■□ 七話 天魔の魔道士、解放 □■


    ひどくぼやけた視界。ウィクは自由の利かない体を必死に動かそうとする。指先がぴくりとだけ動いた、それだけでも随分疲れる。
 地面の感触が変わって、ウィクはごろりと仰向けにさせられた。自分を見下ろす、誰かがいた。
「気ぃ失うのは、甘過ぎるだろ? ほら」
 何事か、目の前の誰かが呟いた。途端に身体の感覚が戻ってくる。視界が広がれば、どうやら。
 ウィクは見知らぬ場所にいた。空が近い場所だ。殺風景。岩だらけで何もない。
「おはようございます、ウィク様」
 朗々と、しかし悪意のこもる声で彼は言う。ウィクは目の前の人間の姿を見た。
 金色の髪、白い肌、青い瞳。小柄な男。
「……君は?」
 男は鼻白んだ。白々しい満面の笑顔を作る。
「ペルト、と申します。ウィク様を殺すためにきた諜報員って名前の暗殺者です」
 ふん、とペルトが鼻を鳴らし、表情が一気に冷たく変わる。ウィクを見下し、軽く眉をあげて見せた。
「慈悲か何かのつもりかい。俺がお前を殺すなんざ分かりきってるだろ? そいつに誰は、」
 ペルトが片足を上げる。
「ねぇよな!」
 仰向けになったウィクの腹を、思い切りペルトが踏みつける。ウィクは押し付けられて身じろぎもできない。
「くっ……」
「は、いいざま。ったく、お前捕まえるのにさんざん時間かけたぜ。お前が一瞬でも一人になったら……ってな、ずっと伺ってたが、なかなかなくてさ」
 ウィクの腹に靴底を押し付けて、ペルトは笑う。
「セイトがエアーを中途半端に利用してんのわかってたからな。それがお互いどんだけ中途半端か。崖っぷちで揺れてるみたいな利用の仕方って、傍から見りゃわかった。この旅の途中で均衡が崩れてきててな、利用させてもらったよ。どうだったい? 自分の親衛隊に殺されかけたり、自分のために死ぬんだと言われたり」
 ペルトは至極愉快そうだ。
「他から見てりゃ、かなり滑稽だったぞ? あいつの過去突つきゃ、あいつが焦るまで事態は進んでた。追い詰めたのは、お前だ、ウィク!」
 もう一度片足でウィクを踏む。何度も、何度も。
「お前らの中途半端な優しさ、お前の甘さ。理想! 全部、全部、全部! 惑わしたのはお前だ!」
 けほ、と耐えきれなくなったウィクの口から咳が出た。
「君が……エアーに、接触していた、弓士だね」
「今更。そうだよ言ってやったよ。殺すつもりがないのなら、せめて近づくな。傍にいれば、お前は必ず自分で殺すぞ、四年前みたいにって」
 ウィクが顔を顰めた。
「そうしたらなんて言ったと思う。『わかった』って言って逃げた。俺はお前が誰より嫌いだが、お前を護ろうとしてる親衛隊も気に食わなかった。いいざまだ」
 そうさ、と、ペルトは今度はウィクの顔に靴底を押し付ける。
「結局最後に笑うのは俺だ。これで俺のもセイトのも、積年の恨みが晴らせる」
 ペルトが短剣を取り出す。
「さてと、訊いたところで無駄だと思うが、これも命令でな。陛下からのご慈悲だ。二度とウィアズに帰ってくるな。そうすれば命は助けてやる」
「私は――」
 腕を動かしてペルトの足に手を伸ばした。ペルトは鬱陶しそうにその手を蹴る。
「帰らなければならない」
「はっ、まだ王族気分かよ。お前だって知ってんだろ。自分の生まれを」
 シャッ、と小気味よい音を立ててペルトが短剣を抜いた。ウィクは怯まずペルトを見上げた。
「私が帰らなければ、セイトに友がなくなる」
「友? はっ、だから、そう思ってるのは、お前だけだってんだ!」
 ペルトはウィクの首元を抑え、短剣をウィクの足に突き刺す。ウィクが鋭く息をのんだ。
「っ……!」
「もう一度言う、二度と戻ってくるな! 二度と顔を見せるな!」
「断る……!」
 答えて、ウィク。ペルトの両肩に手を伸ばした。
「触るなお前が!」
 ウィクの足にさした短剣から手を離して、腰に装着されている他の短剣で、躊躇なくウィクの片腕を刺す。
「いいことを教えてやるよ。お前の兄弟は、あの王城にいる奴らだけじゃねぇ」
 ペルトはもう一本、短剣を抜いた。
