「まぁたカタン最高等兵士と喧嘩しただろ。いい加減にしろよ? あの人がいなきゃ、お前総司令補じゃないんだからさ。下手すると高等兵士でもない」 不意に聞こえた声に、エアーは目を開けた。聞こえるはずのない声だった。目の前では消えかけた焚き火が弱弱しく燃えている。 (寝てたのか……意外) 焚き火の炎を復活させようと、燃えやすそうな薪をくべた。焚き火のまわりには本来の番であるユーガが至極気持ちよさそうに眠っている。 次の町まであと一日かかるらしい。 ぱち、と炎がはぜた。火が再び活力を取り戻してくる。 「……ったく、エリクの馬鹿野郎。あんなの喧嘩のうちにもはいんねぇっつーの」 誰も聞いていないことを見越して、つい口に出して答えた。 「つーか、カタン・ガータージでもなかったろ。……なぁ」 焚き火を見ると、エアーはなぜかカタン・ガータージ・デリクを思い出す。火の番をよくしていたからもしれない。 薪をくべて、エアーは焚き火を半眼で眺めた。弱弱しくも、徐々に燃える赤い火。 (ただ、同じように、甘い、甘い、人間だっつーだけで) ただ、同じ血が流れているだけで。 ■□■ 巨大な山のふもとに、その街はあった。 バチカから森を抜けて数時間、馬を歩かせながらたどり着いた町は、マウェート王国の領土の中にありながらウィアズ王国の町である。というのも先の戦争、終戦直前にウィアズ王国はこの街――ティルグを制圧した。調印ではほぼ押し通す形でティルグを自領にした。なぜそこまでと問えば、答えはこの街の隣に、プラ・ヴィーンがあるからだ。 ティルグの上空には、多くの天馬や竜が飛んでいる。「 「あれは……シリンダかな」 ティルグ上空にいる竜騎士の一人を示して、ウィクが呟いた。隣でティーンが目を細める。 「おそらく。今ティルグ駐留は第一大隊のはずです」 「じゃあ隣はレッカだ」 「当たりです!」 上空から嬉々として声が降ってきた。ユーガのものだ。ユーガはレジャーから飛び降りると、至極嬉しそうに馬上のウィクを見上げた。 「父も母もきっと喜びますよ! 会いに行きましょう!」 この男、本当に少年時代から性格が変わらないのか。至極純粋に嬉しそうに、ウィクを見上げる。ウィクは苦笑するしかない。 「二人も忙しいだろう。どうやら模擬戦の最中らしいからね、後から行こう」 「そうかもしれませんが……」 「私はいいから、ユーガは先に会いに行くといい」 「本当ですか! ありがとうございます!」 勢いよく頭を姿を下げて嬉しそうにレジャーを呼んだユーガを見れば、誰が嘘だと言えよう。ウィクは思わず笑い出すと、降りてきていたデリクを見やった。 「デリクも行ってくるかい?」 「いや……」 デリクも失笑を湛えていた。ユーガが「夕方前には合流しますから」と叫びながらティルグの上空の竜と天馬の群れの中へと消えた。デリクはユーガを少しだけ見送って、ウィクに向かって肩をすくめて見せた。 「あの様子では」 「追いつくのも大変そうだ」 ウィクが愉快そうに笑って、ティルグの高い城壁を見た。「さぁ」と、軽く馬を歩かせる。 「ティルグに入ろうか、デリク」 「あぁ……あぁ、だが、私は後で少し行くところがある。私も夕方に合流しようと思うが……」 「構わないよ。私も行かなくてはいけないところがある」 デリクが訝れば、ウィクはにこりとデリクに笑いかけた。それからティーンを見る。 「今のティルグでは、私の警護はカランとエアーがいい。他のみんなは自由にティルグを見て回るといい」 「そうですね……一応は第一大隊に自分の小隊がある二人ですから、ついでに強要にもいいでしょう。カランもエアーも、いいな」 「おう」とあまりやる気のない声でエアーが答えて、カランは至極当たり前の顔でうなずく。デリクがぴくりと顔を動かした。 「……小隊長と親衛隊を兼務しているのか?」 「うん、ユーガ以外はね。だから実は全員が集まっている時期はあまりないんだよ。デリクは運がいい」 「いい、と言えればだがな」 短く失笑して、デリクはエアーとカランの姿を見た。エアーが城壁を見上げて軽く嘆いている。「どうした」とデリクが問えば、エアーは「別に」と軽く肩をすくめた。 パカ、パカ、と馬の歩く音が止まって。 目の前に巨大な城壁が聳え立つ。大きな門の上には剣士と弓士が二人ずつ控えていた。 「うわっ、うわっ、ちょっとちょっと!」 剣士の一人がウィクたちに手を振って声を上げた。 「ウィク様に、隊長たちじゃないですか!」 「マジだ! ユーガ高等兵士飛んでったからまさかと思ったけど、親衛隊全員いるじゃないですか!」 「すっげー! いらっしゃーい! ティルグへ!」 ウィクたちは何も言わないまま、ティルグの城門が開く。デリクがもう一度エアーを見やれば、エアーは「剣士は気さくなやつが多いんだよ」と、撥が悪そうに目をそらした。 張り切って城壁の上を行き来する四人を見やり、カランは短く息を吐いて笑った。 「弓士も巻き込まれてるよな」 「許せよ、あいつら特にうるさいやつらだから」 「あぁ。別に叱るつもりない」 言ってカランが馬から飛び降りた。エアーも愛馬をなだめながら馬下に降りる。ヴィアも上空から降りてきて、全員がそれぞれに城門をくぐった。 ティルグは城壁に守られた大きな街だ。大きな道に、木で作られた家々が並ぶ。山中まで続くティルグの巨大な城壁は、マウェート王国領時代もあったが、ウィアズ王国が占拠してから大きく増築された。 道行く人のほとんどはウィアズ王国軍人だ。かつてティルグに住んでいたマウェートの人間は半数ほどがマウェート国内に出た。ティルグに住み続けている人間も、まだ慣れないことも多いのだろう。あまり見かけない。 日差しのいい日だった。青い空、高い山々にも雲ひとつかかっていない。遠くまで続くレンガの道が、明るく照らされている。 「さてと」 一行の背後でティルグの城門が閉じた。 ウィクはカランとエアーに振り返って、ニコリと笑う。 「黙って出てきたとはいえ、礼儀だからね。挨拶に行こうね」 それぞれに乗る気のしない二人である。 「どうしたんだ? 旧知だろう?」 「そりゃまぁ……ん」 唐突にエアーが剣を抜いた。刹那に薙いだ剣は、矢をひとつ叩き割る。 「いきなりかよ。おい、カラン」 「紛れ込んだな」 カランが弓を持った。弓を持った手で、額の布を上にずらす。 