸前で止めろ。それぐらいできんだろ」 「真剣勝負になるっていってるんじゃないですかっ」 「気にすんな。いつものことだ」 堂々と、軍規破りの常習犯。 ツィックは嘆息ひとつ、「じゃあいいです」とすぐに納得した。 「俺も、隊長の後任だし、これぐらい」 わざと自信満面にツィック。ユーガがむ、と顔を赤くした。 「俺も高等兵士なんだけどな」 「でもユーガさんは竜騎士です。地上は土俵じゃない。ユーガさんの土俵は空です。俺の土俵でどこまでくらいついてこれるか、挑戦ですよ」 「む、あったまきたぞ。本気でやるから、後悔するなよ」 「もちろん」 ツィックが意地悪くにっこりと笑った。 ウィクの隣でティーンのため息。 「挑発に乗ってどうする、ユーガ……」 「悩みの種がまた増えるね、ティーン」 笑いながらウィク。 執務室の中が談笑交じりの喧噪に包まれる。 ウィクは、確かに幸せだった。 賑やかな声が聞こえて、セイトはウィクの執務室の前で立ち止まった。供は連れてきていない。 自分からウィクの執務室に赴くのは、久し振りだなと思う。ウィクが無事にウィアズに戻ってきて、懲りないようにウィクがセイトの執務室を訪れることはあっても、セイトがわざわざウィクを訪ねることはなかった。 「それぐらいにしておけ! いい加減に諦めろ!」 怒鳴り声をあげたのはティーンだ。 「だ、だって! このまんまじゃ俺面目っ!」 「いい加減に執務室で暴れるのを辞めろと言っているんだ。私から見てもユーガに勝ち目はない、翻弄されすぎだ」 「暴れ足りないっていうなら、外でやりますか? ユーガさん」 「む、本当あったまくるな。ツィックっていったっけ」 「はい。よろしくお願いします」 「お願いしますから、これ以上挑発するようなこと言わないでくださいツィックさーんっ」 「お前が泣いてどうする」 「だ、だってっ、いきなり関係悪くなったらっ」 「これはこれで楽しそうでいいんじゃないのか?」 「そういう問題じゃないです!」 扉をノックする寸前でセイトは手を止めた。 この扉の中に、自分の居場所などないのではないかと思う。悔しいけれど事実だろう。 「……ふざけてる」 ぼそり、と知らず言葉が漏れた。 ――瞬間。 「何してるんですか? 陛下」 扉が内側から開かれて、エアー・レクイズが現れた。セイトは片手をあげたまま、エアーを見上げて苦笑した。 「いや、随分楽しそうだから入るのがはばかれただけだよ」 極めて軽く、セイトは答えて、開け放たれた扉の中に入る。扉の中にはぼろぼろのユーガと、それに対峙する若い剣士――ツィック・イクシス。親衛隊の面々はほとんど端に避難していて、最奥に座っていたウィクはセイトを見つけるとすぐに立ち上がる。 「あぁ、セイト。よく来たね」 ウィクは嬉しそうに笑う。 「ちょうどカランとエアーの後任の二人が来ていてね、少し実力を見ていたところなんだ」 悪戯に笑う。 笑顔、笑顔、笑顔。 セイトは内心に全てを隠して、自分も笑顔を作った。 「それで、どうだったんだ?」 「うん、申し分ない」 「なら、ちょうどいいかな」 ウィクが眉をあげるとセイトは微笑む。 「少し気分転換に行こうと思ったんだ。ウィクに付き合ってもらいたい。ついでで悪いが親衛隊も貸してもらいたくてね」 聞いたウィクの顔色が、一瞬凍って、それからみるみる嬉しそうに染まる。――本心からだな、とセイトは思う。思うと同時に少しだけ胸が痛んだ。 「うん、付き合うよ」 「よかった。その前に少し仕事をするよ?」 セイトは執務室の真ん中まで進むと悪戯に笑った。短い嘆息ひとつ。 「アタラ」 「はい」 「また呼び出しを無視したな? わざわざ時間を空けて待っているんだ、明日の一三時は必ず、私の執務室までくるように」 「お言葉ですが」 「口応えは許さない。何、やましいことじゃない。わかっているだろう」 「えぇ。ここでおっしゃらないというのでしたら、詳しい話は後日」 「そうしよう。