「ブルック・ウィアズは若い頃かなり女にだらしなくてな、孕ませては女を捨ててたって噂だ」
 己の肩を掴むウィクの腕を、さらにもう一本刺す。ウィクが悲鳴を上げた。
「おかげで生まれた子供に父親はいない。母親は泣き寝入りするしかない。相手は王様だ」
 さらに、短剣をもう一本。すでにウィクの無事な四肢は一本しかない。
「お前は王様の子供なのよ、ってずっと言われててさぁ。じゃあなんで自分は庶民なんだろう、王城にいないんだろうって思ってたら、お前が生まれた。九歳の時だ。そん時理解した」
 ペルトは短剣の狙いをつけて、ウィクを睨みつける。
「あぁそうか、王城で生まれなかったから悪いんだ。王城で生まれればたとえあいつの血が流れていなくても、王子様だ。だってあいつは自分が繰り返してきたことに文句なんか言えるはずがない」
 ふん、とペルトが笑う。短剣を振り上げた。
「何が王妃に対する愛の証だ? ただ自分が同じようなことしてたから、糾弾できなかっただけだろ!」
 ザクリ、とひときわ強い衝撃で、ウィクの足に短剣が刺さる。
「兄弟の中で一人だけあいつの血が流れてないお前が、なんで一番幸せそうに笑ってるんだ? あいつの血が流れてても、光が当たらずに死んでく人間だっているってのに!」
 ウィクは痛みの中でペルトの声を聞いていた。憎悪の籠った声。生まれてきたことへの非難、妬み。半分はウィク自身が自分に向けて思っていたことだ。
「なあ!」
 シャッ、と勢いよく短剣が抜かれる。残り二本。ペルトは頭上に短剣を構えた。ウィクの顔を眼下に見下ろしながら、
「ネルヴィス・ガータージの息子!」
「――っ」
 短剣が振り下ろされる。顔面に突き刺さるかと思われた短剣は、ウィクの顔の横の地面に突き立った。
 ペルトが鼻で笑う。ウィクを見下ろして。
「死ぬかと思ったろ。なぁ?」
 パシン、とウィクの顔を軽く叩く。
「死ねるかと思ったろ? そんな楽な殺し方するか」
 くっ、とペルトが喉をならす。
「何のために四肢を使いものにできなくしたと思ってる? 今お前は餌。このままほっときゃ死ぬ餌だ。死に物狂いで親衛隊の奴らが助けにくる。おそらく筆頭はアタラ・メイクルだ。俺の魔法の軌跡を追ってくる。で、あいつはなんと、死んだ王妃の魂を虜にしてる」
「……なん、だって?」
「助けてやりたいよなぁ? 一緒に月への旅路につきたいな?」
 ウィクは口を閉じた。
 アタラが意味もなく魂を虜にしているとは思えない。ペルトの言葉が嘘なのかもしれない。
 しらばく、ウィクは痛みに耐えながら考えた。動けない、けれど助けを待っているだけでは、いけないと、思ってはいた。
「いいや」
 否定する。
「私は、まだ、」
 腕に刺さった短剣を引き抜こうと手を伸ばした。
「死ねない……っ!」
 渾身の力を込めて短剣を引き抜く。ペルトがまた鼻白んだ。
「そう、諦めないでもらえるかい。お前の馬鹿さを思い出して、俺は一生笑えるだろうから」
 ウィクの顔の横にさした短剣を抜き、ペルトは軽くウィクの手を切り裂く。それでも短剣を離さなかったウィクの手を、ペルトは立ちあがって蹴り飛ばした。
 カラカラカラ、と短剣が地面を転がる。ペルトはウィクの傷口を踏みつけた。
 ウィクが苦悶の声を上げる。身動きできずに意識のはざまを歩む。――刹那。
「なっ――!」
 ペルトが驚きに声を上げた。ペルトの気配がウィクの上から遠ざかり、代わりに風が吹く。――天馬か竜の起こす風だ。
 ペルトがとっさに退いた後に、現れたのは白い天馬。桃色の天馬騎士。
「退けぇ!」
「お前が先か! ヴィア・ハワー!」
「貴様よくもウィク様を……!」
 天馬リーが空を駆けだす瞬間、多方向から矢が降り注いできた。ヴィアは槍を手に矢を防ぎ、リーは矢の雨を縫った。
 ペルトはさらに退く。
「俺一人であんたがたに対抗するはずないよな?」
「私も一人できたつもりはないがな!」
 ウィクの傍にエアーがいる。血だらけのウィクを抱えあげて上下に揺らした。
「ウィク様!」
 懇願のごとく、叫ぶ。
「ウィク様、ウィク様!」
