|
草の一本も生えない岩だらけの道を歩く。道は広かったし、整備もそこそこにされていたけれど、やはり。
「また、山だよな、やっぱり……」
酒場で聞いていたけれど、やはり山道を登るのかと思う。エアーはクレハの少し後ろで、心持ち小さなため息をついた。
「体力ないなー、お前」
「まだ平気だよ。いい加減飽きたなって思っただけだから」
やはりむくれっつらのエアーだ。クレハはエアーに振り返りはしなかったけれど、おそらくエアーはむくれっつらに違いないと確信している。
――走ろうかな、とエアーは思った。最近山道を登って、下るばかりで走っていない。馬に跨ってただ旅をするのは、なんだか自分の性に合わない気がする。
もともと、走るのは好きだった。
最初は自分をいじめようとするフリクの同たちから逃げるため。
その次は兄たちを追いかけるため。
最近までは、認められた速さを、どれだけ自分に活かせるかを試してみたいと思っていた。
その頃になってようやく、自分は走るのが好きなんだと、実感した、ばかりだった。
「クレハ」
「ん?」
「この山道、一本? 分かれ道ない?」
「変わってなきゃな。つっても昔はガイドが必要なぐらいに荒れてたんだけどな」
いつの間にこんなに整備されたのかとクレハが疑問を口にするより早く、ぴょん、と跳ねてエアーがクレハの前に進んだ。
「じゃ分かれ道があったら待ってる。先に行くからな、クレハっ」
「は? おい、ちょっと待てって!」
クレハの静止など左耳から右耳に抜けた。エアーは山道を軽々と走り出す。クレハはエアーの後姿を見守って、「うわ」と、呟いた。
「速え……追いかける気失せたぞー、エアー」
それも一瞬で。
以前も追いかけようとしてすぐに辞めたクレハである。そもそもクレハは剣士ではない。騎士だ。求められているものが違う。
(俺はゆっくり行くか。心配してもしょうがないしな)
やれば一人でなんとかやる奴だ、とクレハはエアーを評価している。けれどやはり、形容が子供らしいから、意識しないとすぐに心配してしまうのだけれど。
着実に、着実に。クレハはマイペースに山を登る。
エアーはひたすら走って、山頂へと向かう。
山頂に到着する時間に差ができるのは、至極当たり前のことだった。
イリス山は、高くない。山道が整備された今となっては片道一時間程で登りきることができる程度だ。
故にこそ、滅多に落盤に巻き込まれることはない。あまりに地震が頻発していなければ、であるけれど。
山頂らしき場所について、エアーはとりあえず周りを見渡した。
山頂は、広かった。山の上だと思えないほど平かで、少し遠くに泉のようなものが見えた。どうやら登ってきた側とは反対側に川が流れているようだ。
「みせ……見たいものって……」
先に見てやろうと思ったけれど、見せたいものの、ものが分からないから探しても仕方がない気がした。
それに、途中から無理に走ってきた。本当は立っているのもやっとのくらいだ。
何軒か小屋のようなものがあったけれど、エアーは近づかずに見晴らしの良い場所の岩に座る。
風がとても冷たかった。
冬なんだなと改めて思い、エアーは空を見上げた。
青い空が近い、気がした。
十二番目の月が昇ってから、もう一〇日。ウィアズ王国から遥か離れて聞いたこともなかった国にいる。八番目の月がのぼった頃の自分では考えられないほど遠くに、いる。従軍で遠征したときは遠くだなんて思ったことはないのに。
「おい、ガキ」
「え?」
人の気配などなかった。聞き覚えのない声に、エアーは振り返る。
振り返れば少し離れて背後に立っているのは、ドワーフの中では長身だろう男が無表情で――
「………」
ぽっかりと口をあけて、表情に驚愕を現した。同時、エアーも男の眼を見て息をのんだ。
「あ……」
お互い、相手の眼の色を見つめて驚愕のまま時が止まった。
赤紫の瞳。
天魔の獣たちの教本、天魔史によれば、世界の初期のころ、争いを治めようとした天魔の獣たちに逆らい、裏切りの魔道士たちを率いて戦った剣士の瞳の色。彼はとてもよくわかる赤紫色をしていたらしい。今も昔も、赤紫色の瞳は世界でも滅多に見ない。
エアーの瞳の色は、突然変異だ。エアーの家系に赤紫の瞳を持つ人間はいない。それもエアーのようによくわかる赤紫の色は、まずない。まるで染めたような色だ、というのがエアーの瞳に対する他の評価だ。
対して現れた男の眼は、軽くわかる程度。
「……ここの人間じゃないな、旅人か?」
早く自分を取り戻したのは現れた男だ。腰には長い、微かに弧を描く剣が差さっている。
「あ……うん。ウィアズから」
「ウィアズ。あのマウェートと喧嘩してる国か」
短く、男が笑った。エアーに少し近づく。
「ガキ」
「が、ガキじゃない!」
エアーはとっさに立った。岩の上に立って男を見下ろす高さから噛みつくように男を見た。――瞬間。ズシンと唐突に地面が大きく揺れた。
「なっ、なにっ?」
――地震だ、という知識すらないエアーである。かつてあったと言われる世界的な大地震など、幼すぎて覚えていない。ウィアズは地震の少ない国だ。
一度治まったかと思われた揺れは、一瞬後に激しくなった。再びズシンと音が、聞こえた、ような、気が、した。
「――っ」
そも、岩の上に立ち上がったばかりのエアーだ。一度目はなんとか立ち続けたが、二度目は一度目が終わったと思った瞬間だった。油断した。
足を滑らせ、仰向けに体が倒れる。空を見た。
(今、見たいのは、空なんかじゃないっ)
嫌味なほどに青い空。意思とは無関係に空を見上げて、エアーは掴むものない宙に片手を差し出してもがく。
(俺が今、見たかったのは――見ていたかったのはっ)
赤紫の瞳。
自分以外、存在するとは思っていなかった赤紫の瞳を持つ人間を見つけた。
知りたい。知りたい。
具体的に何が知りたいのかは分からない。
けれど、知りたい。
何かを。
ごろん、と体が地面の上を転がった。見晴らしの良い場所だ、すぐそこに崖があった。
崖に到達する前に姿勢を整えて、体が滑るのを止める。
ぎりぎり。
足が崖淵にかかっていたけれど、なんとか落ちずに済んだ。
エアーは顔を上げて今までいた場所を見た。
「たす、か、った」
赤紫の瞳を持つ男と目が合った。皮肉そうな笑顔。
「運の強いガキだ」
「だから、ガキじゃないって!」
エアーが安著とともに、立ち上がろうとした瞬間である。
再びエアーの視界がずれた。
「え――?」
低い、音が聞こえた。
驚愕した男の顔が見えた。走ろうとした姿も。
だがエアーが男の姿を確認できたのはそこまでで、エアーは崩れる山の欠片とともに、落下する。大きな岩とともに、山下へ。
「う、うわあああああ!」
再びエアーは空を見た。
真っ青な空。
でも今は、遠い空。
| |