13.いざ、迷宮に入る

   カランはもともと自分のペースを乱されることのないほどのマイペースで、我が道を行く人間の最高峰の一人だった。
「クリス・アステリー。よろしく」
 片手を差し出して同年の弓士に挨拶する。隣にはニックがいる。ニックはカランが挨拶した弓士と親しそうに二、三会話をして、やはりカランを連れて踵を返した。
「……いつまで挨拶廻りさせる気だよ」
 うんざり、とカランが呻く。ニックはカランの様子に眉をあげた。
「俺の知り合いもうちょっといるんだ。お前のこと紹介してやりたくてさ」
「今日のうちにか……?」
 うんざりだなと胸中で思う。すでに何人に挨拶したのか忘れてしまった。自由時間になってからずっとニックに連れ回されて挨拶をして回っている。ほとんど立ち止まらない、休まない。逃げ出したいのに、なぜかニックのペースに巻き込まれて、逃げだせずにここにいる。
 カランはふうと大きく息を吐いた。不意に窓の外を見やれば、外はすっかり夜闇の中。十一番目の弓のように細い月が輝いているのをカランは一瞬だけ確認した。
 ふあ、と大きく欠伸をして浮かんだ涙を少しだけぬぐう。
「ねむ……」
「マジで? まだ二一時だぞ?」
「悪いか……」
 夜はかなり苦手なカランである。いつも二二時から朝の七時まで、一度も起きることなく眠っている。昨日まで忙しなく動いていたせいもあって、今日は一段と早く眠気が襲ってきた。
「いや、悪くなんかないよ。実をいうと俺も夜は苦手でさ」
 答えてニックがわざとらしく欠伸をする。欠伸をするニックを見て、カランは失笑する。演技であることぐらいすぐにわかる、だが嫌味でもなんでもない。眠いなら寝かせてやろうというニックの心遣いが見えて、思わず笑いが漏れたのだ。
 カランの様子など気が付かずに、ニックは大きくのびをする。
「じゃ、寝るか。挨拶はまた明日でも平気だしな」
 やはりカランを先導するようにニックが歩き出す。カランは従って歩きながら、目だけは凝らした。マウェートの王宮の兵士たちが使用する部分の廊下は明かりなどなく、手持ちの明かりがなければ歩くのも大変なほど暗かった。
 少しだけ無言で廊下を歩く。ニックは慎重に歩いているんだなと、思えた時間は至極短かった。
 唐突にニックが立ち止まった。
 ぎりぎり。立ち止まったものの、無造作に振り返ったニックの顔は至近距離だ。比喩でも何でもなく、目と鼻の先。ニックは目の前で気の抜けるような、実に困った笑顔をする。
「道さ、どっちだっけ?」
 カランは左を指さす。やはり至近距離で。
「覚えたら?」
「道覚えるの苦手なんだよ」
 苦笑いを浮かべながらニックが角を曲がる。カランはやはりその後ろを歩こうとニックを見送った。立ち止まったまま――悲鳴を聞いたような気がする。
「うわあぁぁっ!」
 それもだいぶ至近距離で。
 カランはこめかみに指を当てて唸った。なんだかニックに会ってからろくな事が起こっていない。ペースは乱されるわ、巻き込まれるわ自己紹介させられるわ――今度は何かの厄介ごとを見つけでもしたのか。カラン自身は本当にとっとと眠ってしまいたいのに。
 転がるようにしてニックが曲がった場所から戻ってくる。必死に自分がいた場所を指さして。
「クリスっ! そこに化け物がっ!」
 カランは大きく息を吐いて、ニックに手を差し出した。
「化け物?」
 はっきり言って、全く信じていない。すがるように手を掴むニックを立たせると、目を凝らしてニックが指差す先を見る。
 赤い目が宙に浮いている――ように見えた。
「人にぶつかっておいて、それはないだろう」
 呆れるような、静かな声。聞き覚えがあるなぁと考える間もなく、同じ声がカランには聞き覚えのある呪文を唱えた。
 ぽう、と小さな光が生まれて、廊下の様子を照らし出す。照らし出された場所にいたのは、デリク・マウェート。
「あ、デリク様」
 至極冷静だったのはカラン。ニックは顔を蒼白にして身をこわばらせた。
 無理もない。次代の国王、デリクを化け物呼ばわりしたのだから。
 デリクは片手に紙を数枚持っていて、空いている片手で腰に手をあてた。
「あぁ。化け物じゃあ、ないな」
