天馬に女しか乗れないことは、全世界の常識であった。乗れないことはないという天馬騎士もいるが、天馬はほぼ女にしか懐かないのである。竜騎士の竜は男にしか懐かない。どちらも一つの洞窟から生まれ、全世界に羽ばたいていく。 昔、エアーは男性の乗った天馬を見たことがある。美しい天馬に乗った、中性的な顔の男だった。 「……なぁ、カラン」 エアーは見張り台の上で、相棒と称される弓士カラン・ヴァンダと城の周りを見張っていた。――もとい、他の仕事をサボっていた。 カランは鈍い金色の、長い髪を持つ男である。髪を必要以上に長くするとき、大抵は願掛けがしてある。――誰かに負けない、と心に決めた男が伸ばす場合が多いのだ。女の場合は、ただなんとなく伸ばしているというほうが多い。カランはただなんとなく伸ばしているという男だった。二人とも、ウィアズ王国第二王子のウィクの親衛隊である。 エアーは城下町に近づいてくる天馬を指差す。ゴマ粒ほどだが、エアーは眼がいい。カランはさらにいい。すぐに理解した。 「たしか、デリク・ガータージ・カタン」 「だよな、危うく昔の名前言うところだったけどな」 「それ禁句だし」 「あぁ禁句」 エアーは真顔で返答し、カランの顔をみた。カランはエアーの顔を見ると、短く嘆息する。――どうせエアーは、面白そうなことには首を出さずにはいられない性質だ。 「会いに行かねぇ?」 「俺は嫌だ」 カランはきっぱりと断る。エアーは悪戯に笑い「な」と、繰り返す。 「面倒くさいし」 「城にいて、ティーンにつかまって、見習兵士の訓練とか副官しきってる隊に戻されるよりましだろ?」 「それもイヤだ」 「ほら、な? 行こうぜ、カラン。善は急げだ」 「っていうかエアー。気がついてていってるだろ」 カランはエアーの背後を一瞥する。エアーはけらけらと笑って「分かる?」と、飄々と言ってのけた。 エアーの背後に、二人の女がいた。天馬に乗って、一人は苦笑を浮かべ、もう一人は静かにエアーを眺めている。 カランは、首筋をかく。――まったく。 「アタラもヴィアも、黙ってないで何とか言ってやれよ。たいてい突っ込んで欲しいだけだから」 エアーは黙って、振り返った。悪戯に笑ったままの顔で、片手をあげて飄々と挨拶してみせる。 「よ、アタラ、ヴィア。お前らも暇そうだな」 「エアー、怒られたいの怒られたくないの」 天馬を操るヴィアは、エアーを見据え言う。ヴィアは桃色の髪と桃色の眼を持つ天馬騎士で、エアー、アタラと並ぶ高等兵士だ。カランは一つ階級が上の最高等兵士で、弓士の最高峰の称号スナイパーを持っている。 ヴィアの後ろに乗っているアタラは、魔道士である。最強魔道士と呼ばれ名高い、世界唯一の白黒魔道士である。魔力の象徴であるとされる赤紫の髪を持ち、黒い瞳で真っ直ぐに見据え、刺すように言うのだ。 「怒られたいだけでしょ」 「アタラ、俺は怒られたいわけじゃないぜ」 エアーは二人に責められるのに慣れていた。ことにサボりを繰り返すようになってからは、二人に見つからない限りはほとんど動かない。見つかってからも動かないことが多いが、仕事は何故かしっかりやっている。『仕事激減してヒマで』、と技とらしいあくび交じりに言う、飄々とした男だ。 「俺たちは仕事も終わったから」 カランがあくび交じりに言う。アタラはカランを鋭く一瞥した。お前はどっちの味方なのだと――絶対にエアーの味方なのだが。 アタラは二人を同時に見射る。 「近々、城を離れるかもしれない」 エアーもカランもぴくりと反応を示した。 「そのとき私たちはついていくけど、二人はどうするつもり?」 エアーはカランを見た。カランも同時にエアーを見やり、眼だけで合図をとった。 「俺たちは、」 「ウィク様を護るだけだぜ?」 ウィクの親衛隊はアタラとヴィアをあわせ、あと二人。 ウィクは自分の執務室のベランダに立って、ぼんやりと風景を眺めていた。ウィクの執務室から見える風景は殺風景だ。城壁、平原、川。城壁の中に訓練にいそしむ兵士の姿も見えるが、ウィクはどこも見ていない。風が気持ちいいなと、考えているだけのように見える。 ウィクはウィアズ王国唯一の黒髪を持つ王族であった。黒い髪に青い目。顔立ちは美しかった王妃に似ている。だが王妃も国王も金色の髪を持っており、誰の子だと、噂は尽きなかった。 「王子ぃー! 面白い情報が入りましたよー!」 