98.ファルカ領主家、当主

  「あれ? 何の騒ぎ?」
「あっ、ミーシャさん」
 つられて笑っていたユエリアがはっと肩を上下させた。慌ててノワールを抱き上げてベッドの傍から避けようとするも、ノワールが抵抗。エアーの表情は元に戻っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。エアーさん、上機嫌みたいですね」
「別に」
 ユエリアの代わりにノワールを抱き上げて足から寄せ、ベッドから降りた。素足のまま。
「起きたら腕に布がしばりつけてあったので、敢えて言うなら不機嫌です」
「あーっ!」
 まるで悲鳴のようなミーシャの叫び。先ほどまで出で立ちから大人然としていたのに、叫びはまるで普通の女の子。
「ユエちゃん、とらせちゃだめって言ったじゃない」
「あの……ごめんなさい。私もだめって言ったんですけど」
 ちらりとユエリアがエアーとノワールに視線を送った。ノワールがベッドから降りたそうにしているのに気が付いたエアーが、床からノワールの靴を拾って渡す。一生懸命になって靴を履いたノワールをエアーがベッドから降ろした。
 降りたノワールは今度はエアーの足を掴んで、ミーシャを見上げた。
「母さん、おはよう」
「おはようノワール」
「街の外行きたい」
「あのね、外は今危ないからでちゃいけないの。分かって」
「だからエアー護衛にする」
 じっと自分の母親のミーシャを見上げて、ノワール。ミーシャは簡単にだめと言えば済むのだが、多少は躊躇った。ノワールは妙に頭がいい。
「暇があったらっていったろう。 努力はするが、すぐにはできない」
「すぐ努力しろ」
「努力して、すぐに結果はでない。もう少し我慢してろ」
「んー」
 ノワールは不服そうだが頷いた。頷くと今度はユエリアに走ってしがみついた。エアーとミーシャに流れる、微かながら不穏な空気を悟ったのだろう。
「ところで」
 エアーは顔を上げてミーシャを見た。
「昨夜のことからご説明いただけますか? あの意識の飛びかたは、魔法か何かでしょう」
 ミーシャは胸中で頭を抱えて唸った。だからやりたくなかったのに、と思う。
「確かに、魔法です。私独自の魔法“縫合”で、あなたの意識を睡眠に結び付けたんです。身体に害はありませんし、教士もあなたの体調を思って指示されました。周りの反応から言っても、その点については私謝るつもはありません」
「教士? 指示をされたのはどなたですか」
「ピークさん。私たち魔道士学校出身の魔道士は習慣でそう呼んでしまうんです」
「やっぱりピークさんですか……」
 エアーは嘆息した。しょうがないという様子でもあった。
「それで、どうして今朝、繋がれていたのかご説明いただけますか」
「そうでもしないと、ベッドから転がり落ちるか夢うつつでどこかに行きそうだったんですもん。仕方がないじゃないですか」
「あれを結んだのは剣士隊の誰かでしょう。隊で教える結び方だ」
「えぇ。でも誰かだなんて答えませんからね。可愛そう」
「別に責めるつもりはありません。どうせ――」
 エアーは、言い淀んだ。
「どうせ?」
 凛然としたミーシャの態度。エアーは対峙するのに揺らいだ自分を恨んだ。まだ昔の癖が抜けきれない。すいと視線を逃す。
「別に」
「どうせ起きれていたら逃げてたから、でしょう?」
「違います」
「じゃあ、うなされて暴れるから?」
「……違います」
「そうね。眼を潰したそうにするからって今朝に片手だけ外してった子がね。自覚あるんでしょう?」
 エアーが口を閉じる。ミーシャからは目を逸らした。逸らしたらした先にユエリアがいた。ユエリアは心配そうな顔で見つめていて、さらにそれからも目を逸らした。
「無理矢理眠らせてごめんなさい。でもあなたも限界だったでしょう。これぐらい無理に眠らせた方がよかったみたいだから」
「大きなお世話です」
 エアーは息を吐き出してベッドに腰掛けた。ベッド脇に置いてあるブーツを履きにかかる。
「大きなお世話で結構です。ここ、病院ですから。怪我人も病人もだしたくないので」
「そうですか」
 エアーの答えは無愛想この上ない。ミーシャの顔が引きつった。大股で近づくと、エアーがまだ手をつけていなったエアーのブーツを取り上げて睨む。
「教士からの伝言です。『昨日の指示は嘘です。一日休んでなさい』って」
「……どういうことですか?」
「だから、お休みだそうです」
「休みはいりません」
「でも休めって。補佐される方からの命令だそうですよ」
 エアーが顔を歪めて舌打ちした。ミーシャからブーツを取り返して、無言でブーツを履く。ミーシャはエアーを見下ろしていて、一つため息。
