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王城では軍用に大きな食堂が二つあって、大抵の人間は王城で食事を摂る。
今は二番隊の食事時間だ。
第二大隊が食事を摂る第二食堂は騎士たちで埋め尽くされようとしていた。
その中に一人だけ、帯剣をしてやってきた人間がいる。城の中で常時帯剣をしている人間といえば、大抵は剣士だ。騎士たちはあまり帯剣をして歩かない。
かちゃ、かちゃ、と彼が歩くたびに鳴る音も、騎士たちの間では見覚えのない顔も、すべてが目立つ。剣士の中ではさほど目立ったことはないのか、やってきた剣士は居心地が悪そうに周りを見た。
「参ったな……」
確かに、彼はそう、呟いた。片方の耳に三つ連ねられた瑠璃のピアスがきらりと少しだけ、ランプの明かりに反射する。
「ここにも、いないのか……?」
やはりぼそりと、苦し紛れのように呟いている。
しばらく人の流れを避けながら周りを見渡したのち、ふと食堂の端の方に座っている三人組を見つける。そのうち一人はティーン・ターカーだった。
ティーンは何気なく見ていた剣士と目が合うと、少しだけ眉を顰めた。
「あぁ、君」
ティーンを示して剣士が大股で近づいてくる。ティーンは訝った。見覚えのない男だ。
「ティーンだろう? 彼の話によく出てきてた」
「彼?」
呼ばれて、ティーンは腰を上げた。持っていたスプーンをトレーに置いて、剣士を見る。ティーンは騎士の中でかなりの長身だったから、たてば否応なく目立ったし、最近はなぜか副官の手伝いをさせられている。見られることに慣れてしまった。
「そうそう、君が親友だって……って、ティーンだよね?」
「そうだ。お前は誰だ?」
「俺? クレハの友達だよ。知らないかな?」
大仰に肩をすくめた剣士を見やって、ティーンは首を横に振った。
「クレハの友人など、数が多すぎて私は把握できない。それどころか把握するつもりもない」
「そっか。たしかにね」
けらけらと笑って、剣士はティーンの前に立った。同じテーブルで食事を摂っていた二人が、きょとんとした様子で剣士を見上げている。
「クレハは?」
ティーンは眉を顰める。
「知らないのか?」
くすりと、剣士が笑う。見下したような、それでいて試すような眼が一瞬だけ見えた。
「……知ってるよ。病気だからね、クレハは」
「そうだな」
ティーンは明らかに警戒を示した。だが剣士はティーンの警戒などどこ吹く風で片手を差し出す。握手を求めているのだろうとティーンが理解するのに少しの時間がかかってしまった。それほど自然だった。
訝りながらもティーンが求められた手を差し出すと、剣士は素早くティーンの手を取る。
小さな、声だったように思える。喧騒の中ではティーンと周りの二人にしか聞こえないほどの。
「俺は、オリエック・ネオン」
「……なんだと?」
「あれ? 俺がクレハと友達だったらおかしいかな?」
剣士が少しだけ力を込めると、握手を交わした手の中でくしゃりと音が鳴った。
「同名でないのなら、お前は」
「クレハによろしくね。月に行かないように祈ってあげるよって」
「………」
ティーンは沈黙を返した。握手を交わした手が離れて、オリエックは踵を返す。ひらひらと手を振ってにこりと笑った。――白々しい笑み。
「じゃあ、またね、ティーン」
ティーンは少しの間オリエックを見送って、顔をそむけた。受け取った紙をポケットに入れると、どっかりと再び席に座るのだ。
興味深そうに見ている二人の様子を見やって、小さくため息をついた。
――今年は本当になんなのか。
「なぁ、オリエック・ネオンって……」
「あぁ。クォンカ・リーエの副官。それがなんでクレハと?」
「さぁな」
そっけなく答えて、ティーン。
まだ少しだけ残る食事を置いて、「すまない」と立ち上がった。
「少し、話をしてくる」
告げて席を離れた。
無償にある不安と、悔しさと。
目を背けていようと思っていたことに結果が迫りつつあることを、自覚しながら。
十番目の月は大きく丸い、朱色を帯びた月だ。オリエックは見張り台の上、空を仰いで縁に背中を預けていた。
少しだけ肌寒い夜風が通り過ぎる。
かつて、とオリエックは月を見上げながら思った。
天魔の獣たちの教本、天魔史によれば、人間は月からやってきたのだという。
天魔史を適当に読んだ祖父は言った、笑いながら。
「『士』が罪を犯して死ねば、月に行くって本当かな?」
祖父一流の皮肉だったのだろうと思っている。オリエック自身はそれほど天魔の獣たちの話を鵜呑みしているわけではない。常識の一つとして教本を読み、軽く理解をしているぐらいのものだ。クォンカのように信者ではない。
