■□ 六話 双面の天騎士、守護 □■


    ヴィア・ハワーには分からなかったのだ。
 何故エアー・レクイズというこんな男を、人は必要としてきたのか。
 ヴィアは、ずっとエアーが憎かった。
 エアーが殺した人物に、ヴィアが誰より尊敬していた人物がいたから。
 サリア・フィティ。
 天騎士の間だけではない、彼女の名は特に王国軍の中では有名だった。
 正義が身上の猪突猛進の行動派。やり過ぎてしまうことも多々あったけれど、それすら愛嬌の一つになってしまうような、明るくて、強くて――多くの人が親しみをこめて彼女と接した。
 戦時中のエアーですらも、と噂では聞く。当時のエアーは他人を寄せ付けようとしなかったにも関わらず。
 当時から、ヴィアはエアーが嫌いだった。
 上司であるカタン・ガータージ・デリクとよく口論をし、諭した相手を見下すように見る。その瞬間から、ヴィアは不吉な予感を覚えていた。
 そして殺したのだ。
 サリア・フィティを。カタン・ガータージ・デリクの恋人を。カタンがいくら憎いとはいえ、最愛の人間を殺すなど――最低の人間だ。
 何故彼が高等兵士なのか。
 なぜ彼を、今もまだ、多くの人間が求めるかのように集うのか。
 反して嫌う人間も多いけれど、とヴィアは思う。


 エアーに弓士と何を話していたのかと問い質したとき、エアーはのらりくらりと会話を逸らした。――本当に造反すると思った。だからヴィアは直後から動いた。エアーを処分するのに賛成する人間を集めて、時が来たらエアーを処分しようと。
 ヴィアはカランにもその話をしている。カランは「今更だろ」と答えた。けれど「これも仕事」と、さらに応じたヴィアを微かに笑って肯定した。おかげで弓士たちの協力を得ることができたのだ。
 夜闇の中を走るエアーを眼下に見た。有志の弓士たちが死角から攻撃をしている。剣士の有志はいない。主に天騎士と弓士だ。けれど天騎士の有志たちが動く気配がなかった。
 追い詰められて、エアーに矢が一本命中する。――やった、とヴィアは思った。けれどまだ自分が動くべきではないと判断する。
 エアーはすぐに矢を抜くと、路地に放り投げる。再び走りだしてすぐ、一人の剣士がエアーの前に現れた。目の前は袋小路。エアーを殺すには絶好の場所だったにも関わらず、その剣士はエアーを護るように剣を抜いた。
「なんでこんなとこにいんだよ、マーク」
「それは俺の台詞です。どうしてそんな怪我を……親衛隊の仕事はどうなさったんですか?」
「仕事中だと思え」
「それは無理です。どうしてエアーさんが狙われているのかわかりませんから」
 きっぱりと、マークと呼ばれた剣士が答える。弓士の攻撃は途絶えていた。
 ヴィアはマーク――エアーの副官のマーカー・クレイアン・サーに見つかるのを避けて、家の影になる場所にリーを着地させた。
 ――すると。
「……『空』?」
 エアーの歌声が聞こえた。
「……ウィアズ王国、賛歌……」
 造反したはずのエアーの歌声にも関わらず、どうしてか切なかった。エアーの声に他の声が重なって、街中で大合唱が起こる。おそらくほとんどが剣士の声だ。
 どうして、とヴィアは思った。
 目の前を剣士が嬉々として通り過ぎる。
「隊長が歌ってるときは、あれだよな!」
「『好きな曲を言えよ、歌ってやる。ついでにお前らも歌え』」
「あはははは、似てねぇ!」
「聞こえてそうで怖ぇ!」
 ――曲が、終わる。
 壁越しに、会話が聞こえた。
 静かに、何故か淋しそうに。
「……おいマーク。言えよ。何がいい」
「……『詩人(うたうたい)』を。約束です」
「あぁ。俺も好きだ、あの曲は」
「はい、俺もです」
 ただ、静かに。
「今もまだ……エアーさんの心は、バチカの海岸にいますか」
「なんだそれ」
「あなたの願いは、殺してほしいと言った、あの頃と一緒なんですか?」
「………」
「昼に確認されたこと。俺には、まるで最期の別れのように聞こえましたから」
 エアーの嘆息。
