■□ 八話 黒い竜騎士、庶幾 □■


    ウィクがアタラを伴ってティーンの待つ馬屋に現れたのは昼過ぎだ。ウィクに手を引かれて歩くアタラの顔は実に居心地が悪そうだ。アタラの姿を見て、ティーンは眉をあげた。
「ティーン、言われたとおりに来たけれど、どうしたんだい?」
 ティーンはウィクを改めて見やり、「はい」と、平生を装う。一度宿に戻ったが、以降ティーンはずっと馬屋にいる。自分たちの馬の世話のためでもあり、ウィクを待つためでもあった。
「あの天馬に会いたいのではないかと」
「あぁ、」
 ウィクはにこりと笑う。アタラの手を少しだけ強く握った。
「是非会いたい。どこにいるんだい?」
「こちらです。デリクが今朝から看てくれています」
「看て?」
「はい」
 ティーンが厩の奥へと向いた。
 ウィクは口を閉じた。アタラの手を掴む手に少しだけ力をこめて。
「そうか」
 応えてウィクはティーンの後ろを歩く。少しだけ戸惑い気味にアタラが付いてくるのがわかる。様子を感じ取ってアタラが本当に女性であったことがわかった。――今更で、不思議だけれど、アタラが常に高等兵士然として生きてきたからだろう。
 天馬は最奥にいた。天馬や竜は大きな翼があるので、馬と同じ馬屋に入れられることはない。だが幼くまだ小さい天馬や竜なら話は別だ。周りは翼のない馬が並ぶ中で、一部屋だけに白い天馬が横たわっていた。
 呼吸がほとんどない。デリクは天馬の傍に座って体をなでていた。
「……デリク」
 ウィクに呼ばれてデリクが振り向く。皮肉そうな笑みを浮かべた。
「待っていた」
「え?」
「おそらくだが、天馬はウィク殿を待って生きながらえていたからな。もう死に体だが」
 デリクが立ち上がって天馬から離れると、天馬がよろよろと立ち上がろうとする。様子にウィクはアタラの手を離して、思わず駆け寄った。
『ありがとう』
 声が、聞こえた。ひどく懐かしい声。
「え?」
『ありがとう』
 再び声が。天馬を見ると、まるで頭を下げるかのように首を曲げている。
 ――刹那。
 まるで紙屑のように散り散りに天馬の体が砕けた。ガラス細工であったかのように、欠片は透明で美しい。けれど、すぐに空気に消える。
「これは……」
 ウィクが茫然と様子を見つめていると、不意に背後が騒がしくなった。
「アタラッ」
 ティーンが叫んだかと思うと、走る音。ウィクが振り返ると、意識を失ったアタラが力なく、ティーンに抱えられていた。
「どうした」
 アタラを揺らしてティーンが問う。アタラは目を覚まさない。
 デリクは天馬が消えた場所を目を細めて眺め、ゆっくりと目を閉じる。
「魂の器を作っていたのは、アタラの魔力……か。さすがは当代一の魔道士……だな」
 黙祷を捧げて、デリクが顔をあげる。
「ウィク殿」
 デリクはウィクを見た。
「プラ・ヴィーンに、まだ行く気はあるか?」
 ウィクはデリクの表情を見、少しだけ首をかしげた。
「行かないつもりはないよ。ぜひ行ってみたい」
「プラ・ヴィーンは天馬と竜の出生地だ」
「うん」
「それでも、行くのか」
 ウィクはにこりと笑った。迷いなどない。
「うん、行こう」
 ウィクの迷いのない答えを聞いて、デリクは安著する。デリクはウィクを、プラ・ヴィーンに連れていくつもりで連れ出した。ウィクが必要のように思えたから。
 ウィクはうなずいて、デリクを見る。ただ一度ティーンを見て苦笑した。
「でも、急ぎでなければ、出発は明日か明後日にしてほしいな」
「無論だ。道中で倒れられても困る」
「そうだね。ティーン?」
 ウィクは苦笑のままティーンに向いた。ティーンはアタラを抱えあげて訝る。
「はい、何か」
「ティーンにも心配をかけたようだから、今日はゆっくり休んでくれないか。せっかくティルグにいる、駐留軍の誰かに私の護衛は頼もう」
 ティーンはウィクの言葉を聞いて、短く撥が悪そうに笑った。――実は、ウィクが昏睡してからティーンは一睡もしていなかったのだ。看破されたのは居心地悪い。
 くすりと、小さくウィクが笑う。
