8.橄欖石(ペリドット)

   カタン・ガータージがクォンカを訪れたのは、それから数日した真昼のことだった。
 クォンカは最近訓練中ことにやる気を見せていない。訓練場と中庭を繋ぐ段差の場所に腰を下ろして、隊員たちをぼんやりと見守っている。副官であるオリエックは、クォンカの態度が当然であるかのような顔で、しっかり隊をまとめている。だが彼の顔にも疲労の色が見え隠れする。
 カタンが訪れた理由は、二人の様子が目に余るから、だった。
 今年高等兵士に昇格した人間とはいえ、カタンは大隊の中では二番隊長、つまり総司令補だ。一番隊は騎士リセ・アントア。だがリセがクォンカを戒めるとはいま一つ思えない。――何せ彼の親友は三番隊長『不真面目の塊』と称されるピーク・レーグンなのだ。ピークを野放しにしている時点で、可能性は低い。
 自分がなんとかしなければ、と思ったのはカタンにとって全く自然なことだった。
「失礼します」
 開け放たれた訓練場の入口の前で、一応の挨拶。カタンの声にクォンカが振り返った。片手を振る。
「おう、カタン。そろそろ来るだろうと思ってたところだ」
「どういうことですか?」
「空からこっちを一瞥してから降りただろう。何か言いたそうな顔だったから、来るだろうとは思っていた」
「気が付いてたんですか? 何を見てるんです」
「色々だな」
 答えてクォンカがカタンを手招きする。カタンは不承不承従った。
「だったら俺の言いたいこともお分かりだと思いますが」
「いや、わからん」
 クォンカは大仰に両手を組んで、うん、と唸った。
「天空隊の人間がこの訓練場に来ることなんて稀有だ。それにお前は初めて俺を訪ねてきた。経験から推測できない、心当たりもない。わからん」
「本気で仰っているんですか?」
「あぁ、俺はいつだって本気だ」
 カタンの表情に、明らかに怒りが見えた。カタンの表情を見てクォンカはふむと思う。――やはり態度にイラついて来たか。
 カタンが訪れるのは、クォンカにとって予想の範疇ではあった。カタンが来なければおそらく、大隊は違うがナーロウ・ワングァが来ていただろうし、さらに時間が経てば否応なくリセも訪れて来ていただろう。
 予想の範疇外、といえば、カタンが訪れたタイミングが少し早いかと思えたぐらいなことと、やってきてほしい人物が少し遅いなと思えるぐらいのものだった。
「せっかくだ、一つ遊んでくか?」
 クォンカは極めて平生と。カタンが眉をあげた。
「“遊ぶ”、ですか?」
「おう、たまには面白いだろう。俺も遊び相手が少なくなったんで暇していたところだ」
 言ってクォンカが腰を上げる。オリエックはクォンカを見やって短く息を吐きだした。――“暇”なはずはないだろうと。
「あなたに至言できるほど高等兵士として時間が経ってはいない自分ですが、総司令補としてあなたに言っておきたいことがあって来ました」
「おう、だろうなとは思っていた」
「クォンカさん、今年度の始まりに陛下に宣言されたことを反故にするおつもりですか? 最近真面目に働いている姿を見た人間が、まず、いませんが」
 クォンカは苦言を呈するカタンの姿を正面から見た。
 真っ黒な衣装。括りもせずに下ろされた真っ直ぐで長い黒髪、黒い瞳。言葉も態度も真っ直ぐ。人は目を奪われてカタンを『黒い竜騎士』と呼ぶ。
 確かに魅力的なのだ。カタンの姿に夢を見る兵士たちは多いだろう、国民も。
「そうか?」
 あえて、クォンカはとぼけた。
 事実表向き動いてはいないが、先日も諜報員を二名捕まえたばかりだ。
「まぁ、そうかもしれんが、陛下に宣言したことを反故にするつもりはないな。そんなことを心配してきたのかお前は。お前も暇だな」
「あなたほどではありません」
 嫌悪の混じるカタンの言葉。クォンカは小さく鼻白んだ。――やはり、と思うのだ。
 カタン・ガータージの弱点とは、高等兵士であるには余剰な部分だ。
 カタンはまるで汚れのない白そのものだ。外から見るカタンの姿は混じりけのない黒、と言うことなのか。
 だからこそ人は夢を見るのか。滅多なことでは完全に持ちえぬその白さに。
