95.海の向こうの“もしも”

   ――海の音がする。いや、港の音だ。活気ある港だから。
 潮の香りもする気がする。この窓から眺める海は、ただ広い。大きな船が、ゆっくりと進んでいく。
 港では“皆”が遊んでいて、一個のボールを追いかけまわしている。ここまで聞こえてくる歓声。楽しげな声。
「そんなに気になるなら、いれてもらえば?」
 ショキ、ショキ、と鋏で布を器用に裁ちながら、微笑みを湛えて母さんが言う。
「別に」
 気になりなんかしないよと、俺は言った。
 もう一度窓の外を眺めていると、剣道場の中から兄が出てくるのが見えた。ありがとうございましたと元気よく挨拶して、友達と歩いてくる。途中で俺を見つけて、「おおい」と手を上げた。
「母さんいる?」
「いるよ!」
「じゃあ遊びに行ってくるって伝えて!」
 俺の後ろで母さんが笑った。「いっといで」と小さく頷いたので俺は兄に向って手を振った。
「いいって!」
「ありがとう、エアーも来るか?」
 兄の提案に、周りの友達が笑った。俺はとっさに隠れて、見えないところから「行かない」と答える。するとやっぱり同じ笑い声が聞こえた。俺は椅子の上で膝を抱えてその声が遠ざかるのを待った。
 ――やがて、また港の音に戻る。カモメ、猫、道をあるく人々の声。波の音、大通りで客を引く店の声。
 母さんが鋏をテーブルに置いた。ごとん、と少し重そうな音がする。
「アタラのところにでも行ってきたら?」
「行かない」
 少し背筋を伸ばしてまた窓の外を見た。
「ねぇ母さん」
「ん?」
「どうしてアタラの髪は赤紫色なの?」
「どうしてだろうねぇ。頭の良い学士さんの話だと、魔力が大きいと、そういう子供が生まれるって伝説があったそうだよ。その通りになったって、大喜びしてたっけ」
「ふうん」
 俺は窓の縁を掴んで外を見た。
「じゃあどうして俺の目は赤紫色なの? 魔力なんてないよ」
「どうしてだろうねえ」
 さして先ほどと変わらない口調で母さんが言う。ことん、と何かを置いた音がした。
「でも勘違いしちゃいけないよ? エアーは母さんと父さんの子供。誰に何て言われてたって、イルクとも血のつながった兄弟。ほら、おいで」
「行かない」
「来なさい。もう、さっきっから不貞腐れてばっかり」
 母さんが俺の片腕をとって自分に振り向かせる。
「ほおら、まだ泣いてる。みっともないんだから、ちゃんと拭かなきゃ」
 顔を押さえて涙と鼻水とを拭き取ると、母さんは困ったように笑う。
「もう泣かないの。その眼だって背が小さいのだってエアーの個性。それに一等足が速かったじゃないか。母さん鼻が高かったんだから」
「でも、ちびで眼の色が違って遊びが下手な奴は仲間に入れてやらないって、ボマロが言ってた」
「そりゃ最初は誰だって全部へたくそだよ。これから上手くなればいいんだよ。ほらおいで。母さんの作った服は上手い?」
「うん」
「昔は母さんだってへたくそだったんだよ? でも何回も失敗してここまできた。どう? すごいでしょう」
「うん」
 母さんの笑顔は大好きだ。あったかくて、力強くて、安心できる。
「すごい。母さんみたいになりたい」
 母さんがおかしそうに笑う。俺の手を引いて、自分が座っていた椅子のほうへ。
「じゃあエアーは母さんの手伝いしてくれるんだね。王国軍には入らない」
「王国軍に入りたい。ノヴァ兄さんみたいになりたい」
「さっき母さんみたいになりたいっていったじゃないか」
 母さんがむっとした顔をしたので、俺は弁明するしかないと思った。
 思って、何か、違和感を感じていてた。
「だって王国軍に入らなきゃ、俺は」
「入らなきゃどうしたの?」
 “もしも”このまま王国軍に入らなかったら。
「エリクに、ごめん、って言えない」
「そっか」
 どうして母さんがエリクを知っているの? 分かったように笑うの。
 どうして、何も言ってくれない? 止めてくれない?



 どうして、母さん。
 さっきまで明るいフリクにいたのに。



 どうして俺は今、暗闇に立ってるんだ?
  
Back←// Utautai //→Next 
inserted by FC2 system