75.“副官”

   空には傾きかけた一〇番目の月。ウィアズ王国でも秋に数えられるこの月は、暑すぎるともいわれる夏が少しすぎて、比較的過ごしやすい月だ。
 エリクはエアーを高等兵士寮まで送って中等兵士寮へと続く道で、空を見た。高等兵士寮に続く道はいくつかあれど、高等兵士寮から中等兵士寮に続く道はほとんど誰も通らない。遠くからの談笑が薄暗闇に寂しく響く。
 一〇番目、とエリクは胸中で繰り返した。
 数年前、同じ年に下級兵士になった仲間がほかにもいた年。周りに不穏な噂が流れ始めたのは、だいたいこのくらいの時期だった。エリクが印象に残して覚えていたのは、噂を聞いた数日後に、マウェートに遠征に行ったからだ。
 ――行って、仲間だと思っていた彼ら、彼女らの本心を知った。
 自分も、待つ覚悟を決めた。
 事件の中心だった、イオナとテルグットは、数ヶ月もしないうちに王国軍からいなくなった。
 イオナは叫んでいた通りに王国軍を辞めて。
 テルグットは次の戦いで、戦死して。
 他にも大勢いたはずなのに、気がつくとエリクの周りには、最も近い仲間だと思っていた人間がいなくなっていた。
(エアーも、もうすっかり遠い奴だしなあ)
 高等兵士と中等兵士以下の差は大きい。高等兵士以上は軍、ひいては国の中枢の情報まで手に入れることが安易に可能だ。だから、他言しないという制約が、どこか他と壁を作るのだ。
 それだけではない。
 エアーは特に抱え込んだ思いも何もかもを口にしない。エリクに対しても。
「……はあ」
 思わず、ため息が漏れた。
「はあ……」
 同じようなため息の声が聞こえて、エリクは顔を上げた。どこで声がしたかなと少し周りを見れば、少し後ろから歩いてくる人影。エリクが見たのをきっかけに人影も顔を上げた。
「あはは、悪い。思わず」
 苦笑にしては明るく笑う男。中肉中背、黒髪の少し色素の薄い茶色い瞳。ウィアズ王国ではよく見る容姿だ。
「いいよ。俺もおんなじだったし」
 苦笑してエリクはとりあえず答えた。答えると、後ろを歩いていた男が少し走ってエリクの隣に並ぶ。真剣な顔。
「何かあったのか?」
「あ? な、なんだよ、急に」
「お前エアーの副官のエリク・フェイだろ?」
「あぁ、だけど」
「昔あいつと関わりあってさ。もしあいつが原因だったら悪いじゃん」
「は?」
 ぽかん、とエリクから声が出た。
 そもそも高等兵士になったばかりとはいえ、高等兵士のエアーを呼び捨てにするこの男は何者か。帯剣していないところをみれば、おそらく剣士でもない。
「俺、兄貴分だから気になってさあ」
 少し冗談のような口調。この言い分、聞きおぼえがある。クォンカの訓練場の前で偶然会った二人の騎士とエアーとの会話だ。片方の騎士が印象的で視線はそちらばかりにいってしまったけれど、並んだ二人は二人とも有名人だった。
「ああ! クレハ・コーヴィ!」
 エリクが指差して叫べば、クレハがぎょとした顔になる。慌てて人差し指を立てて「しっ」と。
「叫ぶなよ! 逃げてる最中なんだから!」
「はあ? 誰から」
「誰からって、そりゃ」
 クレハがちらりちらりと前後を見た。立ち止まって、エリクに隠れるように進行方向を見た、後ろから人影。
「見つけたぞ! 今日と言う今日はおとなしく捕まれ!」
「ほらみろ!」
 悲鳴を上げてクレハ。エリクを軸に現れた人影――アンクトック・ダレムの視界の影に隠れる。
 エリクを盾にしながら、クレハは苦笑のままに叫ぶ。苦笑だけれど、どこか楽しそうだ。
「アンクトックさん! 今日も大事な用があって!」
「お前はいつもそう言うだろうが! お前を捕まえる役目になってる俺の身にもなってみろ!」
「その役目放棄してくださいよー。やらないって言ってるじゃないですか!」
「諜報部統括のお偉いさんが、会ってみたいんだと!」
「だから! 会ってみたいぐらいで――やだやだ、やめてくださいって!」
 無遠慮に近づくアンクトックに向かって駄々をこねるように叫ぶ。――実に子供のような叫び方だ。
 二人の間に立たされたが、関係のないエリクにはただの迷惑でしかない。それも理由すら定かにわからないのだから。
 どうしたものかな、と思ったところに、もう一人。
 横道の暗闇から唐突に現れた、黒い衣装の――カタン・ガータージ。だがエリクはカタンの姿よりも、その奥の天馬に目を奪われた。
 暗闇の中、人目をはばかるように飛び立った。カタンがにこやかにアンクトックに話しかけたことよりも、その天馬――天馬に乗る人物に気を取られた。
 サリア・フィティじゃない。
 っていうことだけだったけれど。
(――あれ?)
 あれって。と、思ったのもつかの間、ふとアンクトックから視線を動かしたカタンがエリクを見た。
「君は、エアーの副官だったな?」
「へ?」
 唐突だったから変な声が出た。出たので、笑ったのはカタンと、後ろのクレハ。こういう状況なのに、無償に気楽にクレハが笑う。周りは最高等兵士もいるのに。
