86.伝えたい言葉

 


 ――名前。
 誰かが誰かを呼んでいるときに言っているのはきっと、名前。
 誰かに確実に届けたくて。その心を届けたくて、呼ぶための言葉。
 お前のこと知ってるよって、言われるとき、ついてくるのが名前。

 名前。

 俺、お前のこと知ってる、のかな?
 お前自身に伝えたい言葉が、あったはずなんだけど。

 名前……。

 でも見つけたらきっと、俺はまたあの中に戻らなくちゃならないんだろうな。
 ひたすら苦しくて、悲しくて、辛い。
 あの時間の中に、きっと。

 名前が。


「おい、寝てんのか? 起きろっ」
 パチンと衝撃。 不快感と共にエアーは眼を開けた。
「寝て、ねぇよ!」
 誰がやったのかなんて、エアーには分かっていた。高等兵士になってからここまで無遠慮にしてくるのは、同じ高等兵士か副官だけ。
 案の定、目の前には見慣れた顔。エリク・フェイ。
「呼んでんのに反応ないのが悪い」
「うるせー。聞こえなかっただけだ」
「寝てたんだろ? また機嫌悪いぜ」
「誰のせいだ、誰の!」
「あれぐらいで怒るんじゃねーよ!」
 噛みつかんばかりの勢いで椅子から立ち上がったエアーを見ながら、エリクは楽しげに笑う。エアーから軽く遠ざかって、テントの外を示した。
「時間だ、行こう」
「おう」
 エアーは傍に置いてあった滑り止めのグローブを手に取った。手にとってはめて、止め具でずり落ちないようにする。いつも通りの作業、いつも通りの格好。違うのは、今いる隊と自分の立場。
 休隊処分で旅をしている間は、いつもそうだった。傭兵まがいのことをしていて、時折賊討伐や、各町のいざこざに巻き込まれた。そうやって流れて生きている人間は少なくないらしい。一人旅だったけれど、別の場所で同じ顔に会ったりした。別々の立場の時もよくあった。
 寂しいとか悲しいとか思う余裕もなかった。生き残って帰ろうと、必死になっていた。強くなって、皆の、ところへと。
 パチン、と最後の止め具が留まった。外れないことを確認して、「よし」と呟く。
「行くか」
 帰ってきて、望んでいた顔ぶれはなかった。本当に戻りたかった場所はもうなくて、でも戻りたかった場所はそこにあったから、そこにいた。隊長のことも副官のことも尊敬していたし、帰ってきて改めて付き合い始めた人間といるのも楽しかった。強くなれば、もっと強くなれば、二度と失うことなんてないんじゃないかと。
「エアー隊長」
 斜め後ろからエリクが声をかける。エアーが振り返れば、少し照れたようなエリクの表情。
「改めて隊長ってのも、なんか照れるけど」
「やめろ。俺もだ」
「でも慣れてもらわないとな。今まで適当にしててすいませんでした。行きましょう、隊長」
「だからやめろって。気持ちわりぃから」
 失笑して、踵を返す。エリクが笑った。
「俺も言ってて気持ち悪いわ。いつも通りでいいか?」
「ったりめーだ。今日は雪降るな」
「おい、それ俺の台詞。とるんじゃねーよ」
 二人で、笑って。
 ――そういえばフリクで戦死した親父と、最後に会話した時も親父は笑顔だった。失いたくないってあの時思って、力の限り戦ったけど。
 親父は死んで。沢山の人が死んで。港は涙で濡れていて、母親も、妹も泣いていた。
 まだ俺が弱いからなんだろうか。もっと強くなれば――今以上に強かったら、親父も死ぬことがなかったのだろうか。皆泣かずにすんだのだろうか。皆に責められて――あんな思いをせずに済んだのだろうか。
 わからない。
 強くなっても強くなっても、失いたくないものは失われていく。失わないためにはどうしたらいい? どうしたら失わずに済む?
 わからない。考えるのも、もう疲れていた。
「おい、整列しとけって!」
 テントの入口を開けて外に出る前からエリクが叫ぶ。わっと軽く声が上がって、エアーがいたテントの前の空間に剣士たちの列が出来上がる。
 一様に口を閉じた剣士たちの表情。下級兵士たちは青ざめていて、エアーは少し失笑した。前から見るとよくわかる。
 皆色んな表情でここにいる。一つではない理由のため、自分たちは戦う。
 慣れることはないだろう位置に立って、エアーは一通りを見た。
「よおし。今日は第三剣士隊の初陣だ。あんまり天気はよくないけど、この隊の晴れ舞台だと思えよ?」
 くすくすと笑い声が漏れ聞こえた。聞こえた声に肩を竦めて、エアー。
「お前らそろそろ気を引き締めろよ。たとえ俺が頼りなく感じても、俺は第一大隊に所属する高等兵士の一人だ。つまり俺は第一大隊を動かす一つの部位で、お前らは第一大隊の一部。ウィアズ王国軍のこの大隊として、」
 一人ひとりの顔を見渡して思う。
 ここにあるのは一つの気持ちじゃない。それぞれの沢山の気持ちの中の一つが重なって、力になる。あるのは一つだけの気持ちじゃない。
「一人の、人間として」
 口にしてふと、エアーは自分の気持ちは、と思う。
 もしかしたらたった一つかもしれない。自覚できるのは、一つだけ。
「マウェートに勝とう。俺たちは一人じゃない。力を合わせて、敵に勝とうな」
 数秒の間、小さな声で誰かが返事して、続けてばらばらと隊内から返事がある。エアーは苦笑した。
「よし! 二番隊、配置につけ!」
 隊員たちが同時に返事した。雄たけびに似た返事もある、一斉に喧騒にのまれた空間でエアーは笑いながら踵を返した。踵を返したエアーに小走りでエリクが追いついて、肩を軽く叩く。
「がんばりすぎだ、隊長」
 顔に笑み。
「うるせー、つい出てきたんだよ」
「わかってるわかってる。お前が準備してあんなこと言えねーって」
「笑って言うな!」
「あははっ! 本当に、お前に会えてよかったよ。お前が隊長でよかった」
 エアーは言葉を飲み込んだ。顔は少し赤い。
「……それは俺の台詞だろ、馬鹿が」
 呟く適度の声量でエアーが。喧騒にのまれて声はエリクには届かない。エリクは駆け足で少し先に行っていて、エアーは少しその背中を見送る。
 失いたくないとあがいて、それでも失うから辛くて。ずっと目を背けてきた。失われたものに背中を向けていた。ただ辛くて悲しくて、苦しくて。
 大切なものはその中にある。
 たとえば大切な名前だとか、大切な思い出だとか。微かでも、この戦いの中で心休まる瞬間だとか。
 だから、なけなしの勇気を振り絞って進む。
「待てっ、俺より先に行くんじゃねーっ」
 とっと、軽く地面を蹴って走り出せばエリクの隣にすぐ追いつく。追いついたエアーを見やってエリクは舌を出した。
「早いもん勝ちだ。今日お前より活躍するのは俺だ」
「俺に敵うと思ってんのかよっ」
「敵わないって思ってんなら油断すんなよ? お前速過ぎて背中すら守ってやれないから」
「努力して追い付いてきやがれ」
 悪戯に笑って、エアーはエリクを追い越した。追い越して剣士の最前列に並ぶ。
 少し前には騎士たち。
 そのはるか前方には、マウェート王国軍が並んでいた。
  
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