53.二つの意思

   ガンガン、と音がした。走る音だ。船の中には鉄で作られた箇所が随所にある。まるで監獄のような部屋もあるし、おそらく兵士たちが眠るのだろう船室もある。内部は今ほとんどが空室だ。
 エアーは船の中を走りながら、自分の勘任せに指揮官を探していた。マウェートの指揮官の胸には自分の役職を示すバッチが付いている。勲章をつけている場合も。必ず目印があるはずだ。
 ぐらりと大きく船が揺れて、慌てて壁に手をついて体勢を整える。
 ふうと息を吐いた。
 船の中のものがいくつか転がった音が船の中に響く。外は騒がしいというのに、中はなんて静か。エアーを追ってくる人間も少なかった。
 外で戦ってついた血を拭って小休止していると、ふと、誰かの声が聞こえた。
 小さな声、流暢な長い台詞。たったひとり。
 エアーは音を聴き逃さないように静かに歩きだした。
 いくつも連なる船室のどこからか、声が。
「も、もう一度……っ」
 声は、随分焦っているようだった。
 耳を澄ませて近づいた一室。鉄格子の小さな窓から中をそっと覗くと、部屋の中は薄暗い。薄暗い中に一人、床に描かれた魔法陣の真ん中でひざをついているのが見えた。
 薄暗くてよくは分からない。けれど、膝をついている女が、もう一度、と長い台詞を唱え始めると、エアーにも理解できた。
 長い台詞。随所に天魔の獣たちへの言葉がある。聞き覚えのある一説。
(まさかこいつら、魔法で?)
 魔法で簡単に町が廃墟になるはずがない、とエアーは信じているけれど、相手は魔法に関しては最高峰、マウェート王国だ。何があるかわからない。
(止めるっ!)
 とっさに、ドアノブをとった。だが、がしゃんと音を立ててドアは開かない。ドアを開けようとした音に、中の魔道士がドアの方向を見た。ひっと、息をのむ。
 エアーと目が合った。さらに見開かれた魔道士の眼。胸には指揮官格を示すバッチが光る。
「開けやがれ!」
 エアーがドアを叩きながら怒鳴る。
 ランは震える手を伸ばし、腰からナイフをとった。
「それでも誇りあるマウェートの人間か!」
「お前らウィアズ人なんかにわかるものか……!」
 ランがかすれる声で返答する、エアーを見ない。エアーは舌打ちした。ランが自分の手の平をナイフで切った。血が溢れる手の平を魔法陣の中央にあてて、ごくりと唾を飲んだ。
「我が声を聞け、大いなる者よ」
 魔法陣が、ほの赤く光った。
 エアーはドアの外、舌打ちとともに、がつんと力任せにドアを殴る。だがドアはガシャンと音を立てるだけ。開く気配もない。
 ランが口早に呪文を唱え始める。明滅する魔法陣の光。ドアに体当たりをしたり、できる限りの抵抗を続けながら、エアーは時折その様子を見た。だが、焦りだけが募る。
 思考する力さえほとんど残っていない。この場所にたどり着くことだけで体力の大半を失っていた。体からは吹き出す汗は止まらない。――気持ちの悪い汗だ。
 エアーはドアを睨みつけて手の甲で汗を少しぬぐった。
 船が少し揺れて、大げさに体勢を崩しながらエアーは目の前のドアを見続けた。――睨み続けた。目の前の障害物を。
(くそっ、くそっ!)
 思考能力はほとんど残っていない。集中することで身体を立たせているだけだ。
 エアーは剣を抜いた。
 耳に入るのは呪文のみ。
 目に見えるのは、障害物だけだ。
 エアーは剣を両手で持って振り上げた。
 ドアの隙間から見えるラン・リーの姿を睨みつけながら、力の限りに叫んだ。
 何を叫んだのか、エアーの耳には入ってこなかった。何を叫ぼうとしたのか、覚えていない。自分の声すら聴覚から切り離して、目の前の障害物と敵だけを見ていた。
 振り上げた剣で何を斬るのか?
 目の前に斬れそうなものはあるのか?