 デリクが冗談交じりに答えれば、ニックがさらに息を呑んだ音が聞こえた。カランはニックを一瞥して、短く嘆息する。
「遅くまでお疲れ様です。お仕事ですか」
「ん? あぁ、よくわかったな」
「書類か何かでしょう、絵でも描く趣味でもなければ」
「あぁ、当たりだ。まったく、こんな姿形も見えなくなるほどの時間まで仕事をしたところで、仕方がないとは思うのだがな」
「御尤もです。俺も今、こいつの挨拶廻りから解放してもらうところなんです」
「挨拶廻り?」
「はい。俺は連れ回されただけですけどね」
 デリクが失笑した。
 実を言えばマウェートでは、カランのようにデリクと気軽に会話をできる人間が、ほとんどいない。位が違う、立場が違う、そしてデリク自身の立ち位置が微妙なだけに、委縮してしまうのである。
 この点で言えば、カランは失態を犯したことにはなる。カランはウィアズの風習が染み付いてしまっていた。王族も貴族も平民も、平等に会話することの方が多いウィアズと、格差を持って会話するマウェートの風習の違い。
 だが、デリクは、カランのこの態度を気にしなかった。気にしようとしなかった。
「お前たちは、今日からの新兵か?」
「はい。見ての通り弓士です」
「名前を聞いておこう。覚えておいてやる。別に処罰しようというんじゃない、気軽に答えてくれ」
 カランはにこりと笑った。
 デリクは嫌いじゃない、と思ったから。
「クリス・アステリーです。こいつは、ニック・アステリー」
 恐縮した状態で硬直しているニックの代わりに、カラン。ニックは相変わらずびくびくと二人の様子を覗く。
「兄弟なのか?」
「違います。ただの偶然で」
「そうなのか。もしかしたら親戚なのかもしれないぞ?」
「俺は親戚なんてものいないもんだと育てられましたけどね」
 カランが少しだけ肩をすくめて見せる。もちろん、設定、である。
「まぁ、面白いこともありますね」
「確かにな。――あぁ、立ち止まらせてしまったな。ちょうど気分転換をしたいと思っていたところだったから。つき合わせて悪かった」
「とんでもない。こっちが悪かったんですから」
「あぁ。今後は気をつけてくれ、ニック?」
 デリクは悪戯に微笑むと、すれ違いざま、ニックの肩をぽん、と叩いた。ニックは思い切り肩を上下させて「はいっ」と思わず叫んでしまった。デリクは楽しげに笑いながら暗闇に消える。
 ニックはデリクが暗闇に消えたのを見送って、カランの顔を凝視した。カランは眉をあげて見せる。
「やっちまったよ! クリス!」
「あの人怒ってなかったけど?」
「あの人って! あの方はデリク王子だぞ? お前なんであんなに気軽に話せるんだよ!」
「なんでって……」
 全く考えてなかった。
 きょとんとするカランをニックは少しの間見つめて、諦めたように息を抜いて力を抜いた。
「っていうかお前があれだけ気軽に話したから、機嫌直したような気がする……いやでもあれは失礼だったし……うーん……」
 立ち止まったまま悩み出したニックを一瞥、カランは進行方向を見やった。――嘆息とともに。
「ま、お互い教訓になったってことで」
「だよなぁ」
 カランの背後でニックが大きく伸びをした。
「ま、とりあえずとっとと寝るか。行こう、クリス」
「あぁ」
 答えて、微かに振り返った瞬間。カランの肩にニックが腕を乗せた。
「よし! 俺たちデリク様公認の友人だからな、クリス!」
 カランは驚愕の思いでニックを見た。
 ニックは邪気のない顔で、本当に嬉しそうに笑っている。――どうして、と思う。カランには全く嬉しくないのに。
 どうせ長くて七日間しかマウェートにはいない。自分は必ず裏切ると知っている。
「……耳元で叫ぶなよ」
 ぷいとニックから顔をそむけてニックの腕を軽くどかす。ニックはにやりと意地悪く笑って見せた。
「照れるなって」
「照れてない」
「またまたぁ」
「うるさい。俺は寝るんだ」
「あはは、俺も寝るよ」
 歩きだしたカランに、ニックがどたばたとついてくる。カランはニックに振り返らずに努めて無言で歩いた。だがニックが気にした様子はない。
 迷いは、そんな些細なことが発端だった。
  
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