 ウィクは信じられない思いで、目を開けた。エアーが自ら自分の傍に現れると、思っていなかった。
「……エアー?」
「よかった! まだ生きてますね、よかった……!」
「なぜ、君が……?」
「親衛隊所属エアー・レクイズ。ウィク様をお護りします。だから死なないでください」
 ウィクを再び地面に寝かせて、ウィクを跨いだまま、エアーは鋭く剣を抜いた。
「ヴィア、そっちは任せたぞ! こっちは任せろ!」
 多くの方向からの多くの矢。ウィクのとどめを刺そうと、護るエアーを殺そうと多くが襲ってくる。
 エアーは剣を片手に、鞘も手に取った。
「させるかよ!」
 いつもよりも動かない体を叱咤するために叫んだ。両手を大きく動かして、矢のほとんどを防いだ。ウィクに到達する矢は一本もない。間、ヴィアはペルトへと迫る。ペルトは舌打ちした。
 エアーは一歩も動かなかった。おそらくいつもならばエアーは全身を使うだろう。けれど、動けないでいる。ウィクは片手でエアーの足を微かに、何度か叩いた。
 エアーはウィクを一瞥して、ニコリと笑った。
「逃げやしませんよ? カランのことも、ヴィアやユーガのことも、デリクも信頼してます。それにティーンにも頼まれましたし、アタラは俺たち二人に、時間を稼げと言ったんです。その信頼、」
 再び矢を防ぐために剣をふる。
「裏切って、」
 連続して、止まることなく。
「たまるかってもんです!」
 気丈に叫んではいるけれど、顔には脂汗が浮かんでいる。ウィクに矢は到達しなかったけれど、エアーには当たる。貫きはしていないけれど、確かにポタリ、と血が滴り落ちた。肉を引き裂いた矢がいくつかある。 
「いいですか、ウィク様。アタラからウィク様に言えと言われたことがあります」
 徐々に、確かに徐々にだけれど、矢の数が減ってきている。エアーは気づいているだろうか。
「なんだい?」
「あなたは望まれて生まれてきたんです。信頼を勝ち取ったのはあなた自身です。王族という名前じゃない、特別な生まれだからじゃない」
 言葉を、エアーが止めた。少しだけ考えるように間をとったあと、ちらりとウィクを見下ろす。
「俺もウィク様だから親衛隊続ける気にも辞める気にもなったんです。ようやく腹を括りました。それなんで、お護りできなかったことは、親衛隊代表して怒られます」
 まぁ、とエアーが撥が悪そうに笑う。話しかけ続けて、意識を少しでも保たせようとしてくれているのだとウィクには分かる。体から血が抜けていく感触も、痛みも消えそうになかったけれど、その気遣いがとても温かかった。
「アタラも同じようなことが言いたかったんじゃないかと。あいつほら、結局素直になれないやつでしょう」
 本人に言ったら殺されますが、と極小さな声でエアーが続けた。「そうだね」と答えて、ウィクは微かに笑った。
 そして、矢による攻撃が止んだ。
 エアーは気を抜かずにウィクの上に立ったまま、肩を大きく上下させて呼吸する。
「終わったか?」
 独り言のように呟き、辺りを見渡した。丁度ペルトがシールドの魔法でヴィアの攻撃を防いだところだった。
 ヴィアは大人しく槍を引き、ウィクの傍へとリーを着地させる。顔をゆがめた。
「厄介だねぇ」
「魔道士倒すなら魔道士って言うからな」
「……私たちそっちは全くの無知だからね」
「つーか、俺の場合は全く使えない体質なだけだ」
「私は勉強するのがつまらないから覚えないだけ」
 言って、ヴィアが嘆息する。ペルトはシールドの中、歯噛みした。
 ペルトにとって、エアーは駒の一つだった。駒が騎手の意志に反して動く、これほど屈辱はない。
「裏切りもの! 陛下を裏切ったな、エアー・レクイズ!」
 エアーはペルトを見て、目を細めた。
「完全にはそうでもねぇよ。お前にゃわからないかもしれないがな」
「ウィクのことも、裏切ったんじゃなかったのかい」
「……俺は裏切ったつもりだったんだが、裏切らせてくれてなかったよ」
 諦めたようにエアーが嘆息する。ペルトはさらに苦虫を噛んだ顔になる。
「帰れよ」
 静かに、エアーが告げる。再びウィクを抱えあげて、横眼でペルトを見た。