「で? どうするんだ? せっかく屋内がまるまる空いてるしな。やるならそこの木剣を取れ」
 肩を竦めて、できることなら、とクォンカは思う。
 否応なく人を引き付けるカタンの魅力はそのままに、王国軍の先頭に立つ人物になって欲しい、と。だが今のままでは高等兵士として生きていけない。自分のように裏道をも使う人間を嫌悪していくだろう。
 そして、消える。
「……そうですね。せっかくですから」
 感情を抑えたカタンの声。ゆっくりと歩いて訓練場の端に置いてあった木剣を取った。
 対してクォンカは、何も持たずに立つ。カタンは訝った。
「クォンカさんはお持ちにならないんですか?」
「おう。俺は俺で素手での戦い方の研究中だ」
「手加減は不要です」
「それはお前の実力を見てからだろう。実を言うとお前の地上での実力がどれほどか、興味があったところだ」
 おそらく中等兵士からみても、カタンの頭に血が上っているのはわかっただろう。カタンは木剣を二、三度振って感触を確かめるとぴたりと木剣を静止させて構えた。
 オリエックが休憩を宣言して訓練場に向かい直った。隊員の剣士たちは屋外で死んだように倒れた者、オリエックと同じように訓練場を覗く者、二つに分かれた。
 訓練場の中は、静かだった。外から入り込む遠い喧騒。身動きしない二人の間に、音はない。
 始めに動きだしたのは、クォンカだった。
 無造作に一歩、前に出る。構えもしていない。間合いを測るように、カタンも少しだけ動いた。
(遊んでる)
 オリエックは訓練場と中庭を繋ぐ場所で腰をおろして思う。頬杖をついて小さくため息をついた。
 そも、クォンカが戦場で素手になるはずがない。クォンカが素手で対処する場合といえば、町の警備に就いた時か隊内での揉め事を止めるときだ。
 この場合、とオリエックは考える。
 隊内の揉め事を治めるため、と言ったところだろうか。カタンの表情は誰から見てもいらついていた。
(クォンカさんに『手加減不要』? 随分でかい口を叩くけど、所詮青二才、ってところかな)
 オリエックにすら、カタンの地上での強さの“底”が見えた。
「おいおい、逃げるだけじゃ決着がつかんだろう」
 クォンカが肩をすくめた。――刹那、緩んだ空気を裂いてカタンが間合いを詰める。鋭く振り下ろされる木剣、空気圧。
 クォンカは僅かな時間に、にやりと笑った。カタンの木剣をわざと大仰に避けて、追撃をさらに大仰に避ける。
(いい太刀筋だ、本当に真っ直ぐで、見切るのも楽なくらいだ)
 所詮、剣士ではない。地上は天騎士であるカタンの土俵ではない。剣士であるクォンカや地上隊の土俵だ。
 さらに続いた追撃は、クォンカは最小限の動きで避けた。腹の寸前をカタンの剣が通り過ぎて空気を切り裂く音が鳴る。
 クォンカはカタンの剣が通り過ぎると同時、前に踏み込んだ。構えもしていなかった状態から腹に力をこめる。
「っ」
 前に踏み出した勢いとともに拳をカタンに叩きつける。――乾いた、音が聞こえた。
「っ!」
 カタンから微かに、苦痛を耐える声が漏れた。拳を振り抜いた状態でクォンカは「しまった」と思う。――つい本気で殴ってしまった。
 カタンが勢いに叩き飛ばされて地面に転がる。クォンカはカタンが転がる姿を見送って、表情を変えないままに片手で頭をかく。
「あー……やばいな」
 混乱すべきはカタンではないだろうか。クォンカは明らかに本心で焦っていた。
「オリエック」
 クォンカが呼べばオリエックはすぐに立ち上がる。立ち上がると何も言わずに訓練場の外へと向かった。
 カタンがよろよろと立ち上がろうとするのにクォンカは手を差し伸べるが、カタンは首を横に振った。
「平気です」
「そ、そうか?」
 クォンカはカタンから目を逸らして、差し伸べた手を居心地悪く余所へとやった。――何を焦っているのだろう。カタンは訝った。立ち上がってクォンカを覗いていると、クォンカは差し出した手を頭に乗せて再び頭をかいた。
「まぁ、オリエックが白魔道士を連れてくるから、それまで安静にしていてくれ。痛みでよく聞こえないかもしれないが、俺は今から言い訳をする」
