33.求め、再会を求む

   クレハと同じ時間にイリス山に出かけたエアーはひとり、山道を登っていた。
 この山道は、山にこもっている男が二年の月日をかけて整備してきたものだという。ベッドの上で暇そうにしていたエアーに、キィリが面倒くさそうではあったけれどいろいろと教えてくれた。この山のこと、過去にあったこと、千日祈願とは何かと。
 それでも行くのかとキィリが不機嫌そうに問う。エアーに迷いなどなかった。動けるようになったらもう一度山を登ろうと思っていた。
 あの男――ジーオに会いたいと。
 あの時自分は、何を『知りたい』と願ったのか。ずっと、考えてきた。
 考えて、考えて――。
 きっとおそらく、自分は。
「はぁ……はぁ……体力落ちた……」
 すっかり疲れはてたていで山頂に着く。山頂は変わらず人の気配がない。
 けれど必ずいる。
 いなくなってなど、いない。
 もしも今山頂にいないのだとしたら、戻ってくるまで待っていようとエアーは思っていた。前回と同じ場所、同じ岩に腰かけて山頂から景色を眺める。前回よりも崖が近くなっていた。
 ここから落ちたんだな、と苦笑交じりに思う。「運がいい」と何度もクレハに言われたけれど、自分でもよく生きていたと思える。
「ガキ」
 聞き覚えのある声に、エアーはふとして振り返る。振り向いた先には、微かに笑みを浮かべたジーオの姿があった。
「危ないぞ。つい最近そこから落ちたガキがいる」
「うん」
 エアーも微笑を湛えた。ひょいと跳び上がるように岩から飛び降りてジーオがいる場所に近づく。
「知ってる」
「あぁ。運の強いガキだな、本当に生きているとは」
「だから、ガキじゃないって。俺はエアー。エアー・レクイズ」
 数歩、距離を開けたところでエアーは立ち止まった。ジーオが微かに目を細めて笑う、くすりと。
「俺はジーオだ。ジーオ・ナルス」
 山頂には二人の他に人の影はない。動いているのは風に揺れる背の低い草木のみ。音も、二人の他は風と水の音しかしなかった。
「俺、さ」
 エアーの髪が微かに揺れた。その微かな動きですら目立つほど、エアーは立ち止まったまま動いていなかった。
「知りたくて来たんだ」
 ジーオが微かに首をかしげて疑問を目線で合図する。「何をか」と。
「ジーオは、さ。幸せなのか?」
「幸せ? 何故だ」
「夢……見たから、訊いた。十二番目の月が昇ってから何日か見るだろ? ……でも俺、この前一〇日以上経ってたのに見た。天魔の獣たちが俺を責める夢。まるで一生身に覚えのないものを償って生きろって言われてるみたいで――ジーオは、見ないのか?」
「あぁ……、見たことはない。そもそも天魔の獣たちという存在すら、俺は知らない。どんな姿形なのかすら」
「そうなのか?」
「あぁ。ただ、お前の問いに答えるだけというなら、」
 ジーオはエアーの意図を思う。「幸せなのか」と問うたエアーは、確かに自分と同じ思いを抱いているのだろう。
 おそらく「幸せなのか」を、知りたいわけではないのだろう。もっと別の何か。おそらく、本当に自分たちは大いなる存在に翻弄されて生きているのか?
