6.瑠璃(ラピスラズリ)

  「あーあ……」
 ウィアズ王国の空は、青かった。これでもかというぐらい、雲なんぞは一つ二つ、おまけ程度に浮いていればいいぐらいのものだ。
 この晴れ渡る空の色を、ウィアズ王国の青という。
 春から秋の中旬にかけては短い雨期を除き、晴れていることの多いウィアズだ。空から降り注ぐ陽光は、ウィアズならではの茹だるように暑い気候を演出する。
「暇ったれ、かぁ?」
 訓練場の横にある、訓練のための中庭と、訓練場を繋ぐ場所で、この訓練場の主である第一大隊四番隊長クォンカ・リーエは空を見上げていた。横には副官のオリエックが苦笑と呆れ交じりに立っている。
「隊長も走ったらどうですか?」
 非難交じりの声に、クォンカが視線をおろした。――顔にも非難を現した、少年のように若い剣士がクォンカの目の前に立っている。
「隊長だって体なまりますよ」
 クォンカの横でオリエックが眉をあげた。クォンカは文句をつけた剣士よりも動作はさらに子供のように、ふてくされて顔を膨らますのである。
「だって張り合いねぇもん」
 言ってぷいと横を向いて頭をかいた。ぐっ、と音を立てて若い剣士が息をのむ。――しょうがないじゃないか、と言いたい口を押さえているのだろう。
「だっ、だからって――」
「エリク」
 エリクと呼ばれた剣士が、びくりと肩を震わせた。おそるおそる、呼びかけたオリエックを見やる。オリエックは白々しい笑顔を浮かべていて、足元に落ちていた布袋を軽々と持ち上げて片手でエリクに放り投げる。エリクは布袋を受け取ると、よろよろと、二、三歩よろめいた。
「次の次、君の番」
 オリエックの顔は涼しいほど白々しい笑顔のまま。エリクは内心冷や汗を浮かべて「はい」と、答えるとすぐに踵を返した。
 逃げたエリクを見送って、オリエックは横眼でクォンカを見やった。クォンカはエリクの背中を無感情な瞳で眺めていた。
「オリエック」
 呼ぶ声に感情はない。
「はい」
 オリエックは短く答えた。答えたが、続けられるのは問いだとオリエックは理解している。内容すらも。
「あれから何人辞めた」
「まだ、誰も」
「そうか」
 クォンカが答えた途端、唐突に訓練場の入口が派手に開いた。
 バァアン、と激しく音を立てて入口が開かれたかと思うと、振り向いたクォンカに向かって一人の女性が走ってきたのだ。クォンカはやってきた人物を見やって呆れ交じりのため息をついた。
「見て見てっ、クォンカっ!」
 ――ホンティア・ジャイムである。ホンティアの訓練場とクォンカの訓練場は近くないはずなのだが、ホンティアはよくよくこの訓練場に訪れる。いつ何時訪れるか分からないほど頻繁に。
 ホンティアは至極嬉しそうに自分の背後を指さした。片手には白く長い布が握られていた。
「隊長!」
 怒声だ。若くは聞こえるが確かに男の声だ。
「隊長以外心当たりありませんから、絶対に隊長でしょう!」
 それも逃げましたからね、と相変わらずの怒声を張り上げながらホンティアを追って訓練場に現れたのは、鈍い金色の髪をなびかせた弓士だった。髪は落ち着けば腰に達するかと思われるほどに長い。
 へぇ、とクォンカは現れた弓士を見やる。弓士は訓練場に入る前に一応礼をしてから、落ち着いてホンティアに近づく。片手を差し出して。
「返してください。髪邪魔なんです」
「あら、だったら切っちゃえばいいんじゃない?」
 ホンティアがくるりと弓士に振り返ってにっこりと笑う。えくぼに指など当ているしぐさに、クォンカが嘆息する。――クォンカはホンティアのこういう仕草にはすっかり慣れてしまっている。
 ホンティアを追ってやってきた弓士はクォンカの姿など視界に入っていないようだ。髪の間から微かに見える水色の目は、鋭くホンティアを睨んでいる。
「切ったら切ったで怒りますよね」
「そうよね、私カランの長髪大好きだし」
「それに俺も切る気はないです。質問の結果がわかってるくせに訊くのやめてください」
 ホンティアの手から布を取り返そうと動いた手を、ホンティアが悪戯でもするかのように振り上げる。カランと呼ばれた弓士はホンティアの背丈とあまり変わらないが、空を切った手を居心地悪く元に下ろす。
「隊長!」
「あら、ここには隊長と呼ばれる人間が二人いるけど?」
 やはりかわいらしい口調で、ホンティアが言うと、カランはわざとなのか、音に出して舌打ちした。舌打ちの音に、ホンティアがくすくすと笑って横眼でクォンカを見やった。クォンカは半笑いを浮かべている。
「ホンティアさん、」
 わざわざゆっくりと、二度と言わないんだと言わんばかりにカランが言うと、ホンティアが眉をあげた。見るとカランは片手を握って、頭に登った血を、それでも必死で抑えているように見えた。
「いい加減にしてください」
「あら、いい加減って?」
「いい加減に、俺で遊ぶのやめてください!」
 言って、素早く手を出した。ホンティアに没収されていた布を握る。ホンティアがにやりと笑った。
「これほどの年月でいい加減?」
 ホンティアの手が布から離れた。言うトーンも一段低い。カランは取り返した布を手前に引きながらも、嫌な予感にホンティアを見つめた。