再び、今度は別方向から矢が――やはり、エアーめがけて飛んでくる。エアーは無造作に矢を叩き落とした。 「御指名らしい――ってっ!」 エアーが矢を叩き落としたのと、ほぼ同時だった。ウィクめがけて矢が多方向から飛んでくるのが、見えた。だが今はティーンもヴィアもアタラもいた。特にティーンは常にウィクに対しての攻撃に備えていたから、ウィクを護るのに造作ない。ウィクを護ってさらには長剣を盾にした。ティーンに矢がかすりはしたが、ウィクにはかすり傷ひとつない。 ――だが、安著もできなかった。 今度はすべての方向から同時に矢が飛んできた。訓練された動きのようだった。 カランが一方行へ向けて矢を放つ。アタラが息を吸った。 「シールド」 アタラの静かな短縮詠唱ののち、魔法の壁に阻まれて、矢が全て消えうせる。 ウィクはアタラを見て「ありがとう」と苦笑を浮かべた。 「どうやら安心はできないようだね」 「はい。ここは私が護ります。そこの二人を指名されましたけど、高等兵士にではなく、自分の隊員に会わせた方がよさそうですから」 「アタラの意見に賛成します。アタラと私が、しばらく」 恭しくティーンが頭を垂れれば、ウィクが困ったように笑う。ティーンは顔をあげると、ヴィアを見た。 「ヴィア、ユーガに伝言だ。ウィク様を護るんだろう」 「了解」 答えて、ヴィアは颯爽とリーに跨って上空に消える。 ウィクはヴィアを見送って、ティーンとアタラに苦笑のまま「うん」と。 「わかった。頼んだよ、ティーン。アタラ」 ウィクの視界の端でエアーとカランが別々の方向へと歩き出した。エアーは無造作に自分が叩き落とした矢を拾うと、短く鼻で笑って他方へと捨てた。そして一行の前をただ歩いていたにも関わらず徐々に離れ、遠くの通りへと消えたのである。 ティルグの街の真ん中には、大きな時計塔がある。大きな時計に、大きな鐘。回りに花壇があって、憩いの場としてベンチもいくつか置かれている。 ティルグは面積がとにかく大きい。ウィアズ王国王国軍のほとんどが仮住地にしているのは、ティルグの最奥にある山の斜面だ。元々はただの山だったものを開拓した故に、山にある家だけはウィアズ王国の形式によく似た形の家が並んでいる。 道のりの丁度真ん中に当たる場所で、ひとまず休もうということになった。時間帯もよくないから、すぐ行っても無人だと言うことになりかねない。 ウィクは時計塔を見上げ、その上の天馬と竜を見る。 「プラ・ヴィーンはここからすぐにあるのかな」 「えぇ」 ウィクの問いに答えたのはアタラだ。終戦直前、ティルグを占領したのはカランが率いていた当時の第二大隊だ。アタラは当時カランの総司令補としてティルグに赴いた。 「ここから徒歩で二時間ぐらい離れた山の中に」 「本当に近いな。別世界かと思っていた」 「私もここにくるまでは別世界かと。天馬詩があるでしょう。あの詩が実話だとも思っていませんでしたから」 アタラは淡々と答えて辺りを見回す。 唐突に風を切る音が聞こえたと思ったら、レジャーに跨ったユーガ・ライトルが広場に降りてきた。 「ウィク様っ、無事ですかっ」 レジャーから飛び降りてウィクに近づく。ユーガは肩を上下させている。相当急いできたらしい。 ウィクはユーガを見ると声をあげて笑う。 「あははっ、ユーガ。無事じゃなかったらこんなのんきにはしていないよ」 「エアーさんは?」 「エアーなら自分の隊に行っているはずだよ。どうしたんだい?」 「エアーさんが造反するって噂が流れてて」 「まさか」 ウィクはけらけらと笑った。ユーガは不服そうにウィクを見て心持ち顔を膨らませた。 「噂です。なんか怪しい弓士と話してたのが見えたって言う竜騎士がいて」 「弓士と? でもどうしてそれがエアーの造反に繋がるんだい?」 「俺もそれ訊いたんですけど、エアーさんには前科があるからって、その人が。それがどんなのかは、父が止めたので聞けなかったんですけど」 「前科?」 ウィクはちらりとティーンを見やった。ティーンはウィクの視線を受けてか否か、「ユーガ」と、声をかける。 「ヴィアはどうした」 「ヴィアさんなら、その話聞いてエアーさん探しにいったよ。なぁ、なんなんだよ、前科って」 「それを聞いてどうする」 「……なんか気になるだけだけど」 「興味本位で首を突っ込むな」 ちぇ、とユーガが舌打ちした。言われることはいつも尤もなので、ユーガは否定しない。 「わかったよ。どうせいつもの悪口だろうし」 エアー・レクイズは天空隊にことさら人気がない。ユーガも不思議に思っているのだが、天騎士たちはまるで自分たちにも死を招くような口調で蔑称する。『死呼鳥が』と。 実際にエアーに会った時、ユーガは「どうしてこんな人を」と思った。確かに飄々としていて剣士としてかなりの腕ではあったけれど、侮蔑をこめて呼ぶほど悪い人間のようには思えなかった。兵士である以上、敵兵を倒さなければならないのは誰も一緒であるはずだったから。 ウィクが立った。ニコリと笑うと、ユーガを見た。 「さあ、ユーガも合流したことだし、先に進もうか。デリクと合流するまでに、私たちの用事も終わらせておきたいからね」 ウィクの変わりない笑顔を見つめて、だからこそ竜騎士が言ったエアーの前科が気になるのかもしれないと、ユーガは少し思った。 山へ続く道が荒れ始めた場所に彼はいた。 高等兵士たちが寝泊まりする宿所は最奥にあって、敷地内に簡易の集会所があった。集会所近くの岩に座って、エアー・レクイズは空を見上げていた。 先に気が付いたのはエアーだった。歩く音に反応して視線をウィクたちに向ける。ウィクたちを見つけるとわざとらしく立ち上がって、埃を払った。 「いらっしゃい、ウィク様」 「こんなところにいたのか。マーカーは捕まったかい?」 「いや、天空隊以外で会議中です。巻き込まれるのも面倒なんで、待ってたわけですよ」 エアーが飄々と笑う。ウィクは「そうか」と、呟くように答えた。 「邪魔をしては悪いかもしれないけれど、私は行くことにする。エアーも行こう」 「遠慮しますよ」 答えてエアーはポケットに手を入れた。軽く地面を蹴ると、先ほどまで自分が座っていた岩に着地してしゃがむ。 「せっかく副官が仕切ってくれてんです、楽させてもらいますよ。――あぁ、でもティーンは挨拶に行ってこいよ? 『第三魔道士隊長』もいるからよ」 ティーンが嘆息する。