「皆にも休んでくれと伝えて欲しい。いいね」
 ティーンは諦めたように息を吐くと、「はい」と、素直に従った。ティーンにも、ウィクだからこそ傍にいるのだと言う思いが少なからずあった。





 次の日の朝、ウィクはデリク一人を供にしてティルグの町に繰り出した。そも夜が明けたばかりの早朝だったから、はっきりと目を覚ましていたのは早起きの習性があるエアーぐらいのものだ。宿の一階にいたエアーは、ウィクが「みんなには秘密だ」と告げると、苦笑を浮かべて見送った。
 護衛をつけてくれたミレイドからの交換条件で、エアーは仕事の手伝いと個人の訓練付き合いを約束させられていた。ついていきたくともついていけない、が正直なところだった。ウィクはエアーが起きているのも、エアーがついてこれないのも分かっていて、この時間帯に街に出ることに決めたのだ。プラ・ヴィーンへの出発は明日にしたので、今日一日は予定が空いている。
 早朝のティルグ。まだ薄暗いほどの景色に、ウィクは少しだけ目を細めて辺りを見る。
「いい朝だ」
 デリクがくすりと笑った。
「ウィク殿に言わせれば、すべての朝がいい朝のように聞こえるな」
「朝ぐらいはいい方がいい。雨の日だって私は好きだ」
「やはりな」
 答えてデリクは笑う。
 ティルグの今朝は晴れている。昨日は昼過ぎに雨が降った。だが雨は夜のうちに止んだらしい。おかげで空気が益々清々しい。少し肌寒いほどの気温ではあったけれど、それすらも心地いい。
 デリクは笑いを止めると、ウィクを横眼でみやった。
「しかし、本当に行くことに頷くとは思わなかった」
 うん、とウィク。ウィクは上機嫌に微笑んだままだ。
「そうだね。本当は会わなくていいのなら、会わない方がいいのかもしれないね。けれど私は知りたいと思ったから」
 今日はティルグにいる人物に会いに行く。ウィクには面識がないけれど、デリクは何度も会ったことがあるらしい。世話になっているとも言っている。
 ウィクは、ふと、苦笑した。
「それに、たとえ私がネルヴィス・ガータージの血を引いていなかったとしても、カタンの母親なら会ってみたいと思うよ」
 皆にも知ってもらった、自分の血筋が王族ではないということを。どうやら一部の人間はウィクが告白するより先に誰の血筋かすらも知っていて、沈痛な面持ちで顔を伏せていた。
 それでも親衛隊として傍にいてくれるという。ウィクは今もありがたい気持ちで、彼らに何ができるのかを考えている。
「何故なのか訊いてもいいのか」
「かまわないよ。私はね、」
 静かな町、ティルグ。住民がぽつぽつと道に現れてはいるけれど、多くはない。
 ウィクはデリクを見やって、悪戯に笑った。――どうしてかは分からないけれど、デリクになら正直に言える気がした。遠慮をして親衛隊の面々には言えないのだけれど、マウェート生まれでありながら、どこの国にも属さなくなったこの人になら。
 思っていたこと全て、言ってしまっても許されるのではないかと。
「カタンとエアーの関係が、私とセイトのように感じられるからなんだ」
「……どういう、ことだ?」
「不思議なんだけれどね、立場は逆でも……」
 ウィクは言葉という形にしようとして、迷った。なんて言えばいいのだろう。直感に近い感覚で思った。同じことをどこかでセイトも感じたのかもしれない。
「カタンは、エアーを認めようとしていた」
 確認するようにウィクが言う。デリクは何も言わず耳を傾けた。
「けれど……たぶん、エアーはそれを許さなかった。一昨日、かな、エアーが言ってただろう? 一度汚名を着るのならって……あれはたぶん、カタンに言いたかったことなんじゃないかな。エアーはきっと、カタンの分まで汚名も非難も受けるつもりで生きてた、あの頃」
 おそらく多くの人々がどこかで感じていた事だ。にもかかわらず遠慮なくエアーを誹謗してきた。たしかに彼は時折、皆が目を背けるほど非情な行動に出た。
「カタンはそれを、止めようとしてもいた。けれどたぶん、必要を感じてそうさせてもいた」
 ウィクの声と歩く音。静かな朝に鳥の声。