「やり過ぎだ。これじゃ本当にウィク様が死ぬ」
「憎しみで殺すのは、結局無意味だわ。たぶん、残るのは虚しさだけ」
 エアーからウィクを受けとりながら、ヴィアがやはり静かに告げる。エアーはヴィアを見やり、苦笑になった。
 だがペルトにはまだ、やれることがあった。シールドの中、弓を取る。
 ペルトの動きを合図に、物影から剣士と槍士が現れた。四方から、槍士二人と剣士――おそらく弓士が剣をもったのだろう――が四人で六人ほどになる。ヴィアの手はウィクで塞がっている。
「エアー!」
「わかってる、何とかしてやるよ!」
 それに、とヴィアもエアーも思った。
 弓士たちの攻撃が止んで、時間が経つ。彼らが戻ってきてもいいころだ。
 襲いかかろうと走り出した槍士の二人に矢が命中する。――上空から、足をめがけて、三本。
 両足を射抜かれた槍士が思わず転倒する。片足のみ射抜かれた槍士は、ひるんだがそのまま進んだ。が、目の前に現れたエアーに剣の柄で力任せに横面を殴られて、横向きに吹き飛んだ。エアーにはそのまま剣士が一人襲いかかる。
 また上空から矢が落ちた。一本だけ。ヴィアたちに最も近づいた剣士の背中に命中、反対側から現れた剣士には竜騎士ユーガ・ライトルが道を塞いだ。
 もう一人の剣士は――。
 ガキン、と音がした。いつの間にかユーガの乗竜レジャーから降りたカランがヴィアとウィクの傍に立っていた。短剣で剣士の剣を受けとめる。
 そも、得物の大きさが違う。並の力では簡単に力負けする剣と短剣の差を、カランはいとも簡単に覆した。
 無言のまま剣を弾くと、鉄の篭手をしたままに、相手を殴りつけた。――バキ、と音がした。苦悶の悲鳴をあげて剣士が一人地面を転がる。ユーガは軽々と、竜の上から剣士を倒していた。
 それぞれがひと心地つく、――刹那。
 矢が間隙を縫ってウィクに迫る。ヴィアはとっさに血だらけのウィクを庇うように抱き寄せた。――護るには、それしか方法がなかったのだ。
「忘れているぞ、ペルトとやら」
 バサリ、と天馬が舞い降りる。まさに神業、上から矢を叩き落としたデリクの顔は涼しい。まるで最初からこの間隙が縫われることを予想していたかのような動きだ。デリクに抱えられる形でアタラがいる。
 アタラは額に手の甲をあてて目を閉じており、唐突に開いた。
「解き放つ」
 静かに、朗々と。その言葉自体に力がこもっているのが、聞くだけでわかった。
 アタラの手の甲が鈍く光る。アタラは空へ手の甲を掲げた。
「アタラ・メイクルの力のもとに封印されし魂よ、今こそ天馬となりて甦れ!」
 一瞬の閃光。アタラの手の甲から飛び出した光は、一瞬にして消えた。
 そして。
 甲高く、馬の嘶きが聞こえた。
「……まさか」
 ウィクは力なく呟く、ヴィアの腕の中。ヴィアもアタラを見上げた。
 アタラがゆっくりと手を下ろす。その手の甲に光はすでにない。
「本当に……?」
 天馬が空を駆る音が近づく。ウィクは痛みも忘れて空を見た。
 小さな天馬がいた。生まれてすぐ飛んできた、幼い天馬。白い毛並み、白い翼。青い――見覚えのあるような、青い瞳。
「母……上?」
 天馬からの答えはない。
 天馬はペルトの頭上で鋭く方向を変える。ペルトに向かって猛烈に突進するのである。
 驚いたのはペルトだ。とっさにシールドを張って、退く。だが天馬は、普通の馬に翼が生えただけの生命ではない。天騎士が想いを残して死ぬと天馬や竜になる。竜は強靭な体、天馬は一種の魔力を持つ。――想いの力、と天馬詩では詠われている。
 その魔力は、乗る者を邪悪から護ると言われている。
「生まれたばかりの天馬の力は、他を凌駕するぞ」
 シールドが、天馬の激突後すぐに崩壊した。ペルトも多くの魔力が残っているわけではない。失策を嘆く。
「なんでだよ……!」
 ペルトは天馬から逃げきれなかった。シールドを突き破った天馬は、そのままにペルトに激突する。激しい衝突にペルトは地面に転がった。
「なんでウィクばっかり……!」
 そのペルトを、天馬が、抑えつけたのである。
