110.“セイト・ウィアズ”

 
■□■■



『なあ、笑ってみたら?』
 唐突に現れた男は、同じく唐突に言った。疲労を感じて人気の少ない中庭のベンチで休んでいた時だった。
『必要ない』
 言って、自分は現れた男を睨む。長い金髪を高く括っている――見覚えがある。知っている、カラン・ヴァンダだ。ほとんど関わったことなどないし、大隊が違うのだからこれからも関わることはほとんどないだろう。
『なんで?』
 カランが少しだけ首を傾げた。心底不思議そうに。
 ため息をつくと、疲労がさらにこみ上げる。この疲労の意味は、身体的なものではないことは自分でもよくわかっていた。ため息をつけば否応なく、空気が鉛のように重くなったように感じられた。
 だからつい、本音を言ってしまったのだ。
『自由に笑えたら、俺は幸せ者だろう?』
 カランから目を逸らして、誰もいない中庭を見た。――誰もいない庭だ。空から降り注ぐ陽の光だけがある。
『だから俺は笑わない、泣かない。幸せにならない』
 一歩だけ、立って前に進めば陽当りがある。昔のように無造作に陽向に入ればおそらく、この疲労も忘れてしまうのだろう。けれど忘れてしまいたくなかった。
『なんで?』
 問いを繰り返されてカランを見やればやはり、カランは相変わらず心底不思議そうな顔。何食わぬ口調で続けるのだ。
『俺は誰が幸せになったって構わないと思ってるけど』
『そうか』
 不思議と顔が引きつった。笑ったように見えたのだろうか。少しだけカランの眉が上がった。
『そう言われただけで、俺は幸せ者だ』
『欲ないな』
『余計なものを捨てただけだ』
『そっか』
 自分の回答もそっけなかったけれど、カランの返答もそっけない。
 変な奴だと思った。きっと二度とこんな話をすることもない。だからこれ以上深く立ち入られないように、立ち上がった。



□■□□□



 数日後の朝、自分の隊の集合直後ナーロウの訪問を受けたエアーは、カランを探してウィアズ王城の廊下を歩くはめになっていた。
 だがエアーはカラン・ヴァンダという人物をよく知らない。だから大抵の高等兵士はそうだ、という観点から探すしかない。訓練場に本人がいないのなら小会議室が八割。違えば別の訓練場や大隊長と会議中。もしくは休みで高等兵士寮――にいなければ探しようがない。なぜ探す要員に指名されたのかもわからないし、ナーロウも努力の片鱗を示せば納得がいくだろう。
 最初にやってきた小会議室の通りは、本当に静かだった。
 小会議室一つ一つに防音の魔法陣がかけられているのもそうだろうが、とにかく人間がいない。大きなガラス窓が並ぶ細長い道にいるのは、エアーのみだ。
「あれ?」
 比較的ゆっくりと歩くエアーに小会議の一つから若い声。
「エアーか? 珍しいな、こんな時間にこんな場所。誰も通らないかと思っていた」
 エアーは呼ばれて立ち止まった。声に敵意は全くない。声の元を見やれば、金髪の少年が第三小会議室のドアを開けっ放しにして、椅子に腰掛けていた。
 小会議室の中にはたくさんの資料が置かれていて、少年――セイトの目の下にはくまがあった。
「セイト様」
 エアーは少しわざとらしく眉を上げて向かいなおり、二、三歩近づいて膝をつく。
「おはようございます、お呼びですか」
 膝をついたエアーを見たセイトがちょっとだけ目を細めた――寂しそうに。
 なぜそんな顔をするのか――なぜ一四歳程度の少年が大人びた表情を見せたのか、エアーにはわからなかった。そも、興味がなかった。興味を持とうと思わなかった。
「ううん」
 無理に微笑を湛えて、セイト。
「話しかけたかっただけだよ、立って。床は寒いよ」
「ですか」
 きわめて端的に、感情を込めずにエアーは答えて躊躇せずに立ち上がった。立ち上がったエアーを見上げて、セイトがくすっと少しだけ笑う。
「こんな時間にこんなところにいて、隊はいいのか?」
「はい。マークが――副官のマーカー・クレイアンがいます」
「あぁ、彼は有能?」
「はい」
 エアーは少しだけ目を伏せ、ほんの少し頭を下げたような恰好になる。
「平時隊を任せられるほどには有能です」
「そっか。それはよかった」
 一度はマーカーを推薦したこともあるセイトは、安著の意味を込めて笑う。
「そういえば、ナーロウがカランがいないと叫んでいたね」
「はい。俺はそれの被害を」
「被害?」
「はい。探すようにと」
「エアーが?」
「はい」
「面識なんてあるのか?」
「ほとんどありません」
 少しだけつまらない、とセイトは思った。相づちを打ったエアーに表情はない。前に会ったときは隠しても感情がにじみ出ていて、見ているだけで面白かったのに。
「ここは通りませんか」
 あくまでも無表情のまま問う、エアーを見上げてセイトはまた少し笑った。
 まぁ、いいか、と。
 下手におべっかで笑われるよりもずっと楽だ。
「うん、通らない。そうだな、エアーには教えておこうか」
 ちょいちょいっとセイトがエアーを奥へ手招きした。エアーが何も言わず従うと、セイトは悪戯するようににんまりと笑った。そういう笑い方をすれば年相応にも見えるのだから、つくづく不思議な人だなとエアーは思う。大人と子供が溶けあわずに混ざった子供、と。
「今ね、カランにはマウェートに行ってもらっているんだ」
 砕けた口調で、セイト。エアーは何もせず何も答えなかったけれど、セイトは上機嫌に続ける。
「昔マウェートの王宮に潜入したこともあってね、構造も詳しいんだ――あぁ、カランは諜報部の出身じゃないよ。ほら、ホンティアと、クォンカの仕業らしい」
「はい」
「うん。今からだと――僕がまだ十歳になっていなかったから、六年くらい前かな」
「六年前……ですか」
「うん? あぁ、たしか何か事件が起きたから重い腰を上げたんだって、誰かが言ってたな」
 ――六年前、とエアーは繰り返して考えた。
 六年前、諜報員をマウェートに送るような事件、それは自分の起こした――もしくは巻き込まれた事件ではないか。クォンカとホンティアが関わっているのなら、なお怪しい。
 マウェートからの諜報員だった『彼』が目の前で死んで、弱い自分を実感して、誓ったことがあったはずだ。
 ――強くなろう、と。
「セイト様」
 少し沈黙してから、エアー。セイトを睨み据えて。
「退出してもよろしいですか? 理由をナーロウさんにお教えしても」
 セイトはエアーを見上げて――笑みを返せなかった。なぜ睨まれているのかもわからなかったし、睨む理由は自分にはないのだろうこともわかったから。嫌悪も憎しみも怒りも、何も伝わってこない。
「うん、退出は構わないけれど……」
「では」
「あ、でも、ナーロウに理由は教えなくていい。極秘の仕事にでているらしいことを伝えてくれ」
「はい。そのようにします」
 エアーは頭を上げるとすぐに踵を返し、小会議室から急いで出た。
 出ると自然、足取りが速くなる。速くなった足取りは、すぐに駆け足に変わっていた。
「……くそっ」
 丁度呟いた時、セイトの兄ウィクとすれ違っていたのだが、エアーは気が付いていなかった。
  
Back←// Utautai //→Next 
inserted by FC2 system