57.沈みゆく船の上から

  「――おい! おい、エアーっ!」
 がつん、という衝撃でエアーは重い瞼を開けた。目を開けると真ん前に人の顔があって、表情がみるみる笑顔になる。
「お前……?」
 状況がうまく読み込めずにぼんやりとしていると、がつんと再び頭に衝撃が走った。
「心配したじゃねーかよ」
 笑顔のまま、嘆息。「ほら」と声をかけてエリクがエアーの腕をとった。
「とっとと出ようぜ、本当に帰れる距離じゃなくなる」
「あ?」
「あ、じゃねぇよ。言っとくけど、あのワイズとかいう魔道士に感謝しとけよ。今この船、あいつの魔力で浮いてんだから」
「は?」
「だから!」
 ぐい、と腕を引きよせて、エリク。
「この船、沈みそうなんだって!」
「はあ?」
 声を上げてエアー。よろよろと立ち上がって、急いで剣を拾った。
「マジかよ?」
「真面目の大真面目。ふざけんな、寝ぼけてんじゃねぇ、っていうか寝てんじゃねーよ!」
「うるせっ」
「うるせーじゃねーよ!」
「お前こそそういうことは早く言えって!」
「うるせっ」
 エリクが怒鳴った瞬間、再びエアーの足がふらついた。慌ててエリクの腕を掴んで、苦笑。足にすぐに力を入れられなかった。
「怪我でもしたのか?」
 エリクが声を押さえて心配そうに問う。エアーはエリクを見やって、やはり苦笑した。
「いや、少し寝起きで――」
 答えかけて、ふと。掴んでいる手にぬるりとした感触があった。
 見れば掴んでいる腕の上腕が真っ赤に染まっている。
「おい、お前こそ、平気か?」
「何が?」
「傷だらけで血だらけじゃねーか!」
 叫んで、身体に力を込め、姿勢を正す。
 エリクが照れくさそうに苦笑する。――そんな場合でもないだろうに。
 エアーはわざとエリクが傷を受けている腕をぽんと叩いて、ほら、と声をかけた。
「早く帰るぞ。白魔道士んとこに行こうぜ」
「だからそれ、俺の台詞。お前、寝てんじゃねーって」
「だから、それは、悪かったって」
 エリクが軽く笑った。少しだけ走ってエアーを追い越しながら、ぽんとエアーの肩を叩く。
「わかればいいんだよ。お前も血だらけだしな、早く白魔道士んとこ行こうぜ。第二大隊の白魔道士がフリクに残ってくれたんだ」
「おう、そりゃよかった」
 軽く笑うと、身体に力が満ちる気がした。エアーはエリクを追い越して船の中を走り、甲板に出た瞬間、思わず顔を背けた。
 外は、嵐の真っただ中。
 大粒の雨が顔に当たり、風が荒々しく吹く。
 片手をかざして辺りを見渡しても、船の外は暗い海が広がる。――夜でもないのに。
「無事でよかったな! これで本当に隊長に報告してやれる!」
 頭上から叫ぶ声。ワイズ・サティのものだ。
 エアーは声に振り返り、ワイズを見た。舵の隣の、船を動かすために魔力を注ぐ球に手をかざしている。ワイズの隣には雨からワイズを護るように翼を広げている竜の姿。
「早く竜に乗れ! ウクライの倅!」
 さらに隣には竜騎士の姿。ワイズを雨から護る竜とは別の竜に跨り、手招く。
「そいつに感謝しろよ! 誰もお前が生き残ってるだなんて思ってなかったんだからよ!」
「あ、あぁ」
 エリクを伴って二人の元へ走ろうとしたエアーのすぐ背後で、風を切る音が聞こえた。
 トン、と音がする。
 呼ばれた気がしてエアーは音に振り返った。
 振り返った場所に居たのは、無人の竜。鞍も手綱もついたまま。
「……オレザ」
 ウクライの騎竜である。エアーは何度もウクライに乗せてもらった。
 不思議と足が止まって、オレザの姿を見る。オレザは首を落として乗りやすいように身をかがめた。
「乗れ、って。お前、親父は?」
 数歩オレザに近づいて、鞍にしみついた血を見つける。
「親父は……ウクライ・レクイズはどうしたよ!」
 怒鳴って、俯いた。
 容赦なく打ち付ける大粒の雨。
 耳を支配する雨音。
「……帰ろう、エアー」
 竜騎士の隣で、静かにエリクが。
 エアーは振り返らずに「あぁ」と答えた。オレザの首を撫でて、ごめん、と静かに謝った。
「助けに来てくれて、ありがとな」
 ――声が、聞こえた、気がした。
 オレザの声。
 ウクライの最後の言葉。
「皆、どうも、ありがとう」
 言って、オレザに跨った。竜の乗り方はウクライに習っていた。けれどエアーは竜騎士ではなく剣士になった。ウクライは苦笑したものだ。
 竜騎士がエリクを乗せて飛び立ち、オレザも甲板から飛び立った。続けてワイズが竜に飛び乗れば、船はすぐに傾く。
 フリクに向かいながら沈みゆく船を見下ろして、エアーは首を落とした。
 まるで希望が消えるような沈み方。
 手綱を握る手に力を込めて、エアーは暗い海の上を見た。
 帰ろう。
 帰られる場所にはきっと、沈まなかった希望が待っているから。
 仄かで暖かい明かりがきっと――。
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