17.道

   二〇時、一〇分前。
 外はすでに暗く、食事を終えた兵士たちが各々暮らす。当番にすらついていない新兵たちにとって、夜は自由時間だ。
 一時間ほど前にようやく新兵たちに合流できたカランは、ニックが他の人間と話している隙に、何も言わずに場所を離れた。
 マウェート王宮の夜は暗い。カランはマウェートに来てから自分が夜目が利くことを自覚した。眼はもともとよかったけれど、順応も早いらしい。
 暗闇に消えようとして、ふとして腕を掴まれて立ち止まる。振り返ればいつの間にかニックが追い付いて、すぐ傍にいた。
「どこ、行くんだよ、クリス」
 クリス、と言う言葉を、カランは他人事のように聞いた。
「どこでもいいだろ?」
 少しだけ眉をあげて、カラン。ニックの顔色が曇った。
「どうせ、ニックにはついてこれない場所だし」
「それ、どこだよっ」
 ニックの手に力がこもった。カランはニックの握力を直接感じて、少しだけ眉を顰める。
「ついてきてもらいたくないの間違いじゃ……ないよな?」
 祈るようなニックの顔。カランは無表情でニックの表情を眺めて、胸中で「別に」と思った。
 ニックに聞いてもいいい。クリス・アステリーとは誰なのか。
 けれど望むほどの情報が入らないだろうし、おそらくニックの傷を抉る行為だ。
「そうだな、一人で行きたい場所がある」
「王宮の中で一人で行きたいような場所なんてあるのか?」
 ニックの隠しきれない猜疑。カランに対する疑惑。
 カランもデリクから自分が疑われると聞いた。おそらくそれがニックの耳にも入ったのだろう。
 カランはニックの手をやんわりと払った。
「ニックも、俺のこと疑ってるんだ?」
「そうじゃない! お前が疑われてるの聞いたから、これ以上疑われるような真似して欲しくないだけだ!」
「お人よしなんだな、ニック」
 突き放すようなカランの口調。ニックの顔色が、微かに変わった。
 カランは胸中で、小さく嘆息する。
 ニックの言葉に何も感情を抱かなかったわけではない。もしかしたらだからこそ、口から出る言葉が突き放す言葉になるのかもしれない。
 それにたとえ違うという確信があっても猜疑は簡単に晴れはしない。
「デリクさんの……デリク王子の部屋に遊びに行ってくるんだ」
 心持ち口調を和らげながらニックの顔色を見る。ニックは真剣にカランの顔を見つめていた。
「どうして?」
 余分なものを全て省いた問いだ。
 カランは自嘲するように鼻で笑った。けれど仕草が微か過ぎて傍目に見止めることはできなかった。
「……ほら、さ」
 カランは顔に力を込めて故意に笑い顔を作る。
「デリク王子と話してみたいから、さ」
「それは俺だって――って待てよ! クリス!」
 カランは鋭く踵を返して走り出した。ニックがすぐさま走り出したが、ニックの足が遅いことなどカランは熟知していた。
(どうして、ってそれは)
 カランは王宮の暗い廊下を走る――全速力で。
(自分が、ここにいる理由を知りたいからだ)
「俺は、俺なんだ……」
 まるでクリス・アステリーが自分のもう一人の自分。混合されて見つめられて、いつしか自分の中でも混合し始めていた。
 けれど、自分はカラン・ヴァンダだ。
 決して、マウェート王国民ではない。
 味方では、ないのだ。