「私はセイトに認められようと、傍に行こうとしていた。けれど、セイトは許さなかった」
 ひとつ、一つ、確認するように。
「王子としての重責を、すべて担うつもりでいた。中途半端な立場にいる私にはひと欠片も渡さないと」
 セイトの直向きさを見れば、誰もが差し伸べる手をためらってしまうほど真剣だった。何かに憑かれたようだった。
「私は、私が政治の表舞台の傍に行かないほうがいいことを知っていた。けれど本当はセイトを支えなければならなかった。にも関わらず、私は」
 カタン・ガータージ・デリクは、終戦後、姿を消した。城に帰還してすぐ、二度と戻らないと示唆するように部屋を綺麗に片づけて、誰にも告げずにいなくなった。
「王国軍に逃げたんだ」
 王国軍からもカタンの捜索隊は出されたが、カタンの総司令補であったエアーだけは動かなかった。カタンがいなくなったことに何も言わなかった。
「セイトは、何も言わなかったよ。私の選んだ道をただ見送った」
 カタンとエアーの本当の心はわからないけれど、不思議と親近感のようなものが湧いた。
「……カタンはもしかしたら今も、居場所を探しているのかもしれないね」
 呟いて、ウィクは通りの奥を眺めた。デリクは沈黙したままウィクの横を歩く。
 しばらくして、デリクが大きく息を吸った。
「そうなのかもしれない」
 溜息と同時の言葉。
(だがその答えこそ、ウィク殿が居場所を探し求めているという証拠か)
 デリクはウィクの横顔を見た。ひと月にも満たない期間だが、デリクはウィクを見てきた。だがウィクの微笑が崩れることはあまりない。前回のように怒鳴ることなど皆無だった。
 まるで探るような微笑みだ、とデリクは思うのだ。両目を布で塞いで、杖で行く先を探しているような。
 デリクはウィクから目を離して通りを見やる。糸屋を目印に大通りを小道に曲がれば、カタンの母親ロユの家がある。
 実はそこに今、カタン・ガータージ・デリクがいる。

■□

 その日の夕方、戻ってきたウィクの顔色は悪かった。
 いつものように全員で食事を摂ると、すぐに部屋に戻り、出てこない。
 デリクと共に出かけたことを親衛隊の面々は知っていたから、デリクが隠しきれずにため息を小さくした時点で「出先で何かあった」ことが明明白白だった。
 にもかかわらず言及するに至れなかったのは、ウィクが周りに隠そうと、必死で笑っていたせいだ。
 誰も何も問うことができずに夜が明けた。
 ティルグの上空には雲が敷き詰められていた。雲の上には青空が広がっているだろうと想像させるような、爽やかな白。
 ウィクが二階の部屋から一階に降りると、エントランスでは親衛隊の面々が各々くつろいで過ごしていた。完全にいつも通りに戻ったわけではなかったけれど、ウィクは彼らの姿を見ると、自然と笑顔が生まれてくる自分を自覚する。
「おはよう、みんな」
 ウィクが声をかけると、全員が振り返ってそれぞれの言葉で挨拶する。
「私が最後かな? デリクは?」
「まだ。すぐに降りてくるでしょう。出発の準備をいたしましょう」
「うん。そうだね。みんなでプラ・ヴィーンに行こう。……すまないね」
 ウィクの傍に立ったティーンが訝る。ウィクはティーンの表情を見て、曖昧に笑った。――言及しないでほしいと、表情で語る。
 ティーンはウィクの表情をよく理解した。小さくぺこりとお辞儀すると踵を返す。ティーンの動きを合図に、カランとアタラ以外が動きだした。
 デリクは丁度入れ違いになる形で一階に降りてきた。ギシ、ギシ、と階段を人が降りる音を聞いてウィクが振り返る。デリクはウィクの顔を見て苦笑する。
「結論は出たのか?」
 ウィクはデリクを見たまま、首を小さく横に振った。
「私には、出せないよ」
「ならば気にしなければいい。選ぶことができないという答えだ」
「うん。確かにそれも、一つの答えだね」
 デリクに微笑みながら答えたけれど、すぐ目を逸らした。ウィクは微かに目線を落とす。
(でも本当に、どれかを選ばなければならなかったら?)
