94.“化物”ではなく

   何度も何度も夢に見る。
 過ぎ去ったことに仮定を当てはめても、残るのは虚しさだけ。
 虚しさにあるのは、後悔とか、そういう負の位置にあるものだけ。

 何度も、夢に見る。

 過ぎ去ったことに“もしも”なんて必要ない。

 仮定に逃げる自分を許さない。


 絶対に、許さない。


■□■■


 犬の顔、蛇の鱗は首から背中まで、耳は虎の物に見える。尾にも虎らしい縞があって、前足の片方はやはり虎。もう片方は犬。後ろ足は左右逆でしかり。
 なるほど、“化物”。エアーは“化物”の突撃を避けて、本当に微かに失笑した。
 白濁した瞳。開いた口からは鋭い牙が見える。細長い舌が唾を撒き散らして反転。再びエアーに向いた。
 家の中に避難した人々は窓の微かな隙間から様子を見る。通りには怪我を負った人間がいて、血が広がるばかり。
(これがイオナが言っていた盗賊たちが連れてくる“化物”、か)
 喉の奥で唸り声を上げる化物の顔をじっと、エアーは見た。身体に力を込める、すぐに動ける程度、緊張しない程度。
(俺とどこが違う? 自分の力を自分の目的に使っているだけだ)
 憐れみか? 否。
(お互い殺されても、文句を言えはしない)
 エアーの顔に笑みが浮かぶ。不気味にすら見える、その笑い。ゆっくりと剣に手を動かすと、反応した化物が再び目にも見えない速さで駆けだす。
「――っ」
 エアーは避けなかった。避けないまま剣を素早く抜く。そのまま正面から向かってくる化物に向かって剣を叩きつけた。
 斬る。否。
 まるで化物自身が剣に斬られに走ったかのよう。
 勢いに化物の身体が真っ二つに割れた。案外にもろいその内部。最後はエアーが剣を振りきり、化物の体が完全に真っ二つに割れた。
 化物の周りに広がる半透明の液体。血のようではない。
「ふん」
 動かなくなった化物を見下ろして、エアーは鼻白んだ。剣を一振りして剣についた液体を飛ばす。
「この程度か」
 不機嫌そうな低い声。顔を上げ化物を連れてきた盗賊の二人を睨んだ。盗賊たちは化物を見下ろして蒼白。
「選ばせてやる。大人しく捕まるか、抵抗するか」
 化物を見下ろしていた盗賊たちがエアーを見た。息をのむ。
「つ、捕まってたまるかっ!」
 一人が叫んで、慌てて踵を返す。もう一人も「化物だ」と叫びながら踵を返す。
 エアーはつまらなそうに鼻を鳴らすと一言。
「そうか」
 言うと、とっと走りだした。
「いけない、いけません!」
 言うが早いか、マーカーが走りだした。
 しかしエアーの速さに誰が敵うというのだろう。エアーはすぐに盗賊たちを追い越すと目の前で立ち止まった。剣は抜かれたまま。
「選んだのはお前らだ」
 立ち止まる盗賊たちに剣を振り上げる。盗賊たちが息を呑んだ。
「いけません! 隊長!」
 マーカーは渾身の力をもって盗賊たちの襟首をつかんで引き寄せる。引き寄せる間に迫る、エアーの愛剣。薄紅色の。
「殺す必要はありません!」
 盗賊たちの立っていた場所に代わりに立って、マーカーが叫ぶ。首筋にはエアーの剣が。
 殺すつもりで振られた剣だ。エアーは顔を歪めた。
「何のつもりだ、マーカー・クレイアン」
 不機嫌さを込めたエアーの低い声。マーカーは怖じなかった。足元で腰を抜かした二人の盗賊たちはワネックが片手ずつに一掴み。
 マーカーは真直ぐにエアーを見上げる。両手を握る手に力を込めて。
「殺す必要はありません、隊長。彼らにはすでに戦意はありません」
「だからどうした。何人も殺してきた奴らに、慈悲でもかけるつもりか」
 興醒めしたようにエアーが剣をしまう。ワネックに目配せした。
「選んだのは、あいつらだ」
「ですが!」
「黙れ! 問答をしている暇があるなら怪我人を連れて行け! できないなら邪魔をするな!」
 マーカーは言葉を呑んだ。エアーはマーカーを一瞥すると踵を返す。盗賊たちと化物が動かなくなったのを確認した町の人々が家の中から出てくる。大慌てで怪我人に駆け寄ったのは、その家族だろう。涙を流しながら「誰か助けて」と叫んでいる。傍にいた誰かが首を横に振って、悲鳴に似た泣き声が響いた。近づいたエアーに「どうして」と叫ぶ。泣きじゃくりながら。「どうしてもっと早く」と。エアーは頭を下げた。「すみませんでした」と。
「待って……待ってよっ!」
 泣きじゃくる家族とエアーの間に入ったのは、イオナだ。
「命がけで戦ったのに、なんでエアーが謝らなきゃいけないの?」
「イオナ、いいんだ。その通りだから」
「その通りって、どの通りっ」
「俺がもっと早く来ていれば、死ぬことはなかった。その通りだから」
 エアーの顔が歪んだ。息絶えた被害者を見下ろして。
「俺が殺したようなものだから」
 エアーはもう一度深々と頭を下げて、背を向けた。マーカーとワネックを見る。二人は盗賊の二人を抜けにくいように縛り上げていて、ワネックは笑顔。
「隊長、この二人は連れて行きます。また夕暮れに」
「あぁ、頼んだ。もう時間もあまりないな」
「はい、日が傾いてきました。用事は終わりそうにないですか?」
「もうすぐ終わる。こっちに寄り道したのは俺だ」
「隊長」
 踵を返そうとしたところに、マーカーが。
「失礼しました。感情に任せた言い方をしてしまいました」
「別に」
 エアーは短く答えて踵を返す。
「言いたいことがあるなら言えばいい。時間さえあれば聞いてやる」
「はい。……って、え?」
 虚を突かれてマーカーはエアーの背中を眺めながらぽかんとした。
「意外……」
「やっぱり楽しみだなあ」
「え、ワネック?」
「マーカーがああいう行動をとるのは意外だったなあと、言っただけだよ」
 ニコニコと純粋な顔でワネックが笑う。マーカーは困り果てた。この人には敵わないのだと。
「それにしても、隊長はあぁいう言い方をするのか。それでか」
 ワネックは二人の盗賊を馬に乗せて、エアーに少しだけ振り返った。
「ワネック?」
「うん、隊長はきっとこれから イオナに責められるな。そんな修羅場は見たくない。早く逃げよう」
「え? って、うわっ」
 ワネックがひょいとマーカーを持ち上げて馬に乗せた。近くの人に留置しておける場所はないかと問い、すぐにそちらに向かう。マーカーは困りながらもワネックに従い、少しだけエアーに振り返った。
 ――本当に、イオナに責められているエアーがいた。