「歌ってください、『詩人(うたうたい)』。あの曲は、死者に捧げる唄です」
 少し間があった。
「わかったよ。歌ってやる」
 風にかき消されて確かには聞こえはしなかったけれど、ヴィアの耳には微かに、「悪い」と謝った、エアーの声が聞こえた気がした。
 ヴィア・ハワーには理解できなかった。
 ただヴィアに解るのは、エアー・レクイズはウィクに剣を向けた。ウィクを殺すために親衛隊に入った刺客の一人。
 処分しなければならない存在。
 憎むべき、“敵”であること。


■◇■◆


「あなたも、これで少しは罪滅ぼしになるのかもしれないわね」
 ヴィアの姿に見惚れて少し、エアーは我に返ったかのようににこりと笑った。
「あぁ」
 短く、肯定する。
 まるで満足でもしたかのようだ。これから死ぬと言うのに。
 ヴィア・ハワー。戦う姿は鬼人の如く。笑う姿は慈母のごとく、と人は謳った。今エアーを睨み据えて動かないヴィアの姿は気高い戦士、まるで戦いの女神。高等兵士ヴィア・ハワーがそこにいる。
「いい覚悟。剣を構えなさい」
 エアーが自嘲するように失笑する。
「あなたもウィアズ王国の高等兵士として生きていたのなら、戦士としての誇りはあるでしょう。戦いの中で死にたいのではないの」
「前に叶わなかったものを、今更どうでもいいが……」
 至極ゆっくりと、エアーが剣を持ち上げた。その腕をティーンが掴む。エアーはやはりゆっくりとティーンの腕を振りほどく。ティーンは抵抗しなかった。
「ヴィアさまよ、お前ならわかってるんじゃねぇのか」
「えぇ。知ってるわ。聞いてきたから」
「そうか」
 ティーンから離れて、エアー。渾身の力をこめて剣を構えた。
「こんなことが……」
 至極小さなウィクの声。だが二人には届かない。
「あなたでも辛いでしょう。今、楽にしてあげる」
 エアーを射た矢には、薬が塗ってあったらしい。一時的に動けなくなる薬だそうだ。一度命中した後に攻撃が止んだのは、エアーが動けなくなるのを待っていたかららしい。
 ヴィアは細剣を抜いた。小気味よい音がする。
「こんなことを、私は……」
 ぽた、ぽた、とウィクの両目から涙が零れおちた。
 ふとエアーがウィクを一瞥して、自嘲する。ヴィアを見つめたまま、言い訳のように言うのだ。
「悲しむようなことじゃないですよ、ウィク様。むしろ俺のことを恨んでください。これは俺のわがままです」
 ――声など、届かない。
 ウィクはただひたすらに嘆いた。バチカではテイフにもイクセルにも届かなかった。無駄なのだと、諦めているかのようにエアーに言われ続けた。エアーにも、声は届かない。ヴィアにすらも。
「ね、ウィク様。言ったでしょう。俺はあなたのために死ねたら、幸せになれるだろうって。俺の命で何かが丸く収まるのなら、これ以上の幸せはない」
 ふうと、エアーが嘆息する。目を細めた。
「それにもしもウィク様がいなくなって俺が生き残っても、俺はどうやってその寂しさに耐えればいいっていうんですか。そんなことになる前に俺が先に逝かせていただきます」
「そんなことが……そんなことが!」
 叫んだウィクの声にエアーが反応してニコリと笑った。いつもの飄々とした笑い顔ではない、曇りない笑顔。
 刹那。
 エアーが踏み出した。だが先ほどより動作が大きい。ヴィアも瞬時に動き出して、早さは同一だった。
 何かに動かされたかのように、同時に動きだした人物がいる。
 デリク・ガータージ・カタンだ。
 弾かれるように地面を蹴ると、二人が激突する地点へと走る、武器も持たずに。
 背後からヴィアに手を伸ばして、肩を掴む。
「待て!」
 叫んだと思うと、二人の剣が交差する瞬間、ヴィアの肩を引いて他方へと放り投げ、そのままエアーの目の前に立ちはだかる。
 エアーの顔が恐怖に染まった。剣を横薙ぎに振り始めた直後だった。
 一瞬の躊躇。一瞬の間隙。すべての時が止まる一瞬。
「やめて!」
 ヴィアが叫んだ。悲鳴だった。