第三魔道士隊長はトア・サーという女性だ。ティーンと揶揄されるような関係ではないが、何故か噂にされることが多かった。故にエアーは言うのだろう。ティーンもいちいち否定するのも飽きていた。――というよりこういう類の、噂でからかわれる行為に昔から慣れていた。 「入りもせずによくわかったな」 「まぁな。あそこ防音なってねぇってトアに言っとけよ。中にいるのはフィンクス・ルアララに、ミレイド・テースク、トア・サーと、うちの副官マーカー・クレイアン・サー。近づいただけでバレバレ」 ウィクが失笑した。おどけたように肩をすくめるエアーを見やって、止まっていた足を進める。 「わかった。早く終わるように言っておくよ」 「さっすがウィク様。ありがとうございます」 やはりエアーは飄々と笑う。 「あ、そうだ、エアーさん」 ユーガ・ライトルは天騎士たちに人気がある。正式な兵士になって日が浅いにも関わらず高等兵士になったことを羨む声もあるが、実力が抜きん出てある。当然だといえば当然の結果だと受け入れられた。さらには真直ぐで素直な性格は快く人々に受けいられる要因にもなった。 「あ?」 それは親衛隊の人間にとってもだった。エアーも例外ではない。親衛隊がユーガをいじめるのはまるで、弟を可愛がる兄弟たちのようにも見えた。 「ヴィアさんに会いませんでした? エアーさん探すって言ってましたけど」 「あぁ、来た来た会った会った。なんか文句っぽいこと言ってたぜ。適当にあしらったらいなくなったけどよ」 「それですよ! 天騎士の間で、エアーさんが造反するって噂流れてるんです、気をつけてください」 「俺が、造反?」 エアーが失笑した。 「してどうすんだ。ったく」 「笑い事じゃ! エアーさんは面子とか対面とか……評判とか。そういうもの気にしなさすぎです。だから、」 「はっ!」 一声、エアーが大きく笑った。ユーガが驚いて口を止める。 エアーがゆっくりとユーガを睨んだ。 「うるせぇよ」 ――寒気が。 殺気だと思えた感覚が、目の前の人間から自分に向けられたものだとユーガは知った。ユーガは息をつめて愕然とする。ユーガにとって初めて見るエアーの顔だった。 「そういうことは、お前だけが言ってりゃいいだろ。俺に押し付けるな」 「な……っなにを、いきなり……っ」 「……」 エアーはしばらくユーガを見つめたあと、撥が悪そうにゆっくりと目を逸らし、目を閉じた。大きく息を吐けば、張りつめた空気が幾分か和らぐ。 「悪い……」 言って、岩から飛び降りる。ウィクたちも立ち止まって振り返っていた。 エアーは全員の顔を見た。 「ホント悪かったですよ。待ちくたびれてイラついてました」 「そうか」 ウィクがニコリと笑った。 「ユーガ」 「……はい」 いつも元気に答える声がしぼんでいる。ウィクはユーガに微笑を向けた。元気になってほしかった。 「私を護ってくれるね」 「はい、もちろんです」 少しだけ元気な声でユーガが振り返って答える。 「じゃあ、いこう」 「はい!」 ユーガが元気よく踵を返した。 そのまま集会所の中に消えていく四人の背中を、エアーは黙って眺めていた。 ウィクたちが完全に集会所に入って少し後。 エアーは踵を返した。 (せめて近づくな……か) ウィクに向けられた刺客から、直接コンタクトをとられたのは初めてだった。セイトがエアーに向かって明らかに命令したことがなかったからだ。 けれど殺してほしいと言っているのはわかっていた。直接言われないことに甘んじていることを、セイトは知っているだろう。だからセイトも甘んじさせた。 だが先代の王が死んだ。 今はセイトが国王だ。 危険分子は排除しなければならない。権力が分散してはいけない。今は国を休ませて豊かに導いていくべき時だ。 ウィクにその気がなくても、膿は必ず生まれる。 (国のために……か) 歩きながらエアーは空を見上げた。 雲ひとつない真っ青な空。 この空を“ウィアズ王国の青”と人は呼んだ。――友が愛した空の色を。 ウィクたちが集会所の中の面々に挨拶を済ませて外に出ると、すでにエアーはいなかった。そろそろお開きにしようと思っているんですと、四番隊長のミレイド・テースクが言っていたから、エアーにも伝えようと思っていた。来ているのなら会いたいのだとも言われた。 ウィアズ王国軍は、三つの大隊からなる。大隊一つは、単種の士が集まった小隊が六種類あって、隊名は番号になる。一番隊の隊長は大隊の総司令、二番隊の隊長が総司令補。三番隊の隊長は、一番隊か二番隊の隊長が失われたときに総司令補となる。番号の順番とは、隊長が総司令になる順番といった具合だった。 本来、第一大隊はカラン・ヴァンダが一番隊隊長、総司令を務めていた。だが親衛隊と兼務となったので今は三番隊隊長となっており、一番隊は竜騎士のシリンダ・ライトル。二番隊が天馬騎士のレッカ・ライトルだ。大隊を指揮する主要が天空隊だけとなってしまったので、地上隊は三番隊の人間が主導を取る。だがやはり三番隊のカランは常任していない。おのずと四番隊の騎士ミレイド・テースクが地上隊の主導を取る形になっていた。 彼に言わせれば、目立つ気がない上に、もともと自分たちの主導を取っていた人間を指揮下に置くのは居心地が悪い、らしい。相手が最高等兵士もいるとあって、ミレイドの気苦労は想像するだに悲しい結果になっている。 「あの、不思議に思ったんですけど」 一行は街に降りることにした。馬を借りてこようというティーンの申し入れを、ウィクはやんわりと拒否した。歩いて行こう、と。アタラも同意した。――そも、アタラは馬に乗れないのだけれど。 「なんだい、ユーガ?」 「今さらかもしれないんですけど、皆どうして、わざわざ王国軍と親衛隊兼務なんです? 集会所見てても、周りが大変そうでしたけど」 「私も王国軍に所属しているのもあるよ。それにたぶん、たまたまなんだと思う」 「たまたま、ですか?」 「うん。そうじゃないかな、ティーン。アタラも」 「えぇ」 答えたのは、アタラだ。 「ヴィアを誘ったのは私ですから。カランも聞くところによると自分から入ると言ったようですし、ティーンは秘書でもあるからでしょう」 「そうだ。一度に高等兵士の多くが王国軍から消えるのは、防衛上の危険があったから兼務になったんだ。