88.そして始まりへ

   ウィアズ王国歴六九年。
 マウェート王国歴一〇八年。
 共通歴にして一〇八四年。十二番目の月二日目。夕暮れ。
 スノータイラーで行われたこの戦いは、ウィアズ王国軍の勝利に終わる。戦いに参加したマウェート兵のほとんどの命は失われた。彼らの決死の戦いは、ウィアズ軍にも傷跡を残す。
 スノータイラーの端に敷かれたマウェート軍の陣地跡地には、夕焼けに影を引く大きな磔が一台。晒されているのは小柄の女性の無残な屍。傍に立てられた看板には、『王国、ひいては天魔の獣たちに対する裏切り者。裏切り者に死を』と記されている。
 ウィアズ王国軍ピーク・レーグンは馬にまたがったままその磔台の前まで来た。
 磔にされた女性を見上げて、目を細めた。
「別に、縁起をどうこう言うつもりもないんすけど」
 ピークの傍らには誰もいない。ピークは死した彼女に語りかける。自ら死に追いやったのと変わりないマウェート王国軍総統指揮官コリネット・ヌーガスカ・アークへ。
「お前のその外套の色、お前の心全てを――」
 ピークは馬から降りて、コリネットに天魔の獣たちに対する聖印を切った。月で幸いあれと、願う。
「『裏切り者』ですか? これ見たからマウェート兵、あんだけ必死に戦ってたんだ」
 ピークの後ろからエアーがゆっくりと歩いてくる。看板を読んでから、コリネットを見上げた。どこか空虚な瞳。
「燃やしてあげてください。裏切りじゃなく、戦場で死んだってことで。この陣営の中にはあと一人分の死体しかなかったですよ。他は外で死んだみたいです」
 エアーは懐から透明な瓶を取り出した。昨夜エリクに渡されて、帰ったら飲もうなと言ったときに持ち上げて、ここまで持ってきてしまった。
 結局、皆で飲むことなんてできない。飲む気になれなかった。
 エアーは瓶をコリネットが磔にされている台の傍に置くと、踵を返した。
「ん、エアー。それ、非常に嫌な予感がするんですが?」
「はい、消毒用の酒だったらしいですよ。友人から預かってました。一緒に燃やしてください」
「で、お前はどこに行くんすか?」
「後処理の指揮を執ります。燃やしたら……ピークさんは魔道士の指揮をご自分で執ってスノータイラーの後処理の始末をお願いします」
「わかりました、総司令補さん」
「エアーで結構です。それじゃ」
 エアーはやはりゆっくりと戦場だったスノータイラーへ戻る。死体の中から生きている人間を探す。死んだ人間を確認する。死んだ人間ばかりになった戦場に、魔道士は火を放つ。浄化の炎、と呼ばれる。そして戦場は元の大地に戻るのだ。
 何も、なかったかのように。


(『心全てを飲み込んだような』か、たしかにそうかも。黒って)
 自分の外套を見下ろしてエアーは無感動に思う。
(全部、飲み込む色だ)
 ゆっくりと戦場を歩きながら指示をとばす。飛ばしながら限界に近い人間は陣営に戻す。遠くで同じようなことを騎士隊長ミレイド・テースクもやっていて、視線が合ったので、片手を上げて合図を送った。
 生きてるぞ、というような合図。
(生きてる人は生きてる。死んだ奴は死んだ……俺の外套、葬式に並んでる人の服みたいだな)
 炎が飲み込んだ後は、この土地も何もなかったようになり。生きている人間は何もなかったかのように日常へ戻る。
 けれど日常に戻りきれない気がした。気が付いた、皆元の日常に戻りきってはいなかった。失ったことが悲しくて苦しくて、耳も目も塞いでいたから気が付かなかっただけで、皆それぞれに抱えていた。
 名前を。
 歩き続けていつの間にか、足は勝手にエリクが死んだ場所まで戻ってきていた。エリクは変わらず木にもたれかかったまま微動せず、別れた時よりも黒ずんでいた。雪が少し足に積もっていて、身体にも少し。
 顔は少し笑っていて。
「なあ」
 なんで笑ってんだお前、とか色々文句が言いたい。けれど名前が呼べたら言いたかった言葉。思い出した、伝えたかった言葉があった。
「名前、さ、教えてくれて」
 世界は人間なんか気にせずに進んでいくんだよなって、ずっと思ってた。人間になんか目もくれず進むから、人間なんてすぐに世界から消える。人間を失いたくないのは――人間だけなんだなって。消したくないのなら、消えなかった人間が抱えていかなきゃ、って思って。
 一人ひとりの姿、声、心、全てを名前に込める。だから、
「ありがとな、エリク」

 辛さも苦しみも悲しみも受け入れて、絶対に忘れないと


 誓おう。
  
Back←//押していただけたら喜び。//→To be NextChapter. 
inserted by FC2 system