 知るものか。

 エアーは叫び声を上げたまま剣を鋭く振り下ろした。


 がしょん、と音がしてエアーはふとして我に返った。ドアと壁の間に挟まれるように剣が刺さっている。ちょうどドアの半分ほどの高さで剣は何かにぶつかって動きを止めている。
(――?)
 再び、ぐらりと船が揺れた。
 エアーは剣をドアに挟めたまま、床に手をついてその場にとどまった。とどまったまま、中の魔道士ラン・リーの姿を見た。
 ランはドアの方向を見て顔を青くしている。
 だがランはすぐにかぶりを振った。天井を見上げて祈るように叫ぶ。
「我、」
 ランが叫ぶ声に、エアーもすぐに身体に鞭を入れて立ち上がった。
「白の国の魔道士、ラン・リー!」
 まるで悲鳴のような呪文。
 エアーも必死だった。剣を受けとめた鍵を必死になって叩く。がしょん、がしょ、と徐々に音を変える衝撃音。
「魔の欲望の獣、メヲよ!」
 部屋の中が赤々と光り始めて、エアーに再び焦りが募る。
 鍵を叩く愛剣に、手ごたえがあった。あった故にこそ。
「我が身体をよりしろ依代とし、」
 エアーは再び声を上げて剣を力の限りに突き出した。剣が鍵を砕いた音が、二人の声の隙間に聞こえた。すぐに剣を隙間から引き抜いて、エアーはドアを押し開ける。
 赤々と光る船室。魔力に満ちた、他を拒絶する雰囲気を放つ部屋。
 けれどエアーに部屋に満ちた魔力など感じることなどできなかった。余裕もなかったし、感じられる体質でもなかった。
 同じ空間で、やはり一瞬だけ視線が交差する。しかしランは祈るように叫び、魔法陣を見つめる。エアーは体力を振り絞って走った。二人ともの絶叫とともに。
「現世に現れよ!」
「させるか!」
 二つの声、二つの意思。
「我が敵を討ち滅ぼせ!」
 カッ、と部屋の中がさらに真っ赤に光った。
 エアーは光の中、目を細めて進んだ。だが剣を振り上げる力すら残っていなかった。だから突き出すために剣を引いて、走りながら。


『メヲ……現れられぬ』


 気弱そうに聞こえるにも関わらず、船内を揺るがすような重圧を与えてくる声。しかしエアーの耳には入らない。まるでエアーの存在を拒絶するように、エアーを中心に光が失われていく。
 船室の真ん中には、二人の姿。
 うちの一人、ラン・リーは天井を仰いでいた。
 口からは小さな声。絶望の、呻き声。
「あ……あ、あかむらさきの……」
 ランの開いた口からごぽ、と血が溢れた。ランの胸から突き出る淡い紅い色の剣。背中には赤紫の眼を持つ剣士、エアー・レクイズ。奇異と言われるほどの濃い赤紫色の瞳を惜しみなく開いて、両肩で呼吸を整える。
 ランはエアーの顔を見つめて、笑っていた。脂汗の滲んだ顔の、涙と鼻水が同じように流れる顔で、半分だけ開いた口で、笑っていた。
「そ……そんな……赤紫の……」
 赤紫の眼の人がいる故に、現れないと天魔の獣たちの一匹、メヲが告げた。エアー自身には届かない声で。
 ランはもう一度天井を見ると、再び口から言葉にならない絶望の呻き声を出して――呼吸を止めた。
 エアーが両手で剣を抜くと、ランの身体は力なくごろりと床に転がった。



 部屋の中に充満する血の臭い。
 動かなくなったランを見下ろしてから、エアーは少しだけ顔を上げた。
「おわ……た、のか?」
 再び船が揺れて、エアーはよろよろと船室の中を歩いた。
 自分が壊したドアの位置までなんとか動いてドアを掴んで、思わず笑った。
 笑ったと同時、身体から力が抜けてランと同じようにごろりと床に転がった。
 心臓がうるさい、緊張で流した汗が気持ち悪い。
 けれど確かにやってのけたぞと。
 口から微かだけれど笑いが再び零れて、エアーは身体の疲労に正直に瞳を閉じた。
(誰か、俺の代わりにおとといきやがれって、叫んでくんないかな)
 そしたらきっと、今の疲れや何もかもが報われるんじゃないかと。
 無償に気楽になった心地よさと疲労で、エアーの意識はすぐに暗闇に落ちた。
  
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