随分大きな編成替えになってしまったがな」 ティーンの言葉に同意するように、アタラが静かに肯いた。ユーガはきょとんとしている。 「そんな状況で、よくアタラさんもヴィアさんも、許してもらえましたね」 「実力行使しただけ」 しれっとして、アタラ。目線は前を見たままだ。ユーガはアタラの顔を見て、心持ち苦笑を浮かべた。 「でもエアーさんはどうだったんですか? 知ってます?」 ユーガが必死になって話題を続けた。いつもならよく受け取る相手がいるのだけれど、アタラとティーンでは、なかなか会話が続かない。アタラはユーガの様子を見て、短く失笑した。 「丁度よかったんでしょ。高等兵士だけの隊に入った中等兵士は悲惨でしょう?」 丁度一番年若のユーガのように、とアタラは続けなかったけれど、意味は通じた。ウィクは苦笑する。 「エアーはね、セイトが是非にと本人に言ったらしい。受けてくれたんだとセイトが喜びながら私に報告してくれた」 「セイト様が?」 「うん。セイトはエアーを気に入っているからね。少しでも近くに置きたかったんだと思う」 そしてユーガは、とウィクは続ける。ユーガが不思議そうにウィクを見た。 「竜騎士たちだけじゃなく、騎士からも推薦があった」 「え、そうなんですか?」 「うん。ティーンの近くに賑やかな人が一人はいないと大変でしょうって、とある騎士がね」 言ってウィクは悪戯に笑った。ティーンが頭を押さえた。 「発言は、先ほど会った人間ですか」 「うん、当たりだ」 くすくすとウィクが笑う。 「なんでも、ユーガの話は天馬騎士たちの噂話から、だって。彼らしい」 聞いたティーンがますます頭が痛そうに頭を押さえた。先ほどまで会っていた人間の中で、騎士はただ一人。ミレイド・テースクだ。ティーンはミレイドとは同じ騎士で高等兵士寮では同室、さらには昇格した年が同じだ。ティーンにとってはあまり気兼ねしない人間の一人に今はなっている。 「なんか、釈然としませんけど……」 「ミレイドの言うことは気にするな」 「うん……そうする」 でもやはり釈然としない様子で、ユーガは顔を膨らませた。少しだけ口を閉じて他方を見たのち、不意に思いついたように口を開いた。 「あ、それにしても。エアーさんの入隊ってセイト様のご命令なんですね」 言ってユーガはウィクを見た。ウィクの少し後方を歩いていたのを、飛び跳ねるようにウィクの横に並ぶ。 「じゃあ造反なんてしないですよ! さすがにエアーさんでも、今や陛下の命令に反したりしないでしょうし……信頼裏切ったりするわけないですよ。なんたってウィアズ王国軍の、高等兵士ですから」 なんだ皆、とユーガは思う。事実を知ればいいのにと。 それでもユーガの笑いは乾いていた。――無償に不安だったのだ。口に出して確認してしまわなければならないほど。 怒鳴られた瞬間に感じた感覚が、まるで噂を肯定していたように感じられたから。向けられた殺気が、ただの待ちくたびれた苛立ちではない、本物の殺気のように。 ウィクはユーガを見やって、目を細めた。 セイトの信頼を裏切るはずがないという。 信頼を裏切らないエアーが、いつまでもこのまま傍にいるはずがないと、ウィクも不安に思うのだ。 陽が沈む。 夕方だと言われる時間はもう過ぎた。間もなく夜闇が訪れるだろう。 エアー・レクイズは先ほどまでいた酒場から外に出た。――とはいえ、多少飲みはしたがもともとがザルである。全く酔えなかったし、途中で何故かミレイドに捉まって仕事の話をすることになった。酒が飲めない人間が多い親衛隊の面々から逃れるように酒場に入ったのに、今度は仕事の話から逃げるように酒場を後にした。 仕事は嫌いではない。 むしろ仕事以外何をしたらいいのかわからない人間だと称されたことすらある。 ただ何が嫌で逃げだしたかといえば、ウィクに許しをもらってここに残れとしきりに言われたことだ。 本当は歓迎したいほどありがたい申し出だった。長い付き合いの男だから、断り通した自分の心境も見抜いているだろう。 溜息をついて、エアーは首を落とした。ティルグはウィアズ王国本土にいるよりも、やはり寒い。 「エアー高等兵士。稽古をつけていただきたいのですが」 不意に物影から声をかけられてエアーは顔をあげた。聞き覚えのない声だ。 立ち止まって目線を送る。 「俺か? もの好きもいるもんだ」 「今からご足労願えますか」 「願えるかもなにも、頼む気もなかっただろ」 カチャリと、と背中のすぐ後ろで音がする。鋭い切っ先が背中に当たった。 エアーは大げさに両手を上げてみせる。 「何の遊びだ? 普通に頼めば普通に相手してやるっての」 「私はあんたと遊びたいわけじゃない」 エアーは長くため息を吐いた。面白みもない答えだなと思う。 背中に剣をあてている人間は、遠慮している。わかるが、別段今すぐこの状況を無理に抜け出そうとは思わなかった。いつでも抜け出せることさえわかれば充分だった。 「で、どこに行くって?」 「こちらです。あなたをとある方に勾留していただこうと思っています」 「はいはい。好きにしろ」 至極軽く答えてゆっくりと、物影から声をかけた男について歩く。 「で、勾留ってのは、何の聞き間違いだ」 「勾留で間違いありません。あなたに造反されるわけにはいきません」 「はぁ?」 少しだけひらけた場所に出た。だが周りは壁だらけ。武器をもった人間が数人待ち構えていた。 「なるほど、お前ら天騎士だな」 案内してきた男が冷静に、ただ黙ってエアーに振り返る。エアーは失笑した。 待ち構えていた人間の一人が武器を外そうとエアーの剣に手をかけかけた瞬間、エアーは動いた。身を翻すと武器を外しにやってきた天馬騎士を足の裏で突き飛ばす。そのまま回し蹴りの要領で背中に当てられていた剣を蹴飛ばした。 ダン、と地面を強く踏んで、エアーは周りを見渡した。 「ユーガが言ってたな。俺が造反するって噂が流れてるそうだが、俺がして、どうするってんだ。そもそも噂ごときで動いてどうする。こりゃシリンダもレッカも大変だ」 「残る残らないって話してたじゃないか!」 「あれは俺が親衛隊から抜けてここに残って仕事手伝えって話だろ。勝手に話をつくんじゃねぇよ」 「あんたには前科がある!」 「前科? お前ら、それを口に出す覚悟はあるんだろうな」 声が、止んだ。 「高等兵士たちが公然と闇に葬った事件だ。蒸し返したときは、どうなるか」 「それは…… 声が再び上がった。