15.“クリス・アステリー”

   昼過ぎの集合でクリス・アステリーとニック・アステリーは、セフィ・ガータージ総統指揮官旗下の弓士の隊に配属になったことが判明した。どうやら軍に入る前から大体入る場所は決まっているらしかったが、クリス・アステリーは変更された口だったらしい。様々な変更作業を数時間で終わらせたマウェートの試験官たちには頭が下がる。
 ガータージか、とカランは苦々しく思う。マウェートに同じ名字の人間がいるとは思わなかった。ただの運命の嫌味というもののように思えた。
 翌日早朝六時。
 ガランゴロン。鈴の音が宿所の廊下を巡る。毎朝の祈りの時間を告げる鐘の代わりだ。
 マウェートは天魔の獣たちの教えを国教とする。国民全てが信者であるようにされている。町中には必ず時刻を告げる鐘が設置されており、毎朝六時に鐘が鳴る。おかげでマウェート国民はすべて早起きだ。そうなるようにとの天魔の獣たちの教えなのである。
 そういうわけもあって、カランはマウェートに来る少し前からこの時間帯に起きるようになった。鈴の音が通り過ぎるのと同時に懐中時計を取り出す。往復して祈りの時間の終了を告げる鈴の音が戻ってくるのは、約五分後。その間誰も二段ベッドのカーテンを開けない。
 カランは昨日確認して、この時間を使おうと決めていた。何かに使えるはずの五分間。有益な五分間。カラン自身は信者ではないから、祈る必要もない。
 五分後、祈りの時間終了の鈴が戻ってきた。戻ってくると一斉にカーテンを開けた音が聞こえて、「おはよう」と笑い声が聞こえた。
 カランのベッドのカーテンも、無遠慮に下のベッドのニックに開けられた。
「おはよう、クリス」
「おはよう。ニック、寝癖ついてるぞ」
「うえっ、マジでっ」
 大げさにニック。自分の髪をぺたぺたと触って楽しそうに笑った。
「って、別に男だからどうでもいいんだけどさ。クリスも髪ぼさぼさだぞ?」
「俺のはまとめればそれなりだから」
 言って、カランも淡く笑った。カランが笑った顔を見て、ますます楽しそうにニックは笑うのだ。
「じゃ、早く行こうぜ。初日から遅刻はやばいし」
「あぁ。今降りる」
 カランがベッドの上で動くと、ギシリと音が鳴る。注意すれば音はならないのだけれど、実に鳴りやすい。カランは二段ベッドの上段からひょいと飛び降りた。実は昨日同様、ニックが顔をしかめた。
「……本当に平気か?」
「だから二段ベッドぐらいでビビるなって」
「心配なんだよ、一応――って、もう誰もいないじゃん!」
 かぽ、と自分の懐中時計を取り出してニック。顔が蒼白になった。
「やばい! 遅刻する!」
「まだ一〇分以上あるだろ?」
「あそこまで一〇分以内につくつもりかよ! とりあえず走るぞ!」
「ああ」
 ニックは弓と矢筒を装備した状態で走りだす――とはいえ、カランが沈黙するほど遅い。
(比較対象が、悪いんだよな)
 勝手に納得する。ニックはどたばたと部屋を出て――悲鳴を聞いた気がする。
「うわああああ!」
「どあっ!」
 カランは頭を抱えてとぼとぼと部屋を出ると、部屋のすぐ傍で転がっている二人を見つけた。しかもニックが転がっているのは行くべき場所とは反対側だ。
 カランは嘆息すると、二人を無造作に助け起こした。
「お、ありがと、クリス」
「悪いな。って遅刻するっ!」
 ニックとぶつかった一人が慌てて走り出した。剣を提げている、剣士だろう。走りだすとすぐに見えなくなる。
 カランはニックの背中を叩いた。
「ほら、早く」
「お、おうっ」
 再びどたばたとニックが走りだす。今度はカランに教えられたから、きちんと目的地に向けた進行方向へと。――頼りないなぁと、カランは思う。ニックの背中を少し見送ってから、同じく目的地までと走り出す。
 すぐにニックに追いついた。ニックが驚いたのが目の端に映った。だがカランは故意に無視するとそのまま全力を出さずに曲がるべき場所で曲がる。
「ちょ、ちょっとまってくれっクリス!」
 聞きたくない、と思った。
「道が! わかんないんだって!」
 ――本当に、聞きたくなかったな、と胸中で頭を抱えた。
「だから頼む! 待ってくれっ!」
「……はぁ」
 思わず声に出て溜息が洩れた。
 立ち止まってニックが追い付いてくるのを待つと、ニックは必死で走ったまま、カランを追い越す。カランは肩を落とした。
(遅刻決定だな)
 まあいいかと、思いつつニックの背中に追いつくと、次の角を曲がるように指示する。


