夕暮れのバチカの港の一角に再び集まった一行の中で、一番遅くの登場となったのはデリクだった。デリクはセフィから飛び降りると、長く大きな息を吐き出した。 「やはり最後か……悪いな。少々手間取ってしまった」 「うん、遅いな、デリク。でも、丁度いいといったら、丁度よかったんだけれど」 ウィクがニッコリと微笑んで出迎える。デリクから見てウィクの背中にあたる部分には親衛隊の面々が揃っており、数人が酷く疲れた顔をしている。 「では、さほど遅れたわけではないのか。もう薄暗いくらいだとは思っていたが」 「いや、遅れているよ。今後は気をつけておくれよ。ただ、丁度ヴィアの説教が終わったところだったみたいだからね」 「一応、俺は被害者ですよ」 「あっははー、だったら俺が加害者か? カラン、もしかしてまだきれてねぇ?」 頭からタオルをかぶった状態のエアーが、けたけたと笑う。少しかがんで覗いた先にいるのはカランだ、濡れた髪を後ろで一つに結んでいる。 「……雨は、降らなかっただろう。私もさほど離れてはいない」 「いや、それがね」 笑いを浮べながらウィクが半分だけ振り返った。丁度エアーの横に立っていたヴィアが、エアーの耳を思い切り引っ張ったところだった。 「っでっ! 耳切れるっての! いくらなんでも勢いよすぎだぞヴィアッ!」 「さっきの笑えるところだったかしら? ねぇ、エアー?」 「うん……って言いたいところだが、怖ぇな、ヴィア。皺増えるぞ」 「えーあーっ!」 ヴィアがすばやく両手を出してエアーを捕まえようと試みた。しかしエアーはどうやらヴィアの攻撃が分かっていたらしい、少しだけ退いてヴィアの手を逃れた。 「もうっ、本っ当に何言っても立て板に水なんだから!」 「……というよりは」 ぼそり、と呆れ半分にデリクが呟く。おそらくヴィアには聞こえていまいと。 「反応を楽しんでいるだけではないのか?」 「ただのでかいガキ」 辛辣に答えたのはアタラ・メイクルだ。ウィクの隣に並んで、少しだけ頭を垂れる。 「それより、宿、とっておきましたよ。ティーンと一緒に行かれましたから。カランはエアーと一緒にいると役に立たなくなるもので」 腕を組んだカランが、不服そうにアタラを見やった。アタラはカランを一瞥しただけで、何も応えなかった。 エアーはヴィアの攻撃をかわした後できちんと聞いていたらしい。実はカランを海に引きずり込んで溺れかけさせたのは自分のくせに、カランの肩に腕をかけて飄々と笑って見せた。 「それじゃ、行きましょうよ、ウィク様。ね、カランに風邪ひかれたら困りますし」 「誰のせいだと思ってるんだよ」 「まっさかあんなに慌てると思わなかっただけだって」 けらけらと笑うエアーの顔を、カランが睨み付けた。エアーはどこ吹く風で、ウィクを見やってニコリと笑う。ウィクは苦笑を浮かべた。 「とりあえずは暗くなる前に宿に入ろうか。デリク、構わないかな。一緒の宿になると思うけれど」 「何を今更」 デリクが失笑を洩らした。 「この雰囲気にも慣れたからな。百聞は一見にしかずとは、よく言ったものだ。他国ではどれだけ恐れられていると思っているのか……」 「やかましい話だな、それは昔っから言われてる」 「昔からは、カランだけだろうがな」 低く、軽く息を吐き出して、ティーンが歩き出した。ウィクも習って歩き出して、つられるようにユーガも歩き出した。ヴィアに説教されながら連れられていくエアーと、ヴィアの横に並ぶアタラの背中を眺めて、カランは大きく嘆息を洩らす。 デリクがカランを見やった。最後尾で並んで、至極小さな声で言うのだ。 「やはりお前はカラン・ヴァンダなんだな」 カランがデリクを見やった。いつも布を巻いている箇所を指先でかいて、もう一度、今度は短く嘆息をする。 「デリク・ガータージ・カタンなんだろ?」 「そうだな、デリク・ガータージ・カタンだ」 「じゃあ、城下町でウィク様と一緒に会ったのが初対面だ。もっとも、俺は見たときはあるけど」 「そうだな。今思えば、懐かしいくらいだ」 三度、カランがため息を吐き出す。デリクは口に笑みを浮べると、歩きを早めて先の列へと加わっていく。 丁度、説教から逃れたエアーが、カランの横に戻ってきた瞬間だった。 「何の話してたんだ?」 「昔話」 そう、遠い遠い昔の話。最初にマウェートの王都に行った時の話だ。 スナイパーの称号をいつか得ようと、もがきぎみに必死に戦っていた頃。戦う意味などないに等しかったころ。 殺さなければならない存在が、なかった頃の。 まるで霧の中の夢のような、数日間の話。 『宿屋・ アタラとヴィアが選んだのだという宿屋の看板を見たときの男性陣の反応は人それぞれだった。だが一様に思考時間が必要だったらしい。先頭にいる順に、小さな空白を入れて反応があった。アタラはそれぞれの反応を見ても、まったく反応しなかった。予想の範疇であったのか、ただたんに興味がないのか誰にも分からない。故にこそアタラは周りの人々に恐れられているのかもしれない。 「えぇーっと……ウィク様。どーしましょうか」 苦笑を浮かべ、エアーがひらひらとウィクに手を振った。ウィクも同じように苦笑を浮かべる。 「バチカは観光地でもあるはずだろうから。