「……いってきますよ」 知恵が灰色の髪を高く括って玄関で振り返る先にいるのは、母である 理呼は腰に手を当てた。無理に微笑む。 「少し早い巣立ちね、知恵」 知恵は顔を歪めた。家の外には忍と甲斐が、知恵が出てくるのを待っているのである。 「古臭いわよ、その言い方」 「本当に誰に似たのかしらね、この子は」 「間違いなく母さんよ」 心の中で、義理でも、と付け足す。自分の性格が産まれより育ちであることくらい、知恵にもわかっていた。 「でも」 知恵は理呼に背中を向け、今朝甲斐に言われたことを思い出す。 「感謝してるわ」 言って玄関から飛び出した。玄関に残った理呼が少しだけ唖然として、勢い良く閉められた玄関のドアを眺めた。 しばらくしてニコリと笑いを浮かべ、玄関のドアに背中を向ける。 「分かってたわ、あなたの母親ですものね」 自分しかいない家の中を見まわして理呼は小さく嘆息し、寂しそうに目を細めた。 知恵が玄関を出ると、外で待っていた忍と甲斐が同時に振り返る。忍が眉を上げた。 「もういいのかい?」 「別に。っていうか、言わないでも平気だったし」 「あははっ、素直じゃないなぁ」 忍の横で、甲斐が声を出して笑っている。知恵は顔をゆがめて甲斐を見た。 「うるさいわね、いちいち聞かないでくれる?」 「酷いなぁ、これは普通に聞こえてくるんだよぅ。だってほら、声って勝手に入ってくるでしょ?」 行動が大げさすぎて、まるでバカである。知恵にとってはすでに『バカ』の位置に据えられているのだが。 「知らないわよ、そんなの」 知恵は答えてすぐに忍に目線を送った。忍は小さく「甲斐との会話がわけわからなくなってきてる」と、苦笑を浮かべて甲斐を見た。 (慣れが早過ぎる気がするんだけど……) 甲斐は笑顔のまま、大げさに頷いた。 「うんうん、まだ慣れてない人いるのに」 「普通慣れるわよ、これくらい一瞬で」 「慣れないから困るって人もいるよ、実際にね。見ればわかるさ」 見れば、ね、と知恵は甲斐を一瞥し、短く嘆息する。――見れば、ということは傍目にもわかるほど困っているということなのだろう。「酷いなぁ」と甲斐。忍を見やれば、甲斐は少し肩を竦める。 「困ってるの、わかってるんだろう?」 「あはっ、でも 「それはわかってるけど……」 忍はこめかみを押さえて短く嘆息する。甲斐はニコニコと笑っており、どうやら本当に悪いと思っていないらしい。知恵は「啓って誰よ」と思いつつも、口に出さなかった。どうせ甲斐は聞いているし、誰だと言われてもわかるはずがないのだ。 「いいのいいの」と、答えた甲斐は満面に笑みを湛えたままだ。 「あっちに行けば会うから」 「いいわよ、別に。私なんかに会って、そっちが迷惑でしょ」 「少なくとも俺は迷惑なんかじゃないよ? 会えてよかったくらい」 知恵は甲斐を疑いのまなざしで見やり、嘆息した。だが甲斐は相変わらずの邪気のない顔で笑っており、どうやら嘘でもなんでもないらしい、そういう性格なのだろう。 底抜けのバカというか、底抜けの楽観主義者というか。もしくは、底抜けのお人よしか。 甲斐は「うん」と、にっこりと笑ったまま頷く。――胡散臭い笑顔だな、と知恵は思う。邪気がないのはわかるが、どうも無邪気すぎて白々しいように思えた。 「酷いなぁ、明るく生きようって決めてるからなのに」 「だからいちいち聞かないで。調子狂うから」 「だからこれは、勝手に聞こえてくるんだってば」 少しばかり顔を膨らませて甲斐が言えば、知恵は不機嫌な顔のまま、ぷいっと甲斐から目線を外した。 「聞いてたわよ、どうにかして聞かないで」 「それは、知恵しだいだと思うけど」 忍が肩をすくめた。知恵が訝って忍を見やれば、忍は笑顔のまま、知恵を手の平返して知恵を軽く示す。 「『隔たり』なんだろう? 唯一どうにか聞かれないようにできる力だからね」 「……わけ、わかんないんだけど」 「まぁ、そのうちわかるよ。僕も最初はピンとこなかったから」 それよりも、と忍は辺りを見回し、甲斐を見やった。甲斐は「うん」と満面に笑顔。「今なら平気」と忍の思考の中の問いに答える。 忍は知恵に、片手を差し出した。悪戯するような笑顔を浮かべれば、端々に見える微かな大人っぽさなど消えてしまうほど幼い。 「僕の力も見せないとね。大抵の人は驚くから、掴まっておくかい?」 「やめておくわ。どんなことあっても、もう驚く気なくしたから」 「ははっ、確かにね。知恵ならそう言うと思ったよ」 忍は笑ったまま差し出した手を無造作に頭上に掲げた。掲げる腕の軌跡を描き、何もない空間に黒い宇宙のようなものが塗り描かれる。現れた宇宙は確かに、動いていた。 現れた宇宙を見つめる知恵を見やり、ますます子供のように忍が笑った。 「行くよ? まずは【世界の狭間】へ」 忍が言った直後、描き出された宇宙が三人を覆うように広がって、辺りはいつの間にか真っ暗闇。 |