明日だ」 「かしこまりました」 ぺこりとアタラが頭を下げる。 「カラン」 「はい」 「人事についてだが」 「大隊配置の小隊希望は提出しましたが」 「あれは本気か?」 「はい」 「本人には言ったのか?」 「いえ」 「私に言わせる気だな? ずるいぞ」 「恐れ入ります」 セイトは頭を下げたカランを見やって、失笑する。 「エアー」 「はい」 「人事異動の書類が遅いと、事務の人間が嘆いていたぞ。早く出してやれ」 「あーあれは――って、やべえっ」 「なんだ? もしかして手をつけてないのか?」 「剣士隊長集まってのすり合わせ、今日、でした……」 エアーの表情が凍っている。セイトは失笑する。 「忘れていたな? 早く行け、もっと頭が上がらなくなるぞ」 「御尤もです」 苦笑を浮かべてエアー。ツィックに好きにしてろと告げると一同に退室を宣言して颯爽と執務室を飛び出した。 エアーを見送ると、セイトはよし、と一息ついた。 「そういうことだな。ウィク、少し遠乗りに出かけよう」 「あぁ、うん。そういう格好だね。私も準備するから、少し待っていてもらえるかな?」 「あぁ、いいさ。裏門で集合だ。まさか私が息抜きに堂々と正門から出掛けられはしないからな」 「そうだね」 くすくすと、楽しそうにウィクは笑う。セイトは胸中でせせら笑った。 「そういうことだから、親衛隊はできるだけ少数がいい。地上隊の人間がいいけど、」 セイトはくるりと執務室の中を見渡した。執務室の中で地上隊に該当するのは四人。魔道士も含めるのならば五人にはなるが、うち二人は馬に乗れない。 「今のところ正規では、ティーンだけしか該当者がいないな。馬に乗れないカランには是非、城に残って自分の仕事を進めてほしいし、アタラのその顔は拒否だな。召喚獣を使っては許さないぞ? 目立つ」 一番行きたそうなのは天空隊のユーガだが、竜と天馬は否応に目立つのだ。 「そこの、新しい二人は馬に乗れるのか?」 恐縮している二人の中等兵士に視線を向けた。二人は二様に、「はい」と肯定する。 「乗馬、だけは、得意ですから」 「しごかれましたから、ごく最近に」 「なら決まりだな。有名な元問題児の忠者ツィック・イクシスと、有名な弓馬の後継者クアル・リヴィーか。安心できる」 至極楽しそうにセイト。ウィクは微笑んだ。 「ではすぐに向かおうか?」 「あぁ、そうしよう。先に行く。すぐに来てくれ」 「うん、すぐに行くよ」 頷いて、セイトが踵を返して執務室を出た。セイトがでた執務室から軽い会話の声と、退室を宣言する声。セイトは足早に裏門へと向かった。 出発は、昼前に。 セイトは至極楽しそうに馬を走らせていて、ウィクもその姿に喜んで続いた。 セイトが先導して、片道を終えるころには、陽は少し傾いていた。すぐに戻っても城につくのは夜になる。 ウィクは少しだけ息を切らせて満面に笑顔。 「セイトがこんなに仕事を開けるなんて珍しいな」 「あぁ、久し振りだ。まるで何も知らなかった時のようだ」 セイトは笑顔のまま、ウィクの姿から目線を動かした。 セイトが先導してたどり着いた場所は、丘の上。ウィアズ王国すべてが見渡せるのではないかというほどに視界は広い。 かつて初代国王となった人物は、ここに城を築こうとした。しかし何故かそうはしなかった。 「見てくれウィク。このウィアズ王国の姿」 言われてウィクはセイトの隣に並び、広がる景色を見た。陽光に輝く初夏のウィアズ王国。緑に包まれた平原。広がる農地、遠くには町が見えた。 「美しい国だ。私はこの国を守らなければならない。それが私が私に課した義務なんだ」 「うん」 頷いて、ウィクは馬から降りた。セイトはウィクを見下ろし、少しだけ顔を歪める。ウィクの笑顔に。 「その手伝いができたらと、私は思っている」 ウィクは自分の胸に手をあてた。セイトは馬上から降りると、ウィクの目の前に立つ。二人が並べば、セイトの方が幾分か背が高かった。 