 迷う自分は甘いな、とウィクは思った。自分に甘過ぎる。
「でもやっぱり、私にはすぐにはもう、選ぶことはできないんだなぁ」
 独り言のようにウィクが呟く。デリクはウィクを見やり訝ったが、問えなかった。ウィクが軽い足取りで宿の外に向かう。
 ――気にするなと、一言、かけてやりたいと思った。
 迷うことこそが、希望の所以なのだと。


『聖なる乙女たちへ』と呼ばれるプラ・ヴィーンは、ティルグから二時間歩いた所にある山の、中腹にある鍾乳洞だ。洞窟の最奥には山の上へと続く穴がぽっかりと空いており、生まれた天馬や竜たちはその両翼を持って、まず空に飛び立つのだ。
 プラ・ヴィーン自体はマウェート王国に属する。だが軍が封鎖している、関所があるということはない。お互いこの鍾乳洞は「聖なるもの」として、半ば中立の場所となっていた。
 プラ・ヴィーンの麓で一行は馬から降りて、登山のために築かれた小さな宿場に馬を預ける。天馬や竜に乗っていた三人も、歩調を合わせて地上に降りた。
 山道の整備はよくされていた。
 あまり広くはない道だったけれど、確かな道があるのだ。それだけでもありがたいというもの。そもそも、平地が多いウィアズ王国の出身者たちにとって、山そのものが厄介だったから。
 とはいえ、長い時は一日以上を戦い続けた猛者たちである。ほとんどが軽い足取りで山腹へと歩を進めていた。
「皆速いな、少し休もうとは思わないのかい?」
 ウィクは列の中腹にいた。ウィクのさらに後ろにはユーガが。
「そ、そうですよ! 勝手にさっさと進まないでウィク様のことも考えてください!」
「お?」
 ちなみに先頭を行くのは、エアーとカランである。ティーンはウィクの少しだけ前に歩調を合わせて進んでいたから、あまり遠くはない。
「なんだ、ユーガ。ばてたのか」
 答えたエアーは疲れなど微塵も見せていない。隣のカランも同様だ。
「疲れてません!」
 むきになって答えたけれど、確かに息は乱れていた。エアーが面白がって笑う横で、カランはユーガのさらに奥の人々を見つける。
「ユーガはともかく、アタラはもう無理だな」
「うるさいっ!」
 最後尾から高い声。強がって叫ぶアタラのものだ。
 ウィクは失笑すると、後ろからやってきたデリクに肩をすくめて見せた。
「休もう。まだ日は高い」
「そうだな。一休みするか」
 失笑して、デリク。デリクも微かに疲れた様子ではある。
 近くの岩や地面で各々が休み始める。だがエアーとカランは座りすらしていない。カランはアタラに水筒を渡して睨まれていて、エアーはその横で面白がって笑っている。ウィクは苦笑を浮かべて周りの様子を見た。
「私ももう少し鍛えておかないといけないな。カランやエアーの域まで、とはいかないけれど、今のままでは軍に所属させてもらっているのに情けない」
「ウィク様は鍛錬を怠ってはいないでしょう」
 答えたのはティーンだ。ウィクの傍に腰を落ち着けている。ティーンもやはり疲れた様子はない。
「今だけの実力さえあれば、充分でしょう。何も前線に出ていただく必要はありません」
「私も一応は剣士だ、本当は前線にでなくては」
「……機会を逸していたのですが、」
 ティーンの口が重くなる。ウィクは訝ってティーンを見た。ティーンはウィクを見やり、小さく、なぜか頭を下げた。
「ウィク様には王国軍を辞していただきたいと思っています」
「……なんだって?」
「カランの発案に、私も納得した故での提案です。陛下のためにも、ウィク様は王国軍の、総司令という職についているべきではない」
 真直ぐにティーンと見詰め合って、ウィクは胸中で「甘いんだな」と自分に繰り返した。
「私も、そう思います」
 真摯にティーンはウィクを見つめた。ウィクは曖昧に笑う。
「それは、勢力を持ってしまいかねない地位についているべきではない、ということだね?」