 刹那、エアーの剣に鋭く矢が激突する。衝撃にエアーの剣が下方にずれた。さらにその刹那を縫って、ユーガ・ライトルがエアーに横から襲いかかる。
 ユーガに気が付いた時には、エアーになすすべはない。矢にぶつかって剣が下方にずれたことで、デリクに剣が当たったとしても威力はないだろう。ユーガが頭上で構えた大剣を受けるしか、道は残っていなかった。
「ユーガ!」
 ティーンが怒鳴る。
 ユーガの大剣が振り下ろされる瞬間、鋭くエアーに激突した人物はウィク・ウィアズ。
 エアーを突き飛ばして、諸共に地面に吹き飛ぶ。ウィクの背後でユーガの大剣が振り下ろされる、太い音が聞こえた。
「え?」
 声を上げたのはユーガだった。
「なんで、ウィク様」
「ユーガにすら、私の声は、届かないのかな」
 エアーの上から体を起して、ウィクは自嘲に似た微笑みを浮かべる。エアーは横向きに倒れたまま動かない。だが剣を手放しは、しなかった。――まるで執念のごとく。
「エアー」
 声をかけたのは、デリクだった。仁王立ったまま、エアーを見る。呼ばれてエアーは剣を手放して頭を抑えた。
「お前の言った言葉は、お前が、クレハという男に言われた言葉だろう」
 エアーは答えない。ウィクはエアーの横に座った形になる。
「どういうことだい? デリク」
「私も聞いた話でしかないが……」
 ウィクを見やり、デリクは答えた。
「カタンもエアーも死んだなら、自分は寂しくて生きていけない。だから先に死なせてくれと、クレハという男が死ぬ前に言ったそうだ」
「あいつと……同じ?」
 震える声で、エアーが呟くように。
「……うそだろ……?」
「いいや。嘘ではないだろう」
「ふざけるな……」
 横になったまま、ぼそりとエアーが言葉を吐いた。大きく息を吸ったかと思うと、今度は叫んだ。相変わらず頭を押さえたまま。
「……ふざ、けるな!」
 まるで泣き叫んでいるかのようだ。何が悲しいのか、理解されずとも。
 ティーンが深くため息をついた。
「ふざけるなは、私の言い分だ」
 エアーに向かって一歩踏み出して、ティーンがふと足を止めた。
「勘弁してくれ……」
 ヴィアが起きあがってエアーを覗きこむ。
「……震えてるの?」
 驚愕の想いをこめて問えば、エアーがびくりと肩を揺らした。
「何故? 今更死ぬのが怖くなったの?」
 違う、とエアーの口から空気が漏れた。声にならない。
「俺は、」
 片手を使って、エアーはゆっくりと起きあがる。片足をたてて座りこんだまま、深呼吸する。立ちあがったヴィアを見上げた。
「殺してほしいと思ってきた」
 一目見れば、今のエアーがひどく不安定な状態にあることを理解することができた。きっかけはおそらくデリクがヴィアを放り投げて、無防備にエアーの攻撃の前に立ったことだ。
「エリクが死んだ時も、カタンがエリクを殺したと分かった時も、直後にカタンに会ってしまった時も、サリアを殺した時も、クレハが死んだ時も、終戦を知ったあの時も、ウィク様を殺すことに躊躇を抱き始めたときも……俺はずっと誰かに殺して欲しかった。それが最善の形で叶うなら、俺は幸せ者だろう?」
「その言葉、前聞いた時も思ったけど、お前、言い聞かせてるだけだろ。『そうなれば自分は幸せ者だ』」
 屋根の上から声が落ちてくる。カラン・ヴァンダのものだ。
「自分は笑わない、泣かない。幸せにならない。昔お前が言った言葉だよな」
 エアーはカランを見上げた。屋根の上、夜風に長髪がなびいている。エアーはカランがいることを知っていた。剣を弾いたあの矢は、カランの他の誰が射ることができよう。
「俺は今も、誰が幸せになったって構わないと思ってる。もしもお前がいまだに後悔をし続けてる奴だったとしても、生きて幸せになるべきだ」
 カランは屋根の上、口と髪以外微動にしない。
「デリクにサリア重ねたろ」
 エアーはカランを見上げて、至極ゆっくりと大きく息を吐いた。吐ききったところで視線を落とす。
「あぁ」
「……怖いのかい?」
