87.赤い、赤い、戦場で

   十二番目の月、二日目。十三時。
 スノータイラーに対峙したウィアズ軍とマウェート軍は、兼ねてよりの約定により十三時にお互いの戦力をぶつけ合う戦いを始める。ウィアズ軍が事前に調べたマウェート軍の数よりも実際の数は少なく、前日に傭兵隊が加わったウィアズ軍は、地上隊と天空隊共に有利に戦局が運ぶ。
 しかしマウェート軍は自国に引き戻る様子が見られない。退却する気がない兵の進め方である。まるで、兵士全てに死ぬまで戦えと言うかのよう。
 地上隊最前線、剣士隊長エアー・レクイズが決定的な言葉を聞いたのは「降伏しろ」と叫んだ直後だった。


「降伏なぞせんわ! 降伏は天魔の獣たちに対する裏切りぞ!」
 マウェート軍後方から怒声が上がった。マウェート軍兵が戦慄するのが傍目に分かる。
「裏切りに手を貸していた我々に残された贖罪の方法は一つ! 天魔の獣たちを拝するわれらがマウェート王国のために命を捧げることである! 降伏して命長らえようなどゆめゆめ思うな!」
 泣き声のようなマウェート軍の返答の叫びが戦場に響いた。エアーは舌打ちした。マウェートには稀にいる、狂信的な指揮官。兵を人と思わず使う、天魔の獣たちのために戦えば月に帰れるのだと。
「う、ううわあああああっ」
 目の前に剣士。両手で剣を振り上げる。怯えきった顔。
「死にたくなきゃ寝てろ!」
 一瞬。エアーは移動すると剣の柄の部分で現れた剣士の首筋を叩いた。剣士が力なく崩れるのを見送って、エアーは周りを睨みつける。
(なんだこれ? 皆怯えきった目をしやがって)
 そのせいで動きが鈍い。けれど必死になったマウェート軍兵の力は異常だった。まるで何かの魔法をかけられたかのように、ウィアズ軍の進軍が止められている。
(ほかの隊長に一度合流するか。魔道士隊長も前線にいたはずだし)
 相手が少数だというのに、決死の人間を相手にするほど嫌なものはない。
「おい!」
 ――名前。
 本当に便利だなとエアーは思う。思い出せずにやはり一言で呼んでしまう、自分の副官を。
「なんだよ!」
 やはり器用に答える声にエアーは振り返って、刹那に顔色を変えた。エリクのすぐそばにいた傭兵の一人が、手に持った槍をエリクに向けているのを偶然見てしまったから。
「後ろっ!」
 叫ぶのと同時、エアーは走り出した。
 間に合わない、間に合わない間に合わない。距離が――。
 言われてエリクが後ろを見やった、瞬間に槍が突き刺さる。一瞬の後、エアーがその片腕を斬り落とす。
「何しやがる、てめぇ!」
 斬り落とした腕と槍を手放して、傭兵が不気味に笑った。なくなった腕を押さえて、喉で笑いながら地面に倒れる。倒れた傭兵を一瞥して、エアーはエリクに振り返る。エリクはエアーの顔を見て、力いっぱいに笑った。
「はは……」
「笑いごとじゃねーだろ! 馬鹿!」
「馬鹿は、余計だって」
 答える声に力がない。妙だなと思った瞬間、エリクが崩れ落ちた。エアーに手を伸ばしながら、持っていた剣を落として。
「なっ……おいっ!」
 戦場は、止まることなく動く。とどめを刺そうとマウェートの剣士や騎士たちが。動かないエアーとエリクを獲物とばかり。
 エアーは剣を持ち直し、周りを睨みつけた。
「手短に済ます。死にたきゃ向ってきやがれ!」
「隊長!」
 少し後方で戦っていた剣士の数名が異常に気が付いて向かってくる。間、エアーは騎士二人、剣士一人を討ち終えた。
 まさに鳥さながら。まず勢いよく向かってきた騎士の一人目は、跳んで喉を斬り。その騎士の馬の背でもう一度跳びあがると、続いてやってきた騎士の槍をいなして空中で剣を振るい首を落とす。高い位置から着地したエアーに襲った剣士は、着地したことを確認する直前に、肩から深々と斬り裂かれた。その光景に、周りが二の足を踏んだ。
「隊長、護ります。副官を!」
 二の足を踏まなかったのは、たった二人。五班長マーカー・クレイアン・サーと、エアー直下一班の副班長を務めるワネック・アスキだ。
「恩に着る!」
 エアーは改めてエリクに走り寄った。走り寄って槍を抜くと、意識が朦朧としていたらしいエリクが苦しそうに声を上げた。上げて、視線をエアーに向ける。
「はは……わり……俺が先に死んだら、ざまないよな」
「しゃべんな。すぐ白魔道士に連れてってやる。このぐらいじゃ死なねぇよ」