一般の人にとってみたら、ここが数ある戦地中で一番人が死んでいるのも、観光の種になるのかもしれない」 「そーいうもんですかねぇ……」 「ウィク様、苦し紛れの説明は聞いていて……」 「やっぱりティーンにはばれた。たぶん――」 「えぇ、ここしか部屋が空いていませんでしたので」 入り口で待つアタラがしれっとして応える。世界最高の力を持つ魔道士の証ともいえる赤紫色の髪をかきあげ、少しだけ首をかしげた。 「ただ、名前以外はそこそこましです」 「えぇ、名前と、噂さえ、聞かなきゃ、ですけれど……」 「噂?」 「えぇ……」 ヴィアが苦笑を浮かべ、いい難そうにアタラを見やった。アタラは入り口横に立っていて、ヴィアの視線を受け、男性陣に向かって意地の悪い――ある意味不気味な笑みを浮べた。 「ここに泊まった人間が、朝になると干からびて死んでいることが、あるらしいですよ。ウィク様のことはお守りしますし、ほかの奴らは別に大丈夫でしょう?」 「……ウィク殿、ひとつ伺いたいが」 アタラに聞こえないように、デリクがウィクの横でぼそりと声を立てた。ウィクは笑いを堪えきれないようで、小さく笑ったまま「何か?」と問う。デリクは眉間を押さえた。 「いつも、このような旅をしているのか……?」 「あぁ、宿の選定のことだね。まぁ、忍びで行くときは、そうかな。私もだけれど、皆野営慣れてしていて、あまり宿にこだわらないから」 「……ユーガ以外は、ですが」 言い、ティーンがちらりとユーガを見やった。ユーガは看板の前で腕を組んで唸っており、カランが近くで面白そうに微かに笑みを浮べている。 「うーん、 「ユーガ、入るぞ。ウィク様を護るんだろう」 「うーん……あ、うん! 当たり前!」 ユーガが入り口で待つ、ティーンの元へ走った。ティーンの少し前にウィクがいる。ウィクは看板の前で立ち止まるカランを見やって、苦笑を浮かべた。 「カランも早く。風邪をひいてしまうよ」 カランがウィクに目線を向けた。「あー」と。濡れていたことなど自分ではすっかり忘れていた。乾きかけていた頭をカランはかく。 (まさか、だよ、な……?) 宿屋・ 「メイクル様のお名前でご予約のご一行様ですね。ひぃふぅ……八名様で。お部屋四つに分かれますが、よろしいですか?」 指を四本立てて、営業スマイルを浮べる。噂が噂であるためか、宿の中にはウィクたちのほかには客はいないようだった。 「あぁ、それで構わないよ。二人部屋が四つ、だね?」 「はい。お一人よりお二人のほうがご安心できるかと思いまして……一人部屋をとっぱらってしまったんです」 ほら、と店主が苦笑を浮かべる。 「変な噂を立てられて、お客さんも減っちゃったんですよね。だから」 「なるほど」 ウィクの微笑は変わらない。全員に振り返って小さく首をかしげて見せる。 「構わないかな。私も、一人ではないほうが嬉しい」 「はいっ!」 一番元気に答えたのはユーガだ。嬉々として片手を挙げ、期待満面でウィクを見た。 「じゃあウィク様の相部屋はっ」 「ユーガは、せがまれてもいけません。騒がしくしてウィク様を寝かさないでいかねない」 「そっ、そんなことないって!」 「ユーガはティーンと一緒にしたらいい。私はできることならデリクと同じ部屋がいいんだけれど……かまわないかな。あまり、じっくり話す機会、というのもなかったから」 「私か?」 デリクが眉を上げた。全員の視線が集まる中で、デリクは苦笑を浮かべる。 「私は、構わないが……」 「なら決まりだ」 微笑むウィクは視界の端で、カランがため息交じりにどこか遠くを見上げるのを見た。 ウィクがカランに初めて会った頃、カランは高等兵士だった。 初めて面と向かって顔を合わせたとき、最後に彼は言った。 『やりますよ、何だってやります』 思わずあっけにとられた。心から自分に従うと言ってくれた言葉に。 あの頃からずっと、ウィクはカランに勝てずにいる。羨ましいと、そして申し訳ないと、幾度も思ってきた。 夕食は一階の受付の周りにあるロビーで振舞われた。「夕食つけますから!」と受付のあとににこやかに手を振った店主テイフは、八人分の夕食をあっという間に作ってしまっていて、味もいい。「もったいない」と、誰かが呟いて、誰かが頷く。 夕食時は相変わらず賑やかだった。ウィクは全員で食べられるときはいつも全員の輪の中に入って食べる。誰もそれを気にしない。 上下関係がないのかといわれれば、一応はある。だが親衛隊の中では人事が複雑で、さらにはウィアズ王国軍内では高等兵士以上と未満の区別くらいしか上下関係の実感はなかった。故に王国軍兼務が大半をしめる親衛隊も、嫌味や冗談のネタに相手の階級を口に出すくらいのものだった。 「皆さん、どちらからいらっしゃったんですか?」 テイフが受付の椅子に座って問いかける。ほとんどが反応せず、あとは振り向いただけだったが、受付真正面に座るユーガが答えた。 「ウィアズです」 「ウィアズ!」 テイフが目を輝かせた。 「海の向こうの! いやぁ、一度行ってみたいと思ってる国なんですよ!」 温かく笑ってユーガが応えた。「どんなところなんです」などとテイフが質問するのにユーガは誇らしそうに、少し嬉しそうに答える。 