 ウィクが静かに問う。エアーはウィクを見やり、自嘲に似た笑顔を作る。
「はい」
「そうか。私も失うのは怖い」
 ウィクが儚く笑う。
「なぜ、人の命を護るのに、わざわざ他の命を差し出す理由があるのだろうな」
 デリクが嘆息交じりに呟く。
「セフィもだった。サリアもだったらしいな」
「……セフィも?」
「そうだ。私を矢から護って死んだ。天馬騎士だったセフィ・ガータージは」
 カランが目を細めた。セフィを殺したのは、当時他の高等兵士の副官を務めていたカランだ。デリクを殺そうと放った矢だった。
「セフィは、やっぱり、あのセフィ」
 ヴィアが確認するように問うた。デリクは静かに肯定する。
「私も当時はあの戦いを起こしたことを後悔して死にたかったものだ。だが、セフィが天馬になって私の希望になった」
「ちょ、ちょっと待てよ! それじゃ、デリクって……あの、本名……てその……」
「私の本名はデリク・ガータージ・カタン。昔の姓は……マウェートだ」
「嘘だろ……! 死んだってマウェートでもあんなに大々的に……!」
 ユーガが愕然とデリクを見る。
 デリク・マウェート。
 現マウェート国王オラル・マウェートの兄。ウィアズ王国との戦いにおいて戦死したと告げられている人物。マウェート王国の慣習に反して、王族でありながら天騎士の道を歩んでいた。
「匿ってたのは、カタンだろ?」
 エアーは立とうとしない。けれど、状態は落ち着いてきてはいる。
「セフィ・ガータージはマウェートの総統指揮官だったが、実はカタンの実の姉。目の前で亡くすまで、カタンが自分にとってどれだけ大切だか気がつかなかった人間。亡くして後悔してお前を匿った。違うか?」
「だろうな。カタンの口から聞いたことはないが」
「けど、それはあの情勢下、まぎれもない裏切りだ」
 エアーは冷たく言い放つ。
「それに気が付いたのが、俺が目の前で亡くすまでその大切さに気がつかなかった人間、エリク・フェイ。カタンの裏切りに気づいたせいでカタンに殺された」
 そして、自嘲。
「知らない方が幸せだってのも、あるよな」
「ねぇ」
 ヴィアはエアーを見下ろす。呼ばれてエアーはヴィアを見た。震えはまだ治まってはいない。
「あなたは、失って本当に後悔したの?」
 ヴィアのどこか糾弾するような問い。エアーはやはり自嘲する。
「本当にしたよ。思いっきりな。一緒に戦ってる人間の名前も顔も覚えられてなかった自分が嫌いになった。自分が先に進むために殺してる人間にも、こういうふうに思う人間がいるんじゃないかと思って怖くなった。だからって、逃げだすわけにはいかなくてな」
「今は逃げだしてるのに?」
「そうか?」
「そうよ。まるで駄々でもこねているみたい」
 ヴィアは不機嫌に細剣を拾う。
「『もうこんな思いは嫌だ。誰も殺したくない』あなたの恐怖に引き攣った顔、そう叫んでた。じゃあどうしてあなたは軍に所属しているの? みんなにも敵にも不誠実よ!」
「そうか」
 答えて、エアーは目線を落とした。
「じゃあ、ヴィア。お前は何のために戦ってる」
「え?」
「なぁ、お前ら全員、何のために軍人やって戦ってんだ。何のために敵を倒す?」
 言って、エアーはゆっくりと立ち上がろうとした。その袖を、ウィクが掴んだ。
 ウィクは座ったまま、中腰になったエアーを見つめる。
「私は、皆が笑っている場所で生きたいから戦っている」
 虚をつかれたようにエアーはウィクを見た。同じ姿勢のまま。
「そこには敵味方などない。私の命を狙っている人間でも関係ない。私は、できることなら全員がいる、全員が笑っている場所で生きたいと言っているんだ。一人でも欠けたら悲しい」
 エアーはウィクを眺めて少し、微かに目を細めて笑顔を作って見せた。
「俺も、本当は、」
 酷く優しい声。ウィクはエアーの顔を真摯に見つめたままだ。
「そこで生きたいです」
 本当に小さな声だったけれど、エアーははっきりと言った。
「あんたのだったら、影にまたなってやってもいいなと、思いますよ。ウィク様は許さないと思いますが」