「だがウィク。この三年間、私が何をして来たか知っているはずだろう?」 「知っているよ?」 ウィクはニコリと微笑を浮かべてセイトを見る。少しだけ首をかしげた。 「それでも、私は君のために生きる。この地から見下ろせる王国に誓って、決して裏切りはしない」 セイトが目を細めた。口を閉じ、少しだけ沈黙が流れる。 「もう、」 小さな、セイトの声。 「もう、遅いんだ、ウィク」 セイトは微動しないままウィクを見つめた。 「私はもう父すら殺してしまった。この身は憎悪に焼き尽くされんばかりだ」 自然の音すらしない。ウィクも、ティーンも、クアルもツィックも、呼吸を忘れたかのようにセイトに見入っていた。 微かな風になびいた美しい金色の髪。王族の証のようなその高貴な色。 セイトとウィクはそれぞれ母親が違う。ウィクの血が国王の血でないと知れた今、実を言えば赤の他人である。 セイトの母は、側妻の一人だった。美しい女性が多かった側妻の中で、ひときわ美しかったセイトの母は、ウィクの母親である正妃をとても慕っていた。だが同時に、正妃を妬んでもいた。 「ウィク、私はお前のことが憎らしいよ」 幼い頃、セイトの身の周りは大人だらけ。ウィクと出会った時はただの友人として過ごせた。お互いの立場など知らなかった。 「お前は王妃様の子供として生まれたはずが、実は王妃様の裏切りの証拠だった。生まれたお前を見た瞬間に、私の母は正妃の交代がなされると思ったらしかった。だが、父はお前を容認した」 そして、ウィクはここにいる。 同じ年齢の二人の王子。 セイトとウィク。 「母は、父の王妃様への愛を見て、自分の居所のなさに嘆いたらしい。ただの保険だったのか、ほしいのは子供だけで、私はどうでもよかったのかと、小さい頃、母が密かに泣いているのを聞いたことがある。故にか、私が第一王位継承者に選ばれたときは泣いて喜んでくれたよ。だが……」 そう、「だが」。 セイトの母はすでにない。王妃が病死したのち、自害した。 全てを知ったのちのセイトは、孤独になった。居場所がなかった、居るべき場所を探していた。 有能な王子になればとただひたすらに努力していた。 だが。 「皆、私は劣る、ウィクは勝ると、噂する。私は政に秀でているが、それはさすが父の血と。ウィクが武に秀でるのは才能ゆえだろうと。まるで、お前だけが人間のようだな、ウィク」 ウィクはセイトを見つめて、首を横に振る。セイトは顔をゆがめた。――決心を揺るがさないために。 「皆に愛され、幸せだったろう。お前は幸せになりすぎた、いずれ不幸がめぐるだろう。義兄弟の情けだ、幸せである今殺してやる」 憎悪のこもる口調に、ウィクは身をすくめた。――刹那、唐突に首元に短剣があてがわれて両腕を締め上げられた。耳元でくく、と喉を鳴らした声。 聞き覚えのある声にウィクは目線を背後に送った。 眼を細めて満足げに笑う顔、ペルト。 「そういうことだよ。二度と帰ってくるなと何度も慈悲をかけられてたってのに、帰ってくるから」 馬から降りていた親衛隊が歯?みする。ペルトの登場はあまりに唐突過ぎた。おそらく瞬間移動する魔法を使ったのだ。 「遠乗りも、仕事の割り振りも、これが狙いだったということですか」 ティーンが苦々しく問う。 「そうだ」 セイトは二、三歩ウィクから離れ、ペルトとウィク、親衛隊の様子、すべての光景を見た。淡々と答えて、瞳から感情を打ち消す。 「その二人がいるのは予想外だったが、エアーほどの瞬発力は期待していないし、カランほどの速射ができるとも思っていない。アタラの魔法もない今、誰が切り抜けられるか。お前ならば考えずとも分かっているだろう」 ティーンは返事をしなかった。すべての可能性を考えたことを、セイトに見透かされていた。 丘の上、少しだけ涼しい風が一同の間を駆ける。ウィクは力を抜いて、風の感触を、少しだけ確かめた。 まだ生きているんだなぁとか、のんびりと考えながら、なぜか確かに、何かが落ちた気がした。 