■□ 終話 黒髪の英雄、再来 □■


   『もし私が私でなかったら、共に居られただろうか』
「でも、私ではない、私とは、いったい何者?」
 暗闇の中、ただ光を求めて歩いた。
 てん、てん、と微かに灯る光を見つめながら、ウィクは暗闇の中を歩いていた。
 微かに灯る光は近寄ると見えなくなる。だからまた別の光を探して。
 延々と、ただ、延々と探していた。
 止まることなくただ歩いて、歩いて。
 消えることのない光を探していた。

「まだかなぁ、まだかなあ?」

 光が、見えた気がした。
 慌てて光の方向に走り出すと、光は一気に広がる。
「わぁ! 起きた! 起きたよーっおかあさーんっ!」
 唐突に光に包まれて、ウィクは思わず両目を手で塞いだ。塞いで、ふと違和感を感じて、ゆっくりと目を開ける。
「まあ! じゃあ是非早く医士さんを連れて来ましょう! ミールちゃん、連れてきてくれる?」
「はあーいっ」
 二人の声。一つはとても幼くて、あどけない。もう一つは少し落ち着いた女性の声だ。
 親子かなと、ぼんやりと考えながら、目を塞いでいた片手をゆっくりと下ろす。
 片手が視界からなくなると、天井が見えた。どうやらベッドの上に寝かされているらしい。少し硬いけれどふわりとした感触がする。
「おはよう、でいいのかしらね?」
 ぱた、ぱた、と足音が近づいてウィクは目線を動かした。女性が見下ろしているのに気がついて、慌てて体を起こす。ずきりと体が痛んで抵抗はあったけれど、何とか上半身を起こすことには成功する。
「無理して起きなくてもいいのよ? 平気?」
「少し痛いですが、平気です」
 体を起して改めて女性の姿を見た。エプロン姿の若い茶髪の女性。少しおっとりとした雰囲気はあるけれど、しっかりはしていそうな青い瞳の色。
「本当に無理しちゃだめよ? すごい怪我だったんだから。生きてるのが不思議なぐらい」
 腰に手をあてて彼女が。ウィクは困ったように微笑んで見せた。
「助けてくださって、ありがとうございます。あなたは?」
「私はオーパスって夫の妻をやってるリサ。も一人ちっちゃいうちの子のミールがいるけど、体の調子が良くなるまではうちでゆっくりしていってね」
「ご迷惑をかけるわけには」
「ご迷惑だと思ってるなら、すでに随分ご迷惑だから、ご迷惑だと思ってないの。困った時はお互い様。そうでしょ?」
 にっこりとリサが笑う。ウィクはリサの笑顔を見て、失笑してしまった。
「あら、そっちの笑いの方が男前。名前はなんていうの? 私までお兄さんじゃ格好つかないでしょ」
 問われて、ウィクの顔がふとして笑顔が消えた。ウィクの表情を見て、リサが苦笑した。
「言いたくないならいいんだけどね。こっちでなんか名前考えて呼んでおくからそれで了承してね」
「いえ、わた――僕は、ウィクと」
 聞いたリサの眉が上がった。
「ウィク? そんな名前で呼んでいいの?」
「えぇ、それ以外で呼ばれたことがないので、おそらく反応ができないと思いますから」
「あら、大層な名前だ。ウィアズ王国の文字をとったウィク様の名前と一緒じゃない。これは呼び捨てしちゃいけないかな?」
「結構ですよ。そっちの方が気が楽です」
「じゃ、そうしようかなっ。でもウィク様亡くなられたばっかりなのに不謹慎かなぁ」
 本当に困ったようにリサは片手で頬を抑えた。
「亡くなられたんですか?」
 半分だけ知っていたけれど、とウィクは思う。