「うん、私の犠牲になることは許さない」
「でも光には影が付いて回るもんです。影のない光なんて存在しない。俺にとって光そのもののように見えたカタン・ガータージにすらあったものです」
「私は光も影もいらない」
 エアーの饒舌な口が止まった。ウィクは真剣にエアーを見つめたまま。
「戻って来いとはいわない、一緒に生きよう。君とともに生きたい」
 エアーが膝を片方、地面につけた。
「君が悩んでいたことも、私は知っていた。きっと皆がそうだ。それでも私たちは共にあったんだよ。これからだって、一緒に生きていける」
 エアーは地面に片手をついて――握った。
 同じく拳を作った人物、ヴィアは声を上げる。
「ウィク様!」
 荒々しく駆け寄ると、ウィクがエアーを掴んでいた手を払い、エアーに向かい立つ。
「この男がウィク様に剣を向けたのは事実です!」
「ヴィア!」
「これも決まりです、どうかお許しください」
「ヴィアッ!」
 ヴィアは細剣を引いた。エアーは抵抗する様子すら見せなかった。ヴィアを見上げ、小さく肯く。
 ウィクは歯噛みした。――所詮形だけだと。
 形だけの王族、王族の名を与えられただけの生き物。権力を与えられても、結局は人が従うのは己の信じたもの。
 ――だが、それでも。
 ウィクは瞬時に息を吸い込んで、ヴィアを睨みつけた。
「私の決定が聞けないと言うのか、ヴィア・ハワー!」
「……っ!」
 ウィク・ウィアズの怒声は、まずない。ヴィアは思わず体をこわばらせ、細剣を引いた状態で硬直する。誰もがウィクの顔を見た。
「私が、エアーを殺さないと言っているんだ! なのに何故お前はエアーを処分しようとする!」
 ヴィアは硬直したまま、エアーの姿を見降ろした。
 ――何故、と言われて、ヴィアは即答できない理由があった。
 憎いからだ、ずっと殺したかった。
 カタンを追い出し、サリアを殺し。今も軍の中でのうのうと生き続けるこの男が。そして今もウィクに傍で生き続けることを乞われたエアー・レクイズが。
 では何故、今自分はここにいるのか? エアーを殺す理由を持てたのか?
 ヴィアが行動を再開するより先に、エアーが動いた。愛剣を拾い上げると、素早く立ち上がって全員の間を縫い場を離れる。今だ万全の状態には回復していないはずだが、ウィクの怒声に誰もが行動をやめていた時だ。
 ウィクはエアーの姿を目で追った。すぐに立ち上がって追いかける。

「ウィク様、こっちです」
 屋根の上を飛び移りながら、カランが頭上から先導する。どうやら袋小路を迂回して城壁の中へと入ったらしい。
「ありがとう、カラン」
 細い道を睨みつけ、先を見つめながらウィクが言えば、カランは「いえ」と。
「俺も、あいつに言ってやりたいことがあるので。いいですか?」
「構わないよ。そのために捕まえよう。エアーはきっと帰ってくる」
 小さくウィクがクスリと笑って、路地を曲がった。カランは屋根から降りて城壁の中へと駆けていく。――カランの目がウィクから離れた。
 ウィクが後続の人々の目が届かない場所を走る。

 刹那。
「な……に?」
 ウィクの体が意志とは無関係に地面に倒れこんだ。走っていた勢いに、少しだけ体が地面を滑る。起きあがろうとも力が全く入らない。

「とりあえず捕獲。やるじゃんエアー・レクイズ」

 唐突に人の声が上から落ちてきた。
 誰もいないはずだった。ウィクは確認しようと渾身の力をこめたが、体は動かない。
 ウィクが顔を上げようとして見たものはただの靴のみ。何の変哲もない人の靴だけ。
「それでは。アディアンゼランバラオルツァ……さようなら」
 靴の持ち主は嫌味なほど綺麗な発音で呪文を唱えて――。
 後の辺りに聞こえるのは遠くからの喧噪、人々の生きる音。
 しかしウィクの声も、靴の持ち主の声もない。ただ風が虚しく通り過ぎるだけの空間があった。

 ウィク・ウィアズの姿も、靴の主も、路地から消え失せたのである。


■■□□


 ガン!