ウィクが眺めている風景の中に、唐突に人の姿が現れた。竜騎士である。竜に乗る青年は二十歳のウィクより若く、十八。にもかかわらずヴィアやエアーたちと並ぶ、高等兵士の階級だ。 ウィクはやんわりと微笑んだ。 「やぁユーガ、そんなに急いでくるほど面白い情報だったのかな? はははっ」 「はははっ、って笑い事じゃないですよ王子! ガータージが城下町にいるかもしれないんです!」 「……ガータージ?」 ウィクが顔を歪めた。ウィクは十四歳のときから戦争に出ていた人間である。ガータージの姓名を知らないほど、兵士たちから隔離されていたわけではない。 ガータージ、異名を聞けば誰でも知る、「黒い竜騎士」カタン・ガータージ・デリク。今は、誰も所在を掴むことができなくなっている、四年前まで続いた大戦の英雄の一人だった。 ユーガは「はい」と、元気良く答えた。竜の背中から飛び降りて、ウィクの横に着地する。背中に大きな剣を背負っていながら身軽だ。 「そうです! ガータージですよ王子っ!」 ユーガは興奮した様子で、ウィクの手を取った。ユーガが乗っていた竜は大きく旋回している。 「会いに行きましょう! 大丈夫です、俺が護りますから」 がしっと手を掴んだまま、ユーガは身を乗り出した。無邪気な顔で、旋回している竜を呼ぶ。 「まっ、待てっ! 仕事が――!」 「サボってて何言ってるんですか。おーい、レージャー!」 有無を言わさず、ユーガは相棒である竜の背中へとウィクを担ぎ上げて乗せると、自分も軽やかに竜へと着地する。ウィクがどんなに迷惑している顔をしていようとも、ユーガに悪気はない。むしろ、良いことをしたと思っているくらいのものだ。 レジャーにユーガが合図をした直後、ベランダの窓が、開いた。 「ウィク様、時間ですので……って」 開いた場所から出てきたのは、ティーン・ターカーである。さほど長くない茶色の髪を一つにまとめ、珍しい眼鏡をかけた騎士だ。馬上で長剣を使う、文武両道のウィクの秘書である。 ティーンは大きく嘆息すると、鋭く息を吸い込む。 「ユーガッ!」 ティーンは迷わず犯人の名前を叫んだ。すでに遠くへと移動していたウィクは、ユーガの背中で振り返り苦笑を浮かべる。 「ごめんよティーン! すぐに帰るから!」 「すぐって……」 ティーンは小さくなるウィクの背中を眺め、こめかみに手を当てて嘆息する。 「ユーガがすぐ帰すはずがないでしょう……。しょうがない、迎えにいくか」 すばやく踵を返し、許しを得て部屋の端においてあった長剣とる。ユーガの実力は認めているが、まだ不安なところがある。何せ、まだ正式な兵士になってから四年である。四年前で四年ならまだいい。だが平和になってから、戦いはほとんどなかった。実戦経験はウィク以上にない。 ティーンは執務室の外に出た。執務室から見下ろせる吹き抜けの一階で、エアーとカランが物陰に隠れたのが見えた。二人ともやることがなくてサボっているのだ。ウィクでも通りかかったときに、一緒についていこうだなどと相談しながら。 ティーンは帰ったら二人にも仕事をやってやろうと思いながら階段を降りた。 親衛隊の六人とウィク。 王国軍本隊からも恐れられる七人の集まりは、自由的であり、なにより異質な存在だった。 城下町についたユーガとウィクは並んで歩く。ユーガは城下町の有名な軍人一家の長男で、両親とも王国軍、高等兵士で小隊長である。もともと他の親衛隊の人間も王国軍、高等兵士で小隊長であったから、親の同僚とユーガは仕事をしているのだ。 ユーガは、うぅ、と唸った。 「ティーン迷わず俺の名前言いやがった……」 半分泣きそうな声である。ウィクはけらけらと笑うと、ユーガの顔を覗き見た。 「だってそうだろう? 私を外へ連れだそうとする竜騎士は、ユーガくらいのものなんだから」 「それはそうですけど、俺もたまには『ユーガが?』とか、驚かれてみたいですよ」 「自業自得だね」 さらりとウィクは言い放つ。微笑を湛えたままだから、ユーガも毒気が抜かれた気分だ。しかも事の中心を射ている。――まぁ、それがウィクの良いところなのだろうとユーガは思う。故に、ユーガはウィクについてまわるのだ。 不意に、ユーガは表情に緊張を走らせた。直後、ウィクの顔を真面目な顔で見つめる。町の和やかな雰囲気が、ユーガとウィクの間だけ一掃されてしまった。 