「セイト。もし私が、私でなかったなら、友人でいられただろうか」 あまりに覇気のない言葉、声。 「ウィク様!」 怒鳴ったのは、ティーンだった。焦りに似た声だ。ウィクはティーンを一瞥して、にっこりと笑う。ティーンはウィクの笑顔を見て、息を呑んだ。ティーンはウィクの心中を諮らずも知ってしまうのだ。 ――否。ずっと思ってきたことを、ウィクが今、口にしようとしていること。口にさせたくなかったのにと、後悔してもすでにウィクにできることなどない。 「もし僕が、」 ウィクはセイトに視線を戻す。セイトはウィクの様子に胸中で首を傾げた。ウィクであるようで、ウィクでない。なぜかそんな気がしたのだ。 「サリアやセフィのように天馬や竜になって帰ってきたら、君は受け入れてくれるかい?」 もう一度叫びたい言葉をティーンは飲み込んだ。一つの、絶望とともに。 セイトは答えない。ウィクはセイトの表情を見て、微笑んだ。 セイトの瞳に揺らぎは、ほとんどない。 拒絶の意思か、覚悟のためか。この丘から見える王国のためなのか。 けれど微かに見えたその揺らぎを、ウィクは希望と思う。 たった、一つだけの。 「たとえ。君が受け入れてくれないのだとしても。僕は、なんと言われようとも。たとえ、かなわなくても。願い続ける。希望を持ち続ける」 そう、決めた。 一つひとつ、かみしめるようにウィクは言葉を紡ぐ。想いをこめて、少しでも、セイトに自分の心が伝わればいいと思う。 「思い出す過去は僕にとって宝箱のままだ。その宝箱を、もう一度開けたい」 微かだけれど、今だ残るウィクの意思。 死に瀕して何を願うと問われたなら、ウィクは今と同じことを言うだろう。 何か言い残したことはないかと言われれば、皆に謝りたいなと思うこともそうだけれど、何よりセイトに伝えたかった。 自分は、確かに幸せだった。 けれど本当は一緒に幸せになりたと思い続けて道を分かれた。 すべては、自分と、セイトのために。 「なら」 セイトはウィクを見つめたまま、微動しない。まっすぐに見つめる瞳に、確かに揺らぎが見える。ペルトが顔をゆがめた。 「この丘から飛び降りて見せろよ、ウィク。この丘の下には川が流れてる。運が良ければ生き残るよ」 風がひときわ強く吹いた。セイトは瞬きなどほとんどせずウィクを見つめたまま。 「もしウィクが生き残って一人で生きて帰ってきたら、僕も、宝箱を開ける」 告げて、セイトはゆっくりと丘の先を指さす。 丘の先に立たずとも分かる。かなりの高さだ、生き残る確率などほとんどないのだろう。 ウィクは指さされた先を見て、淡く微笑んだ。目を細めて、嬉しそうに。まるで狂ってしまったかのようだ。 「わかった、一人でだね」 「――っ!」 息を呑んだのはティーン・ターカー。走りだそうとした、声を上げようとしたのをペルトに一瞥されて踏みとどまる。ウィクの姿を見つめて、胸中で激しく止めようと声を上げる。けれど、そんな心がティーンを見ていないウィクに伝わるはずもなかった。 それに、とティーンは思うのだ。 この場所この状況で、ウィクかセイトを選べと言われたなら、迷いはするけれど本心に反してでもセイトを選ぶだろう。 四代目国王セイト・ウィアズは確かに、今のウィアズ王国に必要な人物なのだ。 その判断をするであろうことすらも、おそらくセイトは知っていて、ティーンの随行は許したのだ。 「これ、どうしたら……っ」 思わず呟いたのは、ツィック・イクシス。全く動けないていで立ちつくしている。 本来指導するべきであるティーンですらも、答える言葉を、今は発せないでいた。答える言葉を知っている自分を、嫌悪していた。 ウィクの両腕を締め上げていたペルトの手が緩んだ。ウィクは一度だけティーンを見た。『ごめんね』と、謝るかのように柔らかに笑う。その顔を見て、ますますティーンは動けなくなってしまうのだ。 ウィクは離された片手でつるしていた剣を外す。