――堂々と目の前で呼ばれたのはいつ振りだろうと、エアーは思う。再び聞いてみれば妙な響きのある呼び名だ。 「もたらした死が自分のせいでなければ、死呼鳥はいつまでだって飛んでいられる!」 「俺がもたらした死は、すべて俺のせいだ」 たとえ、と。エアーの声から感情が失われていく。軽く失笑し、目を細めた。 「命を賭けてそれをもみ消されても、真実は何も変わりゃしない。だがな、命を賭けてもみ消されたものを、渡されたものを、」 言って、エアーは思い出した。――本当に死にたかったことを。 マウェートとの最後の戦い。殿として戦い、深手を負ってバチカに取り残された。あのまま死んでもおかしくなかったものを――あのまま終戦とともに死んでしまいたかったものを、助けたのはカタン・ガータージ・デリクだった。前日にエアーに最愛の人間を殺されていたにも拘わらず。 本当に死にたかった自分が、死んではいけなかったわけ。 「――ただで蔑ろにするわけにはいかねぇんだよ。カタン・ガータージにかけても」 カタンの名前が出た瞬間。周りから非難の声が高まる。誰のせいでいなくなったと思っているのかと。エアーは耳半分でそれらの雑言を聞きながら、目の前で死んでいったクレハと、親友の――エリク・フェイの顔を思い出した。 二人は、笑っていた。最期に、自分に笑いかけた。 今ならできるだろうか。彼らと同じことが。 「感謝する。目ぇ覚めたわ」 ジリ……集まっていた人間がそれぞれ臨戦の格好を取る。空気が張り詰めた。 「居心地が良すぎて忘れてたんだ」 その中央で、エアーは半眼になった。剣を傾けて、抜きやすい位置にする。 「俺は、闇から生まれたせいで死ぬこともない死呼鳥」 エアーは剣を少しだけ抜いた。いつでも抜き放てる位置に握る。ゆっくりと周りを見た。至極冷静な目で。 「誰からでも、何人がかりでも相手してやる。理由はなんでもいい。かかってこい」 まずは一人、声をあげて剣を振り上げる。エアーは少しだけ体勢を変えて剣を抜き放つ。 スパン、と。砂鉄が鉄の上を滑るような音とともに快音が響いた。すぐ後に半分になった剣が地面に落ちる。 鉄で作られた剣を、鉄で作った剣が斬れるはずがない。常識を超えた技は、エアーが終戦後に血の滲む努力で身につけた驕りの剣。手加減が下手なエアーの、殺さないための剣。 「本気で相手してやる。命かけて」 声に、“親衛隊エアー・レクイズ”の姿はない。 世界でも奇異とされる赤紫の瞳。“紅”と名付けられた愛剣の、仄かな赤色の刀身。 表情を全く変えることなく敵を倒す姿はまさに、戦時中の“死呼鳥”の姿だった。 ■◆□ ティーン・ターカーは宿の一階にいた。何故かといえば、今日はティーンが警護当番だからだ。エアーを抜かした全員で食事をとり、各々が部屋に戻った。カランはどうやら副官のフィンクスから預かってきたらしい書類を部屋に持ち込んでいて、アタラとユーガはティーンたちと交代で警護につくから、今は休んでいる。ティーンと同じく当番のヴィアは外の警戒に余念がない。宿の一階、エントランスにはティーンしか人影はなかった。 宿をとろうと言ったのはウィクだった。デリクも一緒だから、と。王国軍の宿所を使えるにも関わらず、非番のカランも黙ってついてきている。 「ティーン、ご苦労様」 二階の部屋からウィクが出てきた。吹き抜けの二階の廊下から顔を出して、一階のティーンを見下ろす。 「落ち着きませんか」 ティーンは座ったままウィクを見上げる。ウィクは「そうじゃないんだ」と。 「さっきデリクと話したんだけれど、明日はプラ・ヴィーンに行こうと思う」 「はい」 「それをね、皆に伝えておいてくれないかい? もちろん明朝でもかまわないけれど。明日も早くに出たいからよろしくお願いするよ」 「わかりました、伝えて来ましょう。他には」 「ううん、何もない」 ウィクは答えて微かに、ニコリと笑った。ティーンは立ちあがると、何気なく出入口を見やった。――動く気配はない。宿の中はランプの明かりで薄明るいけれど、外はほとんど真っ暗になってきてしまった。 「エアーは戻らないかな? 宿の場所を伝えていないから、見つけられないだろうか」 「調べは付くでしょう。それほど無能ではない人間です」 「うん。でも、戻らないんじゃないかな」 ティーンが眉をあげた。ウィクは苦笑する。 「非番だしね。会いたい人もいるだろう」 「しかしあれも親衛隊です。来なければ責務放棄です」 「厳しいな、ティーンは」 くっくと、喉を鳴らしてウィクが笑った。ティーンはランプを持ち、ゆっくりと歩き出した。ぎし、ぎし、と階段がきしむ。 「ねぇ、ティーン」 「はい」 「本当に、エアーは戻ってくるかな」 「はい。何度も言うようですが」 「でも、彼が親衛隊に入った理由って、本当に何だろう」 ティーンは訝った。ウィクはティーンを見て、ニコリと笑う。 「何故かな。焦ってたエアーを見て、なんだか気になったんだ」 「ウィク様」 「いいんだ、答えはどうでも。口に出して訊いてしまいたいだけだったんだから」 「ウィク様」 再びウィクの名を呼んで、ティーンが一息ため息をついた。直線の廊下の上、ウィクはティーンに背中を向けた。 「我々がいます」 「……うん。ありがとう」 本当にありがたいのだ、とウィクは思う。 守ってくれなくても、特別に何をしてくれるわけでなくてもいい。 ただ傍にあるだけで、本当にありがたかったのだ。 ウィクが部屋に戻ってしばらく。ティーンが親衛隊の面々に目的地を告げ、戻ってからしばらく。エアーが宿のドアを開けて飄々と入ってきた。どこで何をしていたのか、姿を現したのは集会所の前で会った昼以来だ。 「よぉ、ティーン」 「……戻ってきたのか。随分と遅かったな」 「あぁ。まぁ色々あった」 言って、エアーが頭をかく。――かいた手に、布が巻きつけられていた。ティーンは目ざとく見つけると、眉を顰めた。 「何がある」 「ん? あぁ、これか。久しぶりに稽古してきただけだ。怪我してるわけじゃねぇぜ、よく間違えられるが」 「知っている。最近それをつけなかったこともな」 「なら話は早い。ウィク様はどこにいるんだ?」 「……二階の自室に戻っている」 言われて、エアーが二階を見上げて微かに目を細めた。 「そうか……ティーン」 呟くような、哀愁ある決意の声。