「王子」 「ユーガ、私を呼ぶときはウィクと……」 「ウィク様、目立ってます」 ウィクは苦笑を浮かべた。真面目な会話かと思えば、重みもないような言葉だ。――他人にとっては笑い話にさえなる。 けらけらっと笑い、ウィクはマントを脱ぐ。今日は外交で、朝から正装をしていたのだ。 「困ったな、ユーガが急ぐから、武器を持ってこないで来てしまった」 「大丈夫ですよ、俺が護りますから」 ユーガは大剣に軽くてをかけ、ウィクを背中にする。ぴりぴりとした緊張感が、微かに人を遠ざけた。 ウィクは微笑んだままだった。城下町の大通りを歩く人々が訝しげに覗いて行くのに、軽くお辞儀をする。 刹那、人ごみの中から、剣を持った男が飛び出してきた。ともすればただの町民であるように見える格好で、鋭い剣をウィクに向かって突き出してくる。 ウィクは軽く地面を蹴り、後方へと退いた。背中にいるはずだったユーガがいなくなっている。同時に、人ごみの中から甲高い馬の走る音が急速に――音速のごとき早さで近づいてくるのがわかった。 カカラッ 馬の跳ねた音と同時、太い、不快音が響いた。――あぁ、また人が死んだ、とウィクは思う。目の前にいた剣を持った男が、胸から剣を飛びだたせ、硬直する。一度、胸から飛び出した剣を確認し、ぐったりと力なく倒れた。 続けざまに後ろでも音がする。小さな断末魔が聞こえ、ユーガの目の前にもう一人剣を持った男が倒れる。胸が大きく切り開かれていた。 ――また、自分の近くで人が死ぬ。 「暗殺者を、処分」 硬質な声で、ユーガとティーンが言う。ウィクは少しの間目を伏せたが、微笑を崩さない。 不意にティーンを見やり、ウィクは唐突に微笑を崩した。 「ティーン、馬から降りるんだ!」 叫び、地面を瞬発する。もともと剣士の素質をもつウィクの瞬発は、命令されたティーンが反応を遅いと悔やむほどだ。 ウィクは手に持ったマントを大きく翻す。ティーンの背中に位置する場所に、弓士が矢を番え狙っているのが見えたのだ。 バサッ! マントが鋭く直進してきた矢を受け流す。丈夫な生地でできたマントだ、無理ではなかった。ティーンは馬からは降りず、馬を前方へと走らせ、すぐに馬面を返す。ウィクが背後にくる直前だった。 矢が地面に落ちる。ウィクは何気なく矢を取った。矢文だった。 ティーンは馬から降りウィクに近寄る。ユーガはレジャーを呼んで、弓士を追いかけて行った。 ウィクは慣れた手つきで紙を広げ、一瞬の後、ニコリと笑って見せた。 「ウィク様、お怪我はありませんか」 「いいや、私にはないよ。ティーンとユーガのおかげだ」 ティーンは首を静かに横に振った。紙に書かれていた文面を見てしまったのだ。短い文で、読むのには一秒とかからない。 『偽りの王子はいてはならない』と。 「あぁ、死人が出てしまったね。片付けないと……皆さん、申し訳ありませんでした。すぐに片付けさせていただきます」 ウィクは城下町の民へと頭を下げた。本来、王族である彼が、頭を下げるべき相手でも敬語を使うべき相手でもない。「片付けておけ」と言っても、誰も逆らわないだろう。ウィクは王族とは本質的に違うように感じられる人間だ。 ティーンが死体に手をかけた瞬間だ。ユーガは、と問おうと口を開いたウィクの目の前に、中性的な顔の男が進み出た。黒い髪に淡い赤い眼。どこかに上品さをまとった男だ。 「ウィアズ王国第二王子ウィク様か。国王の目の前にあるような町で、血なまぐさい場面にでくわすとは思わなかった。あなたはトラブルメーカーと言うわけだ」 ぼんやりと、ウィクは彼の顔を眺めていた。ティーンは彼の顔を一瞥した後、黙々と死体を引きずり、小道の方向へと引きずる。野次馬も手伝って作業はすぐに済んだ。 ティーンが横に並ぶと、ウィクはようやく口を開く。 「……あなたは?」 「私はただの旅人だ。風と共にあり、自由を好んで放浪するだけの、大地の民だ」 ウィクは、軽く微笑んだ。「そうですか」とだけ言うと、軽く頭を下げる。 「見苦しいとこ――」 「王子っ! さっきの弓士つかまえて門番に頼んできたので、改めて探しに行きましょうガータージっ!」 レジャーから飛び降りたユーガがウィクのすぐ傍に降りた。上空から大きな風が落ち、すぐに遠ざかって行く。顔を歪めた男が、ユーガを見やった。 「竜騎士……か」 確認するように、彼は言う。 「竜騎士、何を目標にしている?」 「俺?」 ユーガは微かに肩を上下させ、彼の顔を見た。 