そのユーガとは違って、周りは至極冷ややかだった。 エアー・レクイズはテイフの問いに振り向きもせず、わざわざ頼んだミルクを飲みながら横眼でカラン・ヴァンダをみやった。 「カラン、お前どっちがいい?」 「先」 「わかった。じゃあ先いく」 「あぁ」 聞いてエアーが立ちあがる。立ちあがったエアーを見上げて、デリクが訝って顔をあげた。 「どうした?」 「お先に失礼しますね、ウィク様」 いつもの通り飄々と笑いながら軽く手をあげて踵を返す。続いて、アタラが席を立った。 「私もこれで」 「うん。二人ともお疲れ様」 ウィクが答えた言葉に、アタラが無言で頭をさげた。少し離れたところでエアーも「はい」と、言ってすぐに階段を上って見えなくなった。 二人がいなくなって、デリクがウィクを見やれば、ウィクはいつもの微笑のまま。 「食事は終わったかい、デリク。一緒に部屋に戻ろう。話は部屋でしよう」 ブランティの部屋は、至極質素だ。角部屋にあたるウィクとデリクの部屋は他の部屋よりも少し広いらしい。窓一つ、両側にベッドが置かれている。窓の前には椅子が二つついたテーブルが一つ置かれている。 旅の靴を脱いでベッドに腰かけたウィクは、いつもよりも幾分か和らいだ笑顔だ。 「とりあえず、訊きたいことがあるんだろう?」 「そうだな」 言ってデリクも失笑する。 デリクはデリクで肩の力を少し抜いた。ウィクが肩の力を抜いているからだろう。 「あの不自然な二人は、どうしたんだ?」 「あの二人とカランとヴィアが、今晩の当番なんだ」 「当番?」 「うん。警護してくれているんだ。気をつかって部屋の近くにはこないんだけれどね」 言ってウィクが申し訳なさそうに笑った。 「私が平気だと言っても、ティーンが許さなくてね。これも彼らの仕事なんだよ」 「そうか……」 聞いて、デリクが目を閉じた。 「『親衛隊』か」 「うん」 「これでは、ウィク殿も疲れるだろう」 「そうかな」 答えたウィクの声に、デリクが目を向けた。ウィクは窓の外を見た。 「デリクは疲れたのかい?」 「少しだけだ」 言って、少しだけ嘆息する。 「何も知らない方は、気は楽だが」 「ははっ、ユーガかい?」 「能天気な高等兵士だ」 「ははっ」 愉快そうにウィクが笑った。 改めて窓の外を見やり、少し目を細めた。窓の外に広がるバチカの町並み。ブランティはバチカでは珍しく少々高い階層に作られていて、部屋から見下ろせる景色はまるでドラゴンかペガサスに乗って見ているかのようだった。 「でも、デリクも知らないことだってある。このバチカで起こったこと。彼らが抱いた感情のこと」 「……そうかもしれない」 「そんな彼らに私と一緒の部屋で許されるほど信用されたんだ。デリクはすごいね」 「あいつらの人を見る目がいいだけだ」 言ってデリクが肩をすくめた。ウィクがけらけらと笑う。窓の外で誰かがくしゃみをした声が聞こえて、デリクも失笑した。 ■□◆ (ウィアズ王国かぁ……聞くたびに心が騒ぐんだよなぁ。やっぱりこれって行きたいってことだよな) 一階に唯一ある部屋は宿屋主の部屋だ。自分の部屋はやはり、住んでいるだけに他の部屋よりもしっかりとした家具がそろっている。贅沢して買った大きな椅子に深々と身を任せて、テイフは天井をぼんやりと眺めた。 (ウィアズかぁ。ウィアズからきたって言ってたけど、あの人たちどんな――と、だめだめっ、詮索するべからず!) きぃ、と椅子がきしんだ。 (ウィアズ、ウィアズ……でも、“ウィク様”かぁ、えらい人なんだろうなぁ。こんな宿屋で文句言わないなんて相当いい人だよな) でも、とテイフは思う。 (ウィアズ……ウィアズ王国……) 繰り返して同じ言葉が並ぶ。頭の中に同じ言葉。 (ウィアズ王国……ウィアズ王国は……) またきた、とテイフは思う。同時に心が少し痛んだ。 (ウィアズ王国は……こ、) 喉が渇く。体中に寒気がする。めきめきと体がきしんだ。 (殺さなきゃいけない、存在だった、っけ) 少し昔のこと。けれど今は、それが理由になる。 手を目の前にかざせば――やはり。 毎夜毎夜のように、変形した自分の手が見えた。水かきがついた緑色の肌に、鋭い爪。 (そういえば、今日はひとり外に行った) 「お、お客様……」 ここにいるはずもない。 「バチカには、戦死者の亡霊が出るんですよ……ねぇ?」 だから死んでも恨むな。お前らもこの町を何度も滅ぼしたのだから。 ■□◇ カラン・ヴァンダは自分の当番の時間を終えると、エアー・レクイズと交代した。同じ頃ヴィアもアタラと当番を交代している。 一晩につき、当番は四人。見張っているのは常時ふたり。大抵交代するペアは決まっていて、カランはエアーだ。必ずカランが先に当番をして次にエアーが交代する。 今日はカランは外で辺りを警戒していた。必ず刺客が来るわけではないので、取り越し苦労の時が多いのだが、気を緩めるわけにはいかない。 自分たちに与えられた部屋の中で一息つくと、カランは改めて自分の装備を確認する。――本番はこれからだ。 バチカの街中でカランも聞いた、“ブランティに泊まった客は次の日干からびて死んでいる”という噂。カランには死に方に記憶があった。 今から六年前。