 自分は、たった一人なのか? と。
「俺は確かに幸せだった。だが、幸せに感じない時もある。それは赤紫の眼を持とうが持たまいが、誰しも同じだろう? そもそもそんなもの、自分の考え、行動で全てが決まる」
 耳に入り込むそのやわらかく低い声。微かに目を細めたジーオの顔を見て、エアーはふと眼を逸らした。
「俺も、できるかな。俺、なんかに……」
「何を今さら」
「だって」
「だってもくそもあるか。剣を持て、エアー。相手をしてやる。同じ赤紫の眼を持つ剣士として」
 ジーオが剣を抜いた。微かに弧を描く片刃の剣――この形状の剣を“刀”というらしい。遠くグリンランドから伝わったものだが、一般には普及していない。
「叩き直してやる。生きていることに感謝できない腐った根性を」
 一歩だけジーオが踏み込んで、剣を横薙ぎに振るった。エアーは一歩後ずさる。胸の前を剣が通り過ぎた。
「ちょ、ちょっと待てよっ!」
「真剣を持った相手に、待てがきくものか!」
 さらに一歩、踏み込んでジーオが再び剣を振るう。斜め上から振るわれた剣を、エアーはくぐるように避けた。
「俺、今剣ないんだって!」
「それがどうした!」
「抜けって言う状態じゃないんだってば!」
「それがどうしたと言っている!」
 何歩か踏み込んで、エアーの背後に回ったジーオが剣を振るう。エアーはぎりぎり、剣が到達する前に跳び上がって、剣を跳び越える。体をひねらせてジーオに対峙するように着地。さらに振るわれた一閃は退いて避けた。
 ――冷や汗が浮かぶ。
 剣相手に丸腰、だけではない。おそらくエアーが剣を持っていたとしても合わせた瞬間に弾き飛ばされる。重い音が通り過ぎるたびに聞こえるのだ。
(どうすりゃいいんだよっ)
 ジーオの一撃一撃をぎりぎりの場所で避けながらエアーは必死で考えた。
 ジーオは『生きていることに感謝できない』と言った。自分はそんな態度だったのだろうか。
 それは、本当に失礼だ。
 生きたくて死んだ人に、本当に失礼だ。
(だからって、どうすりゃいいんだよっ!)
 謝るべきか? 反省すべきか?
 だが今ここでジーオに許しを請うたところで、自分が本当に謝りたい人たちには届かない。
 口先だけなら何とでも言える。出発前に会ったテルグットに精一杯嘘をついたように、嘘をつけばいいだけ。そんなものに意味はない。
 ――エアーの兄が死んだ歳は、一六歳。エアーはまだ一三歳だった。希望に満ち満ちていた兄の顔を今でも思い出せる。
 生きたかったんじゃないかなと、思う。生きて帰って来たかったと、思う。兄には夢があったから。
 二人の弓士が目の前で死んだのは、ついこの前。数か月前。
 先に殺されていた弓士。彼はきっと、生きたかっただろう。もっと、もっと。
 もう一人の弓士のチェオ・プロだって、死にたくて死んだわけではないと思う。
 俺が戦場に出て殺した兵士は? 戦死していった仲間たちは?
 彼らにも夢があったんじゃないのか。
 生きたい場所も、理由も、会いたかった人もいたんじゃないのか。
 生きたくて、生きたくて、生きてたんじゃないのか。
「俺だって……!」
(そうだ……天魔の獣たち(あいつら)になんか、惑わされてなんかいられるもんかっ)
「生きたくて生きてんだ! 天魔の獣たち(あいつら)にとやかく言われることじゃない!」
 ジーオの剣が目の前を通り過ぎた刹那、エアーは踏み込んだ。――迷うな、自分に強く言い聞かせながら、強く。
 踏み込んだ一瞬でジーオに近づいた。背はあまり変わらなかったからジーオの襟首をつかむとそのまま体当たりを食らわせた。ジーオは虚をつかれて思わず剣を手放して、エアーと諸共に転がる。ジーオは思いのほか軽かった。
 エアーは襟首をつかんだまま、ジーオの上に馬乗りになった。上からジーオの顔を見下ろす両目から、じんわりと涙が溢れてくる。
「何を泣いている」
 エアーを見上げながら、ジーオが失笑する。エアーはぐしぐし袖で目をこすった。
「泣いてない」
「拭っておいて、泣いてないのか」
「拭ってなんかねぇよ!」
 袖で目をふさいだまま叫んで、エアーはジーオの襟首をつかむ手に力を込めた。
「俺、生きたい場所があるんだ」
 死には近い場所で、悲しみも多くあるけれど、それでも笑っている。みんながいる場所。あの人がいる場所。
「理由も、」
 自分の存在を家族以外で誰より認めてくれた人の傍で生きたい。いつか満足させて、満足で笑わせてやりたい。
「会いたい人もいる」
 みんなに。
 王国軍の皆。本当に役目に勤めてるのかって思うぐらい気さくな雇われの門兵、見周りする近衛隊、女中たち。ついでに、たまに見かける行政部の連中も。
「でもまだ二年ぐらい会いに行けないから、二度と離れなくていいように強くなるって決めたっ」
 エアーは嗚咽のために息をのんだ。
「決めたんだ……っ」
  
Back←// Utautai //→Next 
inserted by FC2 system