ティーンはぴくりと眉を動かして、エアーの顔を見る。 様子がおかしい。 エアーはティーンを見ると、ニコリと笑った。 「悪いな」 「……何だと?」 エアーが鋭く踵を返して唐突に走り出した、瞬間、ティーンも椅子から立ち上がって後を追う。 けたたましい走る音が宿の中に響く。エアーは真っ直ぐにウィクのいる部屋を目指した。言われなくても知っていた。ウィクの部屋がどの位置にあるかは。 エアーは迷わずウィクがいる部屋のドアを開けると、剣を抜いた。 一瞬だった。 ウィクは窓際に座っていて、立ち上がることもままならなかった。気が付いたときには首元でエアーの剣が止まっていた。 エアーの顔に表情はない。ウィクはこの顔を知っている。ただ真っ直ぐに向けられた赤紫の瞳の中、ウィクは息を呑んだ自分の姿を見た。 「ウィク様。ずっと気になっていたでしょう」 息を呑んだまま、答えられずウィクはエアーを見上げている。エアーが短く失笑する。 「俺が、なんでウィク様の親衛隊になったのか」 「まさか本当に……」 ウィクは表情を凍らせた。呼吸さえしていたのかは定かではない。 「えぇ」 答えるエアーにやはり、表情などなかった。 妙な騒がしさに親衛隊が集まってくる。だが状況を見て部屋のドア付近で足を止める。 エアーはちらりと背後を見て、鼻白んでみせた。 「これが理由ですよ」 エアーの手に力が篭ったのが見て取れた。――刹那、エアーが振り返って剣を薙ぐ。薙いだ後には矢が二本打ち落とされていた。視線の先に弓を構えたままのカランがいる。部屋のドアの前、直前までは相棒だとも称された相手を、鋭く睨み据えていた。 エアーは口角をあげた。 「流石だな、カラン・ヴァンダ。けど、相手が俺だってこと忘れるな」 数瞬のうちに二回矢を放ったカランも化け物ならば、他の弓士たちの矢よりも鋭いそれを二本とも剣で防いだエアーもまた化け物。 最高等兵士を相手にするなら、自分も気持ちだけでも最高等兵士でなければならない。気持ちで負けたら簡単に地に伏す。酒場から出たエアーを囲んだ天騎士たちのように。 後ろ手でエアーが窓を開けた。弓を構えたままのカランを見据え、エアーは現れたユーガをちらりと見た。 竜騎士ユーガ・ライトル。竜騎士四人目の高等兵士。 「永遠にお別れです、ウィク様」 あ、と誰かが叫んだ。 一瞬の後、エアーの姿は部屋になかった。開け放たれた窓がただ風を運ぶ。刹那の間だけ、虚しさが走った。 「許されると思うな……!」 ダン、とカランが強く地面を踏みつけた音が聞こえて全員の目線がカランに飛ぶ。カランは誰の顔も見なかった。すぐに窓辺へと駆けだす。 窓の外、遥か遠くを走る人影が見える。おそらく、とカランは思った。 ウィクもカランに並んでエアーの姿を確認すると、目を閉じて大きく息を吸い込んだ。拳に力をこめて、目を開く。 「後のことは頼んだよ、ティーン。少し出かけてくるから」 ウィクは地面を蹴った。自分の剣を取り、親衛隊の面々の間を通り抜けて風の如く。カランがそれに続いた。 「セフィ!」 デリクが部屋の中から叫んだ。馬の嘶きが答えて、窓の外に天馬が現れる。 デリクは窓の外のセフィに飛び乗ると、外に出ていたウィクに、上空から声をかけた。 「セフィの背中を貸す! 追いつくぞ、ウィク殿!」 「デリク! ありがとう!」 デリクが伸ばした手につかまって、ウィクはセフィに飛び乗った。セフィはウィクが乗ったのを知るとすぐに、天へ駆ける。 街に、静かな喧噪が訪れた。 親衛隊の人間が動きだす。 ヴィア・ハワーは一目散に外に飛び出した。アタラは至極ゆっくりと窓辺を眺め、ティーンも場所を確認するとすぐに踵を返す。 「ティーン」 ユーガ・ライトルは部屋の中、身動きせずにティーン・ターカーを呼んだ。ティーンは呼ばれてユーガを見、立ち止まった。 「どうした」 ユーガは窓の外を見つめていた。 「俺は、エアー・レクイズを処分する」 「あぁ」 答えるティーンの声はやはり冷静だった。 「その意気だ」 「止めないのかよ」 「私も連れて行け。町の路地を走られては馬では追いつけない」 「うん。……わかったよ」 聞いてユーガは乗竜レジャーを呼んだ。ティーンは軽くユーガの頭を叩く。ユーガはもう一度「うん」と、答えた。 誰もいなくなったウィクの部屋で、アタラはひとりため息をつく。自分の手の甲を眺めると、「イル・ゼン・デンブ」と唱えた。 願わくば、と。 ――しばらく飛んでいただろうか。辺りはすっかり暗くなってしまった。空には十番目の月。セフィの背に乗せてもらい、ウィクは上空からエアーの姿を探した。だがなかなか見つからない。ティルグにある多くの家は山形の屋根で、住宅地の細路地は視界を邪魔するものばかりだった。 (どこにいったんだろう……) ウィクは不安に駆られながらも街を見る。町には多くの兵士がいた。 「ウィク殿、この歌はなんだ?」 「歌?」 「風の音の中に混ざっているだろう」 言って、デリクはセフィを屋根の上にとまらせた。――確かに、歌が聞こえる。多くの人たちが楽しげに歌う声が。歌い終わるとそれぞれが賑やかに動き出す、何かを話し合いながら。 「今のは『空』だ。ウィアズ王国賛歌だね」 「人の気も知らずに楽しげに歌うものだな」 「うん。あぁ、今度は……」 聞いて、ウィクが眉をひそめた。――聞き覚えのある声に聞こえる。たったひとり、歌い出した声に徐々に声が重なっていく。おそらく『空』も同じように合唱されたのだろう。 「今度は、 「あぁ。良い声をする。惜しいものだ」 エアーの声だ。歌い始めはエアーで、重なった声は剣士たちのものだろう。もしかしたら別の隊の人間も混ざっているのかもしれない。 「もっと奥だな」 セフィが翼で宙を叩いた。天へと舞い上がり、先へ進む。 詩人の曲が終わると、街の中からひときわ大きな声で「探せ」と声が上がった。 「隊長が来てるらしい!」 「隊長が歌ってくれるのひっさびさだ! 次頼むのは俺な!」 「あ、待って! ずっるーい!」 街のあちこちで起こる同様の出来事に、ウィクは目を細めた。デリクは眼下でそれらを見ると、短く失笑する。 「どういうつもりなのか」 「……死者に捧げる歌だよ」 詩人、古い曲だ。 「死んでしまった人たちに月でもう一度会えるように、精一杯生きるよって、歌だよ」 そうだったな、と思う。 エアーはこの曲が好きだった。 