当時敵国だったマウェート王国が、神教国の暗黒魔道士を招いて作り上げた人造兵器、 カランは部屋の窓を開けた。きぃを音が鳴る、部屋の中に冷たい夜風が入り込んだ。 しばらく窓に座って外を眺めていた。音を聞いていた。――動く音を。 「うわっ、久し振りに――っ」 ガツと、音がした。エアーがどこかで呟いた声も。カランは素早く立ち上がると、颯爽と窓から飛び降りた。 エアーは宿の外にいた。カランが外で見張っていたから、同じ場所で辺りを警戒していたのだ。 抜きもせずに目の前まで掲げられた剣は、異形の人間の歯を受けとめた。ガツ、と音がしたところ、相当固いらしい。 エアーは暗がりの中で相手を見た。蝙蝠の翼がある。鋭い牙に、金色の髪。見覚えのある顔。 「 キメラが空中からエアーに全体重をかけた。エアーは鞘から剣を抜いて鞘を捨てた。拍子に後ろに下がる。 地面に四つん這いに着地したキメラを見た。キメラは口から鞘を吐き捨てると、警戒するように喉を鳴らした。 警戒しているのはエアーも同じだ。剣を構えたまま身動きしない。親衛隊のほとんどが多くのキメラと戦って生き残った人間だ。相手の力量を知っている。 (おかしい) 反対に訝ったのはキメラだった。 (完全に不意を突いたはずなのに) 両手両足、両翼に力を込めた。 (危険。誰かも来る) 刹那、キメラが鋭く宙に飛んだ。キメラがいた場所を矢が通り過ぎた。 キメラはそのままさらに上空へと飛んで、とっさに逃げ出す。カランとエアーにとって、予想外の行動だった。 だが躊躇は二人とも一瞬。 カランはエアーを見やった。エアーもキメラがいなくなって直線上にいたカランを見た。 一瞬だが目が合う。考えていることは同じことを瞬時に理解する。二人はすぐにキメラを追った。 「なぁ、“化け物狩り”のカランさん?」 カランの横を走り、キメラを見つめながらエアーがいつものように声をかける。 「なんだよ、それ」 「あれ? 知らねぇ? お前に昔言ったろ、マッドハンターって呼ばれてるって。あれの戦後形」 「人の気も知らないで勝手なこと言うなよ」 「俺に言うなよ。――あぁ、で。あいつ、自分で考えて行動してんのな」 「そうだな」 キメラは石で作られた家々の屋根の上を走っている。キメラが走っている間は見失わずにすみそうだ。 「“体を操ることができず、心だけが残っている”ってのが、キメラだったんじゃなかったか?」 「あぁ」 「あいつは何なんだ」 「あの戦いから六年経った」 カランは鋭い眼をさらに細めた。月に穴をあけたように見えるキメラの姿。 「体の自我に、心まで浸食されても、仕方がない」 短く、エアーが笑った。 「いいのかよ、それで」 「悪い。だから殺す」 「あぁ」 エアーはカランを見て破顔した。あまり表情の浮かばないカランの顔を見ても、エアーにはその感情がわかる。わかるほどこの四年、付き合わされ、付き合ってきた。 とっと軽く音をたててエアーが速さを上げた。カランの横から離れてカランの前へと出る。途端、キメラが動きを止めた。だが矢で貫ける角度になかった。 「死ぬなよ、カラン」 にやり、とエアーが笑った。一足先に目の前の民家の前につくと、背中をつけてカランを待ち受ける。 「潰れるなよ、エアー」 「努力する」 カランに、剣士の中で最高だと言われているエアーほどの脚力はない。それでも弓士の中でも最高の――剣士と比べても全く遜色ない脚力はある。屋根ひとつ一人で簡単に、とはいかないが、足場が一つあれば屋根ひとつ簡単に飛び乗れる。今はひとりで登って少しでも時間をかけるよりも、いかに素早く屋根に上がるかだ。 足場の形になったエアーを踏んで、カランはさらに跳び上がる。屋根の高さを越え、屋根の上の空中で、待ち構えていたキメラが鋭くカランに襲いかかった。 カランは弓を持っていた腕を掲げて自分からキメラの牙へと差し出した。喉を狙ってくるのはわかっていた。故に場所は正確だ。 また、ガツ、と。 キメラの牙と、カランの篭手の鉄の部分がぶつかった音が響く。カランの篭手を噛んだ状態でキメラが唸った。 カランは無言だった。重力で落ちていく中、空の手で拳を作り、力の限りに振り下ろす。拳はキメラの鼻先をかすった。キメラは翼をはためかせ後方へと大きく退いていた。 「なんで死なない」 キメラが呟く。カランは屋根に着地するとすぐさま矢筒から矢を三本とった。 「今、殺してやる」 「死にたくない! 生きたい!」 目の前にいるキメラの姿は、半分はブランティ主テイフのものだ。けれどもう半分は魚、竜、蝙蝠、豹。すべてが混ざる姿は一般に化け物と呼ばれる姿だ。キメラのすべての形容が、ある種の同情を呼ぶ。 が、カランはテイフの懇願を無視した。矢筒から取った矢を素早く番え、かすかに目を細めた。 カランは六年前、キメラに変えられた友人に頼まれた。「俺たち全員を殺してくれ」と。 本心だったのだろうと思う。 「お前に自分の体を操る自我を失う苦しみがわかるか」と初めて会ったキメラに叫ばれた。 本心だったのだろうと思う。 キメラたちの苦しみを解ってやることはできないけれど、自分にしてやれることは一つある。 殺すことだ。 苦しみに耐えかねていても、死ぬことすらできないキメラたちに死を与えることだ。 