「本当、」
 ホンティアが手を下す。クォンカがふうと息を吐き出す。――呆れ交じりに。
「まだまだ、ガキなんだから」
 声は酷く静か。だが動きは至極速い。
 予備動作などほとんどない状態でホンティアは拳を突き出した。カランはとっさにホンティアの拳を両手で受けとめる。それでも威力はほとんど殺せない。手の平から伝わった痛みにカランは顔を顰めた。
「拳だけだなんて誰が決めたの」
 やはりトーンが低いホンティアの声を、カランは聞いた――気がした。
 気がしたというのも、拳を受け取った直後、ホンティアがカランを思い切り蹴飛ばしたからだ。
 カランの小柄でもない体が派手に転がる。剣士などほとんどいない剣士の訓練場に、転がる音が派手に響いた。
 カランは倒れた体を片腕で起きあがらせて、「っつ」と、わずかに苦痛の声を上げる。
「上等」
 先ほどとは打って変わって、ホンティアが上機嫌に高い声で告げる。姿勢を正してカランを見下ろしている。見下ろされたカランは、蹴飛ばされたことには文句は言わない。ゆっくりと体勢を整えて再び立った。
 カランが立つのを待って、ホンティアはにっこりと笑いクォンカを見た。至近距離で。
「ねぇねぇクォンカっ」
 ホンティアの顔を片手で押しやりながらクォンカは半笑いを浮かべたままだ。
「なんだ、ホン。あれは弓士に対してやり過ぎだ」
「カランにはやり過ぎだと思わなくは、なあい?」
 ホンティアがにっこりと笑う。クォンカもにやりと笑った。横眼で少しだけ様子を見ていたオリエックはため息交じりに、隊の剣士たちに目線を戻した。
 当のカランはというと、文句を飲み込んだまま、取り返した布で自分の前髪をあげて髪をまとめていた。
「そうだな。予想していたとはいえ、お前の攻撃を一発防いだ。二発目は仕方がない、あれが避けられるのは剣士でも体術をそこそこにできる奴ぐらいだろう」
「あら、クォンカだったできる?」
「オリエックにだってできるだろう」
「あら、オリエックとはごめんだわ。どうせ遠慮して私に殴られるだけだもの。本当は拳一つで人間の骨なんて軽く折れるくせにねー」
「で? お前の連れてきたカランって弓士はどうなんだ?」
 ――ちなみに。ホンティアが弓士でありながらも接近戦に長けているのは、ウィアズ王国では常識である。ホンティアと腐れ縁状態のクォンカにとってみれば日常だ。故にホンティアがわざわざ連れてきたカランという弓士に興味が湧いた。
「この子、鉄甲つけていたとはいえ、この前もキレて窓ガラス叩き割ったところ」
 ほう、とクォンカが関心する。至極声をひそめて。カランは自分が話題に出た時点で逃げかえるのを控えている。――逃げたら後が酷いなと、経験で悟っている。
「ちなみに……下級兵士なのか?」
「いいえ。この子を正式に兵士にしたの、確か十二ぐらいの時だからとっくに中等兵士」
「いくつだ」
「一六……一七だったかしら」
「なるほど、まだまだ途上だな」
「えぇ、まだまだ途上」
 悪巧みするような二人の様子に顔をしかめたのはカランだ。
「俺、弓士以外になるつもりありませんけど」
 二人の会話を断ち切る声量で、カラン。
 クォンカがカランを見て眉をあげた。
「何も剣士になれとは言っていない。お前、名前は」
「カラン・ヴァンダです」
「よし。カラン・ヴァンダ」
 カランを呼んで、クォンカはちらりとホンティアを見やった。ホンティアは指を七本クォンカに向かって立てている。
「七日間、うちで訓練していけ」
「……はい?」
 訳が分からず疑問の意味でカランは返事する。が、故意に肯定に取られてしまった。
 クォンカは嬉々と笑うと、「それじゃあ行け」と中庭を指さす。
「だから、俺は剣士になるつもりはありません」
「カラン?」
 呼ばれた声にカランはホンティアを見やった。ホンティアがにっこりと笑っている。人差し指をたてて口元にあてている。――最上級の『黙れ』という命令だ。カランは息を飲み込んだ。
「従いなさい?」
 ホンティアの可愛らし過ぎる笑みに言葉を失って、カランはがっくりと肩を下ろすとクォンカの命令通り中庭に向かった。
 中庭ではまだ、砂の詰まった袋を抱えた剣士たちが走り込みを続けている。
 カランは剣士たちを眺めて、ふうと息を吐いた。
 目線を下げると少しだけ。本当に少しだけだったけれど――幼い剣士の中に赤紫の目を探した。チェオ・プロに殺されかけていた剣士、血だらけで呆然としていた剣士。
 自分と同じように、チェオ・プロの死に、自分の実力のなさを嘆いた少年。
 カランはすぐにかぶりを振るとオリエックに指示されるとおりに従った。
 ホンティア・ジャイムは目を細めてカランを見つめた――少しだけ、ほんの少しの間だけ。
「クォンカ、締め上げるわよ」
「おう、任せろ。そろそろ泳がせるのに飽きてきたところだ」
 二人の高等兵士は、喧騒に包まれる訓練場では二人にしか聞こえないほどの至極小さな声で会話した。
 秋の、ことだった。
  
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