自由と束縛



 外の風は、いつも僕に話しかける。
 埃臭い部屋から出ることなどできない僕へ、外の世界へおいでよと、窓を叩く。
 くもの巣が張られた窓は白くにごっていたけれど、外の風はいつも、飽きないように窓を叩いて「ボクはここだよ」と告げる。まるで、僕を誘っているかのように。
 外に、行きたいと思ったことは結構ある。
 随分前に廃墟になった工場の中で、身動きもせず窓を見上げている。外の明るい様子が、不意にうらやましく思えた。
 工場の中は、薄暗く、埃臭い。窓から見る外の景色はいつも綺麗で、時間が経つごとに明るくなったり、暗くなって何もなくなったりする。
 外が明るくなると、僕のいる工場も少しだけ明るくなった。外が暗くなると工場の中も暗くなる。――何も、見えなくなる。
 僕に見える世界は、白くにごった窓から見る、極小さな外の世界と、工場の中の――それもいる場所から見える場所だけだった。
 僕がいる工場はもう、人間には忘れられたようだった。
 工場の中は、毎日ネズミが地面をかけていた。僕の姿など見もせず、ちょろちょろと音を立てて、列になって穴に消えて行く。そして、極たまに野良猫が小さな穴から入りこんで、そしていつのまにか消えている。虫が、我が物顔で歩く。
 窓ががたがたと叩かれた。
 外の風が「おいでよ」と声をかける。僕は何も言えなかった。言うだけの力はない。
 外の風が、窓を叩くのを止めて、どうやらどこかへいったらしい。自由気ままに、同じ場所にいつもいることのない外の風を、僕は少しだけ羨ましく思った。
 僕は留まることに飽きてしまっていたから。
 工場が閉められる直前に入りこんだのが悪かったのだと、他の仲間は言っている。他の仲間も工場が閉められたときいた場所で身動きせず、時たま動く何かの生物の周りで微かに動くだけだ。
 僕も、少しだけ動く。少しだけ動くだけだ。
 外の風はあんなにも自由に駆け巡っているのに、僕は、ほんの少しだけの動きだけで満足しなければならなかった。
 思えば、工場に入りこむ前の僕も、あんなにふうに駆け巡っていたんだ。どうして、今僕らだけが身動きせずにいなければならないのだろう。
 僕は叩かれる窓を見つめ、外の風を羨ましいと――恨めしいと思った。

 窓の外が明るくなり、暗くなるのが何度か繰り返されたある日。工場の出入り口が開かれた。中の風と外の風が入り混じり、外に出たり中に入ったりしている。僕も、動こう、と思った。けれど僕のいる場所は出入り口から遠くて、僕はやっぱり、少し動いただけだった。
 出入り口から人間が数人、工場の中に入って咽る。人間の言葉で何か話し合った後、全員がばらけて、それぞれに何かの作業をはじめた。
 何かをコンクリートの壁に付きつけて、工場全体が揺れている。――僕だけが揺れているのかどうかは、わからなかったけれど。
 僕は人間たちを眺めた。皆同じような格好で、しばらくすると作業を終えて全員が外に出た。工場の中には、何かの紐が残っていた。
 僕は窓の外を見た。
 窓はもうなかった。人間が窓を外していたから、僕は外の風が誘ってくれさえすれば、外に出られる。
 さわ……と何かが動いた。僕は少しだけ動く。
 その直後、轟音と共に、いきなり工場が崩れはじめた。僕も何かに叩きつけられる。そのまま、どこか遠くへと飛ばされてしまった。
 気がつくと、僕は天井のない工場の中にいた。アスファルトの地面を人間が歩き、時折、慎重に車が通って行く。
 細い路地らしかった。
 どこを見ても僕がいた工場らしき影はなくて、遠くで大きな土煙が舞っていた。
 自由なんだ、と僕は思った。
 いつのころからか、ずっと待っていた自由を手に入れたのだと。
 僕は駆けた。どこかもわからない土地を、ひたすらに駆けた。今まで動けなかった体が、僕の気持ちを追い越して、踊るように駆ける。
 工場の窓を立ていてくれていた外の風に、会おう、と僕は思った。
 けれど、外の風は多くいた。
 誰が叩いていたのか分からなかった。皆そろって「そういう廃工場の前は、いつも通っていたから」と言う。
 僕は僕がいた工場の場所さえわからなかったから、知らない土地を放浪した。時々、不意に工場の中のことを思い出す。閉鎖された工場は僕がいた工場だけではなくて、そういう工場を見つけると決まって思い出した。
 僕が外に飛ばされた後、工場の中にすんでいたネズミや虫たちはどうしたのだろう。僕と同じように中にいた風たちは、どうしたのだろう。不意に心配になる。

 閉鎖されて窓が閉まった工場を見ると、僕は窓を叩く。
 中のネズミや虫たちが、もしかしたら僕がいた工場にいたネズミや虫たちかもしれないと、窓辺の風に語り掛ける。
 けれど窓辺の風は身動きせず、以前の僕のようにただ外の風の僕を見ていた。何を言うわけでもない。
 僕が工場の中にいたとき、窓を叩いてくれた風はこう言いたかったのだと、今になって思う。
 悔しいよって。
 だけど、僕は違う言葉として聞いていた。何も知らないで、羨ましがってばかりいた。
 悔しい。僕は工場の中の生物や、仲間まで恨んでいたわけではないのに。後悔したくなかったのにと。
 自由になりたくても、傍にいた生物や仲間とは離れたくなかった。
 我侭だけれど、僕の本音だから。

 僕は閉鎖された工場の窓を叩く。
 無償に寂しい心を抱えて、ただひたすらに窓を叩く。



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背景画像は「人が夢を見るといふ事」からお借りしております。
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