それが、 数瞬で放たれた三本の矢が悉くキメラを襲う。だがキメラは唯一の急所である脳天への直撃を許さなかった。寸でのところで避け、とっさに背後へと飛ぶ。カランを見たまま。 「殺されるっ!」 「俺はお前を殺す!」 再び矢を三本とって番えた――刹那。キメラの進行方向に天馬騎士の姿が現れた。 デリク・ガータージ・カタンだ。武器を構えてはいるが、殺気はない。 テイフの表情が恐怖に染まった。背後にはカラン、目の前には新しい敵。 テイフはとっさに下降する。下は路地。天騎士たちは入り込めない。弓士たちの攻撃も、しにくい場所。 翼から水色の血が滴り落ちる。鋭く空を切って路地に降りる。テイフは飛ぶのが得意ではなかったから、地面に降りれば走るだけ。 「お前は、」 再び背後から人間の声がする。テイフは振り返りもせずに走った。 現れたのはエアーだ。待っていたわけではなかったから、ただの偶然ではあった。デリクが登場するとはエアーも思っていなかった.。本当は自分も屋根に登るつもりで走っていたのだ。 「死ぬんだよ、今日」 テイフの走る速さは尋常ではない。が、エアーもウィアズ王国最速を誇る。先ほどからの追いかけっこで、追いつけることはわかっていた。だがテイフの速さで逃げられれば、致命傷は与えられないことも判っている。 エアーは全力でテイフに追いつくと、まず翼を掴み、近づいた髪の毛をわしづかみにして掴んで、体制を崩したテイフ諸共にごろりと派手に路地を転がった。転がる間にテイフを逃げにくい形に締め上げて、最終的にはテイフの上に乗る。 「ほ、捕獲完了ぉ」 テイフがエアーの下、髪の毛を鷲掴みにされた状態で悲壮に似た鳴き声を出す。だが同情するような余裕はエアーになかった。 「デリクさまさま。なんでいるのかしらないが」 「私が。連れてきてもらった」 エアーの顔から血の気が失せた。路地の奥からいつもの微笑のままウィクが現れる。 「うぃく、さま?」 「うん。ティーンには内緒だ」 ウィクが悪戯に笑って人差し指をたてた。「はぁ」と納得すれどもエアーは撥が悪そうだ。 「ウィク様」 屋根から飛び降りて、カランがウィクに声をかける。 ウィクはカランを見ると、大きく頷いて見せた。 「待ってくれるね、カラン」 「場合によります」 「うん。エアー。テイフさんを離してくれるかい?」 「いや、いくらなんでも、それは断ります」 「話がしたい」 エアーはしばらくウィクの顔を見たあと、諦めたように溜息をつく。 「この状態で話させますから」 「私は、解り合いたいと思っているんだ。その方は生きたいと言った。ならそうして差し上げることができるなら、そうしたい。あなたの料理は、とてもおいしかったですよ、テイフさん」 ウィクがテイフに笑いかける。エアーはカランを見た。カランはウィクを一瞥した後、エアーを見て、小さくうなずく。 「襲わないって約束できるなら、離します」 「約束してくれるでしょう、テイフさん」 名を呼ぶのか、とエアーはウィクに思う。――やはり、この王子は甘い。かつて自分を受け入れたときのように。 テイフが必死に頷く。エアーは嘆息を漏らすと、ゆっくりとテイフから離れた。 テイフがゆっくりと起きあがる。訝った様子で、背後にいるエアーと、斜め前にいるカランと、屋根の上にいるデリクを見た。 「テイフさん」 テイフがウィクを見た。ウィクはいつもの笑顔のまま。 「あなたは自分の意思で動いているんでしょう?」 テイフは肯きも、首を横に振りもしなかった。無言のままウィクを見つめる。 「ならば、我々とも、多くの人たちとも共存できるはずです。あなたが多くの人を殺してしま――」 ――刹那。テイフが動きだした。今までの動きの倍はあったろう。動きだしたと同時にエアーが剣を抜いても、剣は宙を斬った。 テイフはまっすぐにウィクに襲いかかる。正気が残っているとは思えないほどの奇声をあげた――瞬間に。 動きを止めた。 ウィクの首筋に咬みつく寸前だった。ウィクは身動きもせず、呆然と立ち尽くす。 「別に、こうでしか証明できないわけじゃない」 テイフに三本の矢が刺さっていた。うち一本が頭に刺さっている。ゆっくりと崩れ落ちるテイフの体を、ウィクが受けとめる。 「証明したいわけでもない。けど」 カランが構えた弓をゆっくりとおろした。テイフの姿をじっと見つめたまま。 「戦争は終わったんだ。お前らはもう、戦わなくていいはずだ」 だからせめて、とカランは口の中で続けた。 「安らかに眠れ……たった一つの一人の人間として、月で安らかに暮せ……!」 ウィクは目を伏せた。テイフをゆっくりと地面に下ろす。 「本当に、それしか道はなかったのか?」 テイフの横に膝をついて、ウィクは天魔の獣たちの聖印をきった。 「彼は被害者だった。あの戦争の……敵だったわけではないはずだろう。戦争は、終わったんだ」 「敵ですよ」 エアーが口をはさんだ。テイフの死体をはさんでウィクの向かいに立つ。 「ウィク様。敵ですよ。敵ってのはただたんに戦争をしている相手じゃありません」 ウィクが顔をあげてエアーの顔を見た。夜でもよく目立つ。――その赤紫の目も。 「ウィク様にとって敵ってなんです?」 