 つられるようにアンクトックも失笑したので、エリクは少し赤面した。“こういう状況”で、別に意識を奪われた自分も自分だと思ったから。
「そうです、エアーの――第三剣士隊長の副官、エリク・フェイです」
「エアーは、平気か?」
「平気かって、隊長業のことですか? それなら平気ですよ、結構器用な奴ですから」
 苦笑しつつ、エリク。カタンが苦笑した。
「いや、最近表情が暗いなと思った。何かあったかなと思ったんだ」
 失笑したのは、アンクトックだった。嘲笑に似た笑いだった。
「いつでも相談にのる。エアーに伝えておいてくれ。俺たちぐらいは足並みをそろえていこう」
(そりゃあ、それが理想なのかもしれないけど)
 気が合わないんだろうなあと、エリクは直感して苦笑した。「わかりました」と答えたけれど、素直にエアーに伝えたらエアーの機嫌がさらに悪くなりそうだなと思っていた。
「ま、カタン信じろってことだよな。なんだったら『クレハ兄さんから伝言です』って伝えといてくれよ」
 明るい声がすぐ後ろで。エリクは背中越しに肩を竦めた。
「勘だけど、それ、嫌がりそう」
「そうそう、俺が兄貴でいいだろって言うの毎回嫌がんだよ、あいつ」
「誰でも嫌がろうが。お前みたいな奴が兄ではな」
 ふん、とアンクトックが息を吐いた。 
「気がそがれた。元々やる気もなかったが、今日のところは見逃してやる」
 クレハに、アンクトック。クレハが「やりい」と声を上げた。やかましい男だ。
「カタン最高等兵士殿。“雪降る平原”では是非、誉れある戦勝を上げてほしいものだ」
「ありがとうございます」
 にこりと、カタンが。
「でもアンクトックさん。そんなに仰々しく呼ばなくても。いつものようにこれからも、呼び捨てにしてください」
「そうさせてもらう。堅苦しいのは肩がこるからな」
 どこか不機嫌そうなアンクトックの表情。少し片手を上げた。
「失礼する。俺はとっとと寝て、次の日に備えたい性質だからな。どっかの部屋の夜行性のやつらとは別の生き物だ」
「あはは」
 至極愉快そうにカタンが笑った。アンクトックは少し眉を上げて、やはり少しだけ笑って踵を返す。
 エリクはちらりとクレハを見やった。クレハはアンクトックが去るのを少しだけ見送って、「よし」と小さな声で呟く。
「助かった……」
「クレハ、少しはアンクトックさんに協力したらどうなんだ?」
「それ言うな、カタン。だってあれだぞ? 諜報部になれ、ってさ。命かけてまでやりたくないよな、そんなん」
「諜報も、立派な仕事だ」
「俺の情報集めは趣味だ、仕事にしたくない」
「まったく……」
 カタンが苦笑して、嘆息した。クレハはエリクから少し離れて、明るく笑った。
「それはそうとカタン。サリア高等兵士とのデートは隠れてやれよ。顔が広いんだから、すぐばれるぜ!」
「クレハ!」
 呆れ交じりにカタンが叫ぶ。クレハは至極楽しそうに笑った。
「俺はそういう話大歓迎だけどなー。こういうとこだし、話すんだったらできるだけ明るい話題につきるよな」
「だからって、むやみやたらに噂を広めないでくれ。クレハなんだろう? 広めたのは」
「カタンがばれないようにしないのが悪いんだぜ?」
 俺は何も悪くない、と冗談口調交じりにクレハが言って笑った。エリクの肩を叩いて「じゃあ」と、やはりクレハ。
「俺、そろそろ行くわ。エアーにがんばりすぎんなよ、って伝えといてくれよ」
「ああ、わかったけど」
 ぽかん、と完全に取り残されていたのはエリク。
 だいたい、さっき飛び立ったのはサリアじゃない。
 飛び立った天馬に乗っていたのは、微かにしか見えなかったけれど、確かに、男だったから。
「じゃあな、カタンもがんばりすぎんなよ!」
 クレハが叫びながら大きく手を振って、軽く歩き出した。カタンは肩をすくめてエリクを見やり、合図一つに自分は高等兵士寮へと向かう。
 エリクは二人を見送って、一つ、ため息をついた。
(なんなんだ……)
 じゃあなとか、俺も中等兵士寮に向かわなきゃいけないんだけどとか思いながら、ふと空を見た。
 一〇番目の月。――大きく丸い、朱色の。
 嫌な月だな、と思った。
 血の色のようには思えないのに何故か、血を吸って大きくなったみたいに見えた。
 エアーが仲間を殺して更迭されたんだって噂が流れたのは数年前のこの月。
 同じ年に昇格した仲間たちが、ぎくしゃくし始めて空々しさを感じ始めたのも、この月。
 実を言えば、一番仲の良かった友人が死んだのもこの月。
(なあ、エアー)
 クレハ・コーヴィがお前に、がんばりすぎるなよって。


 その言葉、俺の言葉であいつに言いたいのに。言われたいのに。


 どうしてこの国で、俺たちは自由じゃないんだろう。
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