「お前基準な、それ」
 力ないエリクの声。いつもの口調。エアーは焦燥に駆られて、周りを見た。どうにか馬を調達しようと思っていた。けれどここはあまりにも前線だった。周りは敵ばかり。騎士たちもいるけれど、余裕はなく。
 よっぽどでなければ捨て置かれる場所だ。一番死亡率が高い。力がなければ向かわせられない場所。
「白魔道士んとこ行ってもさ、たぶん、無理だよ。これ、ただの傷じゃないらしい」
「でもどうにかなるだろ、どうにかする!」
「俺の身体は、自分がよくわかってる。見ろよ、手が」
 力なく差し出されたエリクの手は、黒く変色し始めていた。剣を落としたのもそのせいだろう。
「なあ、エアー、俺もう無理だから。たぶん毒で」
「うるせぇ!」
 くそ、とエアーは舌打ちした。エリクを抱えて移動する。
 本当に無理かもしれない――認めたくない。
 ここはあまりにも最前線で、戻るのだって時間がかかる。
「なあ」
 肩の上でエリクが話す。
「なんだよ」
 どうしてか敵も襲ってこなかった。マーカーとワネックが護ってくれているだけではなくて、目の前にいる敵も何故か道を開ける。
「名前、呼んでくれないか?」
「………」
 名前。欲しい。臆病で、向かい合わなくて、それで失われたものを。
「名前……俺の名前、エリク・フェイっていうんだ」
 力なく垂れていたエリクの手がエアーを掴む。
「エリク……」
 教えられて呟いて、あぁそうだと思いだす。
 皆がエリクをエリクと呼んでいて、自分も副官指名の時に呼んだはずだ。
「エリク。無理じゃねぇよ、どうにかする」
「無理だって」
「無理じゃねえ」
「無理なんだよ。もういいよ。満足したから」
「勝手に満足してんじゃねえよ!」
 スノータイラーの傍にある森。この広いスノータイラーの片翼に位置する場所で、そっとエリクを下して木に寄りかからせた。森の中までは戦いに晒されてはいないようだった。
「ここで待ってろ、呼んでくる」
「特別扱いすんな。いいから、お前は戦場に行け」
「……っ」
 エアーは迷った。高等兵士の自分と一人の人間としての自分。失いたくないもの、失ってはいけないもの。責務。かけなければいけない天秤の外側に置かれていて、置く勇気すらない自分に腹が立った。
「……お前さ、その顔酷ぇから、拭いてから行けよ」
「うるせぇ」
「泣いてんじゃねーよ」
「うるせえ!」
 失いたくないもの。それでも失われたもの。
 どうしようもなく立ち尽くしたエアーに、エリクが少し笑った。
「エアー。そうやって皆にも自分の感情ぐらい分からせろな。たまには我がまま言ってさ」
 失われていく呼吸、生気。
 高等兵士として、この場所に立ち止まってなどいられない。隊員は数多くいるのだ、他の隊員もいる。一人だけに――。
「エアーらしく、生きていけよ。俺はきっと、ずっとお前の傍にいるから、さ」
「だったら――」
 エアーは感情のままにエリクの肩を掴んだ。掴んで揺らす。今にも失われそうな意識を取り戻そうと。
「だったら、生きろよ! 生きて、一緒に戦えよ! 生きて――っ!」
 自分が泣いていることなんてずっと前から知っていた。見て見ぬふりばかりして気が付かない振りをしていたけれど、自分の泣き声は子供のころと変わらない声で、ずっと頭の中に響いていた。
 失いたくない。
 うしないたく。

 うしないたくない。

「生きろよ……っ! エリクっ、エリク・フェイ!」

 揺らす身体にすでに反応はない。生気のない瞳が黒ずんで、虚空を見つめている。最後に少しだけ笑顔になって止まった、見慣れた顔。













「隊長」

 控えめな声でエアーは我に返った。いつの間にか地面に膝をついていた。

「行きましょう」

 ――行かなくては。
 戦場に。

「あぁ」

 剣を強く握った。昔クレハ・コーヴィがくれたものだ。以降ずっとこの剣を使ってきた。背が伸びて背丈には短いと言われても、手に馴染んで刃毀れもせず、自分を決して裏切らず、ずっと共にある、愛剣“(くれない)”。

「行こう」

 仄かに紅い刀身の紅を持ち上げて、エアーは戦場に向かった。
 涙は止まっていた。涙の後も拭き取って。
 赤い、赤い、戦場へ向かう。
  
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