満面に笑顔を作ると、自慢気に言うのだ。 「俺は誰がなんて言ったって、デリク・ガータージ・カタン。男性でたった一人天馬に認められた人だ」 言う声は、意思の強さが滲み出る、柔らかい声だった。 男は薄らと微笑むと、「デリクか」と。 「そうか……ならば目標を見失わずにこい、大剣の竜騎士」 ユーガはけらけらっと笑った。男は踵を返し、背中を向けている。 「さすがに竜に乗っているときは、槍を使わないととどかないよ」 言った先には誰もいなかった。まるで最初から本当にいたのかどうかが分からなくなるほど、自然にいなくなってしまった。 頭上に、大きな影が落ちた。三人は頭上を見上げる。先ほどまで目の前にいた男が、天馬に乗って空を駆けていく姿が。 「あぁっ!」 と、ユーガ。 「ガータージっ!」 指差して叫んだ先で、デリク・ガータージ・カタンは声をかみ殺して笑う。 「良いことを聞いたな、セフィ」 天馬のセフィは小さな声で鳴く。 「彼はきっと、純粋でいい竜騎士になれる」 地上で見上げていたウィクは落とすように笑うと、不意に目線を下ろす。――ティーンと眼が合った。 「ウィク様、仕事が残っています」 「ティーン、そのことなんだけど」 「ユーガ」 ティーンはウィクの声を無視した。 ユーガは小さく「げっ」と声を発する。 「見習兵士の訓練。まだ未提出の兵士がいるぞ」 ユーガは苦笑を浮かべる。「やるつもりだったんだ」といえど、本当に忘れていた顔だ。 ティーンは二人の後ろ襟首を掴んだ。――帰り道、仕事をもう一つやって帰らなければと、他の親衛隊の面々の顔を思い出す。 ウィクはデリクが去った空を見上げ、小さく嘆息した。 (自由……) 彼が信じる自由とは、普遍的なものなのだろうかと、ウィクは不意に考えた。 王城の最上階にある国王の寝室の近辺は、静寂という騒がしさに包まれていた。 その中を、エアーはカランと共に歩く。二人とも軍の正装で、見た人々がそれぞれに様々な表情を浮かべて二人を見送った。 寝室の前で、二人は無言で立ち止まった。軍の正装は、儀式などの正式な場所でしか着ない。戦うときも訓練するときも、ウィアズ王国軍の中では服装は自由だった。 「……」 エアーは口を閉じたまま、カランを見やった。カランもまた口を閉じたまま、軽く後ろを振り返る。 後ろから歩いてきたのは、王国軍の大隊長である。カランは最高等兵士で、王国軍にいれば強制的な大隊長の資格を持っているから呼ばれたのだが、エアーが呼ばれたのにはまた、違った理由がある。 大隊長の後ろからさらにもう一人、従者を連れて歩いてきた人間がいる。 二十歳になったばかりの、セイト・ウィアズ――第一王子である。 セイトがくると、エアーは踵を返し、セイトへと向かった。大隊長とカランは部屋中へと入っていく。 エアーはうやうやしく、セイトへと頭を下げた。 「言われた通り、正装でここまで参りました」 セイトは従者に片手を挙げて下がるように命令すると、微かにニコリと笑いを作ってみせる。 「父上に挨拶をしてくれないか」 エアーは顔を上げ、訝ったように首をかしげた。地面に膝をつけばやめろというのがセイトだから、エアーは見下ろす形でセイトを見ていた。 「私がお目通り願えるのなら、願ってもないことですが……」 「いい、私が許す。嘘でもいい、私の近衛隊になったと言ってくれないか」 「は?」 「お願いだエアー。お前が近衛隊に入ってくれると父上が知ったら、さぞかし喜ばれる。安心してくださるだろう」 「それは反対でしょうセイト様!」 エアーは少し声を荒げ、胸に手の平を当てた。 「勝つためになら何でもした俺の非道さを、陛下はよく知っていらっしゃいます」 口調が少し乱れた。 セイトは首を横に振る。 「それでも……安心してくださるはずなんだ。陛下はお前を、戦争の忘れ形見の人間だと言っている。よく……クォンカやホンティア、三練士がいた戦争のころを懐かしんでいらっしゃる。戦争は憎むべきものだったが、多くの人がいたと……」 「それは……」 エアーは何も言えなくなってしまった。戦争の忘れ形見と称される理由がわからなくもない。戦争を契機に、自分は変わったと言われたのだから。 「エアー、嘘でいい。今部署を変われる人間はエアーくらいだ。父上もよく存じている」 「嘘はいいですが……親衛隊のことはいかがなさるのですか?」 