|
翌朝、カランは資料室に居た。前の日の深夜からカランはここにいる。仮眠もとった、身支度もしている。
カランは起きてから髪を高い位置で一つにまとめて、前髪も上げた独特の結び方に戻している。悠長に椅子に座って近年の他国の動向を書き記した文面を、なんとなしに読み流し続けていた。
やはりウィアズ王国の内容が濃いな、とカランは思う。詳しすぎるくらいだと思うところは、王国軍の小隊内の異動の様子まで書き記されているのだ。
ただし、小隊内書き記されている小隊は特定されている。
五年前で終わっているのは、リセ・アントア旗下、第一騎士隊。
翌年、両魔道士隊。
さらにその翌々年、両竜騎士隊、エリーザ・イェン率いる第二天馬騎士隊。
本年まで続くのは、三つの隊。
アンクトック・ダレム旗下、第二騎士隊。
ホンティア・ジャイム旗下、第二弓士隊。
さらに、クォンカ・リーエ旗下、第一剣士隊。
見ているだけでわかるのは、ウィアズ王国軍内で何度か掃除が行われていて、再び入り込んできているという堂々めぐり。
第二弓士隊に入り込んでいた諜報員をカランは知っている。数か月前に死んだ、チェオ・プロだ。ちょうど式典後の異動が記されていない。
けれどアンクトックとクォンカの隊については、式典後に決定した内容が、確かに書かれていた。休隊処分になった剣士がいることも。
カランはぱたん、と本を閉じた。無造作に立ち上がって、本を元に戻す。
まだいるのは二人のところだ。それさえわかればいい。手がかりさえ、あればいいのだから。
「終わった、か?」
「……っ!」
「お前の用事」
カランが資料室に入ってから一度も、出入口の大きな扉は動いていない。つまり誰も入ってきていない。確かに仮眠は取ったけれど、いつ誰が入ってもわかるように細工はしていた。
それに、聞き覚えのある声。――聞き覚えのあり過ぎる声。マウェートに来てクリス・アステリーになったときからずっと、耳にしてきた。自分を“クリス”と呼ぶ男の声。
「な、クリス」
カランは声の方向を見やった。出入口の近くで小さく丸くなってこちらを覗いている男が一人。ニック・アステリー。
「ずっと待ってて、さ。昨日の夕方ぐらいから」
「俺の来る前から?」
「うん。なんとなく、ここに来るんじゃないかなって思って、さ」
答えてニックが立ち上がる。ぽんぽん、と膝の埃を取った。
刹那、カランはすべての感情を捨てた。
ニックとの距離を一瞬で詰めてニックの胸元を片手で掴み、壁に押し付ける。もう片方の手で短剣を取った。
(物理的に断ち切る――マウェートとの繋がりを)
短剣が鋭く抜かれる音が響く。カランが頭上に短剣を構えた瞬間、合わせたかのようなタイミングで、ニックが悲しそうな笑顔を作る。
カランは、躊躇、した。
(証拠を残さず、なら、見られたなら)
「俺、さ。信じることにしたんだ」
カランはニックを見つめたまま動けない。こんな土壇場で迷うとは、思っていなかった。
「確かにお前は俺たちを裏切ってたんだろうけど。そもそも、最初から仲間じゃなかったのかもしんないけどさ」
(最初から心を許す気なんかなかった。油断は色々してたけど)
「俺、信じる。お前が見せた全てが、嘘じゃなかったって」
(嘘じゃなかった?)
「全部、嘘だったに決まってるだろ!」
ニックを押し付ける腕に力をこめて、カランは怒鳴った。振り上げた短剣をザクリと壁に突き刺して、ニックを手放した。
「俺は、そもそもクリス・アステリーなんかじゃない」
ずるりとニックが床を伝って床に座り込む。泣きそうな顔でニックは「うん」と相槌を打った。
「ニック」
カランはニック・アステリーを見下ろし、睨みつけた。渾身の力で。
「本当の俺は、ウィアズ王国軍第一大隊五番隊所属中等兵士、カラン・ヴァンダだ。お前たちの、敵だ」
言って、カランはニックから顔を背けた。反対側の窓に向かって歩く。
「カラン」
本当に久しぶりに自分を本名で呼ぶ声を聞いて、つい反射的に振り返る。
ニックが座り込んだまま、「なぁ」と。
「それでも、俺たち、友達だった、んだよな?」
カランは何も言わずにニックに背中を向けて窓へと走り出した。軽い荷物を背負って、窓から飛び降りる。
背中を、ニックはずっと見守っていた。窓からはようやく覗いた朝日が入り込み、資料室の中を仄明るく変えていく。
「“クリス・アステリー”は行ったのか」
資料室の中にもう一人の声。ニックの隣にデリクが立ち、窓の外を見た。
「『カラン・ヴァンダ』か。今日は私の生まれた日だったが、真実の名を教えてもらったことで、貸しを一つ返してもらったことにしよう」
呟いて、デリクはニックの頭上に刺さっている短剣を壁から引き抜く。窓辺に向かってゆっくりと歩きながら、短剣を振りかぶった。
「そして、これでもう一つ貸しだ、『カラン・ヴァンダ』?」
デリクが振りかぶった短剣を窓の外に向かって放り投げた。短剣は窓の外、弧を描き地面に向かって落下していく。
短剣が落下していく姿を眺めて、ニックは本当にクリス・アステリーがいなくなったんだなと思う。がっくりと首を落とし、情けなさに失笑した。
カランの姿に、あの優しい叔母の姿をおぼろげに重ねて声をかけた、一週間前。
共に過ごした一週間。
何一つ、することのできなかった自分。
「俺、もう辞めようと思います」
何を?
声なき声が問う。時に淡々とした口調に変わる、あの人間に随分似た声。
「辞めます、兵士」
デリクが振り返って失笑した。そうかと言った。その声と誰かの声が重なって聞こえた。
「これが天魔の獣たちの導き、というものか?」
デリクが肩を竦めた。ニックはデリクを見上げて失笑した。
本当にそうだ、と思った。
本当に――
「信じます。きっと全てが悪くあるためにあるんじゃないんですから」
聞いたデリクが、失笑のように噴出して、目を細めて微笑みを湛えた。
「そうだな。そう、あればいい」
ガランゴロンと、お祈りの時間を知らせる鐘が部屋の外を駆け抜けていく。朝日の入り込む資料室の中、二人は同時に目を閉じた。
――ただの朝の一片でしかない今。今の一片でしかないこの場所。遥かなる永遠の時の中にあるこの時。
白い横笛の演奏者は歌う――言葉ない声で。
叫ぶ――誰にも見せない、奥底の胸中で。
| |