「なんの話だ。天魔史によれば、天魔の獣たちは月に帰すために我々の戦いを見守っているのだろう」
かつん、かつん、と軽く息の上がったティーンが階段の下から現れる。オリエックはティーンが近付いてきていたことを知っていた。オリエックは白々しくティーンに笑いかける。
「俺の祖父の教えだよ。よく来たね、ティーン」
祖父からの教えを、オリエックは剣士によく聞かせる。天魔史を読まない類の人間は、よく信じていたなと微笑ましく思う。
ティーンは階段を上りきった場所でオリエックを見、目を細めた。
「来いと言ったのはあなただ。わざわざ、それだけのためにこれまで」
ポケットから紙を出す。オリエックに握手された時に渡されたものだ。開いてみれば『南東の見張り台の上で待っている。君は少し身の周りを気をつけた方がいいよ』と。
今の一度しか顔を合わせたことがないにも関わらず、言っている顔まで想像出来た。ティーンにとって苦々しい気持ちが湧く手紙の他の何ものでもなかった。
「なぜあの場ではいけなかった」
「君にだけね、面白い話をしてあげたかったんだよ」
やはり白々しい笑顔のまま、オリエックが。
「面白い話?」
対するティーンはやはり、不機嫌な態度のまま。オリエックは短く、鼻で笑ってティーンを見た。
「そう。確か君の隊、第二大隊二番隊の隊長はアンクトック・ダレム高等兵士。さっきは不在だったね、庶務に追われてる」
「そうだ」
「俺のいる隊――第一大隊四番隊は、隊長が誰か知ってる?」
「常識だ。クォンカ・リーエ高等兵士。それも訓練場はうちの隣の敷地だろう。副官はオリエック・ネオン」
「そう。やっぱり知ってたか」
白々しい、聞き方によれば癇に障る笑い方。くすくすと笑うオリエックの声を、ティーンは極力感情を波立たせないように聞いた。
オリエックはすぐに笑いを消した。笑いたくて笑っていたのでもないような、元から笑ってなどいなかったのかと思うほどあっさりと。
「そう、俺はクォンカさんの副官をやってる。だからあと三〇分もしたら食事の時間なんだ。それまで付き合ってもらうよ」
夜風が二人の間を冷たく通り過ぎる。ティーンはオリエックの姿をまっすぐに見ながら、体を動かせないことを自覚していた。――翻弄されている。オリエックの挙動に完全に呑まれてしまっている。
空気が冷たいなと思った。息苦しく感じる沈黙が少しだけ続いて。オリエックはティーンを見据えながら口を開いた。
「確かに君は優秀らしいね。呑まれても冷静なままだ。残念なのは君は“一般的な中等兵士”だってことだね」
ティーンが眉を顰めた。
「たぶん高等兵士の皆さんも、俺と同じ感想を持つと思うよ。君が今までにしたことを顧みれば」
「……なんの、ことだ」
「君は知っていてやってる? だったら君も処分しなきゃね。君を殺すのは大変そうだけど、無理じゃない」
まるで天気の話でもするかのようにオリエックが言えば、ティーンはますます敵意をオリエックに向ける。
「人は一人だけど、孤独じゃない」
オリエックはティーンの敵意などどこ吹く風だ。
「一人になりたくないからって人は人と戯れるけど、そもそも人は一人だよ。認められない?」
――否、認めていた。オリエックはティーンの表情を見つめて思う。認めていてもなお、どうすればいいのかを知らない。その喪失感を。
「君はクレハ・コーヴィ一人いないぐらいで道を誤る。道を許す。もし本当にクレハが二度と戻らなかったら、君はどうなるんだろうね」
ティーンは我知らず、オリエックを捕まえていた。オリエックの襟を掴み、睨みつける。オリエックは逃げもしなかった。
「俺が許せないのはね、そんな君が、」
オリエックがティーンの腕に手をかける。――尋常の力ではない。ティーンは顔を顰めた。騎士の中でも豪腕のティーンの力を超えている。
「その能力の有能さだけで、人の上に立つ可能性があるってことだよ」
オリエックが力を籠めてティーンの腕を放り投げた。ティーンはオリエックの常識を超えた力に唖然とするしかない。
だが、すぐに自我を取り戻す。
「どういうことだ。回りくどく言うよりも、単刀直入に話を進めたらどうだ」
「結論はね、君の思う通りだよ」
途端、空気が流れ始めた――ように思えた。夜風を再び感じてふと、背中に視線を感じた。視線に振り返れば、つい先ほどまで同じ食卓についていた騎士が一人、ティーンと目があって驚愕しているのが見えた。
「くそっ」
呟いて、彼が踵を返して階段を駆け降りる。ティーンは茫然と見送った。
ただの盗み聞き、なら、よかった。
けれど同じような場面を、何度か経験したことがある。その度に「悪い」と謝る彼らの姿を、ティーンは容認してきた。クレハのような噂好きの、性質の悪い様子の人間だと思えばよかった。