 エアーの服を掴んで、イオナはエアーを睨みつける。エアーはただ沈黙を返す。
「ねぇ、答えて。テルグットが言ってた。エアーが『弱かったから、殺したことになる』って言ってたって。それってこういうことなの?」
 エアーは何かを、躊躇っているようだった。イオナはエアーの体を揺らしながら、問い続ける。強い口調で。
「休隊処分になったとき、理由をそう言ってたって、聞いた。本当は……本当は本当に殺してないんだよね?」
 間。返答を求めるイオナの視線に耐えかねたようにエアーが小さな声を絞り出す。
「……言えない」
「言って。お願い」
「言えない。それでも言えというのなら、本当に俺が殺したことになる。何も考えず弱かった俺がっ」
 言葉を、エアーは途中で飲み込んだ。顔を歪める。
「……訊くな、もう」
 イオナはもうしばらくエアーの顔を見つめた後、諦めて手を離す。肩を落とした。
「分かった。もう訊かない。でも、信じることにする。エアーは何も悪いことしてないって。でしょ?」
「ありがとう。変わらないな、イオナは」
「エアーが変わりすぎただけだよ」
 さあ行こうと、イオナが歩き出したのに従って、エアーも歩き出す。途中周りから感謝されてと縋られたり、名前を問われたりした。イオナがからかうように笑って少し前で待っていて、エアーはある程度相手をして、ある程度流した。
 イオナの目的地に着くころはすでに空は赤くなり始めていた。
「ありがとね、エアー。あぁ、エアー高等兵士」
 イオナがからかうように呼ぶと、エアーは肩を竦めた。
「別にいい。前と変わらなくて」
「エアーがすっかり変わってたから正直どうしようかなって思ってたから、改めて呼んでみました。こっちの方が本当はいいんじゃない?」
「いいよ。隊長って呼ばれるのも、ようやく慣れてきたくらいだから」
「そっか」
 笑顔のままイオナが答えて、少しエアーから遠ざかる。
「それじゃあね、エアー。また時間があったら話ししよう」
「あぁ、時間があったら」
「うん。楽しみにしてる。大抵この家来てるから」
「仲がいいんだな」
「うん。もうすぐ結婚するんだもん、当たり前でしょ?」
 イオナが嬉しそうに楽しそうに笑うので、エアーも小さく失笑した。
「モーガスさんに、婚約者を連れまわして悪かったと、謝っておいてくれ」
「秘密にしとく、ばれたら言っとく。仮にもエアーも男の人だもん」
「それもそうか」
 失笑を再び落として、エアーは馬に跨った。馬面を返して少し、イオナに笑って見せる。
「それじゃ本当に。さよなら、イオナ」
「さよなら、エアー。またね」
 エアーは小さくうんと頷いて、馬を走らせた。
 もう夕暮れだ。時間に間に合わないかもしれない。
 あのへらへらと笑う魔道士の顔を思い出してエアーは眉間に皺を寄せた。
 うるさいことを言われそうだなと、思った。
  
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