数日の船旅の末に、一行はバチカに到着する。バチカはマウェート王国の主要貿易港だ。四年前まで相次ぐ戦闘の中で大破してしまった町は、もうすっかり活気のある元の姿に戻っていた。 バチカは様々な海流が交わる場所だ。自然の不思議というもので、どうしてバチカの湾岸に海流が集まっているのかは、学士たちも解明できていない。だが、それゆえに貿易船が多く行きかい、海にはさまざまな魚が集まる。 だが、バチカは死の海でもあった。 四年前まで続いた大戦中、バチカで戦闘のあった回数は別な場所よりも遥かに多い。幾度も幾度もウィアズ王国が侵攻し、奪取しては奪い返され、防衛されて退却する。 大戦最後の戦いが繰り広げられたのがバチカと言うのも、必然なのだろう。 多くの人々がこの地に足をつけた。それは親衛隊やウィクにとって、それぞれの感慨を抱かせる、一つの感傷の種ではあった。 数日の船旅により、久々の大地に足をつけたエアーが大きく伸びをして気軽に声をあげた。 「うあー! やっぱり地上は落ち着くっ! 船も嫌いじゃねぇけどよ!」 「そうだね、やっぱり地面に足がついてると落ち着く。私もそうだよ」 苦笑を浮かべながら、ウィクが応じる。エアーは満面に笑みを浮かべ、「そうですよねー」と優越感に浸っているようであった。――ユーガに対して。 「そんなことよりエアーさん、自分の馬連れてきたらどうなんですか? エアーさん以外に懐かないんだって、船旅中船員さんがずっと言ってたじゃないですか」 少しばかりむくれた顔でユーガが言えば、エアーは飄々と手を振りふりながら踵を返す。「わーってるって」と上機嫌に応え、さっさと預けていた自分の馬を受け取りに向かった。 ウィクの横に、ティーン・ターカーが追いついた。ウィクの馬と自分の馬を連れて、短く嘆息を漏らした。 ウィクが訝って見上げれば、ティーンは首を小さく横に振ってみせる。 「どうしたんだ? ティーン、浮かない顔だね」 「いえ、別に……それにしても、バチカ。ここまで栄えているとは思いませんでしたね」 手綱をウィクに渡して、ティーンはバチカの町並みをぐるりと見渡した。大戦最後の戦いに赴いた一人であるティーンは、四年前のバチカの惨状をすぐにでも思い出すことができた。家などなく、住民もなく。石造りの住宅の瓦礫がところどころに残っているだけの姿だ。 「ウィアズ王国民は知らなかったのか。廃墟にした当人だろう」 辛辣に言い放ったのは、デリクだった。デリクは侮蔑の顔色も浮かべていなかったが、決して好意のある顔はしていなかった。まるで嘲るようにティーンを見た。 ティーンは顔をゆがめ、デリクを睨み付ける。 「失礼しました。しかし廃墟になったきっかけはマウェートのだまし討ちからではなかったでしょうか?」 「ウィアズが攻めこなければそんな手に出る必要もなかっただろう。この土地を得るための欲が、破壊を呼んだ」 「あなたに言われる筋合いはない。あなたがたこそ戦争を終らせるためだと称して、いくつの村や町を――」 「ティーン」 静かな声音で、ウィクがティーンを諭した。ティーンは口をぴたりと止め、顔をゆがめて首を横に振った。ウィクはティーンの顔を覗き、少しだけ苦笑を浮かべた。 「デリクを責めても仕方がないよ。デリクは戦争には関係のない人間だったんだから」 デリクがウィクの顔を見た。ウィクは苦笑を湛えたまま首をゆっくりと横に振る。ティーンが撥が悪そうに頭を下げた。 「申し訳ありません、ウィク様」 「いいんだ、ティーンのそういうところはよく知ってる。だから」 「えぇ、失礼しました、デリク」 「別に……構いはしない。仕方がないことだろう。私も大人気ない言い方をしている」 短く嘆息して、デリクが首を横に振った。ウィクはニコリと笑い、ティーンの横で小さく首をかしげた。 「勘違いをしないでくれないか、デリク。ティーンは民のことを大切に思っているだけだから」 「勘違いするつもりはない。それに……」 「そうだな」と独白するように呟き、少し上空を見上げる。 「両国、傷は同じように残ったのだからな」 ウィクがニコリとデリクを見た。デリクは首を横に振ると、やんわりと町の方向を見た。 「うぃっくさまー。こっれからどーするんですかー」 会話の雰囲気を掻っ切って、別所に馬を引き取りに言っていたエアーが帰ってきた。カランが少しだけ頭を押さえて嘆息して、残っていたアタラが「バカ」と呟いてエアーとは別の方向を見た。――聞こえていないはずがない。現存する高等兵士の中でも耳もその聞き分けも、ずいぶんといいと言われているエアーだ。ゆっくりと歩いてきた道、話を聞いていないはずがないのにと。 ウィクはエアーを見やり、困ったように首をかしげた。 「どうしようか。どうするつもりだったんだ? デリク?」 デリクはニコリと笑いを浮かべた。 「いや、気の向くままと言っただろう」 「あぁ……そうだったね」 表情を完全に苦笑にかえて、ウィクが頭をかいた。デリクが小さな声で笑い、指笛を鳴らした。 バサッ、とセフィが頭上に現れた。セフィを見上げ、デリクは悪戯に笑ってみせる。 「だが私は少々寄るところがある、適当に時間を潰していてくれないか」 「え……? デリク、何時頃までかかる?」 「夕時にはなるかな。大丈夫だ、必ず戻る。夕時ごろにこの場所に再び集まっていてもらえるとありがたいんだが……」 と、振り返った先に。 「ね、王子! 今回も俺が一緒に行きますからね!」 準備万端の親衛隊の姿があった。 半ば絶句する形で親衛隊の面々を眺めるデリクに、ウィクが下から声をかける。くすくすと笑いながら、小さく肩をすくめて見せた。 「先を見て行動せよ……とある人の名文句だからね」 「あぁ、それをわざわざ口にしたのは、ウィアズ王国軍人だったな」 「うん、ここにいる人、ではないけどね」 ニッコリとウィクが答える。エアーがニコニコと笑って、片手を挙げた。ひらひらっと片手を振ると、「ね」と。 「たまには羽根を休めるのもいいんじゃないんですか? ねぇ、ウィク様、デリク・ガータージ」 「中途半端にフルネームで呼ばないでくれ。デリクで構わない。それに、最初からこの街についたら見てまわりたかったんだろう。お前だけじゃなく、」 準備万端の全員を見やり、デリクは苦笑を浮かべる。 「ウィク殿を含めた全員が」 ウィクがけたけたと笑った。ユーガが訝って覗く中、ウィクはデリクを見上げ、微笑を湛えた。 「そうだね、なかなか国の外にでる機会はないから。私もこの町が見てみたかったんだ、丁度いい」 「なら、よかった」 ウィクにつられるように、デリクがくすりと笑った。踵を返し、少しだけ頭上を見上げる。セフィが町の外へ向けて飛んでいく様を、デリクは眼を細めて見る。 ――希望を捨てることができるのだろうか。 デリクは首を横に振り、ゆっくりと足を振り出した。デリクにとってセフィは希望だった、天馬として共に生きている今も、希望には変わりない。 他人にとってもこの事実が希望になるのか、デリクには分からなかった。 それぞれがばらけて街の中を歩く。エアーとカランはいつも一緒だ。いつからだったのか、エアーははっきりと思い出すことができる。最初は、カランのことが迷惑極まりなかった。 大戦が終わって、カタン・ガータージ・デリクの補佐官、という役職から解放され、エアーの性格は日に日に変わって、今に至ったといわれている。何が原因なのか、様々な噂は立った。真実のほどは、自分でさえ分からないのだとエアーは言う。ただ「楽になったかな」と、自嘲交じりの笑みを浮かべて言うのだ。カランにぽつりと洩らした言葉によれば、「時々無償に」と。言葉をとめてしまうらしい。 エアーとカランはバチカのほぼはずれになる、港の端にいた。石で整備された箇所が途切れる。そこから先は、ごつごつとした岩が転がる低い段壁だった。 「っうあーっ、飽きるほど浴びたけど、やっぱりいいよな、潮風はよ」 エアーは段壁の先端で両手を上げて大きくのびをする。カランはエアーの少し後ろで、潮風に乱れる長髪を、鬱陶しそうに抑えた。 「そんなにいいか? 俺は別になんとでもないけどな」 「そうか? そういうもんか?」 エアーが肩をすくめた。カランもまねして肩をすくめ、少しだけエアーの立つ先端に近づく。 「まぁ、時と場合には、よるよな。でもやっぱ、俺は晴れたときの海が好きだな。嵐んときは……無償に怖いけど」 「怖い?」 「あぁ、怖ぇよ。なんか、死んだ後の世界見てる気分にならねぇ?」 「別に」 嵐の海自体あんまり見たときないしなと、カランが短く息を吐いた。そりゃそうかとエアーは失笑を浮かべ、先端、ぎりぎりに立つ。 腰に吊るした剣を外すと頭上に掲げて、少しだけ笑みを浮かべる。 「俺は、あれかな。死んだ奴は、みんな海に還るって信じてるせいかな」 「海? 月じゃないのか? 特に剣士は」 「俺に天魔の獣たちの話は通じねぇぜ。まぁ、存在を信じてはいるけど、そいつらの言葉信じたら、俺は、存在しちゃいけないだろうが」 「俺には関係ないけどな」 カランはしれっとして答え、空を見上げた。 天高く晴れ渡る空は真っ青で、薄い白い雲が空を横断していた。 「なぁ、エアー」 「うん?」 「『時々無償に』、なんなんだ?」 「………」 エアーが黙り込む。カランが続きを知りたがったのは、これが初めてのことではない。不意に気になったときに、カランは無意識に訊いている。しかし、エアーが答えることはなかった。 別に答を気にしているわけではない。ただなぜか不安になるときに、誤魔化すために疑問を口に出しているだけだ。 ガシャン、と音がした。エアーが持っていた剣を地面に落とした音だ。エアーは「ああ」と淡々とした口調で呟く。 「気ぃ抜きすぎた……」 剣を拾おうとしゃがみこんで、エアーは立たなかった。剣を手にせず、しゃがみこんだ状態で、再び海を見やる。 水平線が、どこまでもどこまでも続いていそうな、果てしなく広い海を。 「その続きは、俺が口にしちゃいけない言葉だからな……」 カランは言及しなかった。気を使っているのか使っていないのか分からない奴だなと、エアーは失笑を浮かべて思う。本当は、口にしてはいけないのではなく、口にするのが怖いのだ。本当に実行してしまいそうな自分がいる、そして実行できない現実がある。 自分の足に頬杖をついて、エアーは短く息を吐き出した。 「ここさ、俺がサリアを殺したあとにたどりついた場所なんだぜ。そんときはもっと殺風景で……雨が降ってた。嵐、だったかな。よく覚えてねぇや」 今でも覚えている。その時に思ったことを、絶望を抱えて離そうとしなかった自分の、成りの果てを。 「なんで、俺が生きてるんだろうな……サリアも、クレハも死んだ。このバチカで、俺のせいで。死んだら悲しむ奴がたくさんいた奴らなのによ」 カランは黙ったまま、何も言わない。何も言えないのか、エアーには分からなかった。何故、まるで懺悔のように告げているのか、自分の心さえも。 ただ海に行きたいと呟いた自分に、何も言わずに付き合ったこの男には、おそらく一生かかっても感謝しきれないほどの感謝を抱えている。 「付き合ってくれてありがとな、カラン。この海に、きっとサリアもクレハも……俺の兄貴もいる。見れて良かったよ」 カランが黙ったまま背中を向けた。潮風に乱れた髪を押さえ、空を見上げる。 「そっか」 「あぁ、少し頭冷やしてもいいか。久しぶりに泳ぎたいかも」 「うん、俺は付き合わないけどな」 「そうだな……あぁ、そうだカラン」 思いついたように、エアーが声を上げた。エアーはカランに背中合わせで立ったまま、同じように空を見た。 青い空に一騎の竜が。 「ついででいいからマナバナ……買ってきてくれるか。とびきりでかい奴」 空を飛ぶ竜は、誰かを乗せていた。人影が微かに見える。まるで空に穴を開けるような、真っ黒な竜だ。 カランは空を一瞥して、地面を見た。額の布を直して、小さく頷く。 「あぁ。溺れるなよ、ユーガじゃないけど」 「酷ぇな、大丈夫だって」 黒い、黒い、真っ黒な。 月のない夜空に解ける、黒い竜騎士――カタン・ガータージ・デリク。 「活気のある街だね、ティーン」 ウィクはティーンとユーガにはさまれた状態でバチカの街を歩いていた。ユーガはバチカの出店に並ぶ珍しい品々に興奮気味で、二人から離れてしまうこともしばしばだ。 ティーンはウィクを横目でみやり、少しだけ笑みを浮かべた。 「そうですね、ウィアズ王国の二大港町より活気があるかもしれません」 「あはは、そうだね。でもフリクが一番ってことにしておこう。そんなことを言っていたらアタラが冷笑を浮かべそうだ」 「そうですね、そうしておきましょうか」 二人して小さく笑い、露天を眺めながら歩いた。後ろから小走りで追いついたユーガが二人の顔を覗き、「ウィク様、ティーンッ」と。 「もう少しゆっくり歩きましょうよ、珍しいのがたくさんありますよ、ね、ウィク様」 「そうだね、あの魚は見たときがなかった。面白い形をしていたね」 「はい、だからもちょっとゆっくりっ!」 「ユーガは見てくるかい? 今日はティーンと二人でも大丈夫だと思うけれど」 「え、ヤですよ。王子と一緒に行きます」 「だったら、はぐれないようにするんだな、ユーガ?」 「ちぇ、ティーンは見たくないのかよ。実物見たほうが面白いしさ」 「私は――」 前かがみになって問うユーガの顔を見下ろして、ティーンが少しだけ口を止めた。ユーガの顔を見て、少しばかり驚いた、という顔でもあった。 少しして、ティーンはウィクの顔を見やって笑った。ウィクは眼があうと、悪戯な笑みを浮かべ、肩をすくめて見せる。 「私は、おそらく大半が聞いたときのあるものだからな。半分くらいは見たときもある。興味がないといったら嘘になるが、殊更見たいほどではない、かな」 「何だよそれー」 ユーガが面白くなさそうに顔を口を尖らせた。ウィクとティーンの横に並び、頭の上に腕を組んだ。 「いいですよ、我慢しますから。でもじゃあ、どこに行くんですか?」 「共同墓地」 ウィクが即座に、短く答えた。ユーガが訝ってウィクを見やれば、ウィクは少しだけ首をかしげ、微笑を浮かべる。 「面白くないところだよ? 本当についてくるかい?」 「………」 「ついてこなくてもいいんだぞ。国外でできることなどたかが知れている。私一人でも大丈夫だろう」 「……くよ」 立ち止まって、ユーガがティーンを見上げた。意固地になっている。ティーンが少しだけ眉を上げると、両手を握って地団駄を踏んだ。 「行くよ! 絶っ対行く!」 「意地になることもないだろう。だからエアーに面白がられる」 「行くったら行く! 俺がウィク様護るんだ!」 「まったく……」 短く、ため息を吐いて、ティーンはユーガの頭をぽん、と叩いた。ゆっくりと歩き出し、失笑を洩らす。ウィクが少し先でくすくすと小さく笑っている。 「だったら文句を言うな。おいていくぞ」 先に歩き出したティーンを見やり、ユーガは「あーっ!」と軽く叩かれた――おそらくなでられたのだろう――頭を片手で押さえて叫ぶ。 「ティーン今俺のこと子ども扱いしただろ! 人のこと言えないんじゃんか!」 そうやって皆で俺のこと子ども扱いするんだ、などとぶつぶつ文句を言いながら追いついてくるユーガを、ウィクとティーンは並んで待った。 ユーガが親衛隊になる以前も、二人の間には酷く騒がしい男が一人いた。懐かしくも、寂しくもある。 ウィクはティーンを見やり、「あははっ」と声を上げて笑う。 「きっと彼も、ユーガなら大歓迎だ。そうだろう? ティーン」 ティーンは微笑を湛えたまま、何も言わずに前を見た。ユーガが追いつくのを待ってから、少しだけ空を見上げ、小さな声で「そうですね」とだけ答え、ゆっくりと足を振り出す。 共同墓地の敷地はすこぶる大きく、小さな石碑がところ狭しと並んでいる。大戦時、バチカで死んだ人間の数だけ、といわれている。だが実際には石碑以上の数の人間が眠っているのだろう。ウィアズ王国軍やマウェート王国軍の人間だけではなく、もとはバチカに住んでいた民も、死んだ人間がいるはずだ。 「ティーン」 ウィクは石碑の間の細い道を歩きながら、後ろに並ぶ、親衛隊長であり、長くを共に過ごしてきた秘書の名を呼んだ。ティーンが短く返事をすると、ウィクは小さく、そして短く笑いを吐き出した。 「皆、月で幸せに暮らしているだろうか」 「……そうであれば、いいですね」 「そうだね、幸せに……平和に暮らしていてほしい」 共同墓地の真ん中には、死した人へ贈る品物を置く空き地がある。花で囲まれた台の上は既に、多くの花や品物で埋め尽くされていた。 「あはは、参ったな。マナバナもずいぶん置かれてる。目立たないかもしれないね」 「目立つ必要はないでしょう。死者に対する思いを一つ添える、それだけで充分意味はあると思います」 「そうか……そうだね。届くよ、きっと。他の誰でもない、ティーンの思いだ、皆も喜ぶ」 「………」 ティーンは手に持ったマナバナの束を一つ、段の上において、空を仰いだ。――死者は月に行くのだという。ならば、今見えない月に、思いが届けばいい、それだけでいい。 決して、あなたがたの死は無駄ではなく、今も感謝し続けているという、思いが。 「なぁティーン。その花はどこにやるんだよ、まだ他に置く場所があるの?」 「あぁ……これは私個人の問題でもあるからな」 「そうかな、私も彼に会いに行きたいんだけれど……ついていってもいいかい? ティーン」 ティーンが顔を下ろした。きょとんとした顔でウィクを見やり、少しだけ破顔する。 「えぇ、もちろんです。ユーガもくるか? 歓迎するぞ」 「八割以上わかんないけど……いくよ」 「あっはは、そうか。クレハの墓は、ウィアズ王国軍人の敷地にあるはずだ、確かこちらの方向だったと……」 笑いながら進みだしたティーンが、不意に足を止めた。進もうとしていた方向を見つめ、笑いを消して口を閉じる。 ウィクが訝って同じ方向を見れば、ウィクはうっすらと笑みを浮かべて歩き出す。歩き出すウィクを見やり、ティーンは思うのだ。強いなと。 「そこだろう、ティーン。先客がいるようだけれど、もしかしたら隣かもしれないからね」 「えぇ……本当に、ウィク様には敵いません」 重々しい足取りで、ティーンは足を振り出した。心のどこかで進みたくないと、会いたくないという自分がいる。あの時のことが脳裏に浮かんで、逃げ出したい気持ちにさえなる。 「久しぶりだな、カタン。何年ぶりになる」 墓の前に立ち尽くした男、カタン・ガータージ・デリクは、ティーンの呼びかけにゆっくりと振り返った。数年前に失踪したときと同じような、黒く真っ直ぐで長い髪に黒い瞳、黒を基調とした衣装。間違いようがない、故にこそ彼は戦争時『黒い竜騎士』と呼ばれたのだ。 「……ティーン?」 「私はそんなに変わっただろうか。そんなつもりはなかったのだがな」 笑い交じりに言うティーンの言葉に、カタンが首を横に振って、小さく笑みを浮かべた。ティーンに向かい直れば、先ほどまで弱弱しく見えたカタンは、昔よりは少し痩せたものの、あまり変わりないように思える。 「かわらなすぎて、驚いただけだ」 「それも言葉だな。ここで、見つけられるとは思わなかった」 「探したか、俺を?」 「一応はな。ただ、」 少しだけ空いた間に、カタンが首をかしげた。 「ただ?」 「いや……」 「エアーが探そうとしなかったからね、皆も諦めてしまったんだ」 「え……?」 眼を丸くして、カタンがウィクを見た。ウィクはニコニコと笑ったまま、表情を変化させようとしない。 「ふ……っははっ! あはははっ!」 カタンが笑い出す、ティーンもユーガも訝ってカタンの顔をみた。カタンの笑いはすぐには止まらなかった。心底おかしいというように、腹を抱えて笑い出す。 「エアーらしい。おかしいな、悔しいはずなんだが」 「私は、最初に違和感を覚えたのはその時だったのだけれど」 「他の人間にとっては、そんなものか」 当たり前かと呟き、カタンは微かに笑いの残る顔で三人を見渡す。 「カタンはまるで、」 「エアーとは、一生相逸れない。勘違いはするな?」 「それは、エアーがサリアを……あなたが愛した人を、殺したからかい?」 カタンが失笑を洩らした。 「違うな。ことの発端全ては俺の愚かさからある……でなくても、おそらく。あいそれないんだろう。理解しあうことはあっても、反発せずにはいられない」 「その終着点が、あの事件か……はた迷惑は話だな」 「そうだな、ティーンには随分迷惑をかけた」 「終わりと決め付けてはだめだ、カタン、ティーン」 ウィクがにっこりと微笑んだ。 「まだ、二人とも生きているんだ。できることはいくらでもある」 「そう……生きていれば」 カタンがウィクを見る。口にも眼にも浮かんだ笑みは、酷く優しく、儚かった。 「俺は、最後まで理解しようともできなかった、サリアとエアーのことを残念に思うよ。サリアが今も生きていれば、もしかしたら和解できたのかもしれない……俺の愚かさと、しかたのなさを嘆き笑いながら」 「お前が……カタン。何も言わず去ったのは、やはりサリア・フィティが――あの事件のせいか」 「俺自身のせいだ。俺の愚かさを、俺は呪った。どうしようもない、けれど、それでも生きなければならないのだと。クレハやサリアがくれた、おそらく永い……もしかしたら少しだけ短い余命を、自分で絶つことは俺には出来ないからな」 「俺以外の誰にも渡すつもりはないけどな、カタンを落とすのは俺なんだって決まってる」 何の音もなくカラン・ヴァンダは現れて、四人の間をすり抜けた。カタンを一瞥したのちは、誰も見ない。カタンが横に立っていた墓石の傍に立ち、小さな花束を置いた。 「カラン……クレハを、知っていたのか?」 「名前だけは。有名人だったからな、クレハ・コーヴィ」 「名前だけで花を手向けるのか、お前も物好きだ」 「別に」 カランが踵を返し、全員の顔を見やった。カランの顔には表情はあまり浮かんでいない。いつも表情をつくるのさえ忘れているのか、はっきりとした表情をつくることはあまりない。 「俺はエアーの代わりに置きにきただけだ。意地でも張ってるらしくて、こようとしなかったから」 聞いたカタンが、ゆっくりと背中を向けた。天を仰ぎ、短く失笑する。 ウィクはカタンの表情を盗み見て、少しだけ眼を細めた。なんて、哀しそうに笑うのだろうと。 本当はきっと、会いたいのだろう。カタン自身が逃げ出した場所にいる、多くの人々と。 カランはカタンを一瞥しただけで、すぐに踵を返した。再び四人の間を抜けて去ろうとするカランを、カタンが呼び止めた。背中を向けたまま、呟くような声で言うのだ。 「……元気で、カラン」 カランは応えなかった。一瞬だけ躊躇して立ち止まった足はすぐに動き出して、カランはすぐに立ち去る。「夕方遅れないようにしてくださいね」と去り際に呟いたのは、もしかしたら自分をごまかすためだったのかもしれなかった。 「夕方?」 カタンがニコリと笑って問うた。ウィクは小さく頷き、「うん」と。 「カタンも一緒にくるかい? きっと皆喜ぶ」 「遠慮しておく」 背中を向け、カタンは少しだけ頭上を眺めた。頭上に広がるのは青い空、月のある果てしなく遠い場所。 「俺がいける場所でなはないだろう、ましてや、あいつがいい顔をするはずがない」 二つの嘆息が重なって、カタンが振り返った。重なった一つはカタン自身のもので、もう一つはティーンのものだった。 ティーンは半眼でカタンを見やり、肩をすくめてみせた。 「どうしてお前とクレハが仲がよかったのかが、ようやくわかったような気がした」 「ティーン?」 「お前もクレハも、過去にこだわりすぎだ。過去の遺恨にこだわりすぎだろう。私もすべてを非難できるほどではないが……」 ティーンが顔をゆがめた。親友であるクレハの墓の隣でこんな口論をするなど、クレハが化けて出てこないとも限らない。 きっと、出てきたならば言うだろう。 『ティーンは難しく考えすぎなんだよ、カタンは周りが見えなさ過ぎ』 ――きっと笑いながら。そのお気楽な笑顔が、今ではただ懐かしい。もう哀しくはない、時が癒したのかなんなのかはわからなかったけれど。 「単純に自分のしたいことをすることが、解決に繋がることもあるんだろう? 私はそう思っているが」 カタンが失笑を浮かべた。ティーンも小さく笑みを浮かべ、クレハの墓石を見やった。 名前のみが記された、形だけの墓石。戦時中の遺体など見当たらない、みつかるはずがない。勝利した国の魔道士が浄化の炎で戦場を清めるのだから。それも、公然と闇に葬られた事件だ、証拠になるようなことを残せるはずがない。あの時、その場で炎に消えていく二つの遺体をティーンもカタンも見つめていた。 燃えた跡には跡形も残らなかった。ただ炎の暖かさが少しだけ名残惜しそうに残っていただけ――それすら降り注ぐ雨がすぐに流してしまったのだけれど。 きっと月から見ているだろう、ティーンは思っている。面倒だといいながらも、世話好きなクレハのことだから、月で知り合った誰かと笑いながら見守ってくれているのだろうと、信じている。 少しだけクレハの墓石を眺めたカタンが背中を向けた。黒髪が少しだけ風になびく。 「そうか……そうだろう、そうだな。そのために俺は、お前らと一緒には行けない。……すまない」 墓地の奥へと進む背中へ、ウィクは小さな声で声をかける。遠くて、妙に小さく見える背中へと、声が、心が届けばいいと思う。 「カタンが謝ることではないよ。謝るべきことでもない……ただ、周りにいた人たちも寂しいと思っていたこと。どうか、分かってほしい」 空は赤みを増して、風も冷たくなりつつある。ウィアズ王国よりも寒いマウェートの土地だ。夏が過ぎて冬に近づきつつある昨今、もしかしたらどこかで雪が降って、バチカに風花でも飛んでくるのかもしれない。 ウィクはカタンの背中を眺めながら、短く息を吐き出した。 夕暮れを背負って消えていく黒い竜騎士の背中は遥かに遠く、追いつけそうにも、追いつこうとも思わなかったけれど。 いつかまた、会えたら、と思う。 屈託なく笑い人と接する、戦争の英雄カタン・ガータージ・デリクと。 「ねえウィク様」 カタンがいる間黙り込んでいたユーガがおそるおそる声をかける。ウィクがユーガの声に振り返れば、ユーガは少し後方でしゃがみこんでウィクの顔を見上げている。 「話聞いてて思ってたんですけど、クレハ、って誰なんです?」 「あぁ、クレハは」 「クレハ・コーヴィ」 ウィクの横で、ティーンが淡々と答える。ウィクが苦笑を浮かべるのに、どうかしたのかと肩をすくめて。 「私の幼い頃からの親友だ。このバチカで――」 手に持っていたマナバナを、しゃがみこんでクレハの名前が刻まれた墓に添える。クレハはマナバナが好きだった。マナバナを見て、笑いながら言うのだ。 『ウィアズ王国もさ、この花みたいにでっかい国になればいいよな』 そうだな、と思う。そうしたいと思う。 自らの手でその笑顔を消してしまった後も、変わらずに思う。 「――そうだな。このバチカで、私が殺した相手だ」 言うと、ゆっくりと立ち上がる。沈黙が流れる中、ユーガがぽっかりと口を開けた。 「……え?」 「どうした、何か驚くことでもあったのか」 「そりゃ驚くよ!」 ユーガは大げさに両手を上下させてティーンを見上げる。ティーンはユーガを見下ろし、首をかしげて見せた。 「親友だったんだろ? どうして……っ」 「理由は教えるつもりはない、誰にも……ウィク様にもです、分かっていますね」 「うん、わかっているつもりだ」 ウィクはにこりと笑って小さく頷く。ティーンは苦笑を浮かべ、四年前のあの日のことを思い出していた。 ――紅い記憶。夕暮れに染まった水平線に、大陸側からは真っ黒な雲が押し寄せて、薄暗い、不気味な日だった。 真っ赤に染まった親友が笑いながら消えていく。胸には、大きな刺し傷が刻まれている。 『いんだ、殺されて当然なんだぜ、俺なんか……』 空へと伸ばした手は何も掴まず、ゆっくりと倒れては動かず。自分はただ、彼の顔を見つめながら苦し紛れに何かを呟いていた。何を呟いたのか、自分では覚えていない。ただ喪失感と罪悪感と義務感とが合い混ぜになって、自分を保つことで精一杯だった。 どんな理由があっても、殺して許されるとは思っていない。殺されて当然の存在があるはずがない。たとえそれが自分にとってどんなに憎い人間であろうとも、殺されて当然などではないのだ。 ティーンは息を吐き出してごまかし気味に眼鏡の位置を直した。 「行きましょう、ウィク様。日暮れが本当に近くなりました、遅刻しそうです」 「ティーン」 ゆっくりとティーンが歩き出す。少し後ろをウィクが歩いて、穏やかな声で言うのだ。 「私は、クレハのことを一番よくわかっているのはティーンだと思ってる。きっと、クレハよりも」 「私はなんとなく……私がなんとなくというのもきっとおかしいとユーガは思うのだろうが、なんとなく。ウィク様が私のことを一番よく知っていらっしゃる気がします。きっと、私よりも」 ティーンが笑い交じりに振り返れば、ウィクはきょとんと眼を丸くして、「まいったな」と、けらけらと笑いはじめた。 「ティーンにはどうやっても敵わない。悔しいな」 「でも」とウィクが続ける。共同墓地の端で馬の手綱を取って、軽々と馬に跨る。 「ティーンも私には敵わないんだろう? 先に行くよ、ティーン。どっちが先に集合場所に到着するか競争しよう」 「……ウィク様?」 ティーンが顔をゆがめて問う。直後、ウィクは馬の手綱を引き、腹を蹴って走らせてしまった。 「ウィク様! まったく……出先で独りにさせるわけにはいかないとあれほど……!」 ユーガがぽかんと見守る中、ティーンも素早く馬に跨ってすぐさま馬を走らせた。 「あ、ちょ、ちょっと待てよティーン! 待ってくださいよ、ウィク様!」 ユーガがレジャーを呼んで、ウィクとティーンの二人の頭上を竜の影が横切った。ティーンはすぐにウィクに追いついて説教をする寸前で、だが口を止めた。 「あははっ、やっぱりティーンは速いな。ノンフィが速いだけじゃなさそうだ」 「わざと待っていたでしょう、ウィク様」 「うん。ははっ、やっぱり見破られた。説教が長くなるのは嫌だからね」 海岸沿いへと馬を走らせながら、ウィクは少しだけ頭上を見上げた。レジャーに乗ったユーガがもうすぐ追いついてくる。 「ユーガは、どこかクレハに似ているね」 「……ユーガが、ですか?」 「うん、そうだな……どこが、とはいえないけれど、どこか似ている。ティーンはそう思わないか?」 「私には分かりかねます。あえて言うなら、二人とも私に世話をかけさせすぎるところでしょうか」 「あはは、厳しいな、ティーンは」 いつかもう一度、とウィクは思っていた。いつも表情の変化が少ないティーンが、心置きなく表情を変化させる相手が再び現れて、また一緒に笑いたいと。 「しかたがありません。世話をするのは、どうやら私の性分のようですから。私も人のことは言えませんね」 ぼやきのように呟いてティーンが笑いを溢した。ウィクも一緒になって笑い、進む方向を見やった。 「さぁ競争だ。私も本気だ、負けないぞ?」 夕暮れの海岸沿いに馬の走る音が響く。 夕暮れは紅く、海は血に染まった昔のバチカの姿をまるで映すかのようにある。だが今は今だ。二つの国は平和となり、バチカにも生きる人間が溢れている。 いつかまた、笑えるだろう。 この世界は――クレハが旅した世界は、希望と可能性が多く、存在しているのだから。 |