 そして結局、遅刻した。

 
 遅刻した罰は、王宮の床掃除だった。
 にもかかわらず何故かニックは許されて、掃除をしているのはカラン一人だ。原因はニックなのだから、せめてニックも掃除をすればいいんだとカランは思う。他の弓士たちが訓練している時間中、カランはずっと王宮の床掃除だ。
「……はあ」
 カランのみが罰を受けた理由。
『ちやほやされるからといっていい気になるなよ。その高くなった鼻をへし折ってくれる』
 だったら実力を見せてへし折ればいいものを、とカランは思った。
 床を水ぶきを一人で、は実は一日で終わりようがない。だが水場に水を汲みに行った時に若い剣士もため息をつきながらバケツに水を汲んでいるのに遭遇したから、どうやら床掃除は一人ではないらしい。
(ま、俺は訓練しにマウェートに来たわけじゃないし)
 不満に思うところもあったけれど、冷静になればこれは好機だとも思えた。
 とはいえ、時折上司が見にくるのでサボれはしないから、場所を離れられない。だが王宮の構造を覚えるのにも、人々の話を小耳にするのにも、丁度いい。
(いいか。床掃除って結構負荷かかるし、ぬるい訓練受けるより全然ましだな)
 ウィアズ王国での地獄の七日間の末のカランの結論。
 片手で走ったりと、結局床掃除自体を楽しみ始めたのである。


 だが、次の日も、その次の日も、カランは何かにつけて床掃除をさせられた。三日目はニックも気の毒そうな顔で「俺もやります」と言ってくれたけれど、結局カラン一人で床掃除だった。
「……はあ」
 マウェートに来てからのカランが嘆息した回数は、すでに数えきれない。
「早々に恨み買い過ぎかも……」
 上司がいなくなって小休止。床に座って思わず呟いた。
 カランがいるのは二階。カランは王宮の構造を熟知し始めていた。
「そんなところで何をしているんだ?」
 声をかけられた気がして、ふと顔を上げた。声の主の方向を見やれば、廊下の奥からデリクが苦笑を浮かべて歩いてくる。カランはぼんやりとデリクの姿を見守った。――もしくは、見惚れていたのかもしれない。無駄のない動きに。
「クリス。今日の床掃除部隊なのか? 何をやらかしたんだ」
「あぁ、いえ」
 不意に我に返ってカランは立ちあがって、軽く尻と腿の埃を払った。
「何をやらかしたっていう理由もなく、床掃除部隊です」
「試験で目立ち過ぎたから眼をつけられたな。セフィのところに行ったらしいな。あそこの弓士の隊長には、そういう類の男がいると聞いたことがある」
「ご存じなんですか?」
「あぁ。セフィとは、よく話すからな」
 デリクが失笑を落とす。カランは目を細めてデリクを見た。
「ただお前の隊長だろう彼も、無能ではないから隊長なんだ。わかっているな」
「えぇ。まぁ、この三日間ずっとこれなんで、どういう人かは分かりませんけど」
「私が誤解を解いても仕方がないとは思うが、たぶんお前の身が潔白だとわかるまで床掃除だと思うぞ」
「はあ」
「クリスという名前が原因だろうからな。床掃除が不服なら、両親に不服だと手紙でも送ればいい」
「俺の名前が、ですか」
 デリクが悪戯に笑った。
「あぁ。“クリス・アステリー”。昔そういう名前の諜報員をウィアズに送った。彼女からの連絡は十一年前に途絶えた。だからだ」
 十一年前、とカランは胸中で繰り返した。同時に出発前に見たクォンカの表情を思い出す。彼女を――“クリス・アステリー”を殺した張本人の表情を。
 懐かしそうで、悲しそうで。
 本意で殺したのではないとでも言うように。
「なんで」
 知らずカランは疑問を口にした。
 口にして思わず、胸中でかぶりをふった。
 デリクは目を細めた。
「……死んだのだろう」
 そうだ、死んだ。死んだ、らしい。
 カランはデリクの言葉を聞いて、胸の中に何かのしこりが生まれるのを自覚する。
“クリス・アステリー”。
 何故その名をつけられたのか。
 マウェートに来てから何故か、彼女が傍らにいる気がするのだ。
「デリクさん」
 デリクが眉を上げた。
 カランはデリクを見た。懇願の気持ちをこめて。
「俺以外のクリス・アステリーって誰です」
「?」
「教えてください。誰なんです、クリスって」
 デリクはカランの顔を見て、しばらく。
 うん、と頷いて見せた。
「私も詳しくは知りはしないが、資料室には残っているかもしれない。とってこさせよう。今晩にでも私の部屋に来れば渡そう」
「え……」
 一瞬躊躇して、デリクの表情を見た。驚愕のカランの表情にデリクが失笑する。けれど冗談だと言わない。
「ありがとう、ございます」
 ぺこりとお辞儀をすると、デリクが短く声をあげて笑った。
「構わない。私の部屋はそこだ。二〇時辺りがおそらく一番都合がいいな」
「はい。二〇時頃に必ず。何があっても」
 カランが笑みを作ると、デリクは片手をあげて歩きだす。カランは頭を下げた。
「お前は本当に新兵らしくないな。疑われるのもわかる」
 悪戯に笑って、デリクが自分の部屋の中に消えた。
 カランはデリクが消えたドアを見つめてから、少しだけ目線を落とした。
(……って言っても、俺も四、五年……)
 もう、なのか、まだ、なのか。
(俺がここへ来させられた本当の理由は?)
 何故か、証拠を見つけるだけではないような気がカランにはしていた。ホンティアも、クォンカも――もしかしたらあの場にいた全員、違う腹がったのかもしれない、と。
 作業を再開しようと、雑巾を拾い上げて小さく舌打ちをする。
(高等兵士の腹なんて、まだ俺に分からないのか)
  
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