「ウィクは剣士だ、案ずることはない」 エアーは軽く頭を垂れて、「そうですか」と呟くようにいった。――三年前、セイトに親衛隊への部署変えを命令された時は、もっと鋭かった。有無が言えない状況だったのだ。 セイトは「よし」というと、寝室の扉を叩いた。中から付き添っていた医者の「どうぞ」という声がかかる。セイトはエアーを伴って中に入った。 中には、大隊長とカランが並んで、国王と軽い会話を交わしていた。セイトは大きなベッドへと駆け寄った。 「父上、お聞き下さい」 嬉々としてセイトはいう。 「エアーが近衛隊に入ってくれるそうです」 「エアーが……?」 国王は弱弱しい声で答える。病床について久しい彼は、今日が山だろうと言われている。 セイトは、「はい」と力強く答えた。 「国王軍の第一線で戦っていた彼が来てくれるのです」 「親衛隊からかわるのか……エアー?」 エアーは聞こえないように嘆息する。――嘘も方便になるのかいなか。 「ウィクは剣士です、ご心配には及ばないかと」 「エアー・レクイズ」 「はい」 国王は強き声でエアーの名を呼んだ。エアーは条件反射で返事する。 国王はベッドの上で目を細め、ベッドの横に膝を突いていたエアーを見やった。 「無理はするな。お前は前から嘘が下手だ。親衛隊のまま、ウィクと王国を護ってくれ」 「陛下……」 エアーは頭を垂れる。横でカランが不思議そうに見やっていたが、エアーは無視した。 国王はくすりと笑った。はかなく、横でセイトがぐったりと肩を落としているのを笑うかのような顔で。 「皆……いいな、ウィアズ王国を護ってくれ。自由だが誠実を心に刻む国だ……民が誠実を忘れたのなら、王国は分解されてしまう。民の身近な見本となるような、軍であってくれ」 はい、と全員が小さく答えた。国王は満足そうに笑みをつくると「少し疲れた」と呟き目を閉じる。 (王国を護ってくれ……か。言われなくても) エアーはセイトが部屋を出るすぐ後ろについて部屋を出た。 出た直後、同じように部屋を出ようとする総司令の面々の顔を眺めるように振り返る。 ベッドの上で国王が静かに寝息を立てていた。静かすぎて、おそらく今晩、死んでしまうだろうと直感する。 「エアー」 「はっ、はいセイト様」 エアーは大げさに肩を振るわせ、セイトの顔をみやった。セイトは苦笑と怒りとを混ぜた、微妙な顔つきだ。 頭をさげながらエアーは嘆息する。――まったく。 「申し訳ありません、やっぱり俺には無理ですよ」 「やはり少し無理があった嘘だった。気にするな」 エアーは「はぁ」と生返事を返して、もう一度頭を垂れた。セイトはからからと笑うと、片手を振って別れを告げる。 「ウィクは好きか?」 「そりゃもう!」 エアーは跳ねるように顔をあげ、指を鳴らした。満面に笑みを浮かべて、子どものようだ。セイトは刹那、顔をくもらせる。 「俺はカランとウィク様がいなきゃ、城になんかいれませんでしたし。セイト様には余計に感謝しています」 「あぁ……ウィクを頼む、エアー」 エアーは満面に浮かべた笑みの下で、短く嘲笑する。 セイト・ウィアズの暗喩が聞こえる。エアーにしか分かり得ない、隠れた――隠れすぎた暗喩だ。 『ウィクを殺せ』 ウィクもセイトも、全てを隠しあって共存しているのかもしれない。 時は夕闇を過ぎて、世界は漆黒の闇に塗りつぶされようとしていた。 自室のベランダに立つウィクに、夜風が涼しさを運んでいる。ウィアズ王国は暖かい国だ。 ベランダの手すりに身体を任せ目を細めて、何もない虚空を見下ろす。昼間は机での仕事が終わったら外国からの客という、休む暇もないほど騒がしく忙しかった。故に、静かな闇は、酷く寂しく感じられた。 自室のドアを誰かが叩いた。ウィクの部屋は城の中末端にあって質素な部屋だ。 ドアが叩かれると、ウィクはすぐに反応し「どうぞ」と声をかける。 叩く主はドアの外から言う。 「ウィク様。国王陛下がお呼びです。至急いらっしゃいますよう、お願いします」 「あぁ、すぐいく。連れて来いというのなら、ほんの少し待っていてくれるかな」 「承知いたしました」 ウィクはゆっくりと動き出した。足取りが重く、先へ進みたくないと心の底から思う。 鏡の前で軽く服装を整えながら、自分の黒髪をつまんだ。国王も死んだ母も、金色の髪だった。母は本当の父親については何も語らなかったが、母が死んでからもう八年ほどたつ。調べはついた。 