「はい」
「たしかに、そうかもしれないね」
 ウィクの曖昧な笑顔に、ティーンは目を細めた。
 高等兵士という階級になってから、ずっとティーンはウィクの傍にいた。ティーンはウィクのために高等兵士になったと言っても過言ではなかった。
「それでも、私はお傍に。ウィク様のお傍を離れるつもりはありません」
「ありがとう。ティーンはいつも傍にいてくれる」
 それが、どんなにありがたかったかとウィクは口に出さなかった。
「俺もウィク様の傍にいますからね!」
 ユーガが元気よく割って入る。ウィクはユーガを見やって失笑した。ユーガはすっかり体力を取り戻した様子だ。
「うん、ユーガも傍にいてくれる。私は果報者だ」
 ウィクは今度こそ微笑んだ。
 ティーンはウィクの微笑みを見やって、少しだけ目を逸らす。
 ウィクは自分の心を話さない。願いを言うことはあるが、表情に大きな変化はない。前回のように怒鳴ることなど奇異だ。
 ティーンにはそれが心配でならない時がある。不意に不安になる。
 以前、マウェートとの戦争のおり、一方的な劣勢にウィクが叫んだことがある。
『やるのなら、私一人を殺せばそれで終わりなんだろう!』
 もしかしたなら、と思う。
 あの頃も今も、あの叫びがウィク・ウィアズの本心の願いだったのかもしれないと。
 そしてまるで、ウィクに王国軍を辞めさせるという判断は、その言葉を肯定しているようではないのかと。
「さて、」
 明るい声でウィクが立ち上がった。
「そろそろ行こうか。次はプラ・ヴィーンまで休みはなしだ」
「はい!」
 一番元気に答えたのは、休みを主張したユーガ・ライトル。
「アタラ。抱えあげて連れてってやろうか? その調子じゃ倒れるぜ?」
 茶化して言ったのは、エアー・レクイズ。直後アタラの魔法の威嚇で、笑いながら先頭に避難した。
「遠慮するなよ。アタラぐらいだったら荷物程度だし」
 半ば真剣に言ったのはカラン・ヴァンダ。
「お前ら――っ!」
 怒りで顔を真っ赤に染めたアタラ・メイクルを必死でなだめるのは、ヴィア・ハワー。
「余計疲れるわよ、アタラ? 本気にしちゃだめ」
「わかってる!」
 恨めしそうにカランを睨みつけて、ぷいと顔をそむけて歩き出した。
「何をやってるんだ、お前たちは……」
 呆れて嘆息するのはデリク・ガータージ・カタン。
「本当に、これがウィアズ王国軍の高等兵士だと思うと頭が痛いな」
「あいつらと同じ括りに入れるな!」
 デリクはアタラの怒りのとばっちりを受けてウィクに肩をすくめた。
 ウィクはくすくすと笑ってティーン・ターカーを見やった。
 ティーンは軽く頭を押さえて、やはり短く嘆息。
「デリクの意見も否定できないな。頭が痛い」
「そんなことを言いながらも、デリクも、ティーンもすっかり馴染んでいるよ?」
 本当におかしそうに笑う、ウィク・ウィアズ。
 プラ・ヴィーンの空を覆う真白な雲。
 人々の顔を彩る笑顔。

 すべては、無常のものなのだ。

 山の頂上近くに、雲にぽっかりと穴があいていた。ちょうど真下には鍾乳洞の中で生まれた天馬や竜たちが飛び立つ穴が空いているという。
 先頭を歩くエアーの足が、ふとして止まった。斜め後ろを歩いていたカランが訝って、少しだけ追い越してから立ち止まる。エアーの目線を追って、視線をとどめた。
「どうしたんだい? プラ・ヴィーンは見えたかい?」
「あの洞窟が、プラ・ヴィーンですか?」
「この山の中で洞窟なら、プラ・ヴィーンだろう。自分の足で来るのは初めてだ、ここまで時間がかかろうとは思わなかった」
「そう、だよな。天馬とか竜とかだったら、空から辿り着けるもんな」
 視線を動かさず、エアーが答える。