「そう、この前葬儀が王城の広場で行われたらしいわよ。うちは行かなかったし、あなたがいるからそれどころじゃなかったしね」
 ウィクは目を細め「そうですか」と答えた。――本当にウィク・ウィアズは死んだんだなと思う。自分は何者でもなくなってしまった。
 ウィクと名乗ったけれど、すでに名乗ってよい名前ではなかったのかもしれない。けれど自分の名前と聞かれるとこの名しか思いつかないのも事実だった。
「ま、もう少しお休み。元気が付いたら外に出ておあげ。あなたを助けようとしてた天馬がまだ外にいるから」
「天馬が?」
「うん。天馬が助けようとしてたのが男だったから、私もびっくりしたんだよ?」
「その天馬、まだ外にいるんですね?」
「うん。もしかしてウィクのいい人?」
「いえ、おそらく違うけれど……」
 そもそも“いい人”なんていなかったしなと、ウィクは苦笑する。そんなことを全く考えたこともなかった自分は、なんだか不自然なほど現実を見ていなかった気がするのだ。
 ウィクは急いた気持ちのままにベッドから這い出た。リサがやんわりと静止するけれど、「会いたいんです」と断固として。
 ふと気が付くと、自分の体には、全身に包帯が巻かれていた。体は痛む。本当に生きていたのは奇跡だったのかもしれない。セイトが運が良ければと言ったほど、確率は本当に低かったのだ。
 見かねたリサが手を貸して、ウィクはベッドから降りて立った。リサに「ありがとう」と笑う。不思議と気持ちがとても楽だった。心が軽い。不思議と。
 リサに案内されてウィクは急いて外に出た。
 家の外、すぐ傍に天馬が佇んでいた。
 真白な幼い天馬。
 ウィクは天馬を見つめて、呼吸を少しだけ忘れた。一歩、踏み出してから呼吸を再開する。
「君は――」
 天馬に向かって片手を差し出すと天馬がウィクに気がついて振り向いた。ウィクを迎えるように天馬もゆっくりとウィクに近づく。
 お互いゆっくりと歩み寄って、ウィクの片手が天馬の鼻面を触った。
「サリア」
 答えるように天馬が――サリアが鼻を鳴らした。ウィクは目を細めた。
「どうして。カタンの傍にいたのでは」
 サリアが首をかしげた。ウィクの表情が困惑に変わる。
「僕を、選ぶって? 何故。君が愛したのは同父の兄弟であるカタンだ。もしも似ていたとしても僕じゃない」
 ごす、と遠慮なくサリアが体をウィクに押し付ける。ウィクは少しよろめいて、だがやはり困惑のまま。
「それでも僕を選ぶ? 本当に何故」
 サリアがウィクに身体を寄せた。
 ウィクは愕然と立ち尽くしたままサリアを見つめた。まるでせかすように体をこすりつけるサリアを、ただ、ただ見つめて。
 開いたままの両目から、涙が零れ落ちた。
「僕はもう、ウィク・ウィアズじゃない。ウィアズ王国の王族ではないんだ。それでも僕に、あの場所に帰れというのか?」
 肯定するようなサリアの仕草。
「僕だって帰りたい……! けど、僕は、いったい、何者として……何者として、あの場所にいけばいいの?」
 ウィクはサリアの首を抱く。
「教えてくれ、サリア。一緒に帰りたいというのなら、教えてくれ、サリア……」
 ウィクの瞳から、涙は止まらない。一度拒絶と絶望を味わった、その折に流せなかった涙が今更になって流れ落ちる。自分の存在を知った時から続く、一つの問いと共に。
「僕は、いったい、何者なんだ?」
 サリアが小さく鳴いた。ウィクが少しだけ顔をあげて、少し。
「僕は……っ!」
 声にならない叫びをあげて、ウィクは空を見上げた。
 薄曇りの空。
 見通しのない空。