 城壁の扉を後ろ手で強く閉めて、エアーはさらに走った。けれど息は切れぎれで、城壁の中に入った安心感で急激に足が動かなくなった。片手を壁について、それでも進む。
 額から汗が落ちた。致死の毒ではないだろう。体中が痺れているから、麻痺薬でも使ったのかもしれない。
 エアーは夜目がそれほど利く方ではない。城壁の中には確かに明かりとして蝋燭が燃えている場所もあった、だが暗い。暗闇に閉ざされて先が見えない長い城壁の道はまるで、今まで思い描いてきた未来のように見えた。
「くそ……っ」
 エアーはウィクの言葉に揺らいだ自分が、許せなかった。
 他人に何のために戦うのかと聞いて、自分の戦う理由を強く願った。戦っている理由を、再確認していた。
 ――自分が戦う理由。
 生かすためだ。
 より多くを、より長く、生かすため。
 そのためになら、汚名も着る。命だって投げ出せるのだと思っていた。
「俺が……生きたいだなんて、思ってるとは……な」
 気を紛らわすために呟く。
 城壁の上に続く階段が見えた。
 城壁の上に登るつもりで、エアーは進んできた。――死ななければならない。
 実を言えば、自分が自分から死んでも、ウィクが死ななくてもいい保障などどこにもない。それどころかウィクが死ななければならない理由に変化など訪れないのが分かっている。
 けれど、死ぬ確率が減る。セイトが少しは反省してくれるかもしれない。
 殺す必要などない。無力化すればいいだけ。そちらに労力を使ってくれればいいだけ。
 自分はセイトに求められていながら、ずっと自分しか見えずにセイトを無視し続けた。これはセイトからの罰なのだと思っている。
 もしももう一度機会があったなら、セイトの傍に寄ろうと、思う。支える人間が少しでも必要だ、彼には。自分でなくても、ウィクでもいい。
 けれど傍に戻れない、時間のない自分には、これくらいしかできることがないのだ。
 死んでしまうしか。
 階段の壁に手をつけた。――瞬間。
 ビュン、と音をたてて体のすぐ脇を矢が通り過ぎた。エアーは石の階段に跳ね返った矢を見て、失笑する。
「当てろよ」
 言って、振り返る。壁に背中をつけて矢を放った相手を見た。
 カランは弓の構えをすぐに崩して、弓を背負う。
「断る」
「じゃあお前も、ウィク様みたいに説得しに来たのかよ」
「説得しに来たわけじゃない。エアーに命令しに来たんだ」
「はぁ?」
 エアーは肩をすくめて失笑する。カランは至極真面目だ。鋭い瞳に、揺らぎもない。
「俺は今度王城に戻ったら、クアルを後任に立てて親衛隊を辞めるつもりだ」
 エアーはカランを見て訝って目を細める。蝋燭の明かりのすぐ傍、カランは少しだけ周りを見る。
「親衛隊に入ってからこの三年間。他国との小競り合いが絶えなかったし、内乱も小さいけど結構あった。ティルグの様子を見ても思う、俺たちは王国軍に戻るべきだ」
「……俺、たち?」
「あぁ。俺はお前を総司令補に指名する。だからお前も今度王城に戻ったら後任を立てて親衛隊を辞めろ。兼務で総司令補はできないし、させるつもりもない」
「何勝手に言ってんだ。だいたいお前の総司令補にふさわしい人間なんて、俺以外にいるだろ」
「俺がお前がいいって言ってるんだ。やることは今と同じで別に構わない。けど、」
 一度ずるりと足を滑らせたエアーが、もう一度立ちなおす。カランの表情に変化はない。
「一人で考え込まなくてもいい。考えたことを言ってくれれば、決断は俺がする。最終的な決断は一人で十分だろ」
 言葉も、目線も、真直線に前に向く。
 エアーはカランが羨ましかった。妬ましく思わなかったのは、習性や色々なものが違うにも関わらず、カランの傍に居る時が一番落ち着いていたからだろう。
「俺にも影なんか必要ないから。欲しいのはエアー・レクイズ総司令補だ。もうひとつの頭じゃない」
 城壁の上から、カツン、カツン、と音が響く。誰かがゆっくりと降りてくる。
 けれどカランは一瞥もしなかった。城壁の中に、どうやら後続になってしまった他の面々が駆け込んできた足音がする。それでもカランは動かない。エアーを真直ぐに見たまま。
「だから、独りで走ってくなよ」
「……なんなんだよ、それはよ」
 エアーがため息をついた。――泣いてしまえたら楽だなと、エアーは思っていた。
 昔、苦し紛れにカタンに言った。別れの言葉に似た会話の中で、「のうのうと生き続ければ、必要としてくれる人間も出てくるはずだ」と。虚無な願いだと思っていた。叶うはずがない願いで、二度と必要とされないと思っていた。それでいいと。