 立ち止まった二人にウィクとデリク、ティーンが追いついた。少し遅れてユーガも追いつく。アタラたちは少々離れてしまっていた。
「どうしたんだい、エアー? カランも」
 歩きながら、追い越しながらウィクもエアーの視線をたどる。
 視線の先には、洞窟があった。洞窟の傍には小屋が一つ。看板にはプラ・ヴィーンと大きく書かれていた。
 小屋の傍には何頭かの竜と何頭かの天馬。鞍が付いた天馬や竜もいる。
 中に、真っ黒な竜がいた。
「いるのか?」
 カランが鋭く誰にとでもなく問い、すぐに動き出した。
「まさか」
 答えたのは、エアー。
「この洞窟は、天馬と竜の生まれ故郷だろ? なんであいつがこなきゃいけないんだよ」
 言い聞かせるような、エアーの声。
 飄々と笑い、とん、と軽く地面を蹴りだす。
「いるんだよ、エアー」
 静かな、ウィクの告白。ウィクはエアーを見上げた。エアーはウィクを見やって、短く鼻白んだ。
「知ってますよ」
 飄々と笑った笑顔が、歪んだ。
「っていいますか、なんで俺の左手、」
 ぐしゃぐしゃにゆがんだ笑顔のまま、エアーは立ち止まって自分の左手を見下ろした。ウィクも立ち止まってエアーを見上げる。
(なんで、)
 鞘を握る自分の左手を見下ろして、エアーは愕然としていた。
 見つけてしまったのだ。天馬たちが移動する合間に、小屋の傍の椅子に座って山頂を見上げるカタン・ガータージ・デリクの姿を。
(あれが、ウィアズ王国の光?)
 何の希望も見つけ出した様子もなく、ただプラ・ヴィーンの山頂を――生まれた天馬が生まれて飛び立つ場所を見上げていた。
(ふざけるなっ!)
 ――殺してやりたい、とエアーは思った。左手を見下ろして、懇親の力を左手に込める。かたかたと、剣が鳴った。
「ごめん、エアー。私は、どうしても知りたかった」
 何を、と問うことさえ、エアーにはできなかった。
「くそ……っ!」
 剣を抜こうと動く右手に抵抗するように、左手で持って剣を剣帯から外して他所へと放り投げた。カン、カラカラと剣が渇いた地面を滑る音が聞こえてカランが振り返る。カランが振り返った瞬間、ふわりと目の前に風が吹いた。エアーがカランの目の前を全速力で走り抜けたのだ。

「俺も――っ!」

 人と天馬と竜の間を走りぬけて、エアーは小屋の前に座っていたカタンに迫る。エアーの怒声にカタンが振り返った瞬間、エアーは乱暴にカタンの襟首を握りしめてそのまま小屋の壁にカタンを押し付けた。
「俺も辞めたかったに決まってるだろうが!」
 渾身の声と怒りと心で持っての怒声だった。
 エアーはカタンの顔を懇親の力で睨みつける。
 これほどまで憎らしい人間を、エアーは他に知らなかった。憎いと思うことすら辞めていたのだ。憎いと思う資格が自分には、ないのだと。
 憎らしい、という感情を自覚して、殺意を自覚して愕然とする。
 それほどまでに自分は――。
「お前が、」
 辺りはざわめく。ウィクと親衛隊の面々、デリクがそれぞれに集まり、プラ・ヴィーンに訪れていた天騎士たちが驚愕の表情で振り返る。
 カタン・ガータージ・デリクも驚愕の念でエアーを見上げていた。
「責任も何もかもを放り投げて逃げたときに、俺は逃げられないんだと実感した! 死ぬ気さえ失うほどにな!」
 カタンをさらに壁に押し付けて、エアー。
「自分からも――自分の過去からもだ。全部だ、背負ったもの、全部からだっ」
 エアーの両眼に微かに涙が浮かんだ。カタンはエアーの眼を見つめて、微かに目を細める。
(それも、選択、だったんだ)
 ウィクはエアーの言葉に、はと思う。
 カタンが逃げたのも、選択。
 エアーが残ったのも、選択。
 カタンは昨日ウィクに言った。「選択しなければならないのだ」と。
 痛いほどの沈黙が流れて、少し。
 かすれた、小さな声で口早にエアーが続ける。
「カタン。俺たちが死なせてしまった人間は、絶対に生き返らない」