 唖然とするヴィアやユーガたちを尻目に、天馬は至極優しい瞳をウィクに向けた。
「母上……?」
 やはり天馬は答えない。
 セフィの背中からアタラが降り立って、ウィクの傍に寄った。
「ウィク様、お迎えにあがりました。傷を治しますから、しばらく、お休みになっていてください」
 言って、アタラがウィクの傷口に手を当てる。
「アタラ、あの天馬は、母上なのか?」
 だが、アタラも答えない。
 傷口一つを治しながら、ふと思いついたように顔をあげた。
「誰かエアー助けてやったら?」
 まるで他人事のように言えば、横でカランが首をかしげた。
「……なんで?」
 カランも唖然として天馬を見ていたので、エアーを見ていない。
「押されてるみたいだけど」
 言われて、全員がエアーを見たところで。
「あ!」
 ヴィアが声を上げた。
「いつも通りに答えるから忘れてたじゃない!」
「いいよ! くそっ」
 ――エアーに命中した毒矢の効力が発揮されるのは、徐々に、であったわけではない。エアーが気力と体力で無理やりに身体を動かしていただけであって、片方が失われれば、均衡は崩れる。
 エアーは剣士の剣を受けるのに、精一杯だった。そも、足が動こうとしていない。力任せはエアーの苦手とするところだ。
「だらしのない」
 声が落ちてきた。ティーンの声だ。
「エアーから速さ取ったら、最上級剣士返上だな。みっともない」
 もう一つの声は、ユーガの父、シリンダのものになる。シリンダは低空ぎりぎりを滑空し、エアーを拾い上げた。「うわあぁっ」と、エアーが本当にみっともなく悲鳴を上げるが、シリンダは気にせずにそのまま再び上空へと。代わりに地面に立ったのは、ティーンだ。シリンダがエアーを拾い上げた瞬間に飛び降りたので、ちょうど剣士の目の前になる。
 剣士が状況悪化に踵を返そうとするのを、止めてティーン。
「逃げるつもりなら、そこら辺にのびている人間全員連れてゆけ。一人殺してしまったようだが……我々はウィク様を助けるのに手いっぱいだ」
 ティーンの背中を見て、ウィクは破顔する。安心してしまった。
「アタラ。私は少し休もうかな」
「えぇ。起きたら、是非私とお話しください」
「うん」
 ウィクは周りを見た。体は至極重くて動かない。短剣を抜かれるとまた傷が痛むし、とても寒い。
 けれど慈しむように抱えてくれているヴィアの温もりが寒さを遠ざけてくれる。
 遠くでシリンダに地面に下ろされたエアーはそのまま動けないように横になっていて、それでも目が合うとにこりと笑う。
 そのすぐ横で、シリンダがユーガに説教している様は、なんだか温かい光景だ。
 ティーンはシリンダについてきた兵士たちに指示して場の制圧をしている。けれど目が合うと、心配そうに近づいてきた。
 カランはアタラの横で、治療の手伝いをしてくれていて。
 アタラは真剣に、けれど優しい表情で白魔法を使う。
 デリクはそのすべてを見物して、誰にとでもなく頷いた。
 ウィクは温かい気持ちでいっぱいだった。
 本当は悲しいことばかり考えてしまうはずの今なのに、悲しいことばかりが起こったはずなのに結局は。
 今、みんながいる。
 それだけがとても嬉しい。
 脱力感に負けて目を閉じていく中で、幸福を胸一杯に感じていて――あぁ、自分は本当に幸せ者なのだと、誰よりも強く感じていた。


■◇■◆◆


 ――夢を見た、気がした。

 白黒の画像。若くて美しい女性が、赤子を抱く。
『……黒い髪』
 諦めるかのようで、認めるかのような。
『王妃様の家系のどなたかに、黒い髪の方がいらっしゃったのでは?』
 そばに控える女中が、目を合わせずに言う。王妃と呼ばれた若い女性は目を細めて微笑を湛える。
『そうかもしれないわね。でも、違うの』
『……』
『あの人の子供ね、きっと』
『死産だったということにいたしましょう』
 女中は両手を組みながらも、口早に告げた。
『私が必ず、信用できる人間に預けます。ですから、どうか――』
『いいえ』
 気丈に答えた、青い、瞳。