けれど、それも時折度に過ぎた。
「いいから、とっとと降りろ!」
後ろから声を上げられてティーンはびくりと肩を震わせた。声に振り返れば、オリエックが本心でティーンを睨みつけている。途端、不意に銀色の何かが飛んできた。
オリエックは飛んできた銀色を見やると、鮮やかに剣を振るう。投げつけられたナイフは、月に照らされてキラキラくるくる回り、床に落ちた。
「ろく!」
オリエックが叫ぶ。ティーンは我に返って階段を駆け降りた。
ダンダンダンダン、と階段を降りる音が二つ。一つは遠くで聞こえる。
――嗚呼、この愚か過ぎる自分が、夢ならばいいのに。夢から覚めた時には二度と間違いを犯さない自分になれる。
どこかで知っていた、彼らは情報を得るために自分に近づいたことを。彼らが近づいてきたのは、ちょうど副官の手伝いをさせられるようになってからだ。
ティーンは奥歯で苦虫を噛み潰す。
なんて、覚悟のない。
理解していたのだ、副官の手伝いが増えた時点で、後任に目されているのだと。それを理解していないつもりでいたのは、ただ責務を引き受けるだけの意気地がなかっただけのこと。
ダンダンダン、と。
階段を降りる音、一つが止んだ。ティーンの前を先行していた彼が勢いよく見張り塔の外へと飛び出す。――直後、悲鳴を上げた。
「な、なんで……! 化け物かよ、お前も!」
うわぁという苦悶の声を聞いて、ティーンは訝った。――誰が、彼を捕まえたのかと。
疑問の答えはすぐに出た。ティーンが見張り塔の外に出ると、彼をオリエック・ネオンが締め上げている姿が目に映った。――感情のない瞳。
覚悟、信念、すべての彼の強さが押し込まれた、瞳。
ティーンはオリエックと彼の姿を見やって、短く息を吐いた。――自嘲だった。
「くそっ! くそっ! だからクォンカは嫌いだったんだよ! あの昼行燈がよ! 俺はいつだって懸命だったってのに!」
「嘘をつくなよ」
酷く冷たい言葉がティーンから発せられた。ティーンですらも自分からそれほど冷たい口調が出るとは思っていなかったらしい。もう一度、自嘲するように息を吐いた。
オリエックに締め上げられた彼が、ティーンを見上げた。彼はティーンの表情を見て、喜色に似た笑みを浮かべた。
「ざまはないな」
ティーンが誰に言ったのか、その場にいた全員が瞬時に理解した。
捕まえられた男が声を立てて笑った。オリエックに締め上げられて身動きなど取れず、姿勢すらも辛いだろうというのに、まるで壊れたように、嘲りの笑いを吐き出すのだ。
「あぁ、ざまない。ざまないなぁティーン?」
彼は必死に体をよじった。――無理ある姿勢だ、まるで自分から体を壊そうとせんばかり。
オリエックは眉を顰めると、望みどおりに彼の体を放り投げて解放する。彼はごろりと地面に転がると、すぐに立ち上がり、隠し持っていた短剣を取りだす。
「へっ、ざまない! ウィアズ王国! 何年も俺程度の諜報員をほっとくなんてよ!」
短剣を自分の喉へと向けた。だがその刹那、オリエックが彼の手を握り、首筋に一撃をくらわせた。彼の体が力を失って、ばたりとオリエックの片手に倒れこむ。
ティーンは一連の全てを見送って、オリエックが背中にしている草むらを一瞥した。
「そろそろ、私は帰らせていただきます」
静かに頭を下げて、ティーンは歩き出す。
「他言はしませんので。これ以上巻き込まれることもないでしょうが……クォンカ・リーエ最高等兵士、オリエック・ネオン」
オリエックがティーンの背中を見て、眉を上げた。――白々しい驚愕の表情。
ティーンはオリエックの表情を見て、微かに笑った。
「いえ……クォンカ高等兵士」
ティーンが少しだけ立ち去ったのち。
草むらから居心地が悪そうに出てきたクォンカはティーンの去った方向を見やり、片手で米神をかいた。片手にはオリエックが騎士たちの食卓に訪れたおり、ティーンと同じテーブルについていたもう一人の騎士が抱え上げられている。
「オリエック」
「クォンカさん高等兵士のくせに式典サボりましたし、人のこと言えないですよね。だから最高等兵士になれないんだ、なんて口が裂けても言ってませんから俺は疑わないでくださいね」
白々しく笑顔を浮かべたオリエックに、クォンカは苦笑した。
「そういうことにしてやるよ」
答えたクォンカに、オリエックは満足げな笑顔を見せた。
二人ともお互いが、口に出した言葉とは裏腹の腹を持っていたことを、お互いに理解し合いながら、二人は暗闇に消えた。
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