「陛下……いえ、父上。私を許してくださいますか?」 眼を閉じ、嘆息してドアの外で待つ国王の従者のもとへと歩いた。 ニコリ、と笑いを浮かべウィクは言う。 「さぁ行こうか。待たせてしまったね」 国王の部屋にいたのは、国王とセイトだけだった。ウィクが部屋の中に入ると、連れてきた従者は部屋の外へ下がる。 ウィクとセイトは並んで、国王の顔を覗いた。国王はニコリと笑いを浮かべて見せる。 「セイト、ウィク。今年の成人式に出席できなかったな……すまなかった」 「いえ、出席されずとも祝福していただいただけで充分です。父上はお体を大事になさってくだされば……父上が一日も早く復帰され、より長く生きてくださることが、私とウィクにとって何より嬉しいことです」 国王はセイトの顔を見上げ、力なく微笑んで見せた。 「そうか……ありがたいことをいってくれるものだ」 はは、と国王が声を立てた。 ウィクはじっと国王の顔を見つめていた。忘れまい、国王の姿を語り継げる人間でなければ。 「セイト、お前は国王になる。お前ならば民を上手く導いていけるだろう。奢らず、民のことを信じ考え、国を守って行ってくれ」 頭を垂れセイトは「はい」と答えた。 国王はウィクへと目線を移す。 「ウィク」 「はい」 心なしか、口調が固い。国王は目を細め徐に手を差し出し、ウィクの手を掴んだ。 「お前は私の子だ。王位を継ぐことはないが……お前は優しく強く育った。セイトを支えてやってくれ。お前はセイトの兄であり、友なのだからな」 少しの間、声が出ず、ウィクは半分だけ口を開けたまま沈黙する。しばらくして「はい」と力強く答える。 「あぁ」と国王は天井を見上げた。 「二人とも力強い返事だ。未来の美しく栄えたウィアズ王国の姿が見えるようだ……その姿を、皆と共に見てみたかったものだな……」 ウィクの手を掴んでいた手から力が抜けて行く。天井を見上げていた眼から光りが失われ、国王の身体が空洞と化す。 「陛下……」「父上っ」 ウィクは佇んだままうつむき、歯を食いしばった。セイトは顔を鷲づかみにして涙をこらえているようである。 ――これで。 (これで何かが終わったわけではない……) 国王の部屋の外に、黒い竜が見えた。通りすぎる顔が、いやに懐かしく、口惜しい。 黒い竜騎士が通り過ぎて行った。旋回して戻ってくる。 (陛下は、始まりを置いて行った……) ウィクは踵を返す。続けるようにセイトも踵を返した。 二人が告げた訃報はその日のうち――真っ暗闇になった空の下、一瞬で駆けぬけて行く。 次の朝城に到着した、国王の最大の理解者であり信頼を受けていたというクォンカ・リーエは城の前で、訃報に愕然として立ち尽くしたという。 だが、ウィクが彼の姿を見ることはなかった。 ウィクはセイトと会話を交わし自室に戻ると、再びベランダに立った。風に当たればどうしてか心が落ち着くような気がしていた。 「ウィク殿、国王陛下のこと、」 唐突に風が乱れる。バサッと連続して聞こえる音と共に、視界の中に白い天馬が現れた。 天馬に跨るデリク・ガータージ・カタンは、笑み一つ浮かべない顔で、小さく頭を垂れる。 「忘れてやるな……決して」 「あなたは」 ウィクはベランダから身体を乗り出し、デリクの顔を覗く。デリクが顔を上げ、眼があう。 ウィクは胸中でかぶりをふった。 「デリク・ガータージ・カタン……」 「フルネームで呼ばないでくれ。デリク、と呼び捨てにしてくれていい」 「えぇ……そうだったな」 短く嘆息して、ウィクは呟く。デリクは「ところで」と。 「ウィク殿、カタン・ガータージ・デリクを知っているか」 「彼のことなら、ウィアズ王国で知らない人はいないよ」 「昔の彼のことではない、今の彼のことだ。知らなければ知らないでもいい」 「……それは、誰も知らないことだ。ティーンもカランも見つけられなかった」 ウィクはかぶりをふった。――彼はどこで何をしていたのだろう。何故、国王の死に際にやってきたのだろうかと。 デリクは「そうか」と嘆息交じりに言う。 「しばらく城から出るつもりはないか?」 「え?」 「出るつもりがあるのならば……そうだな、明日の三時。まだ真夜中だ、城下町まで降りてくるといい」 「えっ、デリク! どうして私がっ!」 「自分で考えればいい」 デリクはぴしゃりと言い切り、天馬のセフィに合図する。セフィは向きを変え、ウィクに背中を向けた。 