◇◆


「入りますよー? っていうかドア開いてたらここの防音魔法の意味ありませんって。重要書類もあるんですから、きちんと閉めてくださいよ」
「あーはいはい」
 ウィアズ王国歴八十二年、挽春。
「これ! エアー高等兵士に向けた昇格候補者の書類です!」
 第一小会議室は書類の山だ。まるでバリケードを作るために積まれたかのような、冗談のような量である。
 入口に立った男が抱えた書類をひと掴み、掲げて叫ぶ。書類の壁の向こう側から声が返ってきた。
「はいはい、眼ぇ通すからそこらへん置いとけって。ってったって、育成部の眼信じてるから、落とすような奴はいねぇだろ。いたとしても、こっちで仕込むよ」
「まったく、高等兵士さんたちはいつもそうじゃないですか。気に入った人だけは連れてくくせに……いつかわざと何も分からない人送りますよ?」
「あーそんなん平気平気。俺なんかいまだに軍規全部覚え切れてねぇと思うぞ。つーかあんなん正確にきっちり覚えてんの、下手するとティーンとかしかいねぇんじゃねーのか?」
「あはは、確かに。俺も覚え切れてないなぁ」
 やけくそのように壁の向こうの別の場所から声が上がった。エアーと同じ大隊のシリンダ・ライトルのものである。
 入口に立った見習兵士育成部の男が、あからさまに嘆息する。こういうやり取りは本当に日常だった。
「そうそう、面白い人エアーさんところに配属にしときましたから、楽しんでください。ただしうちらのことは怒らないように。見に来ない高等兵士さんたちが悪いんです、そこらへんは」
「わーってるよ。ありがとな」
「どういたしまして。本当お疲れ様です」
「おう」
 エアーにしては珍しく、ではあるのだけれど、小会議室を占領して書類整理をしていた。
 今年マウェートとの和平十周年を記念した式典が行われたばかりだから、仕事が山積みだ。式典の前も山積みだったが、ここにある書類は第一大隊のものほとんどをあわせて積んであるから、見るだけでうんざりはする。
 書類は半分だけ処理した。あと半分はまだ時間の猶予があるから、正直飽きた書類整理からは少し逃げることにする。自分の隊にも顔をださなければいけないと思っていたところだ。あとは見習兵士育成部の人間が言っていたとおり、全く見に行かないのも正直申し訳ない。諜報関係は第一大隊の分はまるごと四番隊長の魔道士ピーク・レーグンに回しているから、出来上がったものをそれもこの会議室に放りこもうと思っている。カランが戻ってくるまで少しは整理しておきたい。
 カランは最高等兵士としてマウェートの使者の護衛としてクェイトまで、さらには国境とされる島まで行っている。戻ってくるのはおそらく今日か明日。ピークに書類を取りにいくついでにとりあえず育成部を見に行こう。帰ってきたら整理して、終わらせて隊に出る――間に合うだろうか。
 間に合わせるしかないのだけれど、間に合うのならセイトの執務室にも寄ってこようと思う。おそらく昨夜徹夜だっただろうセイトがまだ起きているのなら、眠らせる。でなければおそらく、今日も寝ないつもりだ。軍部でこれほどなのだから、すべてを統括するセイトは休んでいないだろう。――そういう人だ。
「とりあえず、ピークの諜報関係のと照らし合わせて考えたほうが、いいよな」
 椅子から立ち上がってエアーは軽く体を伸ばした。
「シリンダ、生きてるか?」
「あぁ、一応な。けど俺はいい加減飽きてきた、書類に殺されそうだ」
「俺もだ。半端ねぇよな、この書類の数。冗談にしかなんねぇって」
「似たりよったりも多いしな。そろそろ休むか?」
「あぁ。ついでにピークの取ってくるから、そのついでに育成部にも顔出してくるわ」
「あぁ、それがいい」
「お前はどうする?」
「少し寝る。もしユーサーに会ったら俺はいけそうにないからよろしく伝えておいてくれ」
「了解」
 書類の隙間を縫ってエアーは小会議室を後にする。先ほど来た見習兵士育成部の人間が言っていた通りにドアを閉めて、育成部の方向へと足を向けた。
 エアーは今、第一大隊二番隊長の肩書を持つ。第一大隊を率いるのはカランだ。カランの宣言通りエアーは総司令補になった。
 ウィクが死んで、親衛隊が解体されて、アタラは次の年に断りきれなくなった最高等兵士への昇格を受けた。第二大隊の総司令だ。今年の式典でティーンが最高等兵士に昇格になるらしい。順等だといえば順等だと思う。どうやらセイトはティーンの能力をかなり高く買っていて、階級に縛り付けても国にとどめておきたいらしい。
 ユーガはしばらく近衛にいたが、一昨年から王国軍との兼務を始めていて、元々からの隊長直々の申請により第二竜騎士隊に納まりそうだ。カタンの後任だったノエル・オークルはずっと「自分に隊長業なんて向いてない」と悲鳴をあげていた。ノエルの性格を考えれば一〇年よく頑張ったと褒めてやりたいぐらいだ。
 ヴィアも王国軍に戻っていて、天馬騎士筆頭。今もアタラとともにいる。昔より随分丸くなった。ヴィアの正式な招きで、時折カタンとデリクが王城に現れることがあるが、二人は相変わらず、それぞれティルグを拠点に放浪しているらしい。
 エアーは窓の外を眺めて、小さく嘆息する。王国軍に戻って、すべてが当たり前のように流れている。過去を時折思い出せば、少し寂しいなと思うぐらい。
 窓の外には最近よく見る、誰も乗せていない白い天馬が飛んでいた。この時期にはよくある光景だ。
「あ、エアーさん!」
 背後からユーガ・ライトル。呼ばれてエアーは振り返った。
「天馬がこっちらへんにはぐれたって訊いたんですけど、見ませんでした?」
「ん? 無人の白い奴か?」
「はい、見たんですか?」
「見た見た。ついでだからお前のレジャーに乗せてけよ、剣士の見習んとこに飛んでったから」
「……本当ですか?」
「あぁ、マジマジ」
「そうらしいわよ、ユーガ。大人しい子ね」
 ユーガに追いついてきたのはヴィア・ハワー。
「でも見習剣士の訓練場だったら、歩いて行った方が早いでしょう。そういうこと分かってて言うの、いい加減にやめたら?」
「そろそろユーガからもそういう突っ込みくるか試してみただけだっての」
 言われてユーガは顔を顰めた。突っ込めなかった。相変わらず本気にしてしまった。
「で、行くんだろ? お前雑用までやる余裕よくあるよな」
「王国軍正式所属じゃありませんから、余計雑用が回ってくるんです! 早く仕事終わらせてくださいよ、エアーさんも」
「……お前、そういうことは第一小会議室、見てから言えよ?」
 ヴィアは二人の様子を少し後ろから眺めてくすくすと笑った。自然歩き出した最後尾で、少しだけ外を見た。
「あの天馬、アタラも気が付いているのかしら」