 まさにこの状況、とブランク・ウィザンは思う。
 鈍い金色の軌跡。全力で走るその速さ。かつて自分が簡単に追いつけなかったクリス・アステリーのものだ。その後ろを全力で走るもう一人の“アステリー”。走る速度は遅い。けれど止めようとしている姿は、まるで当時の自分を思い出すようではないか。
 窓の外。
 ブランク・ウィザンは二人の様子を眺めていた。
 クリス・アステリーには唾をつけた。いつでも会いに行ける理由を作った。
 きっと、クリスの目の前には、“クリス”の運命を止める存在が待ち構えている。彼女の運命を止めたのは彼女が――否、お互い心惹かれていた相手だった。
 感情全てを殺した瞳。苦しみにあがくように細められて、十一番目の月の下、青い瑠璃のピアスが微かに揺れた。
『クリス・アステリー』
 低い声で告げる声が、ふとして耳元で聞こえた気がした。
『マウェートからの蝶、処分させてもらう』
(お前も馬鹿だぜ、クォンカ。クリスもまんざらじゃなかったことを知ってたくせに、自分の手で処分したんだからな)
 だが、とブランクは思う。遠くからニック・アステリーの叫びが聞こえる。
「俺はお人よしなんかじゃない!」
 ブランクは聞いて、ふへ、と奇妙な音で鼻を鳴らした。ゆっくりとだが確かに、ブランクはクリスの後を追う。
(俺の方が馬鹿だぜ。あの女に惚れたせいで殺そうとして、挙句、諜報員なんかやってるんだからな)
 せめてもう、あの顔を見ずに済むならと。
 自分一人が苦しめば済む結果を得ようともがいた。けれど全ては芥に消える。
『私はクリス! 他の誰でもない!』
「俺は、ブランク・ウィザン」
 ブランクは前を睨みつけた。とっと、軽い音を立てて走り出す。
(もう、終わろう。俺は、)
 自分は、自分の道をと。