「この意地っ張り。そんなに休みたくないんだったら、これ、お願いします」
 ポケットからメモ紙。エアーの目の前に下げて、ミーシャ。
「お使い。その間のことなんて知りません。ただし夕方までに無事に持ち帰ってくださいね」
 メモ紙を受け取って、エアーは眉間に皺を寄せた。
「……これは、なんですか?」
「ルタトたちの仕事の方に必要なものです。暇があったら買っといてって言われてたんですけど、こんな状態で私が暇なわけじゃないじゃないですか」
「種類の予測すらできませんが」
 メモに書かれていた物は日常では使わない薬草類、薬品だ。唯一エアーにも分かるのは、絵具。
「お店の名前も書いてあるから、そこに行けば渡してくれますから。これ見せてうちの注文だって言えば後で請求はこちらにくるので」
 透かし彫りの鉄板。ローン家の紋章だ。
「母さん」
 いつの間にか傍にノワール。ミーシャの裾を引っ張った。
「俺も一緒に行きたい」
「そうね。街の中だったらいいよ。書かれてるのだったらノワールの方が詳しいだろうし」
 ミーシャは苦笑してしゃがみこんだ。二、三注意事項をノワールに言い聞かせている。エアーの意向など全く無視だ。
 エアーは二人の様子を一瞥してメモ紙を見た。お使いが嫌だといえばおそらく、病院の外にも出してもらえない。ため息一つ、準備をしようと立ちあがったところで、ふとユエリアを見やった。
 どこかそわそわしていて、何か言いたそうな顔。
「何ですか?」
「え? 何でも、ないです……」
 急にしょんぼりしてテーブルに向かった。広げてあった布を丁寧に片づけながら、小さくため息。
「ユエちゃん」
 と笑いを含んだ声でミーシャが呼ぶと、ユエリアは大げさに驚いた。「はい」と答えた声は裏返っている。ミーシャはくすくすと笑った。
「たまにお使い頼んでるお店だから、一緒に行ってあげてくれる? お休みあげたのに悪いんだけど」
「と、とんでもないです。喜んで」
「そう? じゃあノワールの準備もよろしくね」
 ミーシャは楽しそう。立ち上がるともう一度エアーを見上げて、少し厳しい口調で言うのだ。
「そういうことなので、二人に案内されながらお使いお願いします。くれぐれも危ない目に遭わせないでくださいね。きちんと護らなかったら明日も出るの禁止にしてもらいますから」
「わかりました。わかりましたが、俺はここに遊びにきたんじゃない」
「わかってます。でもどうせ教士たちの調査だって一日じゃ終わらないんですから、あなたが急いてもしかたがないんです。手伝わせる気はないみたいだし」
「何のつもりなんだ、あの人は……」
 愚痴るような、呟くような。そもそもエアーを補佐に指名したのはピークだ。暇にするためだというのなら、何のために。
 ミーシャはゆっくり踵を返す。顔は笑顔。
「たまにはいいじゃないですか。気を詰めてばかりじゃ何にも首が回らなくなりますよ。体験談なので、嘘じゃないですよ」
 エアーが顔を歪めた。ミーシャはくすくすと笑いながらとっとと部屋を出て。廊下の先を見た瞬間に顔色が変わった。
「ヤーカースー! 仕事サボって何してんの! 医士と患者には手を出すなって言ってるでしょー!」
 怒鳴りながら、入口の前から走って消えた。遠くから「なんで母さんがここにいんだよ」と悲鳴を上げる男の声がして、ミーシャが何か怒鳴っている。あんまりに平和すぎる。
「……実感ないな。あんな人の言い分じゃ」
 ぼそりと呟くように。ユエリアが苦笑しながら「まあまあ」と。手は広げていた布をきちんと片づけていて、もうすぐ作業も終わる。
「ミーシャさんも正式に領主を名乗るまでに色々と大変だったんですって。それより食堂までご案内しますね。何か食べて待っててください。準備してすぐ向かいますから」
「あぁ……」
 そういえばと、エアーはたたんで置かれていた外套の内ポケットから懐中時計を取り出した。針はもうすぐ昼を示していて、エアーはため息を落とす。
「すぐにでも向かいましょう。少し遅くなるとは思いますが、昼は外で。平気ですか?」
「……私たちは平気ですけど。エアーさん起きてから何も食べてないんじゃないかなって」
「問題はありません」
 それに、とエアーは少し肩を竦めて見せた。笑顔では、なかったけれど。
「この街は広すぎます。本当にお使いだけで時間が終わりかねない」
 少しだけ柔らかい口調で言うので、ユエリアは少し得をした気分だった。おそらく何よりノワールの力ではあったけれど。
「はい。それじゃ、すぐに準備してきますね」
 ユエリアが満面に笑顔を咲かすと、エアーが困ったように少し、笑った。
  
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