 アタラ・メイクルとティーン・ターカーは第四小会議室にいた。ここの書類も冗談にならない量ではある。
 だが二人とも小休止のていで、アタラは窓際に座って外を眺めていた。
「ティーン、天馬」
 ティーンは言われて窓の外をちらりと見やり、失笑する。冷めたお茶に口をつけ、一口飲んだ。
「また飛び出してきたのか」
「そうね。そろそろ他の奴らにもばれる頃合いでしょう?」
「そうだな、忙しさで目が回り過ぎていなければ、だが」
「えぇ」
 呟くように相槌を打ち、アタラは落とした目線を、再び窓の外に向けた。
「だったら、改めて」


「よっ、せっかくだから見に来たぜ、天馬捜索隊二人連れてな」
 見習剣士の訓練場につくと、エアーは口頭一番、明るい声で奥の育成部の人間に声をかけた。見習兵士育成部の人間はあわてて起立するとエアーに振り返る。
「あぁ、エアーさんっ! 不備でも?」
「いや、まだ書類の方は見てねぇ。まだ式典まで時間かなりあるから許せよ」
 答えてエアーはこの訓練場にはいるはずのない人間を見つける。そも、今日帰ってくること自体、可能性が低かったのに。
 カラン・ヴァンダである。両手を組んで訓練場の中庭の方向をじっと見つめている。
「おい、なんでカランがいるんだ?」
「あ、それはー、そのー……」
 なぜか言葉を汚し、育成部の人間がちらりと中庭の方向を見やった。入口付近で立ち止まっていたエアーは足早に中庭が見える場所まで進む。ユーガとヴィアも続いた。
 中庭には見習剣士たちが詰めていた。訓練場の中に誰もいないのは外で訓練しているせいだったのは分かっていたが、なぜ訓練をしている雰囲気にないのか、エアーは中庭を見て理解した。
 中庭の中央に天馬が降り立っていた。
 長い黒髪を一つにくくった男が、宥めるように天馬を撫でている。一瞬、デリクかとも思ったが、違う。背丈も雰囲気も、何もかも。
 エアーが足をとめ、口を閉じた。黒髪の男をじっと見つめる。
 エアーの少し後方で立ち止まったヴィアが微笑んだ。
「あら、やっぱり」
「天馬、触って……っ」
 ユーガが息をのんだ。声に、黒い長髪の男が振り返る。
 男は、四人の姿を見て沈黙を少しだけ返した。見習剣士たちはその様子に肩をすくめたり好き勝手に動いたり。幼い顔が多い。長い黒髪の男は、中でも目立つほど大人然としていた。事実、年齢は見習に入る歳ではないのだろう。
「おい、お前」
 沈黙を破ったのは、エアー・レクイズ。呼ばれた長い黒髪の男がエアーを見た。
 エアーは無造作に中庭に向かって歩き出す。
「名前は?」
 沈黙が返った。返った沈黙に、エアーは傍らに何本も立てられていた木剣の一つを放り投げてにやりと笑う。
「答えろ、名前は?」
 木剣を受けとって黒髪の男が、破顔した。
「ウィク・ガータージ・サリアです」
「よし」
 エアーが笑う。空気が緩んだかのように、口を閉ざしていた元親衛隊の面々が表情を緩めた。
「やるぞ。特別に稽古付けてやる」
「はい」
 天馬が翼を広げて空へと舞い上がった。
 白い天馬の羽根が一枚、二枚、はらり、はらりと舞い落ちる。真っ青なウィアズ王国の晴天の下。