思い出の曲なのだと言う、一度だけ聞かせてもらったことがあった。 「今度は……『帆に風を受けて』か。良い選曲をする」 デリクが短く笑った。歌に耳を傾けていられる状況ではなかったはずなのに、街の雰囲気にのまれて気が少し殺がれた。 「あそこだ。ウィク殿、降りるぞ」 路地の一角にエアーは居た。数名の剣士たちに囲まれていて、歌はまだ続いている。周りは至極楽しそうで、中心にいるエアーもつられて笑ってしまっている。 路地外にセフィが降りると、ウィクはデリクに一声かけて路地の奥へと走った。路地の突き当たりの場所で、エアーが振り向く。歌を止めた。 「あれ、ウィク様。何のこのこ一人で出歩いてるんですか」 今までと同じような軽い口調でエアーが言えば、剣士たちも歌っていた口を止め、ウィクを見た。 「エアーを迎えに。デリクもいるよ」 「ホント、何してるんだか……」 大きく息を吐いて、エアーは手をひらひらと頭上で振る。 「ってことだ。散れ散れっ、お開きだ。全員に伝えろよ。別に開くわけでもなかったってな」 「はい、そうします」 答えたのはエアーの副官、マーカー・クレイアン・サーだった。マーカーの顔は浮かない。 「悪いな、マーク」 「……いえ。お気をつけて、エアーさん」 「あぁ、頼んだからな」 「……はい」 マーカーがウィクに軽く会釈して全員を連れてさる。喧騒が遠くなるのをエアーは見送って、ウィクを見た。ウィクは微笑を湛えた。 「やっぱり歌がうまいね、エアーは」 「それにのこのこ釣られてくるウィク様は、相変わらず甘いんですね」 いや、とエアーが続ける。隊員たちがいたときの和やかさなどまるでない。表情のあまりこもらない、淡々とした言葉。 「甘えですか」 「そうだ。エアーは今まで三年も私を殺さなかった。その事実に対する甘えだ」 ウィクは笑わずにエアーを真っ直ぐに見た。デリクが追い付いてきた。だが黙って見守っている。 エアーは小さく、至極短く息と笑いを吐きだした。 「ですが、もう決めたことです。ウィク様も、選択する時期ですよ」 「選択……選択か? 本当に用意されたものしか、選べる余地はないのか?」 「はい」 「自分で何故、切り開けない」 「だからあんたは甘いんだ。結局は甘やかされて生きてきたことに気がつかない。じゃあ、お前は」 月明かりの中で冷たく光る赤紫の双眸が、真っ直ぐにウィクを見た。 「自分で見つけた選択肢のどちらも間違いに感じられたら、どうするつもりだ」 微かにゆがめられて細められた目は、怒りとも、苛立ちとも、悲しみとも見える。 「どっちを選んだって、罪は残る。自分の手を汚すか、裏切るか」 エアーは常に問われてきた。ウィクを護るか、セイトに従うか。ウィクを害するか、セイトを裏切るか。 「俺は俺らしく生きようと思った。だがあれから四年経ったこの年になっても、俺の在り方が分からない。だったら好きなように生きる」 袋小路で風が巻く。エアーが羽織っていた薄手の外套が巻き上げられてはためく。――自身の血に汚れた姿をあらわにして。 「罪をかぶるときは……悪名をあえて受けるのなら、頭から足の先までどっぷり染まったほうがいいんだよ。中途半端な気持ちで足を突っ込むな」 誰に言ったのか。目の前にいる自分にだけに言ったのではないのだと、ウィクには感じられた。まるで今まで彼が関わってきた人間全てに、語りかけるような遠い呼びかけ。 エアーが剣に手をかけた。エアーが本気で戦えば、ウィクなど簡単に負けてしまう。それでもとウィクも、剣に手をかけた。 エアーが力尽くでも自分の生きたいように生きるのなら、自分も、力尽くでも自分の生きたい場所で生きたい。 一人を失っても悲しい、できれば全員が笑顔でいた方がいい。 「私も本気だ」 「そうか」 エアーが答えた瞬間、ウィクの隣に空から人が降り立った。 竜騎士ユーガ・ライトル。少し遅れてティーンも到着する。 ユーガは状況を見て、すぐさま大剣に手をかけた。――だが。 大剣を抜きかけたユーガに一瞬でエアーが迫る。ぴたりと真っ直ぐに、ユーガの首元に剣を静止させてユーガを真っ直ぐに見据えた。 熱も、冷たさもない。 ただ異空間へと続くようにすら見える奇異の瞳が真っ直ぐに据えられていた。 「……お前ごときが、地上で俺に敵うと思うか? 十年早ぇよ」 「………っ!」 「やめろ、動くなユーガ」 「……死呼鳥……っ」 エアーを睨み付けてユーガが毒づく。エアーが一歩踏み込めばユーガの首など一瞬で断ち切ることが出来た。今にも噛みつきそうな勢いのユーガをティーンが抑える。 「死呼鳥……っ、死呼鳥! ティーン、離せよ! 俺は、こいつのこと、許せない! ウィク様に剣を向けた……裏切り者なんかに負けない!」 『裏切り者』、呼ばれたエアーが落とすように笑う。満足したようでいて、酷く寂しげだ。 エアーの表情を見て、ティーンは不意に、過去自分が殺した親友の姿を思い出した。殺されてむしろ、満足した様子だったクレハ・コーヴィの顔を。 「お前は、ウィク様を護るんだろう?」 ユーガはエアーを睨みつけた。エアーは上から、見下すように告げた。 「だったらそれに命をかけてみろ。それすらできねぇから、お前は俺に勝てねぇんだよ!」 「なんだと……!」 「お前も所詮、光の中に甘んじている。本当は高等兵士足らない人間だってんだ!」 「許せない……!」 ユーガは喉元にあてられた剣など気にもせずに力尽くでティーンの抑制を解いた。エアーの剣を素手で殴って軌道を変えると、すぐに自分の大剣を抜く。 剣を構えなおして、エアーが微かに笑った。――それでいいのだと、言わんばかりだ。ティーンも徐に自分の長剣を解いた。 「ウィク様、巻き込まれないよう下がっていてください」 「ティーン」 「私も巻き込まれる気はありませんが、ユーガを殺されるわけにはいきません」 ウィクはティーンを見た。ユーガとエアーの二人は、すでに動き出していた。ユーガの大剣のひと振りひと振りを、エアーは受けもせずにただ、避ける。押されているようにも見えた。 「あれを捕まえるのは至難の業ですが、間隙を縫うくらいのことならば、私にも出来ます」 「エアーも死なないで終われるかい?」 「本物の馬鹿でなければ」 ティーンが長剣を構えた。――刹那、走り出す。 エアーはユーガの攻撃を跳び上がることで避けた。ユーガの背を超えた跳躍、そのまま背後に回る。