首元からペルトの短剣が離れると丘に向かった。 剣を片手でセイトに放り投げる。剣は弧を描いてセイトの胸にぶつかり、両腕に抱かれる。セイトはウィクを見張った。 ウィクは駆けた、風のごとく。ふわりと、風が彼を包んだ。 丘から見える風景は、とても綺麗だった。 新緑の大地。どこまでもどこまでも続く、美しい緑。空も、どこまでもどこまでも青かった。 ウィクは無言のまま、丘の淵を蹴った。ふわりとウィクの体が浮く。陽と重なって、ウィクの姿が黒く染まった。見張っていたセイトは目を細めて、すぐに我知らず走り出した。 だが、時はすでに遅い。 ウィクの姿はすぐに宙から消えた。すとんと音でもしそうなほど一瞬で消えた。 走りだしたセイトを抱きかかえるかのように止めたのは、ティーンだった。丘の端に程近い場所で二人立ち止まって、何もない場所を見つめていた。 「ペルト」 セイトは瞬き一つせず、両目を開いたまま、まっすぐを見詰めたまま言葉を発する。 「お前は姿を消せ。お前の暗躍があったと知れては、親衛隊がうるさい」 ペルトはセイトを見やり、短く鼻で笑った。 「わかったさ、しばらく消える。他国の情報集めに戻るさ」 「あぁ。我々は帰らなければな。ウィクの葬儀を執り行ってやらなければならない」 ここまでを会話してから、セイトは体から力を抜いた。力を抜いたセイトに反応して、ティーンもセイトを放す。セイトはティーンを見上げて、目を細めた。 有能だからと自分に利用されたこの騎士を。 ウィク・ウィアズの最大の理解者、ほとんど家族だった。 「帰るぞ、ティーン」 ティーンは軽く頭を垂れて「はい」と、答えて踵を返した。驚愕する二人の新人の姿をっ見やり、首を横に振った。 「自分の隊長に報告はしなくていい。何か訊かれたら、私に訊けと言っておけ。自分は遠くにいて何も知らないとな」 事実を知ったところで、とティーンは思うのだ。 誰も真実を語ろうとはしないだろう。 現実を変えようとはしないだろう。 ――あぁ、親衛隊なんてもの、本当に形だけだった。 本当にウィクを救えたのは、セイト・ウィアズ、たったひとりだけだったのだから。 ウィアズ王国歴七七年、初夏。 五番目の月一三日目。 ウィク・ウィアズの葬儀が執り行われた。 ウィクは王国軍に所属していたため、特に王国軍の高官たちを中心に列席者が城前の広場に集まった。 式典も行われる壮大な広場には、哀悼の意が満ち満ちて、セイト・ウィアズ四代国王はほんの少しの高台からそれらを眺めた。 「エアー・レクイズ」 親衛隊所属、エアー・レクイズ。親衛隊を辞すことは決まっていたが、正式に肩書きが変わったわけではなかった。 親衛隊は列席者の最前に程近い場所にいた。 呼ばれてエアーは顔をあげ、高台の上のセイトを見上げた。 セイトはエアーに背中を向け、遺体のないウィクの棺に向かい、「歌え」と。 「気分が落ち込むと歌う癖があるだろう。その思いのままに歌え、『 しばらくエアーはセイトを眺めたまま沈黙していた。 「では」 静かに、エアーが答える。落とすように笑う、優しい表情で。 「陛下も是非ご一緒にお歌いください。出来ることならば、列席しているすべての方々にも、ご一緒に歌っていただきたいと存じます」 簡易礼をセイトに示して、エアー。二人の声は静まり返った広場によく広がっていた。 「であれば、拙い声ではありますが、先導として歌わせていただきます」 セイトが「分かった」と小さく肯いた。 エアーが顔を上げて、それからゆっくりと息を吸う。 青い空を――ウィアズ王国の青を見上げた、雲ひとつない空を。 白い天馬と真っ黒な竜が通り過ぎるのを少しだけ見守ってから、エアーは歌いだす。 やがて、歌は広場全体に広がった。 哀悼の意。 「死んでしまったあなたのためにも、精一杯生きる」と意味を込めた歌、セイト・ウィアズの本当の想い。 ウィク・ウィアズは、こうして歴史上から姿を消したのである。 |