敵など、いなければいいと思っている。 ウィクの心中を見透かすように、エアーは小さく鼻白んだ。 「ウィク様。カランが敵と見做すのはどんな奴か知りませんが、俺にとって敵っていうのは、自分たちの命を脅かす存在ですよ。ちなみに、戦時中に俺が呼ばれた名前をご存じでしょう?」 ウィクが小さく肯定する。大きくは肯定できなかった。何よりも有名な異名は、蔑称だったからだ。『死を呼ぶ鳥』、 「そう、死呼鳥です。勝つためなら味方も切り捨てられます。だから味方からも非難されました。でも自分たちの命を脅かした時点で、そいつは“敵”です。同情をかけたり、憐れんだりする対象じゃありません」 エアーはテイフを見降ろした。軍人でなかったら、剣士でなかったら、多少は同情の念が湧いたかもしれないが、今は殊更心が動くことがない。どちらかといえば、ウィクに対する苛立ちが――ウィクのような甘い人間に対する苛立ちが先ん出て困っている。 「なら」 いつものような口調で、ウィクが。 「もしも私がエアーたちの敵になったら、エアーは私も殺すのかい?」 ――昔も同じような言葉を聞いたなと、エアーは思い出した。同じように甘い人間の口から。 「はい」 あの時もバチカだったな、とエアーは思う。 エアーは表情を変えないままに続けた。堅い口調のままで。 「別にウィク様が憎いんじゃありませんよ。“敵”を排除したいだけですから」 沈黙が流れた。ウィクの悼みの念が流れる中、夜の静かな風だけが動く。 耐えきれずに嘆息し、沈黙を破ったのは、やはりエアーだった。首を落とし、ウィクに背中を向け、呟くように言うのだ。 「……ウィク様は、甘いんですよ。カタン・ガータージといい勝負だ」 ウィクが顔を上げエアーの背中を見た。エアーはウィクを一瞥すると、もう一度大きく嘆息する。 「エアーはやっぱり、皆がいうように、誰よりカタンを知っているんだな」 「冗談。ウィク様でもそれはきついですよ」 「そんなに似ているのかい? カタンと私が」 ウィクはいつもの微笑のままだ。エアーはウィクの言葉の中に隠れた鋭さに、息をとめた。同時に、いつものように軽々しく受け流せなかったことを後悔した。 「お帰りください、ウィク様」 エアーに助け船を出したのは、カランだった。普段はあまり多くをしゃべらない。エアーが今の性格になってカランと組んでからは、話すのを専らエアーに任せ黙っていることも少なくない。 「主人はいなくなりましたが、とりあえずは宿に。残りの処理は、俺たちがしておきます」 「カラン」 「この件がお気に障るのなら、俺は親衛隊から除名でもかまいません。今国に帰れと言うなら帰ります。でも、これだけは譲れない」 弓を背負い、カランはまっすぐにウィクを見た。強い意志の宿る、その鋭い水色の瞳。 「俺は 「カランが悪いと思うことはない」 「いいえ。俺は悪い。それに俺はだたんに、友人からの頼まれごとを完遂したいだけだというのもあります」 カランの表情が大きく動くことは、あまりない。いつも自分のペースを保ち、乱すことも乱されることもない。確かに短気ではあったけれど、冷静になるのも早かった。故にこそ多くの人間が安心して彼に命を預け、彼の命に従ってきたのだろう。 ウィクは、ずっとカランが羨ましかった。自分の生きる道を知っている、カランことが。 「……わかった」 ウィクがゆっくりと立ち上がる。屋根の上のデリクに笑いかけた。 「帰ろう、デリク。迷惑をかけたね」 デリクが首を横に振った。セフィにまたがると、路地の外へと向かった。 ウィクも二人に背中を向け、月を見上げた。 「月で、みんな、幸せに暮らせるといいね」 言われてカランも月を見上げた。九番目の月が遥か遠い空に浮かんでいた。 カランは無言でうなずく。エアーも振り返って月を見上げて、すぐに目をそむけた。 「先に行くよ。明朝にはバチカを出よう。私たちはあまりこの街に長居してはいけない」 「はい」 「うん。それじゃ、おやすみ」 ウィクが歩き出す。おそらくいつもの笑顔のままなのだろうとカランは思う。ウィクに頭を下げてそのままテイフを見た。 「悼む人間がいて、本当に良かった」 呟いて、テイフの体を抱えあげた。 共同墓地へと真夜中にすすむ。横にエアーが並んだ。 「あの人の甘さ、見てて気がついたんだけどよ」 「?」 「ああいう甘さが、救いになることもあるんだな」 ため息交じりのエアーの嘆きに似た呟き。今更だと言いたいのだろう。今更気が付いたところで、と。 「あぁ」 カランが短く答えて、後は二人無言のまま、葬列に並ぶ人間のごとく共同墓地へと向かった。 ◆◇ 明朝のことである。 主人を失ったとはいえ、宿は相変わらず建っていたいたし、主人が失われたことを知らない人間もいた。町の中ではもうすっかり噂になってしまってはいたけれど。 夜通し外で見張りをしていたエアーが宿の中に戻ってくる。宿の一階には同じく夜通し見張りをしていたアタラがいた。 「そういや、昨日はありがとな、アタラ」 「何で礼を言われなきゃいけない」 「バーダの声がしたぜ? ウィク様迎えにきたろ」 「当り前のことをしただけだ」 言って、アタラはエアーから顔をそむけた。 