だがユーガも付き合いは短くない。こういう避け方をすることを知っていた。振り下ろした剣を落下途中のエアーに向かって振り上げる。しかし鳥が付く異名のあるエアーである、跳び上がった先で自在に動く。空中で姿勢を変えると、鉄の入った踵でユーガの大剣を蹴った。 ガツン、と音が鳴る。エアーはぐるりと宙で一回転すると、慣れた様子で着地する。ユーガは振り上げたばかりの格好だった。 エアーが地面を蹴る。強く、剣を振り抜く――瞬間だった。ガツンと鈍い音が路地に響いた。ティーンが長剣をエアーとユーガの間に差し入れてエアーの剣を受けとめたのだ。鈍い衝撃がティーンとエアーの腕に響いた。長剣の根元近くはエアーの肩に乗せられている。 「そこまでだ。ユーガも頭を冷やせ」 「……俺はっ、ウィク様を……!」 「私には、自分のことで怒っていたように見えたが?」 ユーガが言葉を飲み込んだ。顔を紅潮させて少し退く。 「エアーも剣をおさめろ。本心ではないのだろう」 やや、間があった。 「本心じゃねぇなら、なんだってんだ」 エアーがティーンの剣をつかむ。ティーンは眉を顰めた。 「もともと俺はユーガの剣の軽さには頭にきてたんだ。名家に生まれたせいか、名の高名さも実力もある。だがそれだけだ」 「なっ……何をっ!」 「お前には戦いの中で自分が殺した人間の顔が見えるのか」 ユーガはエアーの顔を見たまま、目を開いた。 「自分のせいで死んだ人間の顔を、覚えてるか?」 ユーガに戦場の経験は、あまりない。ウィクが従軍するおりについていく、ユーガは兼務のない唯一の親衛隊だ。自信はあまりない。 エアーはティーンの剣を強く握る。片手には自分の剣をもったまま。ティーンの剣は肩の上から首にかかっている。 「……クレハ・コーヴィ」 ユーガを見据えたまま、エアーが。エアーの瞳に感情がこもっているとは、思えなかった。 「エリク・フェイ、サリア・フィティ。ジェンヌ・リグルズ、カーラス・エプリア、エリスナ・ファン、ワネック・アスキ、イッリ・オイザルゼン――」 呪文のように流れる名前。フルネームで呼ばれるすべてが、エアーにとって忘れられない名前だった。――否、忘れてはならない名前なのだ。 「それは……」 「俺のせいで死んだ人間の名前だ。二度と忘れないと誓った」 おかげで他人をフルネームで呼ぶ癖ができてしまった。必ず嫌がられる。だが覚えなかった過去よりはずっとましだと、エアーは思っている。 「俺のために命を捨てた人間もいる。なぁ、ティーンさまよ」 エアーは少し力をこめてティーンの剣を押し返した。自分の剣の切っ先をティーンの剣に合わせて、流れるように振りかえる。 「俺は、クレハの顔も覚えてる。死ぬ前の顔もだ……さんざん世話になった挙句、俺があいつの寿命を縮めた」 ユーガが壁際で訝って顔をあげた。つい最近聞いた名前、クレハ・コーヴィ。 「お前も、命かけてウィク様護れよ」 言った瞬間、エアーが駆けた。鋭く薙いだ剣を、ティーンは長剣で防ぐ。 エアーは顔を歪めた。元より殺気などない。殺すつもりではないのだ。 小声でティーンが問う。 「どういうつもりだ」 エアーは至極小さな声で答えた。 「俺の命を賭けて、ウィク様を護れってんだ!」 「何を言って……っ!」 叫んだのはユーガだった。ティーンは驚愕もせずに長剣でエアーを押し返すと、素早く駆けてエアーに拳を叩きつける。エアーが殴り飛ばされて壁に背中をぶつけるのを見守って、ティーンはエアーを静かに見つめた。 「私に、あの時と同じことをしろと言うのか」 「あぁ、そうだ」 ずるりとエアーの背中が滑って崩れおちた。壁際に座り込んだ形で、首を垂らす。 「俺の本心なら教えてやる、ティーン。ウィク様……ついでに、ユーガとデリクにもな」 剣を握って、片手で立とうと試みる。だがエアーはなかなか立てそうになかった。どうやら傷口からの血は、思いの外出ていた。壁に赤い軌跡ができている。 「俺は……ウィク様を護るために死ねたなら、あいつらと同じ月にいけるような気がする。許して、もらえる気が、する」 エアーが顔をあげた。ウィクの顔を見る。ウィクはエアーの顔をじっと、見詰めた。 ウィクは悲しかった。ただ、悲しかった。 「だから――」 ティーンが歩き出した。エアーのすぐ前で立ち止まる。 見下ろすティーンを見上げて、エアーは微かに笑った。 「カタン・ガータージのせいで死のうにも死ねなくなった俺を、殺せ、ティーン。お前ら親衛隊の手で、この俺を処分してウィク様を護れ。これ以上の最善の道があるなら、お前の賢い頭と確かな言葉で教えて見せろよ」 まるで自嘲。嘲るような笑みを浮かべて、エアーはティーンを見上げる。 ティーンはしばらくエアーを見降ろしたのち、襟首を持ってエアーを立ち上がらせた。だが荒々しくはない、怒りの感情ではなかった。エアーは訝ってティーンの顔を見る。 「わかった。だが、お前を殺すのは断る」 エアーはさらに訝った。 「時間をよこせ。必ず最善の道を導き出す。それまでお前は、ウィク様に今日の罪滅ぼしでもしろ」 「わかってねぇだろ。時間なんかねぇんだぞ」 「わかっている。だが、お前を殺すのはウィク様の意に反する。それに――」 ティーンが大きく息を吐いた。エアーの襟首を離して、エアーから少し離れた。 「私は二度と、あの時と同じ思いをしたくはないと思っている。ユーガにもさせるつもりはない。あれの辛さは、私はもとより、お前もよく知っていることだと思うが?」 エアーが口を閉じた。悔しさに顔を歪める。 「ティーン?」 別な声が上空から降りてきた。高い声だ。呼ばれた声にティーンが目線を送れば、屋根の上に天馬がとまっている。 「その人は死を望んでいるんでしょう。与えてあげるのも優しさよ」 屋根の上からヴィア・ハワーが舞い降りる。桃色の髪、桃色の瞳。 「あなたたちがしないのなら、私がします」 風に舞うそれらの月明かりの下での美しさ。春先に咲き誇る桜の花のように気高い。桃色の天馬騎士はエアーを睨み据えた。 「エアー・レクイズ。親衛隊として、ウィク様に剣を向けた貴方を処分します」 ヴィア・ハワーが冷酷に告げる。 エアーは惚けてヴィアの姿を眺めていた。――自分を殺すと言われたにも関わらず、ただぼんやりと。 ウィクは我知らず両手の平を力のかぎりに握っていた。 己の頬を伝う、冷たい涙を感じながら。 |