「おかえり」

 誰かの声にウィクは笑った。

「ただいま」

 木剣を構えてエアーと対峙するように向い合って、「帰ってきたよ」と誰にとでもなく胸中で語りかけた。
 今でも。
 出来うることなら、大切な人々全てを。
 護れるような人間になりたいと、ウィク・ガータージ・サリアは願っている。
 そして出来うることなら。
 失くしてしまった大切なものが二度と、傷つきませんように。


◇◆◇■□


「ウィク。こんなところで転寝か?」
 王城内政部に程近い中庭の一角で、黒髪の男が目を開けた。至極気楽に声をかけ、歩み寄ってきたのは金髪の――ウィアズ国王、セイト・ウィアズ。
「あぁ、陛下」
 黒髪をかきあげ、やんわりを笑みを浮かべた、ウィアズ王国軍第一大隊総司令ウィク・ガータージ・サリア。
「あんまりにも日差しが気持ちよくて」
「王国軍の高等兵士たちにはサボリ癖でもつくのか? その書類、風で飛ぶぞ」
 折りたたまれた上着の下の書類を示して、セイト。ウィクは書類を見やって、平気さ、と。
「案外に重い素材でできているんです」
 答えながら、少しだけ書類を寄せた。セイトの座るスペースができると、当然のようにセイトがベンチに腰をかける。
 しばらく、二人無言のまま、陽ざしに身を任せていた。微かな風が中庭に入り込み、そして舞い上がる。空は真っ青。
「あの頃のことを、少し、思い出していたんだ」
 沈黙を破ったのは、ウィク。
「君も知ってるあの新米の剣士に、ウィク様だったころのことを教えてくださいって言われてね」
 ウィクは苦笑する。
「本当は語るべきでもないんだろうけれど、少しだけ、話してあげたよ。でも、あの時のことはもう、多くの人が語らない。君と僕とが偽りの兄弟だったころの話を」
「そうだな」
 セイトが相槌を打った。ウィクはセイトを少しだけ見やって、もう一度空を見上げた。
「あの頃の僕はね、世界を薄っすらとしか感じたことはなかったんだ。だからいつも笑っていた。
 僕は生まれてはいけなかった存在、ずっとそう思ってきたんだ。世界を見ようともしないで。
 ――それを、彼らが変えてくれた気がするんだ。
 ユーガが笑うとどうしてか僕も笑いたかった。ティーンの傍にいると安心する。カランを見ると少しだけ羨ましくて、アタラといるとどうしてか暖かい。ヴィアといるとなんだか懐かしくて……エアーはきっと、僕にとっても影の部分だったんだね。死にたいって、心の底で言ってた。僕もそうで、それを認めたくなくて、エアーには生きていて欲しかった。生きていってくれたら、僕も生きていける気がしたから」
 城を常に包む喧噪は遠い。そも、あまり人の通らない場所の中庭だ。セイトはウィクの横顔を真摯に見つめていた。
 ウィクが、目を閉じた。力強い口調で続ける。
「でも、違うんだ。生きるのは僕だ。生きようと思うのは僕だ。どう生きるのかを決めるのは僕だ。――それを、皆の決断を見てようやく知った。それぞれの想いを抱いて生きる皆の選択を見て」
 現在、当時のウィク・ウィアズの親衛隊で王国軍に残っているのはヴィアとユーガのみ。他はそれぞれ王国軍から離れて、今は別の人生を歩んでいる。
「それを知って、僕はようやく生き始めることができたんだろうと思うんだ。僕が僕になってから、君ともう一度話ができてから。世界は暖かかったんだなって。この国は暖かい国だったんだって、そう、素直に実感できたよ」
 セイトは嘆息交じりに空を見た。
「では、改めて言うべきでもないかもしれないが、言っておくよ」
 確認のため、と言うわけでもない。
 二人の間ではなんとなく、こういう過去への決別の仕方が、一番似合っていると思えたから。
「私はお前と言う存在があって救われているよ。心から信じられる存在がいるって、本当にありがたいんだ」
「うん。僕もさ」
 答えてウィクはセイトを見た。セイトもウィクを見やり――同時に声をあげて笑った。


 ウィアズ王国歴では九五を数えたこの年。
 隣国ティルベリア共和国との戦争が勃発する。
 三年続いたこの戦争は、ティルベリア共和国の二分の一にあたる領土をウィアズ王国が占領したことによりティルベリア共和国が降伏した。
 この戦いを勝利に導いたウィク・ガータージ・サリアはセイト・ウィアズと共に、ウィアズ王国の磐石な基礎を築いた人物として伝説として語り継がれる。

 そして彼は、セイト・ウィアズの崩御の後に、権力争いを避けて姿を消した。
  


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