 カタンは微かに笑って、すぐに襲った胸の痛みに顔をゆがめた。
「あぁ、笑うな、肺に刺さったらどうする」
 刺さりそうにはないけれど、クォンカは本気らしい。腰を手に当てると、撥の悪そうな顔で苦笑するのだ。
「言い訳だが、まず一つ。今日は少しイラついていた。訳を話してやらないこともないが、ここでは言わないでおく。二つ、お前もイラついていた。それを見てるとやっぱりさらに腹がたつな――原因は俺だろうが。三つ、俺は油断をし過ぎた。お前の殺気は本物だな。ここはお前の土俵じゃないだろうが、それを不利と思わずに向かってきた。それが手加減ができなかった最大の理由だろう。悪いな」
 クォンカが言い訳を並べる。妙に笑いを誘う光景だ。
 泣き笑いのような顔をするカタンを見やると、クォンカはぽりぽりと頬をかく。
「本当に悪かった。俺も大人げがなさすぎる。言い訳さえ並べたからな」
「いいえ、たまには」
 カタンは笑いをこらえた。至言しにきて負けたと言うのに含むもの何一つない笑顔。
 クォンカが一つ大きく息を吐くと同時、オリエックが戻ってきた。訓練場の入口に立っていて、「クォンカさん」と肩を落としたように頭を下げた。
「おう、どうしたオリエック」
 オリエックが肩を落とすなど――とクォンカの疑問はすぐに解けた。
 オリエックの脇を通り抜けて小柄な女性――女の子だとも表現できる、アタラ・メイクルが現れたからだ。
「アタラ……?」
「どこかの大人げない大人の尻拭いをしにきた」
 アタラは、ふん、と短く息を吐くと、ローブをオリエックに投げ捨てた。オリエックはアタラのローブを受け取って苦笑する。カタンよりもアタラのほうが歳下だが、文句も思い浮かばないのはおそらく、アタラという人間だからだ。
 アタラはカタンに近づくと、乱暴に向きを正す。見ていてカタンがかわいそうにさえなってくるほど、乱暴。
「こんの忙しい日に……」
 何をやってるんだと言わんばかりの口調でアタラ。手の平に生まれた光をカタンの胸に押し当ててしばし。
「完治」
 カタンの胸を軽く叩いて颯爽と踵を返す。二、三歩クォンカに向かって歩みよって立ち止まる。片手を腰にあてた。
「悪いな、アタラ」
「悪いと思うなら怪我をしない程度に」
 高い声。低い目線。ただし態度はあくまで高みを目指す高みから。
 他の人間が行えば生意気だとしか思われないような仕草、態度でも、どうしてかアタラだと許せてしまう。それほどの威力を持った雰囲気を纏っていた。
「取引」
 至極簡潔にアタラ。
「どちらも損はないはずだけど?」
 クォンカはアタラを見下ろしたまま苦笑する。――まさかこのタイミングで現れるとは思っていなかった。
「ひとつ訊いておくが、アタラ」
 アタラが首を傾げたのを合図にクォンカは続けて問う。
「第二の方が何もできなかったのはお前のせいか?」
「おそらくね。もう少しまともな魔力の奴使えと、ピークにも言ったんだけど」
「お前に敵う奴がいるのか?」
 クォンカが肩をすくめると、アタラは少しだけ目を細めた。
「受けるでしょう? 取引」
「受けるしかないだろう。俺はずっと犯人を待ってたんだからな」
 オリエックがアタラに近づいて受け取ったローブを手渡す。アタラは大人しくローブを受け取ると、至極淡く、笑みを浮かべた。
「そう。だったら丁度良かった」
 言い、踵を返す。颯爽と訓練場を去るアタラの背中を眺めてから少し。
 クォンカは茫然としているカタンを見た。
「そういうことだ、カタン。見せたいものがある、行くぞ」
「は、はい」
 やはり呆然としたままカタンが答えるとクォンカが破顔する。
「まぁ気楽に構えろ。何があっても受け入れるつもりで構えてみろ」
 カタンは首を傾げながらも、歩き出したクォンカに従った。
 二人の背中でオリエックが訓練の再開を宣言する。
 すべてが当たり前のように流れる訓練場を出る寸前で、クォンカは少しだけため息をついた。
  
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