■□


 暗闇の中をしばらく走って、カランは王宮の二階に駆け上がる。二階の奥のデリクの部屋の前までつくと、大きく呼吸を整えた。
 体力は落ちていない、助かったとカランは思う。ここまで全力で走ったが息があがらなかった。呼吸を整えたのは、心を落ち着かせるためだった。
 暗闇の中、静かに在るデリクの部屋に続くドア。世継の部屋だというのに、衛兵すらついていない。デリクが追い払ったのだろうか。
「殿下に何の用だ」
「っ」
 背後から声をかけられて、カランは思い切り息を呑んだ。背中に突き刺さる殺気。先ほどまで気配など全くしなかったのに。
「何の用だ、クリス・アステリー」
 繰り返して声の主が問う。カランは知っている。この国でカランの上官となった弓士の隊長。
(この殺気、気がついてるのはやばいのか?)
 けれど、今更な気もした。
 カランが迷っている間に、足音が少し近づいた。
「答えろ」
「で、殿下と、約束を」
「約束? 私を介さずにか? いつどこで殿下と知り合った?」
「偶然です。たまたま王宮の廊下でニックが殿下とぶつかって……」
「とんだ偶然だ。その場にお前がいたことも仕組んだようにうまくできたものだな」
 背後から近づいた上官がぐいと乱暴にカランの髪をつかんだ。カランは思わず天井を見る。
 天井は暗い。視界を邪魔していた前髪が流れてさらに乱暴に髪を掴まれ、「やはりな」と上官が呟いた。カランの髪をまとめていた紐が解かれてそのまま髪は手放された。
 乱暴に肩を叩かれて上官と向かい合う。上官は無表情でカランを見据えていた。
「ようやく調べが付いた。ウィアズ王国の中等兵士だな。見つけ難いわけだ、中等兵士なんてごまんといる」
 なら何故すぐ殺さないのか、とカランは考えて“確信がないからだ”と判断する。
 ならばこちらが動揺を見せれば終わり。確信を持たれて殺される。もしくは何らかの手法によって自由を奪われる。
「だが、お前の失態は自分が実力があると主張したことと、ウィアズの軍でそこそこに名が知れていたことだ。自分の中途半端な有能さを後悔しろ。“クリス・アステリー”」
 確かにその通りだ、とカランは胸中で肯定する。けれど顔には出さず。ただじっと上官の顔を見つめていた。
 何があっても生き残ると心に決めていた。
 たとえ正体がばれても、なんとしても生き延びて、任務を成功させて帰る。
 こんな道の途中で死になどしない。
 上官が機嫌悪く顔を歪める。無言こそ肯定と知っているのか、自分の矢筒を開け、矢を持つ。弓にはまだ手をつけていない。
「お前の名は、カ――」
 口を開けた上司の口が、止まった。
 否、開けたままに、喉をふさがれた。剣によって。驚愕に開かれた上官の瞳。
「俺の愛しのクリスに、何いちゃもんつけてんだよ」
「……っ! っ」
 上官の喉は剣に貫かれて声が出ない。引き抜かれれば死すのみ。
 ブランクはカランの上官背後で薄らと笑った。
「俺結構独占したいタイプでさあ。他の奴がクリスんこと困らせてるとなんか嫉妬しちまうんだよなあ。困らせるのも愛されるのも俺の役目だろう?」
 上官の口がぱくぱくと動く。カランは立ちすくんで呆然としていた。
 冷静に「自分は助かった」と思う気持ちと、何が起こったのかと理解できずに混乱している自分がいる。
「く、クリスっ!」
 名前を呼ばれてカランは弾かれるように我に返った。ブランクのさらに背後から、ニック・アステリーが走ってくる。
 だがブランクと自分の上官の姿を見て呆然と足を止めた。
「……何、起こってる、んだ?」
「俺に訊くなよ」
 風は自分に吹いていると、カランは自覚している。自覚してはいるけれど、何故か胸がざわつく。本当はかきむしりたいほどに。
「何、が、起こってるんだ?」
 カランはブランクに問う。
 ブランクはふへ、と奇妙な音で鼻を鳴らした。
「邪魔者を排除しようとしているだけだぜ、クリス。デリク様の部屋の前を血で汚すわけにいかないから抜けないんだけど」
「そういう問題じゃ……」
「そうだよ、そういう問題じゃない! クリス、無事なんだな!」
 ニックが慌ててカランに駆け寄って、ブランクとの間に立った。再びむかむかと胸が痛む。思わず顔を歪めそうになった瞬間。
「分かっていてそれをやるか、愚か者」
 がちゃりとドアが開いて、デリク・マウェートが現れた。
「衛兵! 何をしている!」
 デリクが叫ぶが、衛兵の姿はなかなかに現れない。どうやら衛兵はデリクの意思によるものではない要因で場所を離れているらしい。
 デリクがふと、何かをした。もう一度、
「衛兵!」
 とんでもない大声量だ。おかげで今度は遠くから人の走ってくる音が聞こえてくる。
 ブランクはデリクの前でも飄々としたものだ。にんまりと笑ってデリクを見つめている。
「俺を処分なさるのですか? 愛に生きてるだけのこの俺を?」
「罪状は分かっているだろう。大人しく罰を受けることだ。少しの罪の意識でもあればな」
 ふへ、とブランクが鼻を鳴らした。
 喉を貫かれた上司の顔はすでに青白い。ブランクは上司の体を引きずるようにドアの前から立ち去ろうとする。やってきた衛兵はすぐに事態を察しブランクを取り囲んだ。ブランクが取り囲まれると、中央から血しぶきがあがった。
 あれは、上官の血だなと、カランは無感動に考えた。目の前でニックが目を背けたのが見えた。――あぁ、慣れてないものだもんなと、やはり無感動に思う。
「クリス。彼が言っていたことは本当なのか」
 デリクがカランを見た。カランは呼ばれてデリクを見ると、軽くため息をついた。
「俺とブランクって人は別にそういう関係じゃありません」
「違う。部屋の中にも聞こえてきていたぞ。お前がウィアズ王国軍の中等兵士ではないのかという会話がな」
 デリクの目線は糾弾するような視線ではない。疑っているから問うているのではない。
 心地いい目をする人だなと、カランは少し思う。淡く赤い瞳の、マウェート王国の世継。
「何の根拠で言われた言葉か分かりませんが、」
 デリクを見て、軽く頭を下げた。
「あの人も、俺を処分したいのなら自分の権限ですぐにでも俺を処分してしまえばよかったんです。そうすれば俺は大人しくここを出ていった」
 ゆっくりと息を吐く。知らず握った手の平が、汗ばんでいるのに気がついた。
「失礼、しました。今日は戻ります」
 告げてゆっくりと踵を返す。動いたカランに気がついて、ニックもデリクに頭を下げてカランを追いかける。
 カランの横にニックが並ぶ時には既に、カランの顔は蒼白に変わっていた。微かに気を抜いた途端、抑えていたものが溢れてしまった。
「おい、クリス。お前顔色悪いぞ?」
 先ほどまでは自分の方がひどい顔色をしていたくせに、ニックが心配そうに声をかける。カランはニックを一瞥して、すぐに目線を逸らした。
「もう……うんざりだ……」
 ――そう、うんざりなのだ。
 もう“クリス・アステリー”に翻弄されたくない。自分は、カラン・ヴァンダなのだと。
(もう、終わらせよう……)
 思ってカランが見つめた先は、マウェート王宮の暗い廊下。人によれば暗闇にも見えるというこの大きな廊下を見つめ、カランは目を細めた。
 大丈夫、生きて帰れる、と。
 自分にはこの廊下が暗闇には見えない。
 薄暗いだけの、ただの道だ。
  
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