 カタンがエアーを見張る。沈黙のまま。
「俺のこの手についた血も二度と落ちない」
 エアーは片手を大仰に振ってプラ・ヴィーンの山頂を示した。
「失くしてしまったものが、戻ってくることなんてねぇんだよ!」
 嘆願に似た小さな叫び。
 カタンが少し、何かを言いたそうに口をあけて、だが躊躇った。エアーから目を逸らし、口を閉じる。


 ――過ぎ去った時が戻ってくることはない。
 知っている、とウィクは思う。胸中で嘆息を落とした。
 過去は思い出せば宝石箱のようだ。父も母も生きていた、セイトが心を開いていてくれた。誰も彼もが笑顔だった。けれど、仮初の。
 たとえ仮初でも美しいと思った。大切だと思った。
 それが二度と、戻ることはないのだろうか。
「戻ってくればいいのに」
 呟いて、ウィクははとして世界を見た。人の目線を受けて苦笑する。
 思わず呟いてしまうなどと、とウィクは思う。
 それほどまでに自分は――。
「可能性はゼロなのだろうか」
 デリク・ガータージ・カタンが口を開いた。まるで傍観者であるかのような位置にいながら、静寂を破る。微笑を湛えた。二人の声にエアーもカタンを抑えつけたまま、振り返る。
「私は、セフィに会うことができた。確かに失って戻すことのできなかった――戻そうとも思わない過去はある。しかし、全てにおいて可能性は本当にゼロなのか?」
 デリクの背中に位置する場所に、天馬・セフィはいる。静かに翼を折りたたんで、いつのまにか。
「かつて、私は天馬騎士セフィ・ガータージを失った。しかし、私は再び天馬セフィに会うことが出来た。絶望の闇に光を灯すのは、可能性を信じる心だとは、思わないか?」
 言って、自分で失笑する。デリクは少しこそばゆそうに顔をゆがめた。
「……くだらない話か」
「いや……ありがとう」
 ウィクはデリクを見やって、ニコリと笑った。それからエアーとカタンを見やって、ゆっくりと歩み寄る。
「カタン、エアー。私も、選択する」
 意志のこもるウィクの声。自然、周りの喧噪が止んだ。――刹那。
 甲高い嘶きが天空を駆けた。
 人々の目の前を真白な塊が通り過ぎた。
「うわっ!」
 真白な塊は躊躇うことなくカタンを押し付けていたエアーに突撃し、仁王立つ。エアーはカタンを離すと、地面を転がって受け身を取って姿勢を整え、突撃してきた真白な塊を見た。
 ――それは、真白で小さな天馬だった。
 おそらく生まれたての幼い。天馬は顔をひと振りすると、鼻を少し鳴らした。
「おい、」
 思わず苦笑を浮かべたのは、エアーだ。カタンは茫然と天馬を見つめている。
「まさか、サリアか?」
 天馬は答えない。
「たしかに」
 相槌を打ったのは、カタンだ。カタンも思わず失笑を浮かべている。
「こんな猪突猛進っぷり、他にはいねぇって」
 おかげで頭も肝も冷えたのだけれど、とエアーは思う。相変わらずだ、と。
「お前な、自分殺した奴に突っ込んでく奴があるか?」
 天馬がプイと顔をそむけた。――可愛くない仕種だ。間違えようがない、サリアに決まっている、エアーは確信する。カタンも天馬を見て、失笑する。
『見ていられないんだもん』
 よくサリアがカタンとエアーの口喧嘩を仲裁してやり過ぎたときに使った口上。その時もぷいと顔をそむけて撥が悪そうに口をとがらせるのだ。
「……懐かしいな」
 ぽつり、とカランがこぼす。顔に笑みが浮かんだ。カランはカランで、カタンにからかわれて一方的にカタンに怒鳴っていると、サリアがやってきて派手に止められた思い出がある。その派手な制止にいつも驚かされて頭に上った血も冷めるのだ。
 その時も撥が悪そうにプイと顔をそむけて、『カタンが悪いのよ』と。
 サリア・フィティ。
 他の人間ように勇名もある。