「騒ぎに巻き込まれないうちに出てくんでしょう。お前は荷物の整理でもしてきな」 「んな大層なものなんかねぇって」 言ってエアーが軽々しくけらけらと笑った。 他に二、三会話を交わしていると、不意に入口の扉が開いた。 「おはよーございまーす」 機械的に挨拶をしながら入ってきたのは、黒髪で三つ編みをつくっている若い女性で、バッグにはどうやら朝市で買ってきたらしい食材が詰まっていた。 エアーとアタラの二人を見つけると、女性はにっこりとほほ笑む。 「あ、おはようございます。お客様ですよね。ってことはテイフさん起きてないなぁ?」 意地悪く笑うと、カウンターの奥に向かう。 「ま、いつものことなんですけどね。昼ぐらいまで起きない人だから。他にもお客様っていらっしゃってるか分かります? 皆さんの朝食作らなきゃ。お客様がいらしてるなんて思わなかったから量少ないかも」 「目を背けるな」 ぴたり、と女性の饒舌な口が止まった。 アタラは短く息を吐く。 「知ってるはずでしょ」 エアーはため息をはいて頭をかく。アタラを見やれば、アタラは相変わらず涼しい顔のまま。 女性がカウンターの上に食べ物の入ったバッグを叩きつけるように置く。 「……知ってるって……何をどこまで知ってるっていうんですか……」 ゴロリ、と音がした。リンゴが一つカウンターから転がり下りた。彼女は顔をあげてアタラを見た。睨みつけるかの如く。 「知ってます。あなた方のことも。ウィアズの式典で、ウィアズの人たちにたくさんたくさん称賛されてた。まるで別世界の人間……あなたたちこそ、何を知って……何を知ってそんなこと言うんですか。私、お客様にはばれないようにって思って頑張ってたのに、なんでそんなひどいこというんですかっ! 庶民の気持ちなんてわかりっこないんですか!」 言って女性が泣き崩れる。ぽかんとしているのはエアーで、横でアタラは小さくため息をついた。 少しして、階段の上から、ギシという音が聞こえた。降りてきたのはカランだった。荷物袋を二つ持っていて、一つをエアーに放り投げる。 「俺らはもともと貴族でもなんでもないから」 女性が再び顔をあげた。カランの顔を見ると、やはり驚いたようだ。ウィアズ王国の式典に参加したことのある人間ならば、当然のことだろう。誰よりも先に呼ばれる。現在唯一の最高等兵士。 カランはゆっくりと階段を降りると、「うん」と。 「ごめん」 頭を下げた。 「テイフさん殺したの俺だから」 「え……」 「共同墓地に新しい墓ができてる。職人でもない人間が創ったものだから粗末なものだけど、そこに行ってやってください。何よりもそれが救いになると思う」 女性がぺたりと座りこんだ。カウンターの向こう側、三人からは見えない場所で彼女は呟くように言った。 「……それじゃあ……」 彼女も噂を聞いていた。『化け物が死んだ』と。テイフが街の人々に“化け物”だと影で呼ばれているのを知っていた。それでもまさかと、思っていたのだ、淡い希望として。 「本当に……本当にテイフさん、死んじゃったんだ……」 「あぁ。素直に認めてやってくれ。それで悲しんでくれればテイフさんも救われる」 「そう……ですか」 女性の目線が落ちた。転がり落ちたリンゴを拾って眺める。 「なんだ、何も知らないわけじゃないんだ……」 ――沈黙が、流れた。 宿の外からは喧騒が入り込む、けれどこの空間では誰も音をたてず。 「……ありがとうございます」 至極小さな声で、彼女が言った。カランは意味が分からずにカウンターの向こうの女性の姿を覗いた。彼女は相変わらずリンゴを眺めたまま――そっと胸に抱いた。 「ようやく、あの人も自由になれたんだと、思います」 聞いて、確かに死んでしまえばそこまでだけれどと、カランは思う。ウィクには非難されるだろう、それでもそれしか救いがないのなら。 「あぁ」 答えてカランは微かに笑った。カランの声に緊張を解いたように、エアーが大きく息を吐く。アタラが階上を見やれば、居心地悪そうにユーガが顔を覗かせている。 アタラが呼びに行こうと腰を上げた瞬間である。 宿の外から、ぱち、ぱち、と白々しく手を打つ音が聞こえた。 「本当にありがたいですな」 入口から男が三人入り込んでくる。真ん中の男が見下すようにカランたちを見る。両脇にいた男の一人が、カウンターの中に座り込んでいた女性を連れて、カランたちに対峙するように並んだ。 「父様っ?」 「イザベル。私はここにきてはいけないと、何度言った?」 「そんな話聞きませんっ」 「聞きわけの悪い子だ」 ぎろりとイザベルと呼んだ女性を睨んで、真ん中の男はカランたちを見た。 バチカ町長イクセル。元は豪商である。彼の財力と商業能力があってこそバチカはただの廃墟から今の繁栄にまで上り詰めた。 だがウィアズでは評判の悪い男だ。バチカではウィアズ王国からの船への入港料は他国よりも明らかに高い。イクセルはウィアズ嫌いを公言してはばからない人間だった。 「あの化け物は死んだ。本当に死んだのですな。町長としてこれほど喜ばしいことはない。これで被害がなくなります」 カランには見憶えがあった。クェイトから船に乗ってバチカに渡ったのは、終戦後初めてではないせいだ。 