『私が、あの人に言います。それで私が王室を追われるのなら、それでいい。でも、この子は必ず、私が育てていきます』
 女中の眼は、恐怖に怯えている。
『あなたは気に病まなくてもいいの。あなたもプレゼリアの出身だったわね。プレゼリアにはひどいことをしました』
『でも、こんな復讐の仕方は間違ってます!』
『私も望んだ復讐の仕方です。でもこの子には関係がありません』
 王妃が赤子を抱く、強く、優しく。
『だって、こんなにも愛おしいんですから。これ以上のものは、私にはない』
 なぜだか胸が、とても痛かった。


■◇◆□◇◇


 ウィクが目を開けたのは、事件から夜が明けて、一日後の早朝。白魔法は対価として傷相当の体力を失う。白魔法が癒すのではなく、白魔法によって自己再生能力を増加させられた体が治すせいだ。そのため、傷が深いほど失われる体力も大きい。ウィクの場合、失血によるものも大きかった。
「おや」
 聞きなれない声が聞こえて、ウィクはぼんやりとした思考の中で、人の姿を探す。
「ようやく起きた。起きましたよ、アタラさん」
 声の主はみつからなかったけれど、アタラの姿はすぐに見つけられた。ウィクの眠っているベッドに背中をつけて眠る後頭部。赤紫の綺麗な髪。アタラを揺さぶる手の主が、失笑する。
「こんなところで眠るから起きれないんですよね、まったく。
 おはようございます、ウィク様。ティルグ駐留軍専属の医士グラーブ・ヤルアです」
 ウィクは目を擦りながら体を起こす。体がひどく重かった。
「おはよう、グラーブ。どうやら、随分眠ってしまった、かな?」
「えぇまぁ、ぐっすり。どうですか、体は重くありませんか」
「……重いね」
「やはり。ここに運び込まれたときは傷は大体塞がってましたが、それでも酷い怪我でした。親衛隊の方々が口々に、起きたら一番に謝りに行くのだと言っていましたよ。約一名は叩き返して無理やり寝かせてますが、大半は帰らなくて。アタラさん以外は、外に待機させてます」
「そっか」
 聞いて、ウィクが苦笑する。
「なんだか、皆に迷惑をかけてしまったね」
「何を言います。迷惑をかけられるために、あの方々はいるんですよ?」
 グラーブは悪戯に笑う。
「迷惑をかけられなければ、寂しいのでは? なんて、」
 くすくすと笑いながら、グラーブが両手を上げた。
「冗談です、ティーン高等兵士。殺気を感じますねぇ」
 グラーブの背後にいつの間にか、ティーンが立っている。無言だが、多少悔しそうにグラーブを見下ろしている。
 グラーブは椅子から立ち上がると、「それでは」と。
「私は少々席を外しましょう。まぁ、水いらずで」
 パタン、と静かに部屋のドアが閉まる。ティーンはグラーブを見送って、撥が悪そうにウィクを見、少し頭を垂れた。
「この度の失態、誠に申し訳ありません。ウィク様の命を危険にさらした……我々が一瞬でも目を離さなければ、あのようなめには」
「謝らないでくれないか、ティーン」
 ウィクは苦笑を浮かべる。
「みんなにも、謝らせないでほしい。何を悔いているのかは知らないけれど、皆に謝られたら私も謝らなければならない」
「そうおっしゃると思っていました」
 ティーンが頭を下げたまま失笑する。
「ユーガはウィク様の心を酌めなかったことと己の未熟さを。ヴィアはエアーを私事で殺そうとしたことを。カランは己の慢心を。エアーは……言わずもがな、ですね」
 言ってティーンが顔をあげると、ウィクは曖昧に頷いて見せる。
「けれど、それも私にも原因がある。全員が全員、自分ばかりを責めないでほしいと言ってほしい」
「わかりました」
 言って、ティーンは先ほどまでグラーブが腰かけていた椅子に座った。
「傷は、まだ痛みますか」
「動いてみないと分からないけれど、平気だ」
「何よりです」
「エアーの傷はどうだい? 私を護って矢を受けてしまっていたようだけれど」
「ウィク様ほどではありませんでしたから。ただ、毒矢を受けたことと……どうやら連日徹夜だった上での行動だったようです。動けるようになって早速部屋を抜け出そうとしたのをグラーブと共に押しとどめて、昨日一日はあれもベッドの上です。先ほども来る前に見張りのカランを起してきました」