「……俺は、お前に求められるほど立派な人間じゃない」
 階段を降りる足音が止まった。
「ずっとその言葉を……身近な人間に言われっぱなしだ」
 やや間があって、カランが微かに笑う。
「あぁ」
「おい、俺が命令拒否しないとは一言も言ってないぜ?」
「あぁ。でも受けるだろ」
「なんでそう思うんだよ」
「俺の相棒だろう?」
 カランを見て、エアーが脱力する。いつもそうだ、と思う。いつも変なところで適当なのだからと。そんな男のせいで生きたいなどと思ってしまった自分が馬鹿のようだ。
「はいはい、相棒さん。だったら言えよ。今の状態で俺が死なない最善策」
「とにかく態度で謝れよ。王城帰るまでは親衛隊として。ウィク様にも、ヴィアにも。ユーガには特に暴言だったな」
「……で?」
「王城帰ったら俺がセイト様を説得する」
「それで済むならとっととやれよ。てか、どうやって説得するつもりだ」
「『俺が総司令補に欲しいんです。その代わり第一大隊に仕事を多く回してくれてかまいません』」
「……おい、それ、俺が親衛隊抜ける説得じゃねぇか」
「あぁ」
 しれっとして、カラン。しかも説得内容は適当だ。エアーは頭を抱えた。
 後続の面々がティーンを筆頭として現れる。だが二人はあまり気にしていない。――というより、エアーの方はカランのペースに巻き込まれている。
「ウィク様殺さない策は」
「暗殺未遂事態は続いてたほうがいい」
「は?」
「権力を欲しがるような奴が、ウィク様に近付き難くなる。今みたいに頻繁なのは困るけど、今の親衛隊の面子だったら問題ないだろ。だからお前抜けるときは実力ある奴選べよ」
「おい」
「あと、ウィク様は王国軍所属じゃないほうがいいよな。王国軍はウィアズ王国だと一つの勢力になりえる」
「お前……さ。俺らが苦心してたのを、事も無げに言うなよ」
「お前らはウィク様を護ろうとし過ぎるから分からないだけだろ?」
 事も無げに答えるカランを見て、エアーは天井を仰いだ。大きく息を吸い込むと、脱力と一緒に息を吐く。壁に寄りかかったまま床に座り込んだ。
「なんか、気ぃ遠くなりそう」
 同感だと言うように嘆息が聞こえた。
「根本的な解決にならないほうがより良いというのか、お前は」
 ティーン・ターカー。親衛隊筆頭として、誰より苦心してきたはずの人間。
「あぁ。お前らは頭がいいのか知らないけど、考え過ぎるんだよな」
「お前は素直に物事を受けとめ過ぎだ……!」
 実はこの三人――カラン、エアー、ティーンの三人は、同じ年に高等兵士に昇格している。その年に増設された第三の小隊長である。
 そしてやはり同じ年、高等兵士に昇格した人物が、親衛隊にはもう一人いる。
 天馬騎士ヴィア・ハワー。
「ヴィアも少しは気が晴れたんじゃないのか?」
 階段の上を見やってカランが言えば、もう一度カツン、カツン、と。二つの足音が降りてくる。
 階段の蝋燭に微かに照らされて、不機嫌そうなヴィアと、横に並ぶアタラの姿が浮かび上がる。
「いいえ」
 ヒュン、と音がして、ヴィアが細剣を鋭くエアーの目の前に据え置く。エアーは至極つまらなそうに細剣を見上げた。
「悪いな、ヴィア。死ねなくなった。セイト様に謝りにいくわ」
「私はあなたが憎いだけ!」
 エアーは眉をあげた。ヴィアはエアーの目の前に据え置いた細剣を少しだけ押し付ける。エアーの眉間から血が滲み出た。
「あなたはサリア・フィティを殺した」
「あぁ」
「あの人は、戦いの最中、恐怖で敵に特攻をしようとした私を、身を呈して護ってくれた。私の大切な恩人だったの」
「あぁ。俺が戦場で孤立したときに助けてくれたのもサリアだ」
「だったらどうして」
「俺が人殺しだからだよ。それが嫌になって殺さないための技を覚えたんだ」
 ヴィアが少しだけ緩めた剣を、エアーは手の甲で払った。今でもやはり万全ではないらしい体を重そうに持ち上げて、ヴィアの前に立った。
「それが贖罪になるとは思っちゃいねぇよ。俺の自己満足だからな」
「私もエアーを殺したところで、サリアが喜ぶはずがないことも知ってる。私の気も晴れないことも」
「そうか」
 エアーがため息のように息を吐き出す。
「だったら俺を生かしておいてくれよ。死にたかったのは確かだが、やることがあるらしい」
 ヴィアがエアーを睨み据えて、少しの時間。