 けれど何より彼女の存在価値とは、彼女が彼女であることだった。
「ばっかじゃねぇのか?」
 呟くように、エアー。
 カタンがゆっくりと立ち上がって、サリアに近づく。カタンが近づくと、サリアは満足そうに鼻面を押し付けてみせる。
「実を言うとな、サリア。お前に会えたらと思ったのは、後で付けた理由なんだ」
 カタンはサリアの鬣をなでた。サリアに語りかけながらも周りに聞かせるように声を上げる。
「俺は、お前が死んで、最後の戦いが終わって、殿だったエアーがバチカに取り残されたと聞いた時、『なんであいつだけが逃げ延びる』って、思ったさ」
 カタンは顔をあげてウィクを見、エアーを見てから、軽く失笑する。
「だから、お前を助けたんだ、エアー。だが、だからと言って、俺自身が居続けることができなかった。俺はもともとウィアズ王国民ではないし、言ってしまえば恨みすらあった。ウィアズに住居を定めたのだって、親父に連れられてたどり着いたのがウィアズで、取り残された場所だったからだ」
「それでも君は、幸せそうだったと、私は覚えているよ」
「あぁ、確かに幸せだった。だからこそ、幸せではなくなったときに、いる場所を見失った」
「お前を望んでいたのは、そいつだけじゃなかったろ」
 エアーはカタンを真直ぐに見据える。
「ここにいるヴィアや俺だけじゃない。お前自身がお前を求めてた。自分自身を求められない俺にとって、本当に光のように見えたさ。求められている限り、お前にいる場所はあっただろうが」
 カタンはエアーを見据えて少し、ゆっくりと目を逸らした。エアーはカタンの姿に目を細めた。
「だが俺はもう、お前が目の前にいようと、過去には戻らないと決めた。過去を引きずる限り、周りに迷惑かけっぱなしだ」
 戻れない。
 時は流れ過ぎた。
 別々の道を歩き過ぎたのだ。
「お前とももう、お別れだ、カタン。俺は、未来に行く」
 エアーは微かに、顔を歪めた。――決別のために。
「お別れだ、カタン・ガータージ」
 言って、エアーが踵を返す。拾われていた自分の剣を取りに向かう。
 カタンはエアーの背中を見送って、目を伏せた。
「君たちは本当に――」
 ウィクは二人の姿を見て目を細めた。
「お互いがなくてはならなかったんだね」
 呟くような、至極小さなウィクの言葉。声にエアーが振り返ってカタンと一緒に苦笑する。
「……偉そうなことを、こんな僕が言っていいのか、わからないけれど……」
 呟いて、ウィクは微笑を湛えてカタンを見た。カタンはウィクの視線を受けると、少しだけ顔をあげた。ウィクの表情に、不思議な力を感じたのだ。
「カタン。皆に会いに行こう」
「……何を言っているんだ? すでに俺に居場所など」
「居場所はあるよ。誰にだって、作ることはできる。カタン、君は私に訊いたね。私の居場所はセイトの隣か今の居場所か、二つに一つ。選択しなければならないのだと」
 ウィクは意志のある瞳でカタンを真直ぐに見る。
山の上で少しだけ風が動き、ウィクの頬にあたった。一つの言葉に全てをかけるように、ウィクは力強く宣言する。
「私は選択する。私は、セイトの隣に行こう。もうセイトを一人にしない」
 もう、と体から力を抜いて、腹の底に息を吸い込んだ。
「私だけが幸せになりはしないさ」
 その場にいた全員が証人となった。
 ウィク・ウィアズは、時の国王セイト・ウィアズのために生きると決めた。
 すべてを捨てるわけではない、見捨てるわけでも。
 ただ、決めたのだ。
 たとえ解り合うことが無理なのだとしても。
 何が何でも、その場所に、たどり着いて見せるのだと。
  


⇒To the Next story.
⇒To the story Before.
⇒ It Returns to the Cover.
inserted by FC2 system