「効果のなさそうな見張りだなぁ」
「いえ。効果なら、カランが寝ぼけてエアーを掴んでいたので問題ないでしょう」
 ウィクは聞いて思わす笑いだしてしまった。なんだかすぐに想像出来てしまう。寝ぼけたカランにつかまって、文句を言おうにも言ったところでの立て板に水を知っているエアーの嘆きを。
「他の二人は?」
「見張りにいかせています」
「ははっ、手回しがいいな、ティーンは」
「……何がですか?」
「いや、ティーンには敵わないんだろうなと思って。やっぱり一番よくわかってくれている」
 ウィクは満足げに微笑みながらティーンを見る。頼もしいなと、この三年間――いや、出会った時からどれほど思ったか分からないほどだ。
「ありがとう」
 ティーンがくすりと笑った。温かい笑いだ。
「その言葉、ありがたく頂きます」
「うん」
 ティーンがふと顔をあげた。ウィクの背後にある窓を見やり、目を細めた。
「陽がずいぶん上がりましたね」
 ティーンが腰を上げた。ウィクも窓を見やり、朝日に目を細めた。
「私は馬屋に用があるので失礼しますが、もしも体が動くようでしたら、ウィク様も後でいらしてください。この宿のすぐそばです」
「わかった。あぁ、デリクはどうしてる?」
「昨日またどこかへと行ったようですが、夕暮れには戻り、今日も同じ宿に泊まっています」
「そうか。あとで謝りにいかないといけないな。プラ・ヴィーンへの出発が遅れてしまった」
「デリクも言っていたでしょう、気の向くままと。気にするはずがありません」
 ティーンが軽く頭を下げる。退室を宣言して部屋の外へ出る。ウィクはティーンを見送った。
 ティーンが外にでて、少しだけ静かな空気が部屋の中に流れた。ウィクは少しだけドアを眺めたあと、アタラを見やる。
「おはよう、アタラ」
 アタラが少しだけ肯いた。至極ゆっくりと腰を上げる。
「寝たふりだなんて珍しいな、アタラが」
 アタラは無言のまま、ウィクに向かって軽く頭を下げた。頭をあげると、ローブのポケットから羽根を一枚取り出す。
「王妃様が亡くなられた日を、覚えていらっしゃいますか?」
「……うん。覚えている。私はまだ十二だった」
「あの日、王妃様から頼まれたことがあります」
「うん」
 ウィクはただ、相づちを打った。
 アタラがこんなにも心細く見える姿を、ウィクは初めて見た。――もしかしたら、ずっと押し隠してきた寂しさなのかもしれない。
「あなたもし、ご自分の生まれを知り、孤独を感じそうになったなら、必ず傍にいてほしいと。孤独ではないのだと、伝えてほしいと」
『いずれ知る時がくる。
 その時孤独にしてあげないでね。
 どうか、共にいて、見守っていて』
 当時、アタラは二十歳だった。高等兵士の中ではまだ最年少。次の年になってようやく同じ若さの高等兵士たちが生まれ、最も若い高等兵士の座をトア・サーとエアーに譲る。
 なぜ、とアタラは王妃の手の平を感じながら思った。死ぬ間際になったら傍に来てほしいと約束されており、約束通りに訪れたあの日。お願い、お願い、と。ただ、懇願された。なぜ自分だったのかと。
 アタラは手に持っていた羽根を、ウィクに差し出して、ウィクの手の中に入れた。アタラの声は変わらずだったけれど、虚勢が見え隠れする。ウィクは羽根を受けとって、少しだけ微笑んだ。
「それまで、私と共に居させてほしいと」
「うん」
「私は、約束を果たしたつもりです。それでも私はウィク様のお傍に居させていただこうと思っています」
「うん」
「これは、私の意思です。王妃様から言われただけではありません。王妃様は――」
 当時、アタラは王妃に選ばれたことを、誇りにも思った。だが同時に重荷に思った。なぜ重荷に思ったのか思い返してみれば、ウィクに孤独ではないと告げる約束をした自分が、孤独を感じていたからだ。
 何故孤独なのだろう。何故孤高であり続けようとしてしまったのか。それは『高等兵士』という肩書の重圧に負けそうだったからだ。