「しかし、早々にバチカから立ち去っていただきましょう」 同じことを、前回会った時も言われた。前回は訪問するためだったにもかかわらず。今回はただ個人的に寄っているにも関わらず。 カランはイクセルが嫌いだった。顔に浮かんでいないのは、彼自身の表情の淡さからだろう。 「国内にいるのも結構。なるべくならば、早いところご自分の国に帰って欲しいところですな」 カランはイクセルの顔を見据える。今にも怒りが露わになろうとするカランの肩を、エアーが叩いた。カランが横眼で見やればエアーは肩をすくめた。――キレるなよと、無言で伝えているのだ。カランは口を閉じたまま胸中でうなずいた。 「父様、なんてことを」 「何も言うなイザベル。こいつらはウィアズの軍人だぞ。あいつはウィアズの最高等兵士だ。それに見ろ、あの男の眼、あの女の髪。滅多なことでは生まれない赤紫だ。今確認されるだけでも、ウィアズのあの二人だけだ」 「でも、あの人を止めてくれた!」 「あれは人ではない、“化け物”だ!」 吐き捨てるような暴言に、イザベルが息をとめた。カランが眉をあげる。 「いいか、イザベル。あれが化け物になったのも、バチカが廃墟になったのも、お前の母親が死んだのも、すべてウィアズのせいだ」 命知らずか、それとも殺されないと思っているのか、イクセルはウィアズ王国軍人の前で平生と告げた。 「マウェートに害になるものは、この街にいてはいけないのだ」 「そんな……っ」 イザベルが嘆く。アタラが嘆息すると、カランが階上に顔を向けた。 「そういうことらしいです」 声をかければ階上に集まっていた他の面々がぞろぞろと現れる。先頭にウィクがいる。 俯きぎみに降りてくるウィクを、エアーが正面から迎える。 「行きましょう、ウィク様。これが現実ですよ」 ウィクはエアーを見やると「そうだね」と、小さな声で答えた。 ウィクに続いているのはやはりユーガだ。ユーガは他の面子よりも明らかに表情にでて怒っていた。 「いいんですか、それで?」 「いんだよ」 エアーが軽く答えてウィクの背中に並ぶ。促すように背中をぽん、と叩いた。 「納得いかない……っ」 ユーガが声を押し殺して言う。ティーンがユーガの頭を軽く小突いた。――納得いかなくとも、納得しろというのだろう。 だが、それでも。 「それでも、わかりあうことは、不可能なんでしょうか」 ウィクはイクセルの前で立ち止まった。イクセルを真正面から見て問えば、イクセルはウィクから視線をそらした。 「少なくとも今は無理ですな、申し訳ない。やんごとなき身分の方らしいが……ウィアズ王国王子を騙るのは控えられた方がよろしいのでは? ただの同名であれば、よいのですが」 全員の表情が凍る。親衛隊の全員がウィクの顔を見た。デリクさえも。 イクセルは鼻白むと、親衛隊全員を見やり、肩をすくめた。 「おや、どうしてばれたかとでも……ウィアズの人間は学がないと聞くが、これほどまでとは」 「どうして、私がウィク王子でないと」 「私も確かにウィク王子を拝見したことはないのですが、少なくとも黒い髪ではありますまい。ウィアズ王国の王族は金色の髪。あなたでは、身代りになるのも無理でありましょう」 「父様!」 イザベルが抗議しようと声を上げた。だがイクセルに睨みつけられて、口を閉じる。 何も知らないのはどっちだ、と誰も口にできなかった。ここにいるウィクこそ、ウィアズ王国、現国王の兄。偽物でないのだと。本当は誰もが叫びつけてやりたい気持ちでいた。 だが叫んだところで虚しいことを知っていた。誰よりウィクを傷つけることも。 ウィクが少し、沈黙した。 少ししていつもの笑顔のまま、イクセルの顔を見る。 「……そうですか」 「ウィク様」 カランが声を上げた。荒げても叫んでもいないが、会話を断ち切る声量だ。 「早く行きましょう」 口調も若干だが鋭い。エアーが微かにカランを一瞥し、もう一度ウィクの肩を叩く。 「行きましょう。とっとと次の街いって、カランのこと寝かせてやらないと」 冗談めかした口調。聞いたウィクが微かに失笑し、肯く。 「そうだね。行こう」 言ってウィクがイクセルとイザベルに軽く頭を下げた直後。 ユーガが悔しさに走り出した。宿の外に飛び出して見えなくなるユーガの背中を見送って、ウィクは目を細める。思いのまま行動するユーガの行動に、救われる思いだった。 ウィクもゆっくりと歩き出す。ただ、静かに。 ブランティを去る一行の最後尾にカランがいた。出入口で立ち止まると、不意に口を開く。 「自分たちだけが被害者だと思うなよ」 イクセルの表情が微かに歪んだ。カランは振り返りイクセルを見た。もともと鋭い水色の瞳をさらに細めて、イクセルを睨む。イクセルの瞳にも負けず、嫌悪の混ざる視線。 「殺されたくなくても殺された人間がいるように、死にたくても死ねない人間もいる。俺はそいつらのために弓をとっただけだ、お前に感謝されたいわけじゃない」 それに、と間髪入れずに続けて、言葉を吐き捨てる。 「何も知らないなら放っておけよ。そんな自由さえないのか、この国は」 言い捨てて、カランは宿を後にした。 からん、ころん、と主人のいなくなった宿の出入口の鳴木がなる。 宿屋・ 二度と喧噪に晒されることはない。 |