「……わかったわ。生かしておいてあげる」
 応えて、ヴィアは細剣を鞘におさめた。
「私も少し、反省したいから」
 親衛隊としてではなく、自分の憎しみでエアーを殺そうとしていたことを。まるでウィクが殺されようとすることを待っていたようだ。
 カランの言うように、暗殺行為を野放しにするのは確かに有効なのかもしれない。けれどもし護りきれなかったりしたなら、ウィクの命が危険にさらされる。確かに事務的には有効なのかもしれない。それでも、ヴィアは嫌だった。しかし自分はずっと同じことをしていた。ウィクを餌にしていた。
「……ウィク様」
 ヴィアがウィクの名を呼ぶ。謝ろうと、思っていた。
『なんだい、ヴィア』
 いつものように、声が返ってくるのを待つ。
 けれど、待っても答えがない。
「ウィク様」
 ヴィアは周りを見渡した。しかし暗がりでよく見えない。
「ウィク様は?」
 急いて、問うた。
 エアーとカランは目を合わせて事態を察知する。ティーンやデリクは訝った。
「お前とともにいるのではないのか」
 ティーンが問えば、ヴィアが眉間に皺を寄せた。
「私が一緒に来たのはアタラ。あなたたちと一緒にいないの?」
「カラン」
「悪い。油断して目を離した。俺が最後に見たのは城壁に入る少し前だ」
「あそこは見晴らしのいい場所だ。隠れる場所はないぞ」
「あぁ。だから油断した」
「気になってきてよかったみたいね」
 至極冷静に声を上げたのはアタラ・メイクル。
「瞬間移動する魔法はかなりの魔力を使うからほとんど使われない。わざわざ使ったから何事かと思った」
 ウィクの行く先を示す希望になるアタラの言葉に、全員が耳を傾けた。
「魔力の痕跡で追跡できそう。移動はできても痕跡の消し方は二流だ。私の実力じゃない」
 言って、アタラが走りだす。階段の上へと。全員がアタラに続いた。
 城壁の上には、天馬が一匹。怪鳥が一羽とまっている。
 開けた空は十番目の月と黄金色に輝く星々。すぐ近くには巨大な山が聳えている。
 アタラは城壁の外を見た。
「――軌跡が見える。山の中。バーダ、少し私を連れて頑張ってくれる?」
 バーダと呼ばれた怪鳥が機嫌良く鳴いた。聞いたアタラがニコリと笑う。他人には絶対に見せない表情だ。
「行きましょう、バーダ」
 両翼を広げてバーダが飛びあがる。アタラが城壁の近くまで歩み出したところで、アタラの両肩を掴んで空へと舞い上がった。
「アタラを追うぞ、ユーガ」
 ティーンが鋭く告げた。直後。カランがユーガに近づいた。
「ユーガ、レジャーに乗せろよ。お前の後ろ、弓士乗せたことあるか?」
「え?」
「必ず助ける、だろ」
「は……い? あ、はい! レジャー!」
 思い切り虚を突かれてユーガが躊躇したものの、カランは有無を言わせなかった。
 ヴィアは少し撥が悪そうにエアーを見た。
「リーの背中、貸してあげる。特別に」
 今度は虚をつかれたのはエアーだ。
「いや……男は天馬に乗れねぇだろ。デリクはともかく」
「私が手綱を握れば何とかなると思うわ。……空からの特攻、経験有るんでしょう」
「そりゃまぁな」
「だったら、躊躇しないで乗りなさい!」
 言って自分はさっさとリーに跨る。エアーはティーンに肩をすくめた。
 ティーンは「行け」と。
「私はヴィアの後始末をしておく。ついでに可能なら続く」
「いいのかよ、ティーン」
「あぁ、お前たちに頼んだ」
 それは信用にも信頼にも勝る。親衛隊員の間にある何かの繋がりであるようにも思えた。
 ウィクを中心として成り立つ関係。ひどく不安定だけれど、確かに存在する繋がり。
 それはおそらく守るのだという意思だ。共に生きた三年間という時間だろう。
 デリクは微笑を湛えるとセフィを呼んで、自分もアタラに続く。ヴィアの後ろに恐る恐るエアーが乗れば、リーは遠慮なく空へと舞い上がった。
 声を上げたエアーにヴィアは微かに笑って「変なところ掴まないでね」と告げる。エアーは苦笑を浮かべて「恐れ多すぎるだろ」と。
 本当は、と二人の会話を耳にデリクは思う。
 ヴィアの憎しみも、エアーの迷いや恐怖も。仲間を信頼しているからこそ表に現れてきたのかもしれない。
 溝は溝のままだけれど、その溝を満たす、確かな何か。
 たとえば、共通の意思。
 故にこそ彼ら彼女らにとって、ウィク・ウィアズは大切なのだと。
  


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