 だから王妃との約束を果たせるまでは、絶対に最高等兵士への昇格は受けなかった。ウィクに孤独ではないのだと伝えられる自分になれるまで。
 誰より、自分が孤独ではないのだと、信じられるまで。
「私に、私が孤独ではないということを認めさせてくださいました。あなたに孤独ではないと伝えられた私は、もう孤高の魔道士と呼ばれる人間ではありません」
「うん、それでいいと思う」
「本当に、ありがとうございます」
 告げてアタラは深々と頭を下げた。ウィクは苦笑する。
「ありがとうは私の言葉だ。私は君がいてくれて、本当に良かったと思っている。三年前に親衛隊ができた時から、君はみんなや私を陰から支えてくれたね。それがどれだけありがたかったか。みんなだって思ってる、君はかけがえない」
「仕方のない奴らが多いですから」
「それは私も入っているのかな?」
「ご想像に」
 応えてアタラがくすりと笑った。アタラが笑った姿を見て、ウィクも破顔する。
「手を」と、ウィクが言った。アタラは不意に視線を落として片手を差し出した。
 天馬を生んだ時の光は、すでに手の甲にはない。ウィクはアタラの手を眺めて、もう一度「ありがとう」と。
「母上と共にあってくれて、ありがとう」
「ですが、王妃様は……」
 不意にまた、アタラの影が心細くなる。ウィクは訝ってアタラを見上げた。
「王妃様は、もうすぐ旅立たれます」
「……え?」
「今はまだ、いらっしゃいます。天馬としての形を得て……しかし、私の魔力では、自然の強さには負けてしまいます」
「それは、母上の生まれ変わりであっただろうあの天馬が、死んでしまうということかい?」
「はい」
 応えたアタラの声が力ない。アタラはウィクを見なかった。
「申し訳ありません」
「なぜ謝る、アタラ」
「王妃様の魂と、もう傍にあることができません」
 アタラは頭を下げた。ウィクの顔を見ないためだろう。ウィクはアタラの手を握り、アタラを見上げた。
「それは、違うよ、アタラ」
 髪に隠されて見えないアタラの表情を、ウィクは窺う。アタラの気弱な言葉など、あまり聞きたいとは思わなかった。――聞けるとも思っていなかった。
「天馬は心残りの象徴だ。母上は私に孤独ではないことを伝えたいと天馬になった。その心残りがなくなったのなら、天馬は消えて不思議はない」
 反応のないアタラの手を、さらに強く握る。
「私は孤独ではない。アタラがいる、ヴィアもいる。ティーンやユーガ、カランやエアーもいる。みんながいる。私は孤独ではない」
 不意に、アタラがウィクの手を握り返した。アタラの手から、ウィクはアタラの今の想いを知るのだ。
 王妃の魂を虜にしていたアタラが、誰より王妃の魂が傍にあることに救われていた。今寂しいと思うのは、ウィクだけではないのだ。
「アタラにも、私がいる。みんながいる。アタラも一人ではない」
 アタラの手に、力がこもる。
 ぽたりとアタラの両目から涙が零れおちた。アタラは顔を上げようとしない。嗚咽を噛み殺して、ウィクを掴む手に力をこめて、必死に涙を止めようと努力する。
 ウィクは力を抜いて笑みを浮かべた。
「アタラは少しは遠慮せず、泣いた方がいい。もっと遠慮せず笑うといい。君の笑顔も、泣いた顔も、私はもっと見てみたいと思うよ」
「そんなのっ」
 アタラが鼻をすする。ウィクは苦笑した。
「それこそ、遠慮させていただきます」
 答えたアタラの、“アタラらしさ”に、ウィクは思わず失笑してしまった。
 アタラの涙はなかなか止まりそうにない。ウィクは何も言わず、ただアタラを眺めていた。アタラが掴んでいる手を振りほどこうともせず。
 ――その中途半端な優しさが、理想が。いけなかったのだとペルトは言った。
 けれど性分だ、とウィクは思った。
 大切にしたい人々を大切にして何が悪いのか。みなが共にあるという場所を目指して、何が悪いのか。
 望みは捨てた瞬間に、絶望になる。
 ならばきっと、絶望しないと、ウィクは心に強く願った。
  


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