「どうして私が……」 デリクはすぐに闇夜の中に消えて行く。ウィクは出し損ねた手を宙にとどめ、居心地が悪そうに口を開く。 「……いなくならなければならないと分かる」 勝手だなと思う。 だがなんとなく、デリクが天馬に乗れる理由はわかったような気がした。 午前二時を回った。 ウィクは旅装束に身を包み、部屋から出た。 質素な服も、何気なく胸にあるウィアズ王国の紋章も、すべていつも通りだ。巡回の兵士は、今日から遠くへと外交へと出かけるのだと何も気にせずに通りすぎる。 小さな荷物一つを持ち、微笑を忘れず、音を立てず歩く。 丁度、近衛隊の休憩所の前についたところである。 カランが座っていて、「あれ?」と首をかしげて声を上げた。 「ウィク様、外交なんてありましたっけ?」 まったく寝ぼけたような声だ。普段、カランはこの時間眠っている。それも熟睡しているはずであった。 カランは薄らと笑みを浮かべ続けて言う。 「ティーンが俺に言い忘れたんですね。挙句の果てに夜番手伝いで。ちょっと待っててください、すぐ準備してきますから」 「カラン……?」 カランは席から立ちすぐに踵を返した。暗闇の中に消えればどこにいるのか分からないほど、気配も音もない。 すっ、とウィクの肩に手を置いて、エアーが顔を横に据えた。進行方向を見ながら、にやりと口の端を上げる。 「王子? 何考えてるんでしょうか?」 「エアー……見逃しては……」 「くれませんよぉ、ダメじゃないですかウィク様。親衛隊置いて」 ニヤニヤと笑いをこらえながらエアーは言う。ウィクは笑いを完全に苦笑にかえて、短く嘆息する。――エアーは面白いことがあると思っているに違いない。騒動好きだから。 それに、とエアーはぱっとウィクの肩から両手を離す。 「怪しまれないためにも、俺を連れて行くべきですね」 ウィクはエアーの眼と眼が合うと、もう一度短く嘆息する。 「困ったな、逃げ道がない」 「ですよ。さ、カランなんか置いて、馬屋行きましょう。どうせカラン乗れやしないんですからね」 ウィクはエアーの顔を見上げ、少し眉を上げて見せた。エアーも同じように眉を上げて見せ、ウィクの背中を少し叩いて「行きましょう」と繰り返す。ウィクはけらけらと笑い、「行こう」とエアーの言葉を繰り返した。 馬屋の前までくると、ウィクは暗闇の中に何かを見つけた。大きな――馬ではなく、それよりも大きな影だ。 あぁ、とウィクが微笑を湛えた。影の中から人間の影が薄っすらと浮かび上がって、小さな声で言う。 「王子? どこに行くつもりです?」 ユーガ・ライトルの声である。ウィクの斜め後ろでエアーが苦笑を浮かべて立ち止まった。――同じような言葉を言いやがった、と。 「遠乗りする時間でもないでしょう?」 ウィクがさらに影に近づき、ユーガの姿が暗闇の中にはっきりと映った。馬屋にある小さなランプに下から照らされて、金色の髪が微かに光っている。 「ユーガだね?」 「えぇ、俺ですよ、今更確認する距離でもないじゃないですか」 ユーガは笑いを湛えて答える。ウィクは苦笑を浮かべ、「そうだね」と。 「ユーガなんだろう?」 繰り返し、ユーガの顔を見た。ユーガは少しの間考えてから、「あ」と口をぽっかりと開けた。ウィクの後ろからついてきたエアーの顔を見、苦笑を浮かべる。エアーは半眼でユーガを見ていた。 ユーガは苦笑を浮かべ、「まぁ」とウィクの荷物を受け取る。ウィクは自分の愛馬を起こし、鞍をとりつけ始める。 「もう、今更言うべきことでもないでしょう?」 「本当にね、そうだね」 小さな笑い声をかみ殺してウィクが答える。ウィクの横ではすでに出発の準備を整えたエアーが佇み、あたりの音を聞いていた。 「ま、ウィク様。俺たち出し抜こうって、それはいけませんよ。俺たちの仕事もありますし、ウィク様に置いてなんかいかれたら、俺なんか寝込みますよー、落ち込みすぎて」 エアーは目線をウィクに降ろして、「ね?」と悪戯に笑って見せる。ウィクは小さく声を立てて笑った。 「そうだね、本当に。無理だ」 本当に、旅立つのが独りでなくてよかったかもしれない、とウィクは思う。危険であるからとかではなく、独りで旅立っていたらおそらく、寂しくてため息ばかりついていただろうから。 「それに、」 エアーは笑顔のまま首を傾げ、人差し指を空に向けた。どこからか天馬が空を駆ける音がする。 「俺はともかく、ヴィアもアタラも、あのカランでさえ起きてるんです、連れていってやってくださいよ、ウィク様」 ウィクは本格的に破顔して、小さく声を立てる。空から白い天馬がやってきて、声が落ちてくる。 ヴィア・ハワーのものだ。 「ちょ、っとカランッ! 私いい加減限界だから! 天馬に乗れないでしょう?」 天馬からぶら下がっていた人間が躊躇もなく飛び降りる。飛び降りる前に「あぁ」と思いついたような声を発していた、カランのものだった。 「ありがと、ヴィア。ついでに言うと俺馬にも乗れないから、」 馬屋の傍に降り立ったカランはウィクに軽くニコリと笑いかけ、軽く走り出した。エアーが馬にまたがって片手を挙げて「ほら」とカランを促す。 カランはエアーの馬の後ろに座り空を飛ぶヴィアとアタラとへ笑いかけた。 「いつも通り、エアーが乗せてくれる」 満面に笑みを浮かべ、「な」とエアーに言う。エアーは飄々と笑って「乗れ乗れ」と答える。 ウィクは短く息を吐き出すと、ヴィアとアタラが乗る天馬、リーを見上げた。ユーガとレジャーが空へ舞い上がって、アタラが暗闇の中で軽く片手を挙げた。 「おいで、バーダ。一緒に行きましょう?」 空に大きな鳥の影がよぎった。怪鳥・バーダである。アタラが昔、殺されそうなところを引き取った怪鳥だ、性格は大人しくアタラによく懐いている。 ウィクは小さく頷き、自分も馬にまたがる。 「さぁ、行こう。約束の時が来てしまうね」 ティーンは、と誰も問わなかった。ティーンはウィクに誰よりも近くにいる人間だ。共に行かないほうがおかしい。いつもウィクの横につないであったティーンの馬がいないことで、全員がティーンがどこにいるのかを察している。 全員が城の外門まで来ると、ティーンが門の影から現れて静かに小さく頭を垂れた。門番の兵士はおらず、馬に乗ったティーン一人だけがかがり火の明かりに照らされている。 ティーンはウィクが傍にくると「行きましょう」と。 「時が来てしまいます」 「あぁ、ティーン。行こう。でも私は……」 ゆっくりと馬を歩かせながらウィクは、ウィアズ城をふりかえった。暗闇の中でも大きいのだと分かる、自らの故郷たるウィアズ城を。 つい先刻まで国王が――ウィアズ王国三代目国王が生きていて、今四代目国王セイト・ウィアズが生きている城を、懐かしむかのように見上げた。 「いつか……帰ってこなくてはいけない。絶対に、この城に……」 セイトを支えるため、セイトの力になるために。 たとえ、自分がどんな存在であろうとも、必ず帰ってこなければならない。 それが――セイトを支えて生きることが、先代の国王である自らの父と交わした、最後の約束なのだから。 城下町の入り口に立つデリク・ガータージ・カタンは一行を見つけ、口元に笑いを浮かべ、皮肉じみた言葉を放つ。 「随分と大勢だな」 「ユーガに知らせたのは、デリクだろう?」 「さあな。行くとするか。遅れるな、ウィク殿」 デリクは颯爽とセフィに跨ると、気流のごとく。空へ舞い上がり先頭を進み始めた。ウィクはデリクを見上げ、すぐに馬を走らせる。すぐ後ろをティーンの馬が、少し遅れてカランを後ろに乗せたエアーの馬が駆ける。 「デリク、どこに行くんだ?」 静かな城下町の中、ウィクの声はさほど大きくなくともデリクまで軽々と届く。デリクはニコリと笑い「言っていなかったな」と。 「クェイト、そこが距離的に丁度いいだろう」 港町・クェイト。 行き先を聞いたエアーが微かに顔を上げた。繰り返して「クェイト」と。 「……懐かしいくらい、懐かしいな」 「は?」 呟いたエアーの言葉に、カランが訝った。エアーはカランに振りかえり飄々と笑う。 「だって懐かしくねぇの、カランは。クェイトって言ったら、バチカに近いぜ」 「あぁ……」 そんなことかと、カランは納得する。 エアーは前を向いて手綱を握りながら、「ったくよ」と心の中で呟く。 「どこに向かう気なんだか……デリク・ガータージは」 まるで愚痴るようにエアーがこぼし、カランが「本当な」と相槌をうつ。 ウィクは二人の会話に振りかえり「そうだね」と同じく相槌を打つ。 「でも、きっと分かるさ。なんとなく、そんな気がするから」 デリクはただ旅に誘ったのではない、どこかに連れていってくれる気なのだとウィクは思う。 おそらくこの旅